残響楽団は倒された
ねじれた者達、都市の星たる強力な独奏者達は命を終え、本にされた
どの階の司書達も満身創痍になりながら、最後の接待を終えたローランは、助けた養子を連れてアンジェラの元へ戻る
ここからは、彼の復讐の時間だ
ピアニストが発生した原因、白夜黒昼を引き起こした張本人…アンジェラへ、その恨みも怒りも憎しみも全てを叩きつけるために、ローランは図書館へと訪れた
紫の涙の力を使い、図書館へ潜入し…アンジェラや司書達の懐に潜り込んで彼女達と対話してきたローランは
…迷っていた
ほんの僅かに、見ないようにしながらも、心の底で迷いが生じた
白夜黒昼を引き起こした犯人を突き止めただけでなく、何故そうしたかという過去すら知ってしまったから
憐憫という名の愚かさが、ローランの中で芽生えていた
そして、その憐れみの感情をもとに、もしかしたらアンジェラが違う選択肢を取るのではないかという一抹の期待もあった
しかし結論は変わらず、アンジェラは進み続けた
その選択を見届けたローランもまた…自分の選択を捨てなかった
ここまで来て止まることなんて出来ない
アンジェラの望みが叶った今、この瞬間こそ、彼が復讐を果たすのに最適な時なのだから
全ての光が、本が集められた今…アンジェラの「人間になる」という望みが叶った今なら、ローランもアンジェラを殺すことが出来る
わざわざ忘れられる身体、弱い肉体になってまで…アンジェラは忘れられない苦しみを長い時間抱えてきた
喉から手が出る程に待ち望んだことだろう
光の中から今まさに、アンジェラが自分の本を取り出そうとする…その前に
アンジェラは逃げることだって出来る
司書達に、ローランを殺せと命じることも出来る
それでも…アンジェラは、悲しい顔をしただけだった
アンジェラの苦痛は誰に縋っても報われることは無い
ローランの苦痛も、アンジェラに報復したところで無くなることは無い
絶望の袋小路の最中だった
これまで知り合いも友人も見捨ててこの時を待ち侘びていたローランの手に、温度の消えた冷たい手が触れる
「…ローラン」
唯一捨てられなかったものだった
短くはない、暖かな時間を共に過ごした家族だけは…彼には見捨てることが出来なかった
「…なぁイナ、俺はこれから俺の望むことをする
それを果たせば、本当にもう戻れなくなる…だがお前は違う
まだこれからがある、チャールズ事務所…いや、アストルフォのところでもいい、お前が懇意にしていた保護施設でも
お前を受け入れてくれる場所はまだある、俺と違ってな
だから…」
ローランは唯一残ったものを、光の残る場所へ返そうと手を離す
「ごめんな」
そうしてそのまま一人、暗い昏い闇へと足を踏み出した
闇は静かで、冷たくて、何も無い
孤立する痛みだけが彼のそばに寄り添った
痛みは白く、女の形をとり、黒い仮面を付けたローランが…黒い沈黙が、司書達を殺そうとする
アンジェラを殺そうとする
もう後には退けないと、もう元には戻れないと嘆くばかりに
イナは握った手を振り払われた
そうしてそのまま接待の舞台へと飛ばされたローランの背を追うことも出来ず、メインフロアへ取り残されてしまう
大きく映し出される光のスクリーンは、まるでロボトミーコーポレーションのメインモニタールームのディスプレイのようで、そこに黒い男が立っている
アンジェラによる急ピッチの治療を終えた司書達が、ローランと…黒い沈黙と戦っている
「ローラン…そんな…」
座り込み項垂れていると、イナの背後にアンジェラが立つ
「イナ…いえ、敢えてこう呼ばせてもらうわ
初期型レイン575番…貴方に、聞きたいことがあるの」
アンジェラは悲痛に歪ませた顔で、イナの隣に屈み、彼女と視線を合わせた
金色の瞳は、かつて彼女が仕えていた管理人X…記憶を失ったアインのものとよく似ている
イナは無限に近い繰り返しを経て冷徹になった彼女を知らない
イナの記憶にあるのは、575回も繰り返し、迷いが生まれ始めた頃のアンジェラだから
今目の前にいる彼女の瞳は、その頃のものとよく似ている
「貴方は、ローランの家族なのよね」
「…はい、私は…ローランの娘です
オリジナルと母様の細胞から複製されたクローンですが…彼は私に、家族というものを教えてくれました
血が繋がっていなくても…私達は家族です」
「なら、貴方はどうしたいの
ローランの復讐を手伝う?それとも…彼を止めるの?」
アンジェラの問い掛けに、イナは沈黙する
イナもまた、アンジェラが引き起こした白夜黒昼によりアンジェリカを喪った一人であり、アンジェラへ復讐する権利がある
しかし…彼女はアンジェリカを喪った日から、復讐なんてものは浮かばなかった
いや、復讐するとするならば、彼女を守れなかった自分にこそ向くもの
それがイナの考えであり、その憎悪は他者へ向くことが無かった
イナは…自分以外の誰かを恨んだことがない
それは、今でもそう
アンジェラが元凶だと知っても、イナはアンジェラへの憎しみも怒りも湧かなかった
彼女の苦痛を知っているから、そういう理由もあるかもしれない
それでも今、イナはアンジェラを恨んでいない
恨んでいないのなら…ローランの復讐に手を貸す理由には足りない
家族だとしても…否、家族だからこそ止めなければならない
その復讐は、ローラン自身を滅ぼすことになる
イナはもう、これ以上、大切な家族を失いたくはなかった
「…私、は…ローランを止めたい
本当は復讐なんてして欲しくない…でも、それは私のわがままです
だって、ローランには復讐をするに足る理由があるから…」
アンジェラの問いに答えても、イナは彼を止める勇気がない
彼の復讐を止める理由が、根拠が、足りないと…そう考えているから
しかしそれは、復讐を止めることを躊躇う理由にはならない
「なら、止めりゃいいじゃねぇか」
イナの頭をがむしゃらに撫でたのは、ネツァクだった
彼はスクリーンからは一切目を逸らさずに、イナの背を押すように告げる
「アンジェラの願いもローランの復讐も、お互いのわがままを貫こうとしているだけだ
理由とか、そんなめんどくせぇことは考えないで…お前もお前のわがままをぶつければいい」
スクリーンに映る巨大な肉の塊のような、形容し難い何かは黒い咆哮を轟かせながら、相対する赤い霧を猛攻撃する
感情の高まったローランの記憶から引き出されたその怪物の叫びは…酷く虚しく、悲しいものだった
「…初期型レイン575
貴方は、魔女の管轄スケールから外れて、家族を得て、変わることが出来たのかしら」
「……はい、私は、イナとして生まれ変わることが出来ました
それは…ネツァクさんをはじめ、ローランや、アルガリア…アンジェリカ
それ以外の多くの人達のおかげです」
「そう…私は、結局…変われなかった、決断を変えることが出来なかった
…私は決着がつくまでは待つつもり
彼が勝てばそのまま殺されるし…図書館が勝てば、その時は…いえ、どちらにせよ勝敗がつくまでは光の前で待っているから」
アンジェラは光から一枚の紙を手にし、イナへ差し出す
それは往来の図書館の招待状によく似た…少しだけ小さな紙
「ゲストの接待舞台へ入れる招待状よ
貴方がローランを止めるにしろ、手伝うにしろ…覚悟が決まったらそこへ署名しなさい
彼がいる階へ飛べるわ」
イナはその紙を受け取り、アンジェラは図書館の地下へと向かっていった
その紙の下には、署名する為の空白のスペースがあり…イナは、少しだけ逡巡とする思考を停止させ…指に掬った血で、名前を書いた