「…あぁ…そういや、通信機壊れてしまいました
これじゃ内線も使えませんね…」
全身の筋肉から力を抜きながらも刀から手を離さず、レイン575は廊下の天井に設置されている監視カメラを見上げた
「見えていますか母様
これは私の、短い人生における初めての反抗期です」
頭の中は静かだった
いつも膨大な記憶を抱えていたはずなのに、凪のような静寂が広がる
「アンジェラ、いろいろとご迷惑をおかけしました
私も貴方のお力になれれば良かったのですが、シナリオ上こんな展開はダメみたいです
…酷い話ですよね、希望の為に絶望が必要なんて
またいつか、どこかでもし会えたとしたら…その時は、お手伝いさせてくださいよ
この会社で一番の絶望を背負った機械…私達は、似た者同士なんですから」
繭は少しずつ拍動し、鮮明な瞳が周囲を見渡す
その彩り豊かな眼球達は、瞳を一点に収束し焦点を当てる
ああ、あの子の瞳は綺麗だな、宵闇の花みたいだ
あれがほしいな、あれがあればきっとだれもにあいされる、ほしいな、ほしい、ほしい、ほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしいほしい
ほ し い な
「…ネツァクさん
貴方には一番お世話になりました
具体的なことを言えば、いつも貴方の不節制な態度に怒っていたことくらい
でも、死にたがりの貴方のおかげで…私、知ることが出来たんです
生きるからには、どう生きるか
この大きな檻の中で、どのように生きていくのか…
生きることと死ぬことの違い、それを問われてから何もかもが変わったんです
同僚や部下と親密に接したり、自分以外の命がどれほど自分にとって重要なものなのか…知るきっかけをくれたのは、間違いもなく貴方なのです」
赤い皮膚の繭は形を変える
大きく膨らみ、細く形どっていく
体中の瞼が開かれる
皮で覆われた口の奥からはただ唯一、何かの言葉が反響している
「私を変えたのは、貴方です
それがいいことか悪いことか…それは判断しかねますが、少なくとも私はこの変化を得られて、「良かった」と思いました
だから、感謝しています
今まで…ありがとうございました、ネツァクさん」
大きな赤い影はゆらりと足を踏み出した
美しいその眼を持つ、目の前にいる人間を求めて
「…最期に、もうひとつ」
人型の赤い皮が、大きな口から赤い唾液を垂らしている
何もないソレには、愛されるものが必要である
だから、愛されるようなモノを欲しがる
ソレは今、美しい「眼」に手を伸ばす
「…ネツァクさん
貴方は生きてください
絶対、ですよ」
その時その人間が見せた顔は、涙を流しながらも誰もが見たこともないほどの優しい微笑みだった
生まれた時から自由なんてない
好みの自由、信じるものの自由、考える自由、動く自由、関わる自由、嫌う自由、欲求の自由
全てが母の言うがまま、だってそれが彼女達の世界だったのだから
黒い風呂の中でオリジナルは骨と皮だけ、そこから聞こえる歌だけが彼女達の安らぎでもある
母は語る、このロボトミー社で働き、光の種シナリオに協力することを
その為にはより効率的にエネルギーを生産しなければならない
より多くの職員が絶望し、アブノーマリティ達が殺人をすることでエネルギーは多く生産される
それを束ねる小脳達も、より良い希望を抱くことは許されない
積み重なった絶望と苦痛の果てに、たった一人が悟りへと導かねばならない
だから……「ここ」は、その
母の子の一人は、ここで思考を広めてしまった
疑問、歓喜、悲嘆、多くの「経験」を重ね、正真正銘「人」としての成長を得た
様々な感情を生み、心は豊かになった
脳に繋がる神経は、大きく発達したのだ
一人の子どもは、あの日読んだ本を思い出す
誰かがきっかけで苦悩し悩みながらも自分の為の願いを見つけ出す
それこそまさに「人間」の姿である
一人の子どもは、その瞬間理解する
自分を変えたその者が、どんな形であれ…自分にとって大きな存在になっていることが
これを、運命と呼ばずなんと呼ぶ
正しい使命と、唯一の過ちの運命
彼女の人生は、その過ちにより彩られた
赤い爪が、彼女に忍び寄る
その爪先が触れるよりも早く、彼女は刃を振るった
刃はただ直線に引かれ、その赤い爪ごと手の半分を切り落とす
「 H e l L o ?」
断面から血が吹き出る
腐ったような血と肉の匂いが、彼女の鼻腔を通り抜けていく
しかし、嗅覚神経はとうに麻痺している
「…貴方、愛されたいんですよね」
刀を持つ人間は、その刃を構え直しては先程とは打って変わった凶悪な笑顔を浮かべる
こちらこそ、正に母に似た笑顔であろう
「貴方みたいな何もない故に誰かのものを奪うヒトは…残念ながら、誰にも…自分にも愛されることはないでしょう」
赤い、大柄な人影…第三形態に成った何もないは、棍棒に変化した片手を振り下ろす
衝撃とともに土埃が周囲を圧倒しながらも、人間はその刀を用いて棍棒を防いでいた
その力の強さからか、はたまた彼女の体の限界からか…既に手足は震え、額には汗が滴るほど流れている
人間は刀を傾かせ棍棒を受け流し、そのまま切っ先を腕に滑らせ切り裂いていく
肩を半分ほど切断された何もないは、表情を変えず切り口から絶えず血を流しながらも人間に手を伸ばす
人間はその手を避け、今度は手首から切り落とした
返り血が降り掛かり、口元を濡らす
口内に侵入する鉄の味も、もう感じることはできない
時間稼ぎの戦闘は、数分間に及んだ
人間は限界を超え苦痛も疲労も感じないほどに刃を振るい、赤い怪物は切り刻まれて尚美しい瞳に手を伸ばした
数時間、何日と感じるほど長くも瞬きの間の戦闘は、収束を迎える
「ッ…!」
何もないの足が、人間の腹を蹴り飛ばした
そのまま人間は通路の奥まで吹き飛び、血を吐きながら折れた刀で立ち上がる
その時、何もないの腕が形を変えていく
その腕は大きな鎌のような刃となり、人間目掛けて振りかぶる
「 g O O d B e Y 」
歪な言葉の羅列が、何もないの喉の奥から響いてくる
瞬間的に危険を感知した人間は、足を踏み出し回避するも…間に合わなかった
「……あ」
左へと避けた人間の右腕が刃と交差し、上腕から先の腕は重力に伴い地面に落ちていく
刀を持った右腕は血を流しながら二度バウンドし、やがては一切動かずただの「モノ」として放置される
人間は切り落とされた右腕に手を伸ばす
否、右腕が握ってる刀に手を伸ばす
しかしその瞬間、何もないが続けて刃を振るい、人間の横腹を切り裂いた
多くの血が吹き出し、血と酸素が減った体はバランスを維持できずそのまま倒れてしまう
「………」
呼吸もままならない人間は、横たわったまま何もないを見上げた
何もないは落ちている人間の右腕を拾い上げ、自身の皮でその右腕を手首に繋ぎ合わせた
どういう仕組みか、繋がった瞬間にその右腕は動き出し、関節運動を繰り返しては刀を落とした
そしてそのまま、人間の右腕を我がものにした何もないは、人間の方へ手を伸ばす
先程からずっと欲しかったものを、手に入れる為に
「……あッ…う、ぐ……」
人間の視界の左側に、自分の落ちた手が触れる
左眼の瞼の隙間に、指先が侵入する
そのまま神経や血管がプチリ、ブチリと千切られ、視界の左は黒く染っていく
左眼が引き抜かれる音がした
見える世界は半分だけ、その視界に映る何もないは奪った右腕で奪った目玉を頭の皮膚の隙間に捩じ込んだ
痛覚神経は麻痺し、ただの空洞となった眼窩の熱だけが纒わりつく
その熱も、やがては感じなくなっていく
何もないはその場から歩きだし、廊下を封鎖している扉の装甲を棍棒の腕で殴りかかろうとした、その時
『本日の業務を終了します
皆さん、お疲れさまでした』