周囲の壁一面が黄昏の空に染まったディスプレイの中央で、上等な革製の椅子に座りながら、ヴィオラは深く息をついた
「はぁ~~~……クッソー!試合に勝って勝負に負けたー!
シュミレーション型人生ゲームってこれだから嫌なんだよ!クソッ!」
机の上に積み重なった書類の山を雪崩で崩すかのように何度も手で机を叩くヴィオラは、悔しそうな顔をしながら足をじたばたとさせた
「要因は絶体あの薬漬けだ、クソ、オリジナルがアイツと接触していたのが失敗だったんだ…記憶消去施術をするべきだったか
今やってもリスクとコストが高すぎて釣り合わない、今後は安全チームのチーフに回すのは…いや、安全チームに所属させるのもやめておこう
あの薬漬けと接触する可能性は低い方がいい
オリジナルが関わった記憶といい、自殺願望といい…疑問を抱かせちゃいけないな」
ヴィオラは椅子を回し右横にあるディスプレイのキーボードを叩きながら呟いてる
「…あ、そうだ…情報共有範囲を確認しないと
エラー要因は13日目、そこを共有してる全員は処分確定で…あとクソ女の情報保持者も記憶消去施術しないとな、保有したままだとエラーのリスクが…
…ん?」
ディスプレイを睨んでいたヴィオラは、一つの違和感を見出す
それは、L社の状況を複数のデータからモニターしている画面の片隅
アブノーマリティ達の情報が載っているページ
「…あのクソ女、どこ行った?」
ヴィオラは百以上のアブノーマリティ達の情報が綿密に記載されているその画面を五秒に一往復しながら何度も見返す
しかしリアルタイムに更新されていく情報に、彼の疑問を払拭させる記述はない
L社に収容されているアブノーマリティ達の情報は現在その周期において未収容だとしても、過去の情報は確実にデータが保存されているはずだった
しかしそこに、一つだけ情報が抹消されている
No.F-03-05、無の世界蛇の情報がロストしている
「なぜだ…?575回目の25日目に鎮圧されて収容室に戻ったんじゃ…その後アンジェラが収容室封鎖して…
…あぁ、そういうことか、残った左目を使って封鎖システムを解除したんだ…ふぅん…となるとあの女の行動原理から考えると、575番のところに行ったのかな
……ちょっと待て、アイツが化け物になった過程って確か…」
ヴィオラは一本の触手を取り出す
彼の権能である触手にはそれぞれ権能としての能力がある
ヴィオラはその触手から「情報」を引き出し、頭を抱える
「…可能性は高いな
時間の波の隙間に消えたか、都市に逃げ延びたか…
僕が都市ではまだ自由に動けないのを見越しての計算か?調律者め…
クローン達を同時に都市に放てるのは七日間…うーん、隙を突くのは得意だけど広い都市で探すのは厳しいな
…仕方ない!別の手を回して探すとするか!
うんうん、何もかもが順当に進んだら面白くないもんね」
ヴィオラは椅子から立ち上がり、その広い夕暮れの空間を後にする
そして、心底意地の悪い笑顔を浮かべて呟いた
「どこにいるのかなぁ、575番とクソ女は」
xxxx年1月5日
その日、都市には雨が降り続いていた
三日目の雨は都市の道に川を作り、屋根から流れる水は滝のよう
都市の巣の隙間…裏路地の建物の更に隙間、それは動き出した
「………いッ…うぅ…」
それは起き上がり、周囲の様子を見渡した
「…ここは…」
ゆっくりと立ち上がり、足を引きずるように歩き出す
雨の水分が服に吸収されているからか、酷く重かった
「はぁ…こんなに、動きづらいとは…」
数メートル歩いただけで息が切れる
よろついた体を支えようと、右手を壁につく
「はぁ…はぁ…は………え?」
そこで、それは違和感を感じた
記憶を辿れば、自分は右腕を失ったはずだった
しかし、今自分は右手を壁についている
他にも違和感はあった
自分の目線が異様に低いこと
脚は短いどころか、何も履いていない
着ていたシャツがあまりにも大きいためワンピースのように隠してくれているから何とか問題はないものの、体が縮んだかのような変化に混乱する
「な…なんで、私、小さく…?」
不意に横を見た
手をついていた壁は建物のガラスであり、今のそれの姿を映している
成人女性ほどあった体は幼い子供のように小さくなり、灰色の髪は真っ白に染まってしまっている
切り落とされたはずの右腕は肉と骨が生えたかのように存在しており、痛みも麻痺もない
映った右目は変わらない菫の色を鮮やかに輝かせているが、失ったはずの左目の虹彩は海のようなターコイズブルーに染まっていた
「…これ、は…私は…私は、レイン初期型575番…25日目にALEPHクラスアブノーマリティと戦闘し、右腕と左目を失い、腹部を切り裂かれ絶命していたに等しかったはず…
…その後…確か、抽出チームの…そう、ビナーにより何かを埋め込まれて…そう、そうです!左目に、無の世界蛇を移植され…」
自身を落ち着かせるために、彼女は記憶を辿る
自身が一度死んでいるにも関わらず、アブノーマリティを左目に移植し、蘇生したのだ
「こ、これは実験成功という事なんですか…?体が小さくなったのは副作用なんですか…?」
「気が付いたか、
狼狽える彼女の近くから、別の声が聞こえる
その声に反応した彼女は素早く周囲を見渡し警戒するも、薄暗い路地の隙間に人影は見当たらない
「どこを見ておるのだ、節穴の目じゃの
ああ!片方は小娘の目じゃったな!くはは!」
よく聞くと、その声は彼女の元から聞こえてくる
厳密には、彼女の左目から
ガラス越しに見える青緑の瞳、その瞳孔が歪み何かが這い出てくる
その黒い影は次第に細長い形になり、蛇の形を形成する
「ふぅ、貴様が眠っている間退屈過ぎて、より
「でっ…出っ…!?」
アブノーマリティである左目から這い出てきた独眼の小さな黒蛇は、そのまま彼女の首周りに巻き付き陣取った
「無事生きていて何より、死んでしまっては小娘が出しゃばった意味がない
死からよみがえった気分はどうじゃ?」
「あ…あ、貴方は何なんですか!?無の世界蛇…?にしては記録と違って話し方が老人臭いというか…」
「厳格なる妾を老人臭いとは何事じゃ!威厳を保ちつつ親し気のある口調を学んだ努力を馬鹿にしおって!」
蛇は威嚇するように口を開ける
「まぁその通り、無の世界蛇というのはあの小娘を指す呼称であり、妾はちと違う
なにせ、妾は世界蛇ヨルムンガンドそのものと言っても過言ではないからな」
蛇はそう語り、チロチロと舌を出し入れする
「ヨルムンガンド…?」
「ああ、ここはそういう神話もない世界であったか
なに、案ずるな、知りたいなら一から語ってみせるのも吝かでは…」
得意げにそう語る蛇は、彼女を見て一度言葉を切る
雨に打たれる小さい子供の体は、寒さにより震え、呼吸は荒く今にも凍え死んでしまいそうだった
「…いや、まずは身の安全を確保するところからだな
このままではまともに生き延びることも出来ぬ」
「そ、そうですね…しかし、私は会社の外に出るのは初めてなので地形がわかりません」
「妾は何となく知っておるぞ、小娘が昔ふぃくさーとやらの仕事でいろいろ練り歩いておったからな
足の速さだけは自慢故、広く活動しておったわ」
「では貴方が安全地帯まで誘導してください」
「そんな器用なことできるか
…まぁ、行ける当てがないわけではないが」
「ではそこまで案内してください」
「可愛げのない童よのう…」
彼女は大きなジャケットを一度脱いでは頭から被り、首元の蛇と共に歩き出した
広大な都市の隅で、生き延びる為に足を踏み出す
「ところで、貴方の名前は?」
「む?妾か?」
「先程、無の世界蛇は小娘を指すとか…まるで自分は別人のように語っているので」
水溜まりを踏みつけながら、彼女は傍らの蛇に質問をする
蛇は少しの間沈黙し、懐かしむように空を見上げ答えた
「…無二
かつて、小娘にそう名付けられたのでな」
無二、と名乗った蛇は何かを思い出す
今は昔、と言うほど最近でもない、遠い遠い世界の話
「…して貴様は?名は何という」
「私ですか?私は初期型レイン575番…識別番号vol.1.0-575です」
「馬鹿者、それは貴様特有の名ではないだろう
ただの番号ではないか」
無二にそう叱咤されるも、少女は困惑したように言葉を詰める
「名とは人物特定の為の識別記号であるのでしょう…?」
「大馬鹿者、名とはその者に対する想いを込めつけられるのだ
妾の名も、小娘が「唯一無二の存在」という意味をもってつけたものだ
貴様に名がないのなら、これから見つけるといい
自分で意味を込めるも良い、誰かに委ねるのも良い
自分だけの名を見つけるのだ、それは貴様
「私だけの…人生…」
母に処分され、生き返った彼女は母から独立したに等しい
今まで母の命に従っていた彼女が、今は自分の身一つで生きなければならない
「何、妾は貴様に名を与えることはできんが、多少手伝うくらいならできよう
乗り掛かった舟じゃしな!」
傍らの蛇は能天気に笑う
そんな無二に呆れながら、少女と蛇の珍道中が始まった