xxxx年6月7日
イナがチャールズ事務所に来てから、三年が経った
「お、イナ、また背が伸びたんじゃないのか?」
長期の仕事を終えて事務所に戻ってきたオリヴィエがイナの頭にその手を置いた
「当然です、毎日牛乳を飲んでいるので」
イナの背丈は10㎝ほど伸び、イナは得意げに胸を張る
「はは、イナは努力家だな」
書類を整理するアストルフォは笑いながら棚の戸を閉じる
「まぁちんちくりんには変わりないけどな」
ローランはイナを見下ろして笑っているため、イナに脛を蹴られる
三年もの間、イナはここで生き延びた
母はなにか手を出してくるわけでもなく、ただ平穏そのものの日々だった
イナは少しずつ成長し、力もつけていった
近所の子供達との交友も続いており、裏路地の隅で死体を眺めることも日常と化した
「ローラン、もうイナは事務所に何人かには腕相撲で勝てるくらいになっているんだから侮ってはいけないよ」
「よし、今度は俺と腕相撲しようか」
「オリヴィエは嫌です、肩が外れます」
白銀の髪は少し伸び、左目は未だ眼帯をつけたまま
「イナがまだ腕相撲で勝てないのって、ローランとオリヴィエと…」
そんな会話をしている時、その一室の扉が開かれる
その扉の向こうから、新たな人影が現れる
「あら、談話中でしたか」
白銀の長い髪、青い瞳、引き締まった体
一目見ただけで絶世の美女と理解できてしまうほどに美しい女性が、空間に混ざる
「ああ、アンジェリカ」
「誰だ?」
「数日前入った新人だよ」
初めて会うオリヴィエに、アンジェリカは頭を下げる
「先日このチャールズ事務所に入らせていただきました、アンジェリカです
よろしくお願いします」
麗しい女性は凛々しい表情のまま、視線を逸らす
その視線はローラン…の隣の子ども、イナに向いた
視線がぶつかったイナは咄嗟にローランの後ろに隠れる
「おい、しがみつくな」
「ははは、イナは昨日アンジェリカにこてんぱんにされたからね」
「ふふ、いつでもリベンジしてきていいですよ」
アンジェリカは余裕の笑みを浮かべ、イナの目線に合わせようと屈んで覗き込む
「…」
イナはローランの影から出てくることはなく、ふくれっ面でアンジェリカを睨みつける
その微笑みが、見覚えのあるものであるからだ
「アンジェリカも休憩か?」
「はい、一通り挨拶も済んだことですし」
「そういやローラン、あの話どうなったんだ?」
「あっ…忘れていた」
「全く…しかし、君に親戚や頼れる親しい友人も事務所外にいないだろう」
「…まぁ、そうだな…」
「何のお話ですか?」
大きな大人たちの会話に圧巻されながら、イナはその会話を聞いていた
数日前から事務所内で持ち上がっている依頼の話
それは、フィクサー事務所を取り仕切るフィクサー協会からの正式な仕事
「ああ、事務所全体で取り掛かる仕事…都市の星、血染めの夜の討伐についてな」
「…最近、血の抜けた死体が徘徊していると裏路地でももっぱらの噂ですからね」
「イナも、ついこの間襲われかけただろ」
「はい、友人らとかくれんぼしていたら…こう、ぐわーっ!と」
襲われたときの体験を再現しようと、イナは腕を上げて目つきを鋭くしてみせる
ローランがその腕をがしりと掴み、話を続ける
「とりあえず、物騒な裏路地は更に物騒になってるってことだ
…だから、その間、イナをどこか比較的安全な所に預けたいと思ってな」
「んなぁ!?」
その提案に一番衝撃を受けていたのはイナ本人だった
「待ってください!私をローランの家から追い払うのですか!」
「違うって
俺達は事務所総出で都市の星討伐に挑むんだ、事務所に関係する範囲にいたらお前も危ないし…」
「ローランのいけず!私は強いです!」
「俺に腕相撲で勝ってから言え」
そんな口喧嘩を聞きながら、アンジェリカは閃いた
「事務所の管轄外へ、イナを避難させたいということですね?」
アンジェリカがそう聞くと、ローランは静かに頷いた
イナは納得がいかない様子で頬を膨らませる
「それなら、一つ宛てがありますよ」
アンジェリカは優しい笑顔を浮かべて、連絡先を確認した
xxxx年6月10日
それから三日
イナは必要な荷物をまとめて事務所に来ていた
「…」
大きなリュックサックを応接間の床に置き、ソファの上で膝を抱えてイナは終始むくれている
「おい、イナずっとふくれっ面だぞ」
「まぁ三年暮らした家を離れて、見知らぬ人の元に預けられるんだし…」
「アンジェリカの親族なんだろ?本人も「ちょっと変だけどいい人です」って言っていたし、信頼してもいいんじゃないか?」
「そうじゃないだろ、オリヴィエ
イナは寂しいんだよね」
そんなイナを眺めるオリヴィエとアストルフォの会話は、イナの不機嫌を加速させる
イナはアストルフォの問いかけを無視し、ソファから飛び降り走り出す
そのままイナは事務所を飛び出してしまった
「…おい、いいのか?」
「大丈夫、子どもながら聞き分けはいいからね」
外に飛び出したイナは、近くの空き地に来ていた
もう錆びついてところどころ千切れているフェンスに何度も殴りかかり、苛立ちを発散させる
「あーもう!もう!なんなんですか!私なら大丈夫ですから…だから…」
泣き出しそうなイナに、無二が声をかける
「童、わかってやってくれ
ろーらん達は、貴様の安全の為にしてやってるのじゃ」
「そんなの、わかってます!皆さんが優しいのも…でも、守られているばかり…皆さんが危険な仕事に身を投じるのに、私は暢気に安全に過ごせと」
「仕方がなかろう、貴様はまだ未熟だからの」
「なら大人の体に戻してくださいよ!」
「無茶言うな!細胞が足りんわ!今度は片腕だけに飽き足らず両腕か両足失うぞ!」
そんな口論を繰り広げていると、背後に気配を感じた
イナは咄嗟に振り返り、その気配を視認する
そこには、三年来の友人である近所の少年が二人、立っていた
「あ…こ、こんにちは」
「イナ、遠い裏路地に行くんだって?」
「う…え、ええ、まぁ…」
「いつ帰ってくるんだ?」
「…わ、わかりません…事務所の大きな仕事が終わり次第、でしょうか」
「……そっか」
寂しそうに目線を下げる二人に、イナはいたたまれない気持ちになる
しかし、ふと違和感に気が付く
いつもはもう一人いるはずなのに、今日は二人しかいない
「あの、彼はどこに…?」
いつも悪ガキのリーダー格のような少年が、今日はいない
二人は暗い顔を更に暗くする
「……かった」
「え?」
「…死体で、見つかったって…今朝」
イナは、鈍器で後頭部を殴られたような気分だった
このあたり一帯は、チャールズ事務所があるお陰か比較的治安が守られていたのだ
だから、イナも少年らも今まで安全に生きてこられた
しかし、今、身近な人が犠牲になってしまっていた
「数日前に行方不明になってて、今朝見つかったんだけど全身の血管が抜き取られてるのに動いていた
でも、生きてはいなかったって…」
「…それ、は」
事務所で聞いた、血染めの夜の案件
血管を引き抜かれた死体が、ひとりでに活動している
少なくとも五日前には会っていた彼も、その被害に遭ったのだ
「…仕方ないよ、裏路地だし」
「巣の中なら、もっと安全に暮らせるのかな」
「イナもいなくなるなんて、寂しくなるなぁ
戻ってきたらすぐに言えよ」
友達が死んだのに、少年達は涙を見せない
所詮は裏路地だから、命の価値はとても低いから
だから仕方がないと、諦めてしまうのだ
イナは涙を溢れさせながら、二人の少年を両腕で抱きしめた
「…私が、いつか…強いフィクサーになって、皆を守ります!
皆が安心して生きられる、そんな世界を…絶対…」
イナは二人を強く抱きしめた
二人の少年はイナのぬくもりを感じ、遅れながら友人を失った悲しみを自覚する
「う…あぁ…うああぁぁぁ!!」
「ひぐっ…ぐすっ…」
「…うぅ…ううぅぅ…」
三人揃って泣いた
いつもの空き地で、いつもより一人欠けて
そんな光景をひっそりと眺める男女
「…いつ声をかけるべきでしょう」
「なんだかんだ仲良くなってるんだよな」
ローランとアンジェリカが、空き地の外から三人を見守っていた
「いつも仮面をつけていて気持ち悪いと言われている貴方が、子どもには優しいのは意外でした」
「…まぁ、いろいろ事情があるんだよ」
そんな会話をしながら、イナが二人と別れてローランとアンジェリカの方に歩み寄ってくる
「…あ」
「こんにちはイナ、お待たせしてしまい申し訳ありません
準備できましたよ」
アンジェリカがそう声をかけると、イナは視線を逸らしながら事務所の方へ戻っていく
「…見事に嫌われていますね」
「キチガイだって気づいてるんじゃないか?」
ローランがそう呟くと、後頭部に拳骨がぶつけられる
先日、三発も拳骨を食らっていたのにも関わらず