xxxx年6月10日
イナは自動車の中で揺られながら窓の外を眺めていた
移ろいゆく景色の中に、ローラン達と行ったパン屋が過ぎ去っていったのはとっくに前だった
区関所を五つ抜け、休憩を挟みながら長い時間移動する
「もう少しですからね」
イナの隣に座る運転手のアンジェリカは度々イナに声をかけてくれるも、イナは窓の外を眺め続けるばかりだった
夕日が沈みかけた頃、信号で止まった車内でイナがようやく口を開き出した
「…アンジェリカ」
初めてイナに名前を呼ばれ、アンジェリカは驚いた様子でそちらを向いた
「貴方、強いんですよね」
イナは、数日前アンジェリカが事務所に来たばかりの頃を思い出す
自分の方が長くいるから、と先輩面をして腕相撲を挑み、呆気なく返り討ちに遭ったその日の事は今も鮮明に覚えている
指相撲も、トランプも、かけっこも…あらゆる勝負に負け続けていることから、イナはアンジェリカに対し苦手意識を感じていた
しかし、今はその強さを認めて素直にアンジェリカと会話する
「…私、昔は強いフィクサーになりたいが為だけにチャールズ事務所に身を置いていました
しかし今は、皆の役に立ちたい
誰かを守れる力が欲しいのに…そこに辿り着けるまでの道のりが長すぎるんです
以前はそんな力があったのに…今の私にはできないんです
だから、貴方にお願いします
チャールズ事務所の皆を、ローラン…私の家族を、守ってください」
イナからの頼みを、アンジェリカは静かに聞いていた
そして、右手をイナに差し出した
「…?」
「約束です
貴方の家族は、絶対に守ってみせますよ…必ず」
アンジェリカは右手の小指だけを立て、イナに突き出す
イナは恐る恐る自分の左手の小指をアンジェリカに向けると、アンジェリカは小指を半ば無理矢理絡ませ、大きく振った
「指切り拳万、嘘ついたら針千本飲ます
指切った!」
小指を交わらせた約束をして、アンジェリカは微笑んだ
悪戯っぽい無邪気な笑顔は、イナを緊張感から解き放つ
「アンジェリカ…」
イナも表情が解れ、指切りをした小指を眺めながら呟く
「…青信号ですよ」
「あ」
車の後ろから聞こえるクラクションに気が付いたアンジェリカは、車のアクセルを踏み出した
「ようし着きました!さぁイナ、ここですよ」
窓の外を眺めていたイナは、呆然と口を開けて周りを見渡す
どこを見ても高いビル群、優雅な建築物は高級な雰囲気漂わせているが、並び歩く人影の中にはガラの悪いゴロツキも少なくない
裕福層が住んでいそうな区画だが、決して治安がいいというわけではないのかもしれない
イナは慌てて大きなリュックサックを後部座席から引っ張り出し、よろつきながらもそれを背負った
車の鍵をかけたアンジェリカの後ろを歩き、白いビルに入っていく
そのビルはホテルで、アンジェリカはカウンターに一度会釈し、エレベーターまで歩いて行った
イナはその後ろをついていくが、アンジェラの場に馴染む優雅さに圧巻される
「童、ここお高い匂いがするな」
無二が落ち着きなく耳元で騒ぐのを聞き流し、イナもエレベーターに乗り込んだ
エレベーターは上へ昇り、ガラスの窓から周辺の様子が見渡せる
暗い夜の空に対抗するように地上は煌びやかに輝き、まだ眠ることを知らないようだった
「綺麗ですね、イナ」
「…こんな外から見えやすいガラスの窓、狙撃で暗殺されないか不安です」
「考え方が物騒ですが、嫌いではありませんよ」
そんな風に会話しているうちに、エレベーターは最上階に到達した
そこはホテル内でも一際値段が張るであろうスイートルームの階である
白い廊下に降り立ち、アンジェリカは一室しかないスイートルームの扉まで進み、インターホンを押した
イナはアンジェリカのすぐ後ろに隠れるようにして、扉の奥から現れるであろう誰かを警戒した
インターホンが鳴ってからたった二秒、その扉が開かれる
「アンジェリカ!待ってたよ!」
現れたのは、白い髪に青い瞳の男性
アンジェリカとよく似た顔の男性を見て、イナは口を半開きにして驚愕した
それは、三年前自分を助け、イナという名前をくれた相手…アルガリアだったからだ
「
「まぁね、アンジェリカがホテルのロビーに来た時からそんな気がしていたから…君が来るまでの2分32秒、ここで待ってたよ」
アンジェリカに兄さんと呼ばれたアルガリアは心底嬉しそうに話すも、アンジェリカは頭を痛めている様子で額を抱える
アルガリアはふとイナの存在に気が付き、イナの方を見た
少し目を見開いた後、にこりと笑う
「
初めましてと声をかけられ、イナはようやく意識を取り戻した
(…あれ、覚えていない…?)
「イナ、この人はアルガリアです、たくさんわがままを言うんですよ
兄さん、この子はイナ…しばらくの間、この子を預かってください」
「アンジェリカの頼みであれば喜んで
イナ、おいで」
胡散臭い笑顔に後退しそうになるが、後に引くことはできないためイナは渋々アルガリアのいるスイートルームの玄関口に足を踏み入れた
「では私はこれで」
「もう帰るの?今日は遅いから泊っていけばいいのに…」
「結構です、もしもの時はビジネスホテルに泊まるので」
アンジェリカは屈み、イナの目線に合わせる
「それではイナ、またそのうち様子を見に来ますからね」
「…」
イナは小さく頷き、アンジェリカは微笑んでその場から引き返し、去っていった
「……」
「いつまでそんなところにいるの」
アンジェリカの方を眺め続けていると、後ろから声をかけられる
部屋の奥に入っていったアルガリアの方を振り返る
「おいで、イナ」
イナは扉を閉め、廊下を進んでいく
スイートルームのリビングは広く、テーブルに置かれた蓄音機や棚に置かれたCDプレイヤー、片隅のピアノ…音に関する物が多く置かれている
中央のソファに腰かけ、アルガリアは息をついた
「…まさか、アンジェリカから頼まれた子供が君だとは思わなかったよ」
「…」
覚えていた、アルガリアはイナを覚えていたのだ
「左目どうしたの?もしかして、取られちゃった?」
「…健在です、ただ、近所の子供に気味悪がられるので眼帯をつけたままにしています」
「ふぅん…まぁどうでもいいけど」
アルガリアは蓄音機を動かし、音楽を流し始めた
静かなバラードがリビングに広がる
「…そちらは
あれから、母様になにもされなかったのですか?」
「うん、得に何も
他の事に集中しているのもあって、あんまり君に気をかける暇もないみたい
それでも、君の捜索の手を緩めたわけじゃないよ?ヴィオラの支配圏は徐々に広まっているからね…
今の段階が一番安全なようだよ」
テーブル上のコーヒーに口をつけ、アルガリアは雑誌を広げた
そのページには、L社の写真が写っている
「…!」
「ヴィオラが契約している会社の一つだよね
創立してすぐに契約を結んで…社員が派遣されてるっていう
他にも、L社の子会社や中小企業、翼では他にT社なんかにも…
ヴィオラは一番はB社の特異点が欲しいみたいだけど」
L社のページを眺めながら、イナは複雑な心境になる
イナは廃棄処分をすり抜け、都市に逃げ出せた
しかし、あそこにはまだ大切な人が取り残されているのだ
脳裏に深緑の箱が思い浮かぶ
「まぁとにかく、ヴィオラは勘が鋭いし…趣味の悪い触手の力も計り知れないけど、万能だったとしても全能ではないから安心してもいいと思うよ
都市の全てを見渡せる力がないから、俺みたいな手足が使われるわけだしね」
アルガリアはコーヒーカップを持ってソファから立ち上がり、キッチンの方へ歩いていく
「大丈夫だよ、俺の優先基準はアンジェリカが一番だから…アンジェリカに頼まれた君の面倒は見るよ
ほら、そんなところに突っ立ってないで、寛ぐといいよ」
そう促され、イナはゆっくりリビングの中に入り、リュックを床に降ろした
「ふむ…妾の存在を知っている貴様だから妾も寛がせてもらうかの」
無二がイナのスカートの影から姿を現し、アルガリアの方に向いた
「どこから出てるんですか貴方!」
「あるがりあ…といったか、貴様
もし童に手を出して見ろ、その時はその頭蓋、砂粒になるまで嚙み砕いてやるからな」
無二は警戒心をむき出しにし、蛇の躯体を巨大化させ威嚇する
アルガリアはそんな無二に怯むことなくキッチンの棚から飴玉を取り出し無二の口の中に放り込んだ
「…!飴玉か…!」
「甘いもの好きだよね、君
イナも食べる?」
「…何で知ってるんですか」
無二が甘いもの好きだという情報を知っていることに恐怖を感じながら、イナは差し出された飴を受け取った
無二は小さくなり、イナの首元に巻き付く
「情報源は教えてあげない」
イナは包み紙に包まれた小さな飴玉を上着のポケットに入れる
アルガリアはにこやかな笑顔を絶やさないまま、キッチンの横に続く廊下を指した
「君の部屋は別室に用意させたから、荷物を置いてきたらどう?
奥の突き当りの手前の部屋だから」
イナはその指示に従い、リュックを担ぎリビングの端に続くキッチン横の廊下を進んだ
リビングから続くガラスの壁からは絢爛な裏路地の光景が広がるも、遠くに見える壁の向こうの巣の中の方がより一層輝きを仄めかせている
ガラス壁とは反対側の壁に扉があり、突き当りにも扉がある
「ここですね」
イナは手前の扉を開き、中に入る
踏み入った瞬間から照明が点灯し、部屋の中を照らす
上等なベッド、大きなクローゼット、壁際の机と椅子も一級品のようだった
「…ろーらんの家とは大違いだな」
「稼ぎの問題でしょうか…ローランもそれなりに稼いでるはずなのに」
「気に入ってもらえた?」
真後ろから聞こえた声に反射的に振り返る
イナのすぐ後ろに、アルガリアが立っている
「荷物を置いたら上着を着たままおいで
せっかくだし外食にでも行こう」
あの夜と同じ青い外套を身に纏い、大きな鎌を手にしたアルガリアはイナにそう告げてリビングの方へ戻っていく
その後ろ姿を眺め、イナと無二は顔を見合わせた
「…相変わらず気味の悪い男じゃな」
「気配に全く気が付きませんでした…」
一先ずイナはリュックをクローゼットの傍に置き、そのままアルガリアが待っているリビングへと向かった