XXXX年10月9日
イナと無二がアルガリアの元で暮らし始めて四ヶ月
度々の強襲こそあれ、それ以外は比較的平穏な日常を過ごしていた
「無二?…無二ー」
「…」
しかし、三ヶ月間無二は静かに眠ることが多くなった
呼び掛けに首を持ち上げるが、暫しこちらを見つめた後再び眠りこける
本当の蛇になったように大人しくなり、その場を離れるといつの間にか影の中へ戻っていく
「どうしたんでしょう、病気?」
「アブノーマリティ…幻想体っていうのがどういうものかは知らないけれど、この都市で未知の病を発症しないとも限らないよね…感染の可能性だってあるかもしれないし、いっそのこと殺しちゃう?」
「やめてください」
無二の変化以外は変わったことも無く、それはローラン達が遂行している任務も同上である
血を抜かれた動く死体、その被害規模は拡大する一方
であるのに未だ血染めの夜の事件は解決しない
犯人のしっぽさえ掴めていない状況、平行線は未だ続いていた
そんな秋の昼のことだった
「…というわけで、いつもお世話になってるアルガリアにお礼の品を用意したいのです」
「それはそれは、アルガリア様も大変お喜びになるでしょう」
アルガリアが留守の間、付き人の男にイナはとある相談をしていた
それはお世話になっているアルガリアへの感謝の気持ちを込めてプレゼントを贈りたい、といったものだった
具体的な物は何も浮かんでおらず、アルガリアに内緒で雑誌を漁りまくっている最中であった
「アルガリアは何が好きなんでしょう」
「さぁ…私めも存じ上げませんね」
「エリックでも知らないんですか」
エリックと呼ばれた中年の男は困ったように眉を下げた
エリックは、アルガリアが雇った付き人であり、今はイナのお目付け役といった仕事をしている
アルガリアとて常にイナの面倒を見れるわけでもなく、フィクサーとしての仕事は長時間家(ホテル)を空けることだってよくある
そこで、アルガリアが居ない時に世話役を任命されたのがエリックである
イナは家事のほとんどは出来るが、料理は壊滅的なためエリックがいつもイナに手料理を振舞ってくれていた
「アルガリアはいつも宅配やホテルのオーダーばかり活用しているので、手料理は大変嬉しいです」
「喜んでもらえて何よりです」
活力のない瞳を細めながら、エリックは応える
イナはエリックが作った昼食を頬張りながら、引き続き雑誌を読み続けた
アクセサリー、時計、洋服、嗜好品…アルガリアが喜ぶようなものは何一つ浮かばなかった
初めて来た時のスイートルームには、ピアノやCDプレイヤー、蓄音機などが置かれていたことからアルガリアは音楽が好きなのかとも考えた
しかし以前そう問いかけると
「うん?…うーん…音楽が好き、と言うよりかは…音が好きなのかな
静かなのは苦痛でさ、でも今はイナがいるからこういった物も必要なくなってきたよね」
と返された
音楽ではなく、音を聞くのが好きなのだと言う
好きと言うよりかは、無音を避け音を求めているのか
静寂が苦痛である所以は知り得ないが、それでもイナを更に悩ませるには十分だった
「アルガリア様なら、イナ様が差し上げるものならなんでも喜ばれるのではないですか?」
「…多分そうなんですよね
でもだからといって手を抜くのはいただけません」
「…では、イナ様がお好きなものを差し上げてみては?」
エリックからの提案に、イナは目を丸くする
自分の好きなものを、アルガリアにプレゼントする
数年前の記憶が蘇ってくる
「都市の生活って息苦しいけど、嫌なことだけじゃ気が滅入りますから
好きなもん増やして幸せに浸れるときは多くあった方がいいんです
好きも嫌いもない人生なんて、生きてる!って感じしないじゃないですか」
懐かしい記憶に、イナの口元は綻んだ
「それ、いいですね
よし、私の好きな物を共有しましょう!」
「その意気ですイナ様
して、イナ様が好きなものとは?」
エリックにそう問いかけられ、イナは静かに考えた
自分の好きなもの
今まで生きてきた中で好きなもの
「…私が好きなものは…」
まず最初に思い浮かんだのは、深緑の箱
次に、怖い母親
博識で愛嬌のある無二
かつての安全チームの仲間に、アンジェラ
ローラン、アストルフォ、オリヴィエ、アンジェリカ、近所の友達…
浮かぶものは人の顔ばかり
(ではなく…プレゼント出来そうなもので…)
都市の夕焼け、道端の花、鏡になる水溜まり
「好き」を自覚してからは、目に映る全てが尊く見えてしまう
ただ、やはり「死」だけは好きになれやしないのだが
「…は!そうだ!」
「如何なされました?」
イナは徐ろにアルガリアのノートパソコンを立ち上げ、インターネットを使いとあるサイトを探す
都市の至るところに店舗を構えるスイーツ店、メリュジーヌのサイトを開き調べる
イナが求めたものはただ一つ、このスイーツ店の名物であるアップルパイだった
「ここのアップルパイ、本当に美味しいんです
アストルフォが食べさせてくれたのが最初だったんですが…あ、アストルフォというのは友だちなんですけど」
「…あぁ、ここは多くの人が訪れる有名なお店ですね
おや、明日は限定50個のスペシャルアップルパイを販売するそうですね」
サイトの大きな見出しを見て、エリックは感嘆の息を漏らす
イナも同様にそのページを見て、決意を固める
「よし!決めました!明日近くのメリュジーヌへ行き、アップルパイをゲットしてみせます!」
「…明日は私もおりません、残念ながら外へ出られません
元々そうですが、近頃裏路地はより一層危険ですから…」
「大丈夫です!私はそこら辺の子どもより強いんです!弱い大人にも勝てます!
血管の抜けた死体にだって負けやしません」
ボクシングさながら拳を空中へ繰り出し続けるイナを、エリックは困ったように眺める
こうして、イナの冒険が幕を開けたのだった