XXXX年10月12日
未だ痛む右腕に意識を向けながら、イナは繋がれた左手の先を眺める
大きな手がイナの小さな左手を優しく、それでいて捕獲した兎を逃がさないように力強く掴んでいる
その手の大きさの差、力の差にイナは心情内でため息をつく
(…子ども、ですね、私は)
イナの手を離さないまま、アルガリアはとある建物の戸を叩く
そこはチャールズ事務所…実力派フィクサー事務所であり、以前までイナが居座っていた居場所だった
ノックの音から間もなく、慌ただしい足音と共に扉が開かれ、中から真っ黒な男が現れる
「イナッ!」
髪も服も顔さえ黒い男…仮面をつけたローランが二人を出迎える
「ローラン!」
「お前ッ…心配したんだぞ、アンジェリカからお前が襲われたって」
「……ごめん、なさい」
ローランは屈みイナの両肩を掴んではイナの無事をしっかりと確認し安堵する
「…イナの世話、助かった
けど、監督不行届じゃないか?」
ローランはそのまま視線を上げ、アルガリアを見上げる
その声には僅かな怒気が孕んでおり、アルガリアは笑顔のまま冷たい視線を向ける
「お前がアンジェリカと組んでる男?
ふぅん…お前が実力不足だから未だ血染めの夜を特定出来ていないんじゃないのかな?」
アルガリアの笑っていない笑顔とローランの嫌でもわかる殺気が混ざり合い、一触即発の雰囲気を広めている中、イナはどうしようかと汗を流していると
「ちょっと兄さん!ローランを悪く言わないでください
ローランも、イナが怪我をして心配なのはわかりますが、あまり噛みつかないでください」
そんな一歩間違えればすぐ殺し合いが始まりそうな空気を仲裁したのは、チャールズ事務所の奥から出てきたアンジェリカだった
「アンジェリカ…」
「イナ、詳しいことは中で話しましょう
お二人も、いつまでも睨み合ってないで入ってください」
アンジェリカはイナの右手を握り事務所内へと引き連れ、アルガリアとローランは未だ冷戦状態のように互いを睨めつけている
数ヶ月ぶりのチャールズ事務所だったが、ロビーにも廊下にも人気はなく、そのままイナは応接間に通される
イナ、アルガリア、アンジェリカ、ローランが席に着き、揃ったところでアンジェリカが口を開いた
「…今回イナを襲ったのは血染めの夜、で間違いないですね?」
アンジェリカの質問にイナは静かに一度頷いた
二日前、アルガリアに無断で外出した際に偶然遭遇した女性…血染めの夜
赤い瞳と白い肌は人間のものとは思えず、血を味わうその味覚もやはり人の感性とは掛け離れているだろう
しかし、都市には人肉を好んで食す人間も少なくは無いため断定は出来ないが
「これが噛まれた痕です
噛んだ、と言うよりかは吸い付いた…に近いのですが」
イナは右袖をたくし上げ、包帯を解いてガーゼを剥がす
腕にはくっきりと歯型が残って痣となり、犬歯位置には抉られたような穴が開いている
それと同時に、アルガリアは懐から一本の試験管を取り出した
試験官の中には赤い液体が入っており、アルガリアが振ると液体は揺れ波打つ
「これはその時傷口からすぐ絞り出したイナの血液
抗凝固薬と混ぜてあるけど、ひとまず血液にも傷口にも毒性反応は見られなかったよ」
あの後アルガリアはイナを医者(闇医者だが)に診せ、検査させていた
感染毒等の侵入の有無の確認の為である
ひとまず毒や菌の類は見られず、感染症の心配も無い
「…これで、血染めの夜の歯型と唾液成分が手に入ったわけか」
「ようやく情報を手に入れました
あと…血染めの夜と遭遇した場所も教えてください」
「21区43町7番道地下通路です」
ローランは用意した21区の地図上に、イナの情報を元に印を付けていく
21区の地下通路は他の裏路地とも繋がっており、複雑な迷路になっている
「実際に現地へ行って調べてみる価値はあるな」
「ひとまず所長に報告しましょう、現地調査の人員は所長が決めるでしょうから
ありがとうございます、イナ
これで調査は前進しました」
アンジェリカはイナを誉め、ローランはイナの右腕を処置し直しては頭を撫でた
それでもイナは暗い表情のままで、二人は顔を見合せ困惑する
「それじゃあ、用は済んだから…俺達は行くね」
アルガリアがソファから立ち上がり、イナの肩に手を置く
「珍しいですね、兄さんがもう行くなんて」
「本当はまだアンジェリカと話していたいけどね
まだこの後急ぎの用事があるんだよ…」
急ぎの用事、とアルガリアは言うが、イナの頭の中には疑問符が浮かび上がる
そんな用事など聞いていないのだ
「ほら、行くよイナ」
しかし、アルガリアに促されるままイナはソファから降り、その後ろ姿について行く
「…イナ」
そんなイナをローランは呼び止める
イナはローランの方を振り返る
ローランはイナの元へ歩み寄り、再度頭を撫でる
「…血染めの夜は俺達が必ず仕留める
そしたら…また、一緒に暮らせるから」
ローランの優しい声に、イナは涙が溢れそうになるのを堪える
「…はいっ」
精一杯の明るい笑顔と声で応え、イナはそのままアルガリアと共にチャールズ事務所を後にした
ローランとアンジェリカはそれを見送り…小さく溜息を吐き出した
「…まだ骨が折れそうですね」
「ああ…だが、絶対に血染めの夜はこの手で潰してやるさ」
「それで、急ぎの用事とは?」
エリックが運転する車内、後部座席
イナはアルガリアの隣に座りそう問いかけた
アルガリアは窓の縁に肘を掛け外を眺めていたが、そんなイナの質問に視線を向けた
「買い物だよ」
「何を買うんですか?」
「とっておきかな」
具体的なことを言わないアルガリアに痺れを切らしながらも、イナも自分の真横の窓を眺めた
その時
「……あれ?」
ほんの一瞬
イナの優れた動体視力がその人物を捉えた
車の外、歩道の隅、杖をつきながら歩く老人
裏路地では珍しいその老人を、忘れることは無い
先日バス内で出会った老婆…まさにその人であった
「……?」
また公共機関を使って移動したのだろうか、しかし以前出会った場所と比べ移動距離が長いことに疑問を感じながらも、過ぎていった景色と共に見てなくなった老婆を見送ってはイナは視線を前方へと向けた
「エリック、ここだ、止めて」
アルガリアがそう言っては、エリックは車を車道脇に停車させる
アルガリアはそのまま車から出て、ふらりととある建物へと入っていった
「……あ」
イナはその建物を見ては、アルガリアの言っていた「買い物」の意味を理解した
程なくして、アルガリアは建物から出てきて車内へと戻ってきた
その手に持った紙袋を、後部座席の真ん中に置く
「これ、イナが買ってたヤツでしょ?」
アルガリアが買ってきたのは、以前イナが購入しては血染めの夜との遭遇で駄目になってしまった…人気スイーツ店のアップルパイだった
「な…あ、アルガリアが買っては意味が無いんですが!」
「そう?…俺へのお礼は、美味しい紅茶を淹れてくれるだけで十分だよ」
そう言って微笑むアルガリアに対しイナは膨れっ面のまま睨め付けるが、しかしアップルパイの魅力に根負けし、大人しく前方へ顔を向けた
それからホテルへと戻った二人は、美味なアップルパイと微妙な紅茶で午後のティータイムを過ごしていた