階段を駆け上がった先は小さな天井扉になっており、先程コーラルが通ってきたことから施錠はされていないようだった
木製の扉をゆっくり開いてはイナは周囲を警戒しながら見渡し、扉から体を乗り上げて地下から脱出する
勿論地下の方が暗いことには変わりないのだが、地上もかなり暗かった
恐らくもう夜になってしまっているのだろう
「…蟲ババアは、いないか?」
「いえ…いますね」
二人が地下から出てきた場所は居間、そしてその居間の奥に緩やかに動くロッキングチェア
微かに聞こえる虫の羽音
「…酷いわねぇ、私の家族もみーんな殺してしまうなんて」
嗄れた老婆の声が聞こえる
そんな声の主は、ロッキングチェアの上で身を小さくして座っている
「…」
試験対象の息子は母親に喰われて死んでしまったのだが、と呑気に思考しているうちにイナとゲルダの周囲には多くの虫が這い寄っていた
「まぁいいわ、この子達も丁度お腹が空いていたのよ」
「…貴方、何故このような力を持っているのですか?」
都市において異常こそ常ではあるのだが、以前同じバスに乗っていた老婆が都市伝説にまでなってしまっているのがどうにも腑に落ちないのだ
「それを教えて、なんになるのかしら」
老婆は語る事もなく、虫達は触覚を揺らしながらにじり寄ってくる
居間から扉の壊れた玄関まで走り抜けられたら良いものの、その間に虫に襲われて試験対象達のように規制される危険性がある
ここまで来たら燃やすのも良いかもしれない、だがゲルダのライターは蟷螂に寄って破壊されてしまっている
イナは老婆や虫に注意しながら影に手を忍ばせる
「何しようとしてるんだい」
老婆がイナの動きに気を向けると、虫達は一斉に羽をはためかせ飛び立つ
無数の虫がイナの周囲を飛び回り、イナの皮膚を衣服の上から噛み千切っていく
「ッ…!」
「お、おい!」
「君達のお陰で
そこの白い子は今いる子達のご飯に、黒い子は新たな子供達の苗床になってもらおうかねぇ」
ゲルダは先程倒した試験対象を思い出す
脊髄や神経に潜んでいた奇生虫、脳内に大量に植え付けられるであろう虫の卵
自身の体が
「ゲルダ、目を閉じてください…!」
イナが虫の大群に囲まれながらゲルダにそう呼びかけると、足元に何か重みのある物が落ちる
ゲルダはそれを理解するよりも先にイナの言う通りに強く目を瞑った
瞬く間に居間は強い光に包まれ、虫達はその光に当てられ多くが床に落ちていく
虫の渦から解放されたイナは衣服はズタボロに食い千切られ、柔い皮膚さえも下の筋肉が見えてしまう程に負傷していた
「…!
に、逃げるぞ!」
ゲルダは血を流すイナの手を引き閃光弾によって瀕死になった虫達を踏み潰しながら居間を駆け抜ける
しかし居間の扉を数匹の大きな百足が塞ぐ
「あぁ眩しい…強い光は虫達を焼いてしまうの
酷い、酷いねぇ」
老婆の穏やかな声が二人の背後に迫る
イナとゲルダが振り返ると、老婆の頭が裂け虫の触覚や眼球が見えている
その光景に生理的嫌悪感を覚える二人だが、イナが先程使っていた拳銃を持ち上げる
その姿勢は傷だらけの体でも真っ直ぐとしており、銃口を老婆に向けようとした瞬間に虫の足に変化した老婆の腕がイナの手を払う
その衝撃で銃は床に落ち、イナの首は虫の足により締め上げられる
「クソッ…!」
ゲルダもナイフを持って切りかかろうとするが、老婆の左足が百足に変化しゲルダの足を絡め取る
ゲルダはそのまま体勢を崩し床に倒れ伏し、老婆はそのまま百足でゲルダを持ち上げ宙吊りにする
「二人共若いのに、せっかくなら私の孫娘にしてあげたかったわ…」
頭を打ったせいか意識が朦朧とする中、ゲルダは定まらない視線を老婆へ向ける
「蟲ババア…お前、旧G社の特異点を…どうやって…」
旧G社の特異点
ゲルダがそう言ったのを聞いたイナは目を見開いた
この老婆が使ってた数々の虫を使役した能力、それは翼のひとつであるG社のもの
ならばこの老婆は、元G社の社員なのだろうか…?そうならば合点はつくのだが、老婆から出た答えはそんな簡単なものではなかった
「…よく知ってるわねぇ
そう、これは旧G社の特異点…でも、私は旧G社の元社員でもない
私の息子が旧G社の社員だったの
元気な子でねぇ…翼に入れたって知らせてくれた時の喜びようはよく覚えてるわ
結婚して子供も生まれて、中堅になった頃…戦争が起きたわ
煙戦争、その時に息子もその家族も皆死んでしまったの」
風の噂で聞き覚えのある煙戦争
確か、誰かがローランもそれに参加していたとか…
「それから旧G社が没落するまで遅くはなかった
悲しむ私の前に、一人の女の子が現れたの
スミレ色の瞳が綺麗な女の子でねぇ、私に力をくれたのよ
『G社の特異点の一部を君に分けてあげる、これを使いこなせれば君はもう寂しくなくなる』…って
そうして得た虫の力で、私は家庭を洗脳し祖母の地位を得た
けれど、虫達もタダ働きはしない…寄生した家族達を内側から食い尽くし、卵を植え付け、更に新しい虫が孵化する
私が幸せな家族として洗脳したから、最期の時も幸せそうな笑顔で皆動かなくなったわ」
スミレ色の瞳
それを聞いた瞬間、イナの全身の血が凍てついたような寒気を覚える
もしかしなくても、きっとそれはスミレの魔女…ヴィオラの仕業なのだろうと
「ハッ…それが…お前のやり口か」
「誰だって寂しいのは嫌だもの
だから…新しい家族、探さなくちゃねぇ」
イナの首を絞める力が強まる
呼吸もままならないまま、武器を取り出そうにも手に力が入らなくなる
ゲルダを高く吊り上げたまま老婆は口元だけにこやかな微笑みを携え、脳天に開いた虫の口へとゲルダを運ぶ
脳震盪と、頭に血が上ってしまった影響で意識が遠のきそうな中…ゲルダは
それは、先程イナが手放したマグナムだった
ゲルダは自覚している、自分はイナほど強くないと
この短時間でイナの強さを痛感していたゲルダ
十代前半であろう若さの子どもなのに、やけに実戦慣れしている頭のキレと体の動き
都市じゃろくに使う機会のない銃を的確に使いこなしていたその様に、ゲルダは臆していた
(…あいつは、あたしより強い
悔しいが、あいつがいなかったらあたしはとっくに死んでいた
…だから、こんなところじゃ終われねぇ)
イナほど真っ直ぐ照準を定められないが、この至近距離で外すことは無い
衝撃に耐えられるよう、ゲルダは両手で銃を握り締める
「あたしも、あいつみたいに…!」
そして、ゲルダは引き金を引いた
発射された鉛玉は老婆の頭の口へと見事入り込み、虫の喉奥へと捩じ込んでいく
「ぎっ……ぎぃイイァァァァアアアアッ!!」
銃弾が老婆の体を貫き、激痛に悶えた老婆はゲルダを放り投げイナからも手を離す
ゲルダは勢いのまま壁へと背をぶつけ、衝撃で意識を失った
「ゲホッゲホッ…げ、ゲルダ…!」
やっとの思いで呼吸を繰り返し、イナはゲルダの元へ駆け寄る
ゲルダを抱き上げ呼吸を確認し、同時に別の拳銃を取り出しては老婆へと向ける
「あが…い…イダい…アつイ…!
ひドイ…ヒドい…!」
老婆は頭の口から血を吐き出し、鮮血に混じって黄色い液体も垂れ流す
「自分の欲の為、幾つもの家庭を奪ってきたのですか
そんな貴方が、被害者のように嘆くのはお門違いです」
「ぅ…がぁぁあああっ!!」
激昂した老婆が背から何本もの蟷螂の手を生やしイナへと襲い掛かる
セフティを外した拳銃を片手で握り、引き金に指を掛けたその瞬間…天井が落ちてきた
轟音と土煙に襲われ、イナは咄嗟に腕で顔を覆う
5秒後にイナが目を開けると、天井の木材と瓦に紛れ息絶えた老婆と…その老婆を機械的な刀で貫いている男…否
「…君達、大丈夫かい?」
透き通る青い髪の、麗しい女が舞い降りた