ミカエルが記憶している中で一番古いものは、血に塗れていた自分の手であった
機械のそれではなく、肉体の一部である手
その向こうには頭の潰れた死体がいくつも転がっている
彼らはミカエルが信じる神を愚弄した異端者であった
機械の体になった後も、それを良しとしない敵対者を何人も屠ってきた
己は神の代わりに神罰を下す者である
己は神の手足となって愚かな者太刀を裁くのだ
そう信じて疑うことがなかった
「いい破壊っぷりだ、都市疾病にカテゴライズされるだけあるね」
そんな中で、ミカエルは魔女に出会う
本来ならばその力を振るうべき相手である
実際、ミカエルは魔女を殺そうとした
しかし殺せなかった
瞬いた瞬間に自分の体は地面に倒れ伏していた
「君の力を買おう
契約をもって君は僕の命令を聞く、僕は君の信仰を遵守する
どうだい?悪い話ではないと思うよ」
ミカエルは、その提案に頷いた
利はあった、魔女の下についてからは毎日煩わしく思っていたフィクサー達の襲撃もなく、魔女の契約を反故した悪しき者達に正当な罰を与えられる
いつしか彼はいもしない妄想の神よりも、実現している魔女を神だと認識してしまっていた
魔女の命令は絶対に遂行する
魔女に仇為す者は必ず罰する
魔女の、魔女様の為に…
しかし今、彼は焦燥感を感じずにはいられなかった
その手は多くのものを握り潰し、その足は多くのものを踏み潰してきた
だが今、彼は流れる銀星を捕まえることも追いつくことも出来ずにいる
目の前で、両の腕が潰れながらも駆け回る初期型クローン
ミカエルも左腕は肩ごと外れてしまったが、まだ右腕がある
掴めば、掴めさえすればその細い体は瞬く間もなく握り潰せるのだ
だが掴むことができない
壁や天井は拳により崩れ、床には高熱と摩擦により焼きついた突進の跡
「なぜ、だ…」
大きな体、なおかつ義体となるとその体の重量は相当なものとなる
対してその銀星は小さな体でミカエルの拳を躱わす
どれほどブーストしようと、巨体の死角へ潜り込まれてしまう
「何故だ…!私はこの腕で捕まえられなかった者など…」
脚のエンジンを最大にまで回し、広い背中の収納を開示する
肋骨を模した鉤爪が蜘蛛の足のように広がり、廊下を塞ぐ
目の前に立つクローンを標的として捉える
脚はギアが焼き切れそうなほど高速回転し、火花と煙をこぼしてる
「魔女様の為に!」
ミカエルが魔女への忠誠を口にすると、過去最高速でクローン目掛けて突進する
鉤爪が壁や天井を削りながら迫っていき、クローンを捉えようとする
…しかし彼女は逃げることもせず、スミレ色の瞳でミカエルを見据える
魔女と同じスミレ色に、ミカエルは一秒ほど意識が乱れ…その隙を見逃さず、彼女は身を屈め突進してくるミカエルの股の下を通り抜けた
彼女を捕り逃したミカエルは止まることができず、廊下を進む
その先に、何か異質なものが見える
それは廊下の壁に生えているような植物が群生しており、腐敗臭が強く充満している
そのままミカエルは群生地に突撃してしまう
いくつかはその巨体に潰れてしまったが、ミカエルが群生地に入っていたことにより植物の触手が彼の体を雁字搦めに捕まえる
ミカエルはなんとか抜け出そうと触手を引き千切るも、千切るよりも早く、多くの触手が絡み付いてくる
脚のエンジンもオーバーヒートを起こし、先程までの高速移動もできなくなってしまった
彼が触手を千切り続けると、上から何か黄色い液体が滴り落ちてきた
その液体がミカエルの右手首に落ち、伝う…すると彼の機械の右手はいとも簡単に溶け落ちた
「…!」
ミカエルは咄嗟に上を見た
そこには、ハエトリグサに似た植物が口のような双葉を開いて、涎の如く粘液を溢している
ミカエルの右手を溶かし落としたのはその粘液であり、彼を捕える触手は双葉の内側から生えている
「肉の味」、と呼ばれるアブノーマリティの詳細を彼は知らない
それでも直感的に、これが自分を捕食しようとしていることを理解してしまう
「あぁ……魔女様、魔女様
貴方様の威光よ、都市を照らしたまえ…!」
触手が彼の体を双葉の中へ運び、粘液がその鉄の体を溶かしていく
「…神、よ…」
双葉がゆっくりと閉じ、彼の上半身を飲み込んだ
「…」
肉の味に食われていくミカエルを見届けた後、イナは踵を返す
少し離れた廊下の隅では、ドユンが身を縮こまらせている
「逃げるように言ったのに、言うことを聞いてくれない困った人ですね」
「…あんな怪物を倒してしまうなんて」
イナの微笑みを見て怯えから一転、安心したようにドユンは小さく溢す
その言葉に、イナは首を横に振る
「いいえ、彼は怪物ではありません
縋るものが必要な、人間ですよ」
ミカエルの最後の言葉を聞き届けたイナは、ひとまず安全を確保するためにドユンと共に地上に脱出しようと彼の近くへと歩み寄る
しかし
「これは想定外でした…まさかミカエル様が死んでしまわれるなんて」
イナの体は横に吹き飛んでいく
何者かに蹴られたことを瞬時に理解し身を捩って着地する
「ですが手負の古型を制圧するなど、最新型の私にとっては造作もないことです」
そこに現れたのはこの支部のレインであり、先程持っていた剣と、槍型のE.G.Oを携えている
「随分大人気ないですね、両腕の使えない相手に両刀とは」
「慈悲や慢心は自身の破滅に繋がります
ドユン様が本命ですが、貴方も連れ帰ればきっと母様はお喜びになられるでしょう」
レインとイナ、同じクローンとして生まれた存在…しかし、先程のミカエルと違い今回は確実にイナの分が悪い
泣く死体の尾、ミカエルの連戦で体力も消耗しており、両腕は使用できない
更には初期型のイナよりもあのレインは最新型なだけあり、基礎スペックも高く標準設定されているであろう
イナの予測は正にと言わんばかりに当たっている
レインはイナの元へ瞬く間に詰め寄り、その小さな体躯を再び蹴り飛ばそうとする
間一髪で蹴りは避けられたものの、その先に槍の柄が軌道を描き迫ってくる
間合いの長い槍、その柄はイナの横腹に直撃しイナの体は吹き飛ばされる
廊下の壁に叩きつけられ、イナはそのまま倒れ伏した
「ゴホッ」
内臓が少し潰されたのだろう、赤黒い血が喉の奥から込み上げてきては吐き出される
レインは一瞬の隙も許さず、イナの元へと迫る
そして槍の刃でイナの右肩を貫き、床に固定させる
「あッ!ぐ、ぅ…!」
「呆気ないものですね
所詮は初期型、この程度…」
そしてもう片方に持つ剣をイナの腹目掛けて振り下ろそうとした
しかしその剣を持つ腕は、黒い蛇により噛み付かれ阻まれる
「む…無二…」
「貴方は、本社からロストした無の世界蛇ですね」
「小童を連れて行かせはせんぞ!」
無二はそのまま黒い体を肥大化していき、噛み付いたレインの右腕を噛み千切った
大量の血が吹き出ては、レインも咄嗟に距離を取った
「出血多量…ですがこの程度は問題ありません
ALEPH…いえ、その出力だとHE以下でしょう
対象の討伐に移ります」
レインと無二の戦闘が始まるも、やはりレインが押していた
無二は廊下内で動けるだけのサイズにしかなれず、レインは素早く動き回る為狙いを定めにくい
倒れているイナを巻き込まないよう、攻撃されないよう守ることしか出来ない
そんな光景を遠くで見つめるドユンは、逃げたい気持ちでいっぱいだった
今ならきっと逃げられる、自分は恐らく助かるかもしれない
それでも足が動かなかった
否、動いていた
しかしその方向は出口に繋がるエレベーターなどではなく、腐敗臭が強く香ってくる廊下の先…
機械の体を貪る、肉食草の元へと
「…!」
そのドユンの行動にいち早く気がついたのはレインだった
何をするつもりなのか、と一瞬判断が鈍った
その一拍の瞬間に、無二は尾を使ってレインの体を叩き飛ばした
レインは吹き飛ばされながらも体勢を変え最小のダメージで着地する
そしてドユンの方を視認し、呼び掛ける
「ドユン様、何を為さるおつもりですか」
その呼び掛けにドユンは振り返る
肉の味までの距離は、凡そ五歩
「…イナにこれ以上手を出してみろ
……わ、儂は…儂はこいつの腹の中に飛び込むぞ!」
「な…なん、ですって」
「…ドユン…様」
彼の行動に、イナもレインも誰もが驚いたことだろう
小心者で保守的、己の身可愛さから守られ続けている男
この短期間の間でも、イナはそういう人柄なんだと思っていた
それ自体は何も間違ってはいない
確かにドユンは逃げようとした、しかし彼は…出会ってしまった
自分の為ではなく、誰かを守る為に身を削ってまで戦う、星のような子供に
「ドユン様…逃げて、ください」
「そうはいくか!おいレイン!儂と約束しろ!いや、契約しろ!
それ以上その娘を傷付けたり、連れて行こうとすれば儂は先も言った通りこのアブノーマリティに突っ込んでやるぞ!」
「…気でも触れましたか
そんなことをする前に私が貴方を捕える方が…」
「動くでない!!」
ドユンの声に、レインは動きを止める
いや、止めさせられた
蛇に睨まれた蛙のように、四肢が硬直して動かなくなってしまった
頭を動かし背後を見ると、今にも消えかけな無二がその赤い瞳をレインへと向けている
「お前がイナや儂に危害を加えようとすれば、儂はここに突っ込む
しかし…イナを見逃せば、儂はお前達に連行されてやる
損害を取り戻す為には、少しでも儂の肉体を五体満足に連れ帰った方が良いだろう?」
ドユンが後退る、肉の味の群生地まであと三歩といったところだろう
「…そんな脅しが通用すると思っているんですか」
「貴様程の実力者なら本当に通用しないのであればそう問うこともないのではないか?
言っておくがハッタリではないぞ、本当に儂はこやつの口の中に飛び込むからな!
あと、儂を確保した後にイナに手を出すのもいかんからな!!」
「…」
レインは思考する
もし、本当に、ドユンが死ぬつもりならば
巨額の損害の元すらとれず母に失望されてしまうだろう
生存よりも母に失望される方が、レインシリーズにとって何よりも絶望的なのだ
あの肉の味の腹の中に飛び込まれてしまえば、ドユンの肉体は腐敗し溶かされ跡形もなくなってしまうであろう
レインがウツボのような腹を裂いて引きずり出したところでその肉片は何割残るかわからない
しかし、イナを見逃せばドユンは一切の傷もなく母の元へ献上できる
本来の目的を忘れてはならない
「……わかりました」
3秒ほどの熟考の末、レインは持っていた剣を手放した
それを確認した無二は蛇睨みを解き、レインを警戒したまま見守る
「…無二…ドユン、を…」
「ならぬ、小童
あの愚鈍な男が貴様を守る為に漢気を見せたのだ
それに、貴様も相当消耗している、故に妾も今は形を維持するだけで精一杯なのだ」
レインはドユンの元まで歩み寄り、所持していた拘束具でドユンを後ろ手に拘束する
「絶対にイナには手出しをするなよ、アレは儂が見初めた良い女だ」
「わかっています、今は貴方を本部へ輸送することが最重要ですから」
そのまま、二人はエレベーターへと向かっていく
「ど、ドユン…待ってください、貴方、自分がどうなるかわかってるんですか…!さっき教えましたよね…なのに…私なんかの為に」
「わかっておるわい、ツケが回ってきたのだ
しかし、なぁ…」
ドユンは逃げ出そうとしたのは確かだった
苦痛や死への恐怖は確かに存在していた
それでも尚、逃げ出さずにいたのは
「イナ、自分を卑下するでない
「なんか」ではない、お前は確かに儂の目には眩い綺羅星に輝いておった
儂は道を、道理を踏み外した…都市にはそんな人間がごまんといる
子供達に顔向けできないくらいにな
そんな儂にも、お前は守ろうとしてくれた
…ありがとう」
彼を守ろうと懸命に戦った少女
その存在は、薄汚れた自分よりもこの都市には必要なのだろうと思ったからだ
「協会の方には話を通してもらえるように伝えておく
お前は誰かを守る時、助ける時に強く輝く
儂はそんなお前の輝きを独占するより…その強さで他の多くの者達を救ってくれ
…おっと、最後にひとつ頼まれてくれんか」
ドユンはイナへ向かって、恐怖をひたすら噛み殺すように笑った
「施設の子供達を、頼みたい
時々一緒に遊んでやって欲しい
報酬なぞ何も出せんが…この通りだ」
イナに願いを伝え、頭を下げるドユン
その姿を、イナはひたすら目に焼き付けた
「行きますよ、ドユン様」
「あぁ…」
二人はエレベーターに乗り込み、扉はゆっくりと閉じていく
イナは神経が焼けた左腕を必死に持ち上げ、その背中へと手を伸ばす
しかしその手が届くことは無い
エレベーターの扉は完全に閉じ、彼らは地上へと向かっていった