この星が生んだ最も勇敢で最も不運な宇宙飛行士ジャミラへ
これは架空の物語ではない。すべて科学特捜隊パリ本部に勤務していた私、アラン・ビロッツが実際に体験した真実の物語である。
私は✕✕✕✕年✕月✕日にパリ市内の病院で生まれた。生まれた時は体重が少し足りず、ガラスの容器に入れられて父も母もとても心配したと聞いている。
以来、私は、もちろん観光や出張で他の街や国を訪れたことはあるが、基本的に生まれてこの方、パリに住み続け、転居を伴う移動、いわゆる引っ越しを経験したのは学生時代、日本に留学した時の一回だけである。
すなわち、私は生まれも育ちもパリであり、生まれながらのパリっ子である。
パリは「花の都」と呼ばれ、世界中の人々が憧れている街である。毎年、何百万もの人が観光や留学で訪れている。芸術やファッションや料理を学ぶためにパリを訪れる外国人の数は知れない。それこそ全世界からやってくる。そしてフランス帰りだということが母国で何らかのステイタスを生み出すのだ。
フランス国内、あるいはパリ市内にいるとそうは感じないが、国外に出るとそのことを強く実感する。特にアジアではフランス人でいることそれ自体が既におしゃれなことであり、パリっ子は他の民族より一段上の芸術性、ファッションセンスあるいは舌を持っていると誤解されている。
しかし、「花の都」の名にふさわしいのはパリの一面に過ぎない。もちろん、シャンゼリゼ通りやコンコルド広場、セーヌ川の畔など、そこに何年住んでいても美しいと思える風景がパリにはある。その一方で、スラム街、貧民街があることもまた事実なのである。
フランスは先進国の中では貧富の差が激しい方の国だと思う。なぜなら、フランスはかつて植民地を支配してきたからである。植民地を持っていたので旧植民地からの移民をフランスは受け入れる義務がある。その宗主国が担う義務は植民地支配の歴史が気の遠くなるほどの過去の話となってしまっていても解除されない。
フランスはアメリカのような移民国家ではない。しかし、旧植民地から移り住んできた、独自の文化や宗教を持つ人々も暮らしている。彼らは都市部に集中し、また大抵が貧しい。そういう貧しい人たちはパリ市内に点在することなく、ある特定の地域に集まって暮らし、貧民街を作る。
貧しい人たちがいるということはパリの美しさとは相対立するものである。パリは世間で思われているよりも公衆衛生は貧困であり、治安も悪い。私は良くも悪くもこの街で何十年も暮らしている。
このようにパリは二面性を持つ街ではあるが、私はパリが大好きだ。
私はこの街で、警察官の家系に生まれ育った。父が警察官なのはもちろんのこと、父の父も、そのまた父も、何代遡っても警察官だった。ビロッツの家系ははるか昔の代から決して良いとは言えないパリの治安を守ってきたのであり、そのことを私は小さい頃から誇りに思っていた。
だから父も私が将来、警察官になると考えていて、私も、後述するように、少年時代、一瞬だけ宇宙飛行士になろうと思ったことはあるが、基本的には警察官以外の職業に就くことは考えていなかった。
私はパリ市内にある警察官の家族が住む官舎で暮らしていた。もちろん、近所の人は同じく警察官の家族であり、同じ警察一家として家族同然の付き合いをしていた。
家同士が親しくしているから、幼い私にとっては自分の家と他人の家の境界があいまいで、さらに子どもは遠慮がないから、全部自分の家のような気持ちで過ごしていた。
後年、私が随分大人になってから、当時、隣に住んでいたマダムに聞かされたエピソードがある。
ある夏の暑い日、そのマダムが台所でガサゴソと何やら音がするのに気が付き、ネズミにしては大き過ぎるし、警察官の官舎にまさか泥棒は入るまいと思い、忍び足で台所を覗き込んだところ、遊び疲れた私が冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを飲みながらピクルスをポリポリと食べていたそうである。そのマダムはその光景を見て吹き出してしまったという。
官舎は古くて狭くて決して居心地の良いところではなかったが、両親の愛に包まれそれはとても安心できる時間であり空間だった。
父は厳しい人だった。そして今でも厳しいままである。母は優しい人だった。そして美しい人だった。私の記憶の中ではその美しいままの姿しか残っていない。
父は警察官だが、母は父が担当したとある事件の被害者だったと聞いている。詳しい話は知らない。どのような事件だったのか、母の口からはもう聞くことができないし、父の口からも聞いてはいない。本人もあまり語りたくない過去なのだろう。父が長い旅に出た後、父の残していったものを整理する中で知らなければ良かった真相を私は知ることになるのかもしれない。
そしてその、なんらかの事件を通して二人は知り合い、愛し合い、結ばれ、そして私が生まれた。
我が家はどこにでもあるフランスの中流家庭であった。父が外で働き、母は暖かい夕食を用意して帰宅を待つ。そんな当たり前の風景がそこにはあった。
しかし、私の生活は私が生まれてから何年かすると変化を見せ始め、次第にただの中流家庭では済まなくなってくる。
正確な年齢はもはや記憶してはいないが、四歳か五歳の頃から私は日本のアニメに興味を持つようになった。ケーブルテレビで観たり、母にレンタルしてもらったりして熱心に見た。母も一緒に見ていたから、本当は、好きだったのは母で、私は最初のうちは、ただ付き合わされていただけなのかもしれない。大の大人がアニメなどを見るのは気恥ずかしいが、子どもが見ると言えば言い訳になるし、厳しい父もうるさくは言わないだろう。事実、うるさくは言わなかった。
特に、日本人の少女達が軍服に身を包み、悪を倒すアニメは母共々熱心に見たし、私の方が夢中になった。
にわかには信じがたいかもしれないが、日本の中学生、高校生の多くは軍服に身を包んで学校に通っている。日本は第二次世界大戦に敗北、武装解除し、もはや軍事教練などは過去の遺物と化しているはずなのに、軍隊と最も遠いところにあるべき教育の場で軍人の格好があたり前の日常として存在しているのである。今でも。
それでも男子が軍服をモチーフとした制服に身を包み、学校に通っているというのであればまだ理解できない話ではない。軍隊は歴史的に男によって支えられてきた組織だ。伝統というものはそうそうすぐには変えられるものではない。それこそ気が遠くなるような時間が求められる。
理解が難しいのは、女子が軍服をモチーフとした制服に身を包んでいることである。男子が陸軍の軍服をモチーフとしているのに対し、女子は海軍の軍服、それも士官ではなく、下級水兵の軍服をモチーフとした制服に身を包み、学校に通っている。
私も日本留学時代に現物を目にしたことがあるが、集団で歩く姿はなかなか圧巻である。すれ違いざまに思わず敬礼してしまいそうになる。
もっとも近年は軍服からビジネススーツをモチーフにした制服にトレンドは移りつつあり、公立の学校ではむしろ軍服をモチーフとした制服は少なくなっていて、ネクタイを締めた中学生、高校生が増えていると聞く。日本人のマインドも軍事大国から経済大国に移行したということだろうか。
話が随分と逸れてしまったが、日本のアニメでその軍服をモチーフとした制服に身を包み、悪と戦う女子中学生の物語があり、幼い私はそのアニメに完全にはまってしまった。
主人公の変身シーンや悪と戦うときのポーズをとっての決めゼリフ「月の名前においてあなたを処罰します」(訳注:「月に代わってお仕置きを」の意味だと思われる)にゾクッとしたりした。
このアニメは女子向きの作品だったようで、そんなアニメに夢中になっている私を見て同じ官舎に住む他の幼馴染は「女の子のようだ」とからかったものだった。そう言いながらも一緒に見ることは拒否しなかったが。
そんなアニメに魅せられた私は、いつか日本に行きたいと考えるようになった。観光も良いが、できれば留学や日本勤務のように少し腰を据えてゆっくり遊びたい。どうすればそれが実現できるか、幼い頭は幼いなりに考えて、大人になった今でも良いと考えるあるアイデアを思い付いた。柔道を学び、留学を口実にすれば日本に行かれるのではないかと考えたのである。
父は私を将来警察官にしようとしていたので、小さい頃から私の身体を鍛えようと考えていた。その際、父はどうやって身体を鍛えたいか私の意見を求めたので、私は迷うことなく「柔道」と答えた。いや、迷うことなくはいささか言い過ぎか。剣道や空手、あるいは合気道も私の頭の中では候補になってはいたが、最終的に柔道を選ぶこととなった。
その理由の一つは国内における競技人口の大きさである。柔道はフランスではメジャーなスポーツである。競技人口はおそらく本家である日本よりも多いのではないだろうか。フランスに限らず、柔道は広くヨーロッパで親しまれているスポーツであり、だからヨーロッパ選手権も開催されているし、オリンピックの種目にもなっているのである。
空手はオリンピックの種目になってはいるが、フランス国内では柔道ほどには普及していない。フランス人は剣道よりはフェンシングの方に興味を持っているから剣道を学ぼうとすると道場を探すのが大変である。合気道は試合がないので余程の日本マニアでなければ興味を持たないようである。
柔道をやりたいと思った最大の理由はやはり日本のアニメの影響である。私は、随分と古い作品であったが、柔道をテーマとした、スポーツ精神論と呼ばれるジャンル(訳注:「スポーツ根性物」のことと解される)のアニメも見ていた。
柔道で強くなり、フランス代表にでもなればそれこそ日本にも頻繁に行かれるだろう。日本文化に興味を持つことも不自然ではないし、日本のアニメを見たり、女の子向けのキャラクターグッズを身に着けていても言い訳できるかもしれない。
道場は比較的近くにあった。私は警察官の子どもということもあり、フランス警察パリ第〇〇分署の道場で開かれていた稽古に参加する資格が与えられており、というよりも参加する義務が課されており、同じく警察官の息子である幼馴染と共に熱心に通ったものである。他の友達はいやいや参加していたが、私は結構、真剣だった。
アニメと柔道、奇しくも同じ日本文化に私は熱中した。
小学校に入学し、文字を覚え始めると、私は日本語も覚えるようになった。別に先生について勉強したわけではない。しかし、子供向けの、例えばネコ型ロボットが登場するアニメなどは字幕もなく、吹替もなしで理解できたものである。
パリでの生活は何もかもが平和そのものに見えたが、その日は何の前触れもなく突然にやって来た。
その日もいつもと同じ何の変哲もない日常のはずであった。もし、何か違いがあるとするならば、私が珍しく忘れ物をしたことである。
もっともこの忘れ物が私の命を救うことになるのだが。
いつものように学校を終えた小学一年生の私は、一度帰宅し、柔道着と汗拭き用のタオル、スポーツドリンクの入ったボトルを持ってフランス警察パリ第〇〇分署の道場に向かった。
パリ第〇〇分署の立派な柔道場では学校が放課後となるこの時間、子ども達を対象とした柔道教室が開かれていた。警察の地域貢献活動の一環の一つであるが、この柔道教室は厳しいことで有名で、何よりも高齢の師範がとても厳しい人で、子ども達の人気は今一つだった。そのため、私のような警察官の子ども達が強制的に参加させられていたのである。
私はその日、いつものように稽古を終え、いつものように帰宅した。
帰宅すると私は洗濯のため柔道着をバッグごと母に預け、自分のテレビでアニメを見ようと自室に入った。しかし、次の瞬間、母の咎めるような声が聞こえ、母のところに急いで戻った。
「アラン。帯はどうしたの?」
私が渡した洗濯物を確認しながら、普段、温厚な母が珍しく私を詰問した。
「帯?バッグの中にないの?」
「ないから聞いているのよ」
私もバッグの中を確認したが、確かにそこには帯はなかった。ウッカリしていたが、もし、バッグの中にないのであれば道場のロッカーに置き忘れたのだろう。
普段、私は柔道着に大変敬意を払っているので、キチンとたたみ、帯で縛ってからバッグに入れる。だから帯をどこかに置き忘れるということは通常ない。
しかし、この日は、もう今では思い出せない理由で帰宅を急いでおり、柔道着の上下を無造作にバッグに突っ込んだ。だから帯をロッカーに忘れたのだ。
「忘れたかも。取って来る」
「なくしたのでなければ明日でも良いよ」
優しい母は言ったが、僕はもう出かけようと玄関に向かっていた。
確かに明日でも良かったのかもしれなかったが、もし道場に置き忘れてしまっていたら師範に怒られてしまう。師範は厳しい人で、こういう忘れ物のような失態が見つかったら長い説教を受けるのが常なのだ。
広い道場に正座をして向かい合い、日本人の精神論などを延々と説教する。既に何回かその経験を持っていた私は、今すぐに道場に引き返し、師範に見つからないうちに帯を回収できれば師範の長い説教を避けることができる、そう考え、止める母には返事をすることもなく、家を出て再び道場に向かった。
師範に見つからないように帯を回収しようという私の目論見は見事に外れた。
師範は私の帯を既に回収し、忘れ物を取りに来る私のことを待っていたのだった。
時間は夕方で、ちょうど子ども達の稽古が終わり、勤務を終えた警察官の稽古が始まるまでのインターミッションであり、師範と私は広い道場の端に正座して向かい合い、私は師範の長い説教にさらされることになった。
「帯を忘れるとは何事だ。帯は柔道家の魂だぞ!」
師範はそんなことを言って私を叱責していた。師範は日本の道場で修行していたこともあるおじいさんでとにかく厳しいことで有名だった。このパリ第〇〇分署の署長もその師範の弟子であり、頭が上がらなかった。
師範は日本人の精神論などを長々と講じていたが、私は師範の説教は上の空で、今、この時間見るはずだったアニメのことを夢想した。ただ、今思うと師範は私にとって命の恩人である。この長い説教のせいで私は命拾いしたのだから。
どのくらい師範の説教が続いていただろうか、突然、外で爆発音が鳴り響いた。道場のガラス窓がビリビリと震えた。
師範は突然の大音量に説教を中断し、窓に駆け寄った。私も師範につられて窓に向かった。
二人で窓の外を見たが、爆発音の正体が何か、すぐには分からなかった。窓の外の色々な方向を見ているうちにパリの夕日に黒煙が立ち上がっている光景が見えた。私の家の方角だった。
「僕の家の方です。ちょっと見てきます」
私がそう言うと、師範もついてきた。
二人は夕方のパリの街を走った。その時、私には胸騒ぎとか嫌な予感はまったくなかった。むしろ師範の説教を逃れることができて助かったとすら思っていた。
師範と私は夕日に向かって走っていた。夕焼けに黒い煙が立ち上っていて、何かとても幻想的な光景だった。美しいとすら思った。ずっとこの景色を眺めていたいと思った。
しかし、爆発現場に辿り着いた時、私はあり得ない光景を目にすることになる。
爆発の現場は私の住んでいる官舎であり、建物は半壊しており、私の家族の住む辺りは粉々に粉砕され、原形をとどめていなかった。周囲には油のにおいが充満していて、その臭いは今でも私の脳裏に焼き付いている。
すぐに非常線が張られ、救急車や消防車や警察車両がやって来た。私は師範と一緒に母を探そうとしたが、がれきの山を目の前に何もすることができなかった。母が買い物かどこかに出かけていることを祈ったが、母は現れなかった。
そのうち父がやって来て私を抱きしめ、言葉を掛けてから捜査に戻っていった。その後、その日の夜がどのように更けて行ったのか、私はもう思い出すことができない。私はその日、警察署に泊まり、それから数日はパリ市内にある父の知人の家に身を寄せていた。
母が無事でないことは明らかだったが、遺体すら発見されなかった。他の住人は何らかの怪我を負い、市内の病院に収容されていたものの、生存は確認されていた。母の遺体が発見されたことを知ったのはさらに数日後のことである。
私は母の遺体と対面することはできなかった。恐らく子どもには見せられないほど痛んでいたのだろう。
振り返ると爆発は爆弾テロにしては小規模なもので、死者一名と重軽症者が数名出たに過ぎなかった。世界中で日常的に発生している爆弾テロ事件に比較すると明らかに小規模であり、マスコミの取り扱いも決して大きくはなかった。世界のどこにでもある警察関連施設を狙った無差別テロ事件として片付けられた。犯行声明もあり、犯行組織も分かっている。
しかし、その一名の死者は私の母であり、私は小学一年生にして母を失い、私は父一人子一人の生活になってしまったのである。
そして私の運命が狂い始める。