ジャミラがいなくなってからの私の人生はありきたりのつまらないものだったのか、あるいは波乱万丈に満ちたものだったのか、順風満帆だったのか、逆風での航海だったのか、充実したものだったのか、空虚なものだったのか、私には分からない。恐らくそれはこの物語を読む歴史家が判断することなのだろう。
ジャミラを失った私はどちらかというと内向的な少年になった。幼馴染とはつるんで遊びに行くこともあったが、積極的に新しい友達を作ることはなく、声を掛けられれば返事をする程度の付き合いをした。友達と呼べる存在はいたし、誘われれば遊びにも行ったが、自分からは誘うことも企画することもなかった。
柔道をする以外は家に一人でいることが多くなり、必然的に日本のアニメを見て過ごす時間が長くなった。そのため日本語の能力は格段に向上し、高校生の頃には日本大使館主催の日本語弁論大会で優勝するまでになった。日本に行きたい気持ちはより強くなった。
柔道の方もメキメキと力をつけたが、こちらはジャミラのようにヨーロッパチャンピオンとはいかなかった。フランス国内の大会では第三位になったこともあるのでそれなりの実力だったとは思う。しかし、それが頂点であり、フランス代表になるレベルではなかった。もっともパリの警察署の道場では無敵であり、高校生の時には既にフランス警察の屈強な警察官と互角、あるいはそれ以上のレベルだった。
高校生が終わりに近づくと進路の問題に直面する。私はジャミラへのあこがれがあったのでロケット工学を専攻し、宇宙飛行士の道を進もうかと一瞬思ったが、すぐにそれは諦めて、既に敷かれているレール、すなわち警察官への道を歩むべき法社会学を専門とすることとなり、大学に進んだ。
少年の頃、宇宙飛行士を夢見ていたのは事実である。小さい子どもに将来なりたい職業のアンケートを取ると、恐らく芸能人やプロスポーツ選手が上位を占めるのだろうが、警察官や宇宙飛行士も上位に食い込むだろう。それ程、警察官や宇宙飛行士は、特に男の子にとっては憧れの職業である。これはテレビドラマや映画、あるいは小説で警察官や宇宙飛行士が活躍する物語の影響を強く受けているのだろうと推察する。
しかし、実際に働いている警察官と宇宙飛行士を比較するとその差は歴然である。
宇宙飛行士を職業としている人は指を折って数えられるくらいだ。一方、警察官はそれこそフランス国内だけでも何万人といる。宇宙飛行士を職業とすることがいかに困難なことかは少し年齢を重ねれば容易に分かることだ。
結局、宇宙飛行士をその職業とすることのできる人は明晰な頭脳と強靭な肉体を兼ね備えた一握りの人物、例えて言うならばロケット工学の博士号を持ち、柔道のヨーロッパチャンピオンでもあったジャミラのような人しかいないということだ。
私にはもう一つ、柔道を専門とする道もあるにはあった。事実、いくつかの体育系の大学からは誘いがあったし、父からフランス警察の柔道師範になることを勧められたこともある。しかし、これはかなり早い段階でそぎ落とされた。私はそれ程柔道が好きではなかったのだ。日本に留学するためのアイテムくらいにしか考えていなかった。
本当に柔道が好きでそればかりやっていればそれこそオリンピックのメダリストくらいにはなれたのかもしれない。特に熱心に稽古をした記憶はないのにパリでは無敵で、フランス全国大会でも三位に入ったのだから。
このように私の日本文化に対する興味の中心はアニメであって柔道ではなかった。
法社会学を専攻したのは単純に日本に留学するためである。テーマは日本の司法制度である。日本留学と警察官の二つを両立させるためにはこれ以外の専攻は考えられなかった。
日本に留学するためにはもちろん日本でしか勉強のできないことをテーマにしなければならない。かといって警察官になるためには日本史や日本文学、雅楽、日本画などでは駄目なのであり、必然的に日本の司法制度を研究の拠り所とすることとなった。
通常、留学する場合、留学は手段であって研究が目的なのだろう。しかし、私の場合は留学が目的であり、研究は手段に過ぎなかった。
大学でも私は学業と柔道に励み、四年生が終わる前には官費留学の資格を得ることができた。日本は諸外国と異なり、学暦が四月からスタートするので私は大学を四年生の三月に繰り上げ卒業した。そして、日本の最高学府である東京大学大学院修士課程に入学することとなり、パリを離れた。
日本での生活は素晴らしいものであった。異文化に触れるというのはこういうものかということを実感させられた。私が日本を訪問することにより、しかも、単なる観光のための短期間の滞在ではなく、二年間もの間どっしりと腰を据えて勉学に励んだことにより私の国際感覚は確実に研ぎ澄まされた。
その国際感覚は後年、国際科学警察機構で勤務する際、特に対宇宙人との交渉の際にも大いに役立った。
日本でまず驚かされたのは、国際空港から都心へ向かう電車の中での出来事だった。東京は国際空港が東京ではなく隣の県のしかも都市部からは大きく離れたところにある。そのため、空港アクセスは悪く、都心から最速でも一時間くらいかかってしまう。国際空港に降り立った私は空港アクセスの中でも便利の範疇に入れられている急行電車で都心を目指した。
事件は私がそのアクセス急行を降りる東京駅に到着する直前に起こった。私の乗ったアクセス急行は東京駅への到着が一分遅れてしまっていたのだ。そんな一分の延着など、指摘されても気付けないものである。ところがそのアクセス急行の車掌はその一分の延着を、車内放送を通して公式に謝罪したのだ。
私は乗り合わせたアクセス急行の車掌がたまたま奇特な人物なのだとその時は思ったものだ。しかし、同様の謝罪は他の電車でも繰り返し行われたのである。
それだけではなかった。私はある日、東京教育大学(訳注:原文のママ。ビロッツ氏が日本に留学していた頃、既に東京教育大学は筑波大学になっているはずで、東京教育大学という表記は氏の誤解だと考えられる。)のあるつくば市に行く用事があり、秋葉原駅をターミナル駅とするつくばエクスプレスに乗車した。そしてそのつくばエクスプレスがとある駅を二十秒早く発車してしまうという事件にも遭遇したのだ。もちろん、その電車がスケジュールよりもわずかに早く出発したことを知り得たのは車掌の公式な謝罪があったからである。日本人はこんなことでも公式に謝罪する民族なのだ。
このエピソードに限らず、日本の交通システムはバスも地下鉄もタクシーも、どれも素晴らしく、正確で、清潔で、快適なものばかりであった。ある人が日本の新幹線について、「新幹線は技術ではなく、システムだ」と話していたことがとても印象的だった。新幹線の技術はもちろんすばらしいけれども技術だけであの高速輸送システムは機能しない。何があっても列車を定時通りに動かそうとする鉄道員、短い停車時間の間に整然と乗り降りする乗客、投石などで列車の走行を妨害しない沿線住民、そういう人達の力が結集して、あの奇跡のようなメカニズムが生まれるのだ。
私は車内での延着に対する公式謝罪の件から来日当初、日本人は世界でも屈指の不寛容な民族かと思っていた。しかし、この私の考えもすぐに否定されることになる。事実、日本人は世界でも指折りの寛容性に満ち溢れた民族だったのである。
私はどこかに出かけて行って人に会うと必ず空腹かどうかを確認された。そして空腹だと答えると必ず食べるものが出てきたのである。もちろん正式な食事ということは少なく、大抵はスナックのような軽食であったが、どこに行っても、空腹だと言って食べるものが出てこないことはなかった。それはまるで魔法のようであった。
東京は美しい街でもあった。パリも表向きは美しいが、一歩、裏に入るとそこはゴミや浮浪者や犬の糞、果ては人糞までもが転がっている。ところが東京はスラム街ですらゴミのない清潔な街であった。
私は東京に滞在中、学友にスラム街を見に連れていってもらったことがある。スラム街は台東区というエリアにあった。確かにそのエリアは貧しいたたずまいではあった。しかし、そのエリアは一言で言って整然とした、清潔なエリアであった。そこで私は確信した。日本という国はありとあらゆる場所が秩序に満ちているのだ。
その象徴ともいえるのが渋谷駅前のスクランブル交差点だ。この東京を代表するターミナル駅の前で大勢の人々が、事前の打ち合わせなく、互いにぶつかることもなく、通常の歩行スピードで行き交うことができるのだ。それは芸術のレベルといってもあながち間違いではないだろう。
柔道は時々やった。それはこれまでのように本業に匹敵するほど熱心にというわけではなく、あくまでも趣味のレベルに過ぎなかった。
来日早々、大学院の研究室で「趣味は柔道」と自己紹介したところ(最初、アニメは隠していた)、そうであれば柔道部にと言われて東京大学の柔道部の練習に参加したことはあるが、これは全然話にならなかった。大学の柔道部にしては弱すぎた。後で確認したのだが、東京大学は文武両道というよりも文の方に偏った大学だった。
大学での稽古を諦めた私はフランス警察の伝手で警視庁の道場に足を運ぶようになった。これはまずまずのレベルで世界チャンピオンクラスの警察官もいた。
私は、前の世界選手権でジャミラを破った選手に会いたかった。そしてできることならばその選手と戦い、勝ちたかった。しかし、その選手は既に現役を退いており、東京から遠く離れたところにある大学で教鞭をとっているとのことであった。
柔道に対する熱意があれば、私はどんなに遠くであっても出稽古に行って、一回くらい投げ飛ばしてやるところであったが、既に柔道に対する熱意は失われていたので、その人とは会うこともなかった。
私は東京がすぐに好きになったが、秋葉原に行くのは少し躊躇していた。秋葉原はある特定の嗜好を持つ者の集まる街であり、秋葉原に遊びに行くと揶揄されるという噂を聞いていたからだ。
しかし、キャンパスのある本郷と秋葉原は歩いて移動できる距離にあり、秋葉原を遊び場にすることに対して時間はかからなかった。
最初、アニメを趣味としていることは隠していたが、学友たちとの会話から気が付かれないはずはなく、また、学友の中にはアニメ好きの学生もいたので、そういう学生とは熱心に話をするようになった。もっとも黙っていてもジャミラの形見である女子中学生戦士の定規を普段使っていたので早晩気付かれたことだろう。
秋葉原は素晴らしい街だった。アニメの専門店の充実ぶりは言うまでもなく、メイドが給仕をするカフェや和服を着た女性が膝枕で耳かきをするサービスなどもあった。
私は官費留学生の身分ゆえ、勉学にはもちろん励んだが、遊びにも手を抜かなかった。
その一方、東京で恋をすることはなかった。何人かの女性が近付いては来たが、深い仲になることはなかった。
私は背が高く、日本の最高学府である東京大学大学院で学んでいたこともあり、日本の女性にとってはモテるタイプの男性だったようである。フランス人であるということも対女性関係ではプラスに働いていた。日本の女性はフランス人をおしゃれな民族と考えているようであり、フランス人と付き合うこと自体が一つのステイタスと認識されているようであった。実際、宴会の場では私の周りに女性達が多く集まることが稀ではなかった。
そのうちの何人かとは懇意になり、二人きりでデートするということも何度かあった。私は日本語弁論大会で優勝するくらい日本語が達者なのでコミュニケーション上の問題は何もない。しかし、どの女性とも長続きすることはなかった。その原因が、私が普段使っている、水兵を模した制服に身を包んだ女子中学生の戦士が悪を倒すキャラクターの定規だということに気が付くのは随分先のことである。
日本では、フランスでもそうなのであるが、大の大人がアニメのキャラクターなどにうつつを抜かすのは恥ずべきことだという文化がある。私は変な嗜好を持つ大人ということで女性達に愛想を尽かされてしまったのである。
しかし、私は自分の嗜好を犠牲にしてまで女性と付き合いたいとは思わなかったので女性が去っていくことはまったく気にならなかった。何よりその定規はジャミラの形見であり、私にとっては大切な宝物なのだ。
アニメ好きの女性と付き合っていればあるいは長続きしたのかもしれないが、そういう女性とはなぜか縁がなかった。そういう意味では下宿先と本郷のキャンパスを往復する生活の中ではアニメ好きの女性が入り込む余地はそれほどなかったのかも知れない。
東京で日本人の女性と結ばれていれば、私の人生はまったく違ったものとなり、私は悩むことのない幸せな一生を送ったことだろう。しかし、私は修士課程の二年間が終了するとともに、フランスに帰国することになる。
あるいは日本人と恋に落ちても日本に留まることはなかったのかもしれない。
日本に留まるためにはこの先、日本人の男性と同じように生活しなければならない。それは自分には難しいように思われた。これは日本で生活して初めて気づいたことであるが、日本人の男性はそのビジネスキャリアの大部分を仕事に費やさなければならない。一方、日本人の女性はそのビジネスキャリアの大部分を仕事以外に費やさなければならない。
事実、私は法社会学が専門で日本の法廷を数多く見て回ったが、裁判官も検察官も弁護士もすべて男性というケースが大変に多かった(都市部の裁判官には女性もいたがそれすらも稀であった)。一方、フランスの法廷では裁判官も検察官も弁護士もすべて女性というケースが頻繁にある。
私は仕事を軽視するつもりはないがバカンスも普通に楽しみたい。日本人のように働き詰めの生活は、短期間ならばできるだろうが、死ぬまでやり続けたいとは思わない。
食事の問題もあった。日本の食事はどれも豪華で充実していたが私の口には合わなかった。ただし、日本産のワインは私の口に合った。今でも日本産のワインを取り寄せて飲んでいるくらいである。
いつまでも遊んでいられないことは分かっていた。社会人になる前の二年間、束の間の夢を見せてもらっていただけのことである。そして、再び東京の地を踏むときにもう一度夢を見ることになるが、それは残念ながら筆舌しがたいほどの悪夢だった。
フランスに帰国した私は当たり前のように警察官に任官した。あたかもそれは自然現象の様であった。
任官当初、私は他の大部分の警察官がそういう道を歩むように、制服を着て街の治安を守った。しかし、何年か制服勤務をしていると別のところから声がかかった。パリに本部を持つ国際科学警察機構に出向しないかという打診があったのだ。
理由は簡単だった。国際科学警察機構はもちろん国際機関であり、国際感覚のある職員を常に欲している。特にアジアの専門家が手薄であった。私は日本の最高学府で学んでいた希少な警察官であり、役に立つと思われたのだ。
そのときの私はまだ二十代であり、あまり深くは考えなかった。パリに本部を持つ国際機関であれば、地方勤務を逃れ、パリから離れないで済むのではないだろうかということくらいしか考えなかった。フランスは国土が広く、パリから遠く離れた遠隔地に勤務することもあり得ない話ではない。パリが大好きな私にとって、地方勤務は私の望むところではない。実際、携帯電話の電波が届かないようなところに派遣され、なかなか市街地に帰って来られない同僚を何人も知っていた。
出向先で何年か勤務するうち、私は国際科学警察機構の下部組織である科学特捜隊での勤務が長くなっていた。
科学特捜隊は一般の警察では解決困難な事件、怪獣の出現や宇宙からの侵略に対応するために作られた国際組織である。私はパリ本部を基本としながら、数年おきに海外の支部を見て回る生活をしていた。
国際科学警察機構のキャリアを積むうちにX国支部に出張する機会があった。
私がX国に足を踏み入れるのは初めてだった。本当はもっと早く訪問するべきだったのだが、機会に恵まれなかったのだ。私は出張中に休暇を取り、ジャミラの生まれ故郷を訪れた。
ジャミラの故郷は首都から急行列車で四時間ほどの離れた田舎町にあった。私は急行列車に揺られ、故郷のターミナル駅に降り立った。
故郷でジャミラは英雄だった。ターミナル駅の前にはジャミラの銅像が鎮座していた。
ジャミラの両親にも会いに行った。フランス留学中の下宿先の少年だった私を年老いたジャミラの両親は歓待してくれた。
私はジャミラの両親にお悔やみの言葉を述べ、形見分けしてくれたお礼を言い、お墓参りもさせてもらった。両親はジャミラのお蔭で年金をもらえ、不自由のない生活を送っていると言っていた。周囲の家よりも大きな家に住んでいた。そんな両親の姿を見て私は少し安心した。
ジャミラの両親に会ったことで私の中にあったジャミラに対するもやもやは解決されたような、ジャミラの死を受け入れられるような、そんな気がしていた。
私はその後、国際科学警察機構でのキャリアを確実に積み上げ、科学特捜隊パリ本部の副隊長格となった。