忘れ物に気が付いた穂乃果は、海未に向かって言うが早いか、駆け出していた。背中に向かって海未が何か言っていた気がしたが、穂乃果は構わず下駄箱で靴だけ脱ぐと上履きに履き替える事もなく、階段を駆け上がり2年生の教室がある2階へと向かった。
しんと静まり返った廊下に穂乃果の足音が響き、穂乃果はなんとなく高揚感を覚えた。当然だが、特に迷うこともなく教室にたどり着くと、自らの机の中から適当に折り畳まれた宿題のプリントを取り出して鞄に押し込むと足早に教室を後にした。
帰り際、廊下を歩いていると、穂乃果は遠くから聞こえてくる音に気がついた。
「なんだろう?」
穂乃果は音に惹き寄せられるようにして、校舎を進み、やがて音楽室の前までたどり着いた。
「ピアノ? 誰が引いてるんだろう」
静かな校内に室内から聞こえてくるピアノの音が響く様はさながら怪談話のようであったが、奏でられるピアノの音は怪談とはかけ離れた美しい音。
穂乃果はドア越しに音楽室の中を覗き込むと、ピアノを弾いている赤毛の少女が目に入った。
タイの色からして、学年は一年生のようであったが、ピアノを奏でる彼女からはどこか気品や大人っぽさが感じられた。
穂乃果は演奏が終わるまで少女から目を離すことが出来なかった。
☆
演奏を終えて「ふぅ……」と、息をつくと、どこからともなく向けられた視線を感じて、真姫は何となく入口に視線を向けた。
「うえぇぇ……」
思わず変な声を上げて驚いた真姫が目にしたのは、ドアの向こう側で拍手しながらキラキラとした瞳を向けてくる穂乃果の姿があったからだ。
いつから見られてたんだろう、とか、見られていることに気づけなかったことへの驚きもあったが、何よりも向けられる眼差しの圧力が今までとは違って見えたからだ。
祖父が製薬会社の会長で、両親が病院の院長という家庭に生まれた真姫にしてみれば、小さなころから
注目の中には賞賛もある。しかし、同時に多くの負の感情も含まれている。
そういった渦中に長く身を置いていると、いつの間にか無意識に向けられる視線の中に含まれる感情が段々とわかるようになっていた。
いま、穂乃果から向けられている視線は紛れもない純粋な賞賛。ここ最近、向けられなくなって久しいものだった。
「ま、それも今だけでしょうね」
多くの人が真姫の家の名前である『西木野』というフレーズを聞いた途端に態度が変わる。今回もきっと変らない。
そう思いつつ真姫は立ち上がると、入口の鍵を解除した。
☆
ピアノを演奏している真姫を見た瞬間に感じた胸の高まりは、演奏が終わっても続いていた。
溢れてくる感情を拍手という形でしか表現することが出来なかったが、穂乃果は目一杯の気持ちを表した。
そんな気持ちが伝わったのか、真姫は閉めていた入口の鍵を開けた。
「すごい!すごいよ!ピアノも上手だし、とってもかわいいし!」
鍵を開けてピアノへと戻っていく真姫に向けて、穂乃果は矢継ぎ早に告げると、真姫の前へと回り込んで両手で真姫の手を握って強引に握手した。
「私は高坂穂乃果! 一年生……だよね。お名前なんていうのかな?」
「えっと……」
「すっごくかわいいよね! アイドルみたい!」
手を握られたまま、聞いているんだかいないんだか分からない様子で真姫のことを褒めちぎる穂乃果に真姫は若干圧倒されながらも、自分の名前を告げた。
「西木野真姫ちゃん! 名前もかわいい!」
「あなたねぇ、私の名前を聞いてなんとも思わないの?」
「うん? 何も?」
本当に分からないといった様子の穂乃果に、まさかこの街に住んでいて自分の家のことを知らない人間がいたのかと驚かされた。
「西木野、西木野……あっ、そういえばおっきな病院も西木野さんだ! すごい偶然だね!」
「えぇ……」
そこまで思い出してなお、気づかないというのはいくらなんでもどうかしている。
「そこ私の家」
ぽかんとしている穂乃果を見ながら、これでこの子の態度も変わるだろうと思った。
「ええっ!? 真姫ちゃんどっか病気なの!?」
予想通り、確かに態度は変わった。真姫の想像とは斜め上の方向に。
「違うわよ! 私のパ……両親が経営してるって意味よ!」
先程までとは打って変わって心配そうな表情を浮かべる穂乃果の手をそっとほどきながら真姫は言った。
「なんだぁ、真姫ちゃんが病気じゃなくて良かったよぉ」
心底安心した様子で胸を撫で下ろす穂乃果。本当にさっきから表情がころころと変わっていく穂乃果に振り回され気味の真姫は完全にペースを乱されていた。
「これで、私が西木野の娘ってわかったんだからもういいでしょ?」
「ん、なにが?」
「なにがって、私はあの西木野の娘なのよ。あなただって噂くらい聞いたことくらいあるでしょ?」