☆
抱きしめられた温もりは驚きと、安心をもたらした。ふわりと漂うシャンプーの香り。包み込むようなピアノの音色と、繋がれた手を通して伝わる優しい温もり。ふわふわと宙に浮くような感覚がずっと続いていた。ぼんやりとこれが夢だと認識しながらも、心地よさに溺れていく。
水面に揺られる木の葉のように夢の中を漂っていると、突然、雷が降り注いだ。
ブレーカーが落ちたように世界が暗転し、暗く黒い闇が押し寄せてくる。
闇から逃れようと必死にもがいてみるが、身動き一つ取れず、やがて穂乃果は闇に飲み込まれた。
「……!?」
目を開けて真っ先に飛び込んできた赤毛の少女に、穂乃果は飛び掛かるように抱き着いた。
「ちょ、ちょっと!」
驚いて慌てふためく真姫を穂乃果はぐっと抱きしめる。最初は戸惑っていた真姫だったが、穂乃果の様子から何かを察して、その背中を優しく撫でた。
「大丈夫?」
「うん。ごめんね」
「なに? 怖い夢でも見たの?」
「うん。すごく、怖かった」
「演奏を聴いてる間、気持ち良さそうに寝てたみたいだったから起こさなかったんだけど、急にうなされ出したから起こそうとしたんだけど、逆に驚かせちゃったのかも」
「ううん。真姫ちゃんの所為じゃないよ」
穂乃果は抱きしめていた腕を緩めると、真姫から離れ、首をゆっくりと左右に振った。
「落ち着いたなら、そろそろ帰りましょう。もう、完全下校時刻過ぎてるわ」
「そうだね」
真姫はカバンを手に取ると、自然に穂乃果へと手を差し出した。
「ありがとう」
まだ曇りの残る笑顔を浮かべて、穂乃果は真姫の手を取った。
音楽室を出てしんとした廊下を歩いていく。二人の足音だけがやけに響く廊下を抜けて下駄箱へと向かう。完全下校時刻を過ぎた校舎には二人以外の姿はなく、世界にはもう二人しかいないかのようだ。
「一人で帰れる? まだ怖いなら送っていくわよ?」
途中、真姫の提案を穂乃果はやんわりと断って、穂乃果は一人、玄関を抜けて校門に向かって歩いていく。
「待って!」
背中を追って来た真姫の声で振り返ると、真姫はスマートフォンを穂乃果の方へと向けていた。
「連絡先交換しましょ、また怖い夢を見たらいつでもかけていいから」
「真姫ちゃん……ありがとう」
穂乃果もスマートフォンを取り出して、連絡先に真姫の登録を済ませると、大事そうにスマートフォンを胸に抱きしめた。
ふわりと真姫が穂乃果を優しく抱きしめた。
「夜中でもかけていいから」
耳元でそう告げて、真姫は唇の動きだけで「ごめんなさい」と穂乃果に言った。
☆
夕闇の中を一人歩いていく。
カラスの鳴き声を意識の片隅で聞きながら、穂乃果はぼんやりと考えていた。
怖い夢を見たーー。
闇に飲み込まれるあの瞬間は今でも鮮明に覚えている。
「真姫ちゃん、か」
スマートフォンに登録したばかりの名前を呟いて、穂乃果は息をついた。
真姫の奏でるピアノの音色はとても素敵だった。
必死で頑張れるものがあるということが羨ましかった。
穂乃果には打ち込めるものがなかった。どれも熱中しては直ぐに飽きてしまう自分が嫌いだった。
みんなのように一生懸命になれるものが欲しくて、色々なことに挑戦した。
だが、その度に途中で投げ出しては、次のことに目移りするを繰り返し続けた。
新しいことを始めれば、新しく人との繋がりが生まれる。
しかし、その繋がりは長くは続かない。穂乃果が投げ出すたびに、関係性は薄くなる。そうして、薄まっていく人間関係が増えていくにつれて穂乃果は怖くなっていた。
自分が物事を投げ出すように、いつか自分という人間が飽きられて投げ出されるのではないかという恐怖。自分には何もない。誰かと深く繋がれるものがない。
一人ぼっちは嫌だった。ずっと一緒にいてくれる海未やことりだっていつ穂乃果に飽きてしまうかわからない。これまで、穂乃果がそうしてきたようにーー。
いつからか、穂乃果は他人と深く付き合うことをやめた。薄い関係を続けている限り、飽きることも飽きられることもない。
勇者部のことも、そんな自分を変えたくて始めた事だった。自分の為には頑張れなくても、だれかのためなら頑張れる。そう思って穂乃果は勇者部を立ち上げた。
関係性を失う怖さと、踏み出す怖さの狭間にいた穂乃果の手を引いたのは、真姫の奏でるピアノだった。
あの優しい音色が、穂乃果の心にあった壁をすり抜けて沁み込んで、踏み出す怖さは消え去っていた。
「仲良くなれるかな……」
呟いて、改めて思い返すと、やっぱり思いは変わらなかった。
帰ったら真っ先にかけてみよう。と、心に決めて、家路を進む、穂乃果は真姫の奏でていたメロディを一人、口ずさんでいた。