木々のざわめきも、鳥の囀りも、街の音も全てが静止していた。
まるで時間そのものが凍りついたように、世界が、音が、鼓動が止まっていた。
世界が静止するのに一拍遅れて、海未のスマホが激しいメロディと共に震えだし、静寂に包まれていた海未の鼓動を揺さぶった。
鳴り響くスマホのメロディは不協和音を奏で、海未の心を激しくかき乱す。この音が意味するものを海未は知っていた。
遥か彼方では空に向かって夜が地平線から登っていく。夜が天に達すると、空は瞬く間に漆黒に染まり、次の瞬間には夜明けのような眩い光が差し込むと、鮮やかな碧の空へと変わっていった。
天上まで碧色に染まると、地平線から七色に輝くマグマが大地に向かって注ぎ込まれていく。色とりどりの花びらをまき散らして、七色のマグマが押し寄せてくる。
爆発のような閃光が瞬いて、海未は目を細めた。視界が真っ白に染まり、反射的に頭をかばうように手をかざす。
やがて、波が引くようにすっと光が収まると、そこは見慣れた風景ではなく、それどころか人の住む世界でさえない。
むしろ、変わることなく背後に建っている学院の校舎の方が、この世界では異質に見えた。
頭上に広がる空は、青ではなく碧。大地は七色の絵の具を闇雲にぶちまけたかのような色に染まり、カラフルな蔦と木の根が複雑に絡み合っていた。
「これが樹海ですか」
辺りを見回して、海未はそう呟いた。知識としては知っていたが、実際に見るのはこれが初めてだった。
イチョウや紅葉といった模様の木の根が大地を覆いつくし、その隙間からは無数の花びらが不思議なことに空へと舞い散っていく。
ひらひらと揺らぐたびに青く、碧く、赤く、色を変えて舞う花びらは、大地を覆う不気味な木の根とは対照的に美しく思えた。
ここは樹海と呼ばれる、学院の裏に聳え立つ大樹……『神樹』によって生み出された世界を保護するための結界のようなものだ。この樹海化した世界と本来の世界は隔絶されており、多少の事があっても現実世界への影響は最小限に抑えられるという仕組みだ。
見渡す限りの異色の風景の中に異形の姿を見つけて、海未はハッと息を飲んだ。
それは、理不尽で最悪を形どった神の使い。『バーテックス』と呼ばれる人類の天敵。
その姿を見た瞬間、海未の鼓動は痛いほどに早くなり、額からは嫌な汗が滲んでくる。胃の奥がきりきりと悲鳴を上げ、内容物が逆流しそうになった。
否が応にも脳裏に蘇る、六年前の記憶。
――姉さん。
幼い頃、海未の目の前でバーテックスに殺された姉の最後は今でも忘れることはできない。
あの時は無力だったが、今は違う。守られていた自分にも守りたい人が出来た。
海未はぐっと拳を一度握りしめて、気持ちを切り替えると、海未は制服のポケットからスマホを取り出して地図アプリをタップする。
地図アプリの画面には、園田海未と表示された光点と、もうひとつ大きな赤い点が表示され、赤い点の横には《多足型乙種》と表記されていた。
バーテックスには主に3つのカテゴリに分類され、上から『甲』『乙』『丙』となり、クラスによって大きさも能力も異なっている。
今回のバーテックスは『乙種』であるため、大型のバーテックスの中では真ん中のクラスということになるが、楽観的な気分にはなれなかった。
だが、今は迷っている時間さえ惜しい。相手がなんであれ海未の覚悟は決まっていた。
ホーム画面から画面をスライドし普段は使わないフォルダの奥の奥にしまい込んだ紫陽花のアイコンを表示させると、海未はそのアイコンをタップしてアプリを起動した。