つい先ほど視界に入り込んで来た雲が、視界の外に消えてなくなるまでの間、護(まもる)はその光景をぼんやりと見ていた。
そこは護の特等席だから、誰もやってくることはない。そこは物音ひとつ届かない静寂の世界だった。
護はこの場所が好きだった。世界が消えてなくなるから。
しかし、時は移り変わり続ける。目の前の雲が形を変え、やがて空の色が変わり、あかね色の光をもたらしたとき、護がこの世界を離れるときだった。
なんの変哲もない学校の屋上。しかし、護にとって、世界が消える場所。あらゆるわずらわしさから解放される場所だった。
この屋上は立ち入り禁止になっているから、誰も入って来ない。
入ってきても、屋上のドアは完全に閉じられていて、内側からも外側からも開くことはできない。
この世界に入り込むことが可能な唯一の通り道は、小さな窓1つだけだった。すでに古くなり、蜘蛛の巣まみれになったその窓だけがこの世界と外界をつなぐ境界線だ。
この窓は少し高いところにあるから、それなりに運動神経が優れていなければ通り抜けることができない。
何か足場を用意すればその関門を潜り抜けることはできるかもしれないが、わざわざそんなことをするもの好きは一人もいなかった。
護は境界線を渡り、外界に戻ろうと、例の窓の前にやってきた。
見上げると、そこには窓が1つ。
しかし――今日はこれまでには見えなかったものが見えた。
その窓から、少女が一人顔を出していた。
護はしばらくその少女の顔を見ていた。とても儚い顔つきの少女だった。幽霊だと言われたら納得できるほどに、生者のオーラを感じなかった。
「あの、助けてください」
「……」
「スカートが挟まってしまって動けなくなってしまったのです。どうすればいいでしょうか?」
「……」
少女は困った様子でそう言ってきたが、護はその言葉を意識することなく、少女の様子を見ていた。
「あの、思い切ってそっちに飛び込もうと思うのですが、受け止めてくれますか?」
「ダメだ」
護はようやく答えた。
「まずは経緯を話せ。なぜ、そんなところで挟まっている?」
「それはいい質問です」
少女は苦笑した。
「担任の先生のさっちゃんに日花護(ひばなまもる)君がここにいると聞いたので、挨拶しようとここにやってきたのです」
少女は自分が困っている存在だということも忘れて、長々と自分がそうなった理由を話し始めた。どこか不思議な趣きのある少女だった。
「ですが、扉は開きませんでした。そこで、教室に戻って椅子を持ってきて、この窓を開いて身を乗り出したのです。すると、スカートが挟まってしまってどうしていいかわからなくなったのです」
「そうか、それは災難だったな」
護は淡々と述べた。
「あのう、そちらに日花護君という方はおられますか?」
「いない」
「いないのですか。それは困ってしまいました。せっかく挨拶に来たというのに」
「日花護はさっき屋上から飛び降りて死んだ。あきらめな」
「まあ、死んでしまわれたのですか? それならば、お祈りをしなければなりません」
少女はそう言うと、手を合わせて目を閉じた。
「私の神様。どうか、日花護君の魂が天国に召されますように」
少女はそう祈りをささげた。やはりおかしな少女だった。こんな女子高校生が外の世界に存在していることが信じられなかった。本当に幽霊か何かなのかもしれないと思った。
「私の魂を犠牲にしてもかまいません。どうか、日花護君の魂を天国にお召しください」
「……」
「私の神様がお応えになりました。これで、日花護君の魂は天国に向かうことができると思います。ハッピーエンドです」
少女は微笑んで、さらに続けた。
「これで、私がここから動けずに死んでしまっても大丈夫です。すべては解決しました」
護は鼻で笑った。
「おかしなやつだな。そこで死んじまっても後悔がないのか? 日花護とかいうわけのわからないやつが天国に行けたら、それだけで満足か?」
「一つの魂が救われたのです。それだけで私の人生には大きな意味があったと思います」
少女は心からそう思っている
「なら飛び降りてみろ。運が良ければ、おれが受け止めてやる。だが、おれが受け止めなければ、頭から落ちて、この高さでも死ぬかもしれねえ」
「いきます!」
少女はためらいなく、身を乗り出してきた。
まさか、突然飛び込んでくるとは思わなかったので、護はとっさに少女を受け止めた。
少女を受け止めたとき、少女の体重は想像よりもずっと軽かった。
◇◇◇
「あなたが日花護君だったのですね。飛び降りて亡くなったと聞いてびっくりしましたよ」
「そんな話を信じるバカはお前ぐらいなもんだ」
護は自分が日花護であることを種明かしした。すると、少女はホッと胸をなでおろしていた。本当に護が飛び降りて死んでしまったことを信じていたようだった。
「ですが、生きたままの護君に出会えてよかったです」
「で、おれに何の用だ?」
「担任の先生のさっちゃんに聞きました。護君はろくに授業にも出ずに困っていますと。そこで、護君がどうして授業に出ないのかを確かめるためにやってきたのです」
「なんだよ、おせっかい焼きに来たのかよ」
「このままでは、卒業に必要な単位が足りなくなると、さっちゃんは困っていました。このままでは、さっちゃんのクラスからは2名の留年生が出てしまうことになります。それはさっちゃんにとっても護君のためにもならないと思うのです」
少女はていねいに具体的に答えた。説教に来た割りには、この少女からは嫌味を感じなかった。
「誰だよ、おれ以外に留年するやつは?」
「何を隠そう、私自身のことです」
少女はそう言って力なく笑った。
「私は2年生の11月から学校をお休みしていまして、ひーふーみー……実に11か月もの間、お休みしてしまっていたのです」
少女は指折り数えながら答えた。少女が学校を休み始めたのが去年の11月。もうまもなく、今年も10月になる。実に1年も休んでいたことになる。
「ずいぶんとさぼっていたんだな。病気か?」
「諸事情です。ですが、今日から11か月ぶりに学校に出てきました」
少女は笑みを浮かべたが、どこか全体に力がこもってないようにも見えた。
「さっちゃんのお話によりますと、放課後に2時間の補習を受けると、私も護君も卒業に必要な単位をすべて所得することができるそうです。そこで、一緒に頑張りましょう、私と」
「……」
「申し遅れました。私は月花真紅(つきばなしんく)と申します。どうか、よろしくお願いします」
少女は真紅と名乗った。ちょうど、別の世界からやってきた使徒のように、真紅はこの世界なき世界にやってきた。
◇◇◇
真紅は約一年もの間、学校を休んでいた。
しかし、護はその理由を尋ねなかった。
他人のことなどどうでもよかったから。
護は自分のクラスに誰がいて、誰が担任の教師なのかも把握していなかった。護にとって、他人は転がる石ころの1つ1つと同等だった。
しかし、真紅という少女だけは強く意識付けられた。
「それではまた明日、お会いしましょう。共に卒業できる日のために」
真紅はそう言って笑みを浮かべると、すでに暗くなった通学路の先に消えて行った。
護はしばらく真紅が消えて行った闇を見ていた。ここまで、強く印象に残る他人はいなかった。しかし、それでもしょせんは他人。
それで、護の人生のこれからが変わるわけではない。
真紅が現れたと言っても、護は明日からも授業に出るつもりはなかった。
護の向かう場所は常に同じだった。護の居場所は世界なき世界だけ。そこは不可侵の聖域であり、何人も入ることは許されていなかった。
しかし、たしかにその場所に真紅の一点が付け加えられていた。