真紅が病院に運ばれてから一夜が明けた。
当然だが、世界に何も影響はなかった。
この世界はいつもと同じ一日が始まっていた。
朝のニュースはいつもどおり進行し、いつもどおりに始発電車が出発した。
護もその流れに乗って、いつも通り学校に来ていた。
特に真紅のことを考えることはなかったが、朝のホームルームで、担任の沙知が真紅が病気に運ばれ、まだ意識が戻っていないという旨を伝えた。
沙知は昨日に比べ、疲れた様子だった。
真紅の危篤が伝えられても、特に教室の雰囲気が変わることはなかった。
真紅はもともと学校を長期休んでおり、親しい友人も特にいなかった。
存在を知らないという生徒も少なくなかった。
ホームルームが終わると、教室はいつもと同じ雰囲気に包まれた。
いつもどおり。
護はいつもどおり、席に座ったまま、時が流れるのを待っていた。
真紅がいないことを気にすることもなかった。
しかし、護の隣の女子生徒はホームルームが終わった後、ちらちらと護のほうを気にしていて、話しかけるタイミングを図っていた。
特に何かのきっかけがあるわけでもなく、護に話しかけた。
「護君は知ってたの? 月花さんが入院したって」
護はちらりとだけ、女子生徒のほうに目を向けたが、それ以上の関心は示さなかった。
護の隣の女子生徒も、特に親しい友人がいないのか、多くの時間を一人で過ごしていた。
護のクラスは極端に分け隔てられている。
護の周辺とそれ以外に線引きがなされている。
境界線を境に、世界の秩序が根本的に異なっていた。
「知ってたんでしょ。救急車が来たとき、護君、教室にいたもんね」
「なんでそんなこと知ってんだよ」
「女子の心眼」
女子生徒は真顔で妙なことを言った。
「あの子、もうすぐ死んでしまうでしょうね」
女子生徒は真顔でそうつぶやいた。
「でも、かわいそうなんて少しも思わない。だって、それがあの子のステータスなんでしょ。100歳まで生きられる生命力があったら、きっと護君の目には留まらない存在。十分、恵まれたステータスだよ」
女子生徒はそれを言い終わると、教室を出て行った。今日はその後、教室に戻って来ることがなかった。
◇◇◇
放課後、予定通り補習が行われた。
護はいつもどおり、その補習に参加した。学校の計らいで、1時間の補習で4時間分の授業分で換算されることになった。
気づけば、護の卒業に必要な単位はあとわずかになっていた。
「今日はこれで終わりです。気を付けて下校してね」
沙知は一日を通して元気がなく、補習の時間もいつものような熱量はなかった。
「日向君も気を付けてね」
「……」
護は教室を出る前に一度だけ沙知の様子を確かめた。沙知は深いため息をついていた。
◇◇◇
学校を出てから、護は携帯電話を確認した。
4件の着信があった。
護の携帯に電話を入れるのは、たいてい太田であり、やはり着信は太田からだった。
「おう、相変わらず電話に出やがらねえやつだな」
電話を入れると、太田は開口一番不平をぶつけた。
「授業中だったんだよ」
「そうか。ちゃんと授業には出てんだな。ちゃんと頼むぜ。お前の出世はおやっさんの生きがいだからな」
「で、なんか用か?」
「おやっさんがまた来てほしいってよ。言い忘れたことがあるらしいんで」
「遺言書にでも書いとけと言っといてくれ」
「アホ、この罰当たりが。今から行くから場所教えろ」
場所を教えると、太田はすぐにやってきた。
護はいつもどおり、助手席に乗り込んだ。
「今日は参ったぜ。サツの職務質問に2回もあった。ま、おれにやましいことはねえがな」
太田はそう言って、車を走り出した。
「免許はゴールド、履歴書も名門大卒。おれは立派な社会人さ」
「殺人三犯のカスがよく言うよ」
護はほとんど誰にも聞こえない声で言ったが、太田の地獄耳には届いていた。
「おれの殺人は清き殺人だ。後に10万人は殺すはずだったやつをやったんだからな」
太田は過去の犯歴をまったく反省していなかった。
「検察もそのことはよくわかってた。あいつら、証拠は十分だったが、伊藤殺しのときは別件起訴に甘んじたしな。結局、サツに都合のいい殺人は勲章ってことだ。命の価値が平等なんて、お花畑の世界でしか通用しねえ」
太田は言いながら、車を細道に入れた。ボスの家は都市、住宅街からも離れた場所にある。車はどんどん暗く、静かな場所へと向かっていった。
「ところで護、失恋でもしたのか?」
「あ?」
護は顔を上げた。
「おれはメンタリストだ。人間の感情を理解する達人さ。お前らしくもない顔だ」
「おれはいつもどおりだろ」
「いいや、お前の抜けた表情にはいつも殺気がみなぎってるもんだ。背後から忍び寄ろうもんなら殺されるっていう本物の殺気だ。だが、その殺気が薄れている。違うか?」
「お前の読み違いだな」
護は終始、いつもの表情でいたが、太田にはその変化がわかったようであった。
おそらくは真紅の影響だった。
取るに足らない、クラスメイトとも呼べないどうでもいい女子生徒だったが、特別な影響力が働いていた。
「一応青春を謳歌する高校生だろ。ちっとは羽目を外してもいいんだぜ。まあ、バイクを乗り回して、人をはねるバカよりはマシだが」
青春に不随するあらゆるものが、護には興味のないことだった。
◇◇◇
車はブラッディエンジェルのボスが隠居する一軒家についた。
相変わらず殺風景な場所だった。
とにかく危険な茎で包まれている。
どこからピストル弾が飛んできても不思議ではない、そう感じさせるような空気感だった。
ボスの家は厳重に管理されていた。
玄関口には、常に2人の見張りがついていた。
誰も寄り付きそうもない場所でありながら、ここまで厳重にしなければならない人物がここにいる。
護はその人物と面会した。
ボスは前回会ったときに比べ、少し回復したように見えた。
前回のときは死にそうな姿をしていたが、その日は表情に明るさがあった。
事実、護がやってくると、ボスは笑みを浮かべた。
「おお、護、来てくれたか」
ボスは嬉しそうにした。
明らかに、前回よりも元気があった。
太田はボスの付き人に確認した。
「おやっさん、今日は元気だな」
「ここしばらく様子は落ち着いている。まあ、鎮痛剤、ステロイドの効果もあるだろうが」
「そうか。治ったわけじゃないんだな」
ボスは末期がんを宣告されている。いまさら、治るはずはなかった。
それでも、医学の力によって、状態は良好なものに保たれていた。
とはいえ、すでに脊髄が一部侵され、歩くこともままならないのだという。
それでも、ベッドに座っているボスの表情は十分健常者だった。
「すまないな、学校が忙しいのにわざわざ呼び出して」
「まったく迷惑な話だ」
護は文句がちにそう言って、近くに腰かけた。
「学校には行っているのか?」
「ああ」
「部活動は何かしているのか?」
「帰宅部だな。それにおれは3年生だ」
「そうか。護は足が速かったからな。サッカー部で活躍しているところを見たかったな」
ボスの活舌は良かった。体調は本当に良さそうだった。
「で、用事はなんだ? おれはさっさと家に帰りたいんだが」
「すまぬすまぬ。さっそく話そう。と言っても、たいした話でもないのだがな」
「なら帰るよ」
護は立ち上がろうとしたが、ボスが止めた。
「そう言うな。お前の将来にかかわることでもある」
「……」
護はため息をついて再び腰かけた。
「前回、ワシの遺産を護に相続させると言ったな」
「やっぱやめるってか?」
「いや、すべての遺産は約束通り、護に相続してもらう。しかし、もう1つ相続すべきものがあってな。まあ、不動産関係の資産がいくつかあるんだ」
「めんどうくせえ。太田に渡しとけよ」
「護にしか扱えんものだ。例のブラッディ・エンジェルの旧アジトだよ」
「……まだ残ってたのか、あの場所」
「うむ、設備もそのままにな。ほほ、いま思えば懐かしいな。もうあれから4年以上が経つのか。いや、ワシにとっては懐かしい」
ボスは遠い目をした。
旧アジトは、ブラッディエンジェルの転換期そのものだった。
ボスと護の出会いの場所であり、世界の生き死にがかかった瞬間でもあった。
ボスはあのときのことを懐かしく思い返していた。しかし、護にとってはどうでもいいことだった。