護は自宅への帰路をゆらゆらと歩いていた。
自宅と言っても、恩人から借り受けているマンションであり、そこには護以外誰も住んでいない。
護には父親も母親もいない。
父親はもとよりいなかった。
母親もいなくなった。
護が最期に見た母親は天使のようであった。
母親はまばゆい光に包まれていて、そのまま飛び立っていった。
後に、母親は自殺したと知らされた。そのとき、護は死ぬことは天使になることなのだと知った。
母親は護に1つだけ形見を残していった。
熊のぬいぐるみ――くーたん。
その後、護はそのくーたんだけを抱えて、施設に預けられた。
そのくーたんも遠く昔になくなった。そのときのことはもう覚えていなかった。
護に身寄りはなかった。母親の家系も調べられたが、第三親等までに、連絡のつく者はいなかった。
父親のことは永遠にわからない。母親は一度も結婚をしておらず、純粋なシングルマザーだった。
護は長い間、施設で暮らしていたが、ある恩人と知り合い、その恩人からマンションを借りることになった。
恩人ではあるが、その恩人は闇に生きる身。護はその闇と契約した身であった。
マンションに戻って来ると、その前に知り合いの車が止めてあった。
車の運転手は護を見つけると、クラクションを鳴らした。
「おい、電話したんだぜ。なぜ出ないんだよ?」
男は窓から顔を出して、護に不満げに尋ねた。
強面の男だった。表の社会に生きる人間の顔立ちではなかった。
護は答える代わりに、懐から恩人の名義で借りているスマートフォンを取り出した。スマホのエネルギーは切れたままになっていた。
「ちゃんと充電しておけよ。このままじゃ、ただの手裏剣にもならんだろ」
男は不思議な言い回しをした。
「おれに何か用ですか?」
護は関り慣れた様子で男に尋ねた。
「重要な話だ。乗ってくれ。運転しながら話す」
男がそう言うので、護は仕方なく助手席に乗り込んだ。
「シートベルトをしろよ。最近の警察はやくざより執拗だからな」
護は面倒くさそうにシートベルトをつけた。
「出発するぜ」
男は繁華街の表路地に車を出した。このあたりはバーが多いが、このあたりで有名な暴力団の息のかかったものばかりだった。
護は横眼でとあるバーを見つめた。そのバーの入り口前では、男たちが殴り合いをしていた。
「あいつら、関東連合ブラッカーズの連中だよ。最近、勢力を伸ばしてるんだ。ボスの石林がサツと仲がいいからな。法外なみかじめ料も放置されてる。まあ、みかじめ料に法もくそもねえがな。一度、とっちめてやらないといけないと思ってんだ」
男はそう説明した。護は興味なさそうにその話を聞いていた。
「で、大事な話とは何ですか?」
「ああ、おやっさんの件なんだがな……」
男はそのまま進めそうな黄色信号の間合いで、あえて停車した。
「がんだってのは話したろ?」
護はうなずいた。
「もう長くないらしいんだ。今日も見舞いに行ったが、あれから10日も経ってないのに、信じられないほど憔悴していた」
「……」
「おれはアホだからわからねえが、がんってのはそんなに恐ろしいものなのか? ロシアンマフィアのグループを壊滅させたあのおやっさんが殺されるなんておれには信じられねえ」
男はハンドルを強く握りしめた。
「それで、おやっさんが護に話があるんで連れて来いってよ。たぶん、お前がブラッディ・エンジェルのボスになるんだ」
護はぼんやりと前を見た。赤信号の赤がやけに美しく見えた。
「おやっさんは護に惚れ込んでいたからな。だが、護。お前にブラッディ・エンジェルを束ねていくだけの自信があるか?」
「あるわけないでしょう」
「おいおい、そんな弱気でどうする。いいか、ブラッディ・エンジェルはおやっさんが生涯をかけて築き上げた名誉ある組織だ」
「組織……犯罪組織に名誉があるんですかね」
「ふふっ」
男は苦笑した。
「たしかにな。しょせんは犯罪集団だ。おれも人を6人殺してるしな。詐欺もやった。三菱グループへのサイバーテロのときは全員殺されるかとも思ったもんだよ。よく生き延びたもんだ」
男はこれまでの壮絶な犯罪体験を武勇伝のように語った。
「だが、おやっさんだけだった。おれを見てくれたのは」
男は青信号に換わったのを確認すると、アクセルを踏んだ。
「護、お前にはわからねえと思うが、おれたち氷河期世代はひどい目にあった。死に物狂いで受験勉強をして、ようやく勝ち取った法政大学の合格証書。だが、就職難の時代、おれに席はなかった。内定が取れないまま時間だけが過ぎ、気が付けば、おれは就職浪人。イベントの日雇いアルバイトで食いつなぐ毎日だ」
男は初めて表の人間のような表情を浮かべた。
「そんなおれたちに、国は何もしなかった。ただ一言こう言ったんだ。「自己責任だ」ってな。おれは絶望した。死のうと思った。でも、そのまま死ぬなんてくやしいだろ。だから、幸せな連中を道連れにしてやろうとナイフを持って走った」
男は大きく息を吐いた。
「絶望の連鎖だな。おれはムショに入り、完全に孤立した。真面目な優等生だったおれを、誰しもがゴミと見た。そんなおれをおやっさんは唯一人として見てくれたんだ」
「……」
相変わらず、護は興味なさそうに聞いていた。
「犯罪者は法律を違反した不届きもの。だが、法律を守る自称善良な連中は言ったぜ。おれに「死ね」と。おれは善良なやつらの冷たい目を知っている。あの目は死神の目だったよ。それからだ。おれは法で世界を解釈しなくなった。学歴も捨てた。もう履歴書に自慢げに書く経歴はすべて抹消した。おれは真の正義を取り戻す執行人になったんだ。おやっさんがおれに授けてくれた最強の経歴さ」
男はそう言った後、何もしゃべらなくなった。護も黙って車に揺られていた。
「ブラッディ・エンジェルにはおれと同じやつらであふれている。彼らは犯罪者だが、おれの目には優しい男たちの姿として映っている。護はブラッディ・エンジェルをどう見ている?」
「……」
護はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「クズどもの群がりと言ったところか」
「そうか。まあ、そうかもしれないな。絶望を知った者にしか見えない優しさだからな。おれはそれを知る男。それがおれの最大の自尊心よ」
車は明かりが連なる繁華街の道から、暗闇で染まった小さな道へと入っていった。
そこは静けさで包まれていて、時が止まった聖域のようにも見えた。