護はブラッディ・エンジェルの血を継承した。
血の内容は……約230億円という大金だ。
しかし、この金は自由に使えるものではない。
この金は裏の金であり、税務署が関知していない違法に集められたものだ。
その金を派手に使っていると、税務署がその資金の出所に目をつける。そうすると、その血は国庫に回収されることになる。
ある意味で、それが正しいのかもしれない。
この血塗られた金の呪いを解くには表の光にさらしてやる必要がある。
呪いが解ければ、ブラッディ・エンジェルも消滅。もう二度と、この組織によって世界に血が塗られることもなくなる。
ボスの家を出てすぐ、太田が問いかけた。
「護、その金、使うあてがあるのか?」
「いや」
護は興味なさそうに答えた。230億円を引き継ぐことが決まったが、護にとって、そんな金は不要だった。
使い道などなかった。何に使用されても、ただ虚しいだけだ。
その金で貧しい者が救われようとも、上級国民がさらに富もうとも、護にとってはどうでもよかった。
酒も女も興味がない。いまさら、大金を使って手に入れたいものなどなかった。
護は自分でも自分が何を欲しているのかわからなかった。
「それはおやっさんのすべてが詰まってるものだ。無駄にするなよな。まあ、おやっさんが護にたくしたものだから、おれがとやかく言う資格はねえがな」
「……」
「家まで送ってってやるよ」
「いや、歩いて帰る」
護はそう言うと、街灯の1つもない暗い道の先を見つめた。
「そうか。気を付けて帰れよ。なんて、お前はそんな注意するタマじゃなかったな。また何かあったら連絡する。携帯ちゃんと充電しとけよ」
太田は運転してきた車に乗り込むと、すぐに発車させた。
護とすれ違いざまに一度だけクラクションを鳴らした。
護は暗い道を闇に溶け込んだように歩き始めた。
しばらく進んでから、小さく後ろを振り返った。
その場所は完全に闇に包まれていた。
◇◇◇
翌朝、護はマンションの一室で目覚めた。
ここはボスが護のために、用意したマンションだった。都心からやや離れた郊外のマンションだが、けっこうな金額がかかった立派な部屋だった。
一人で住むには少々広すぎる。特に、護にとっては広すぎた。
護には何もない。趣味の一つさえないから、部屋は殺風景でがらんどうだった。
壁には何もない。カレンダーさえも。
一応、床には高校で使う教科書が散らばっているが、今の護には用途のないものだった。
押し入れにも何もない。高校3年生という華々しい時代にありながら、護の部屋は終活を終えた老人の住処のようであった。
「あの野郎、夢にまで出て来やがって」
護は体を起こすと、頭を押さえて昨夜見ていた夢を思い出していた。
その夢は、ボスが殺風景な畳の部屋に正座をしているだけの寂しい夢だった。
ボスはずっと目を閉じていたが、やがて目を開けて朗らかに笑った。
「見てみたいの。護の卒業式、大学の入学式、成人の晴れ姿、結婚式……」
ボスは似合わない顔で似合わないことを言った。
夢の中の護はボスに次のように返した。
「無理だな。あんたはもうまもなく死ぬんだ。おれの結婚式はおろか、あんたは卒業式さえも見ることはできねえんだよ」
「私を誰だと思ってるんだ? 私は往生際の悪い男だ。お前より長生きする自信がある」
「なら、おれは無限に留年してやる。あんたが死ぬまでな」
「ならば勝負だ。渡しが先に死ぬか、護が卒業式を迎えるか。勝つ自信はある」
ボスはそう言うと、自信に満ちた笑顔をした。
その笑顔を最後にして、護は目を覚ました。
その夢の影響は強かった。
護は今日、学校を休むつもりだったが、休むわけにはいかないという見えない力が護に学校の支度を始めさせた。
「さっさと死ねよ、マジで」
護はそうつぶやきながらも、すべての教科書をバッグに詰め込んだ。このバッグはボスが大学時代に使っていたものを譲り受けたものだった。
護は珍しく定時に高校に到着した。
自分の教室。
本来、そこは身近な場所であるはずだが、護にはなじみのない場所だった。もしかしたら、今日初めてこの教室を訪れたことになるのかもしれない。
ゆえに、護には自分の席というのがどこにあるのかわからなかった。
護が教室に入って、自分の席がわからずにいると、誰かが親切に席を教えてくれた。
「日向君の席はここだよ」
「そうか」
護は言われた席についた。
「私、日向君の隣の席なんだ。よろしく」
「そうか」
護は顔も確認せずに、適当に返事をした。
護に話しかけたのは、隣の席の女子生徒だった。
護は昔から女子にもてた。この高校に入学してから、何人からも愛の告白を受けていた。護もいちいちひとつひとつ覚えていなかった。
しかし、護は決まってすべての告白を断っていた。
考えるまでもなく、おそらくは相手の顔を見るまでもなく、機械の自動ツールのように断った。
護はこれまで人を愛したことがなかった。
愛するということを考えることもなかった。
いつから、そうなったのかは護自身もわからなかった。
きっかけがあるとすると、物心ついたときに見た母親の姿だろうか。
母親は天使だった。一度だけ護に微笑みかけると、そのまま消えてなくなってしまった。
それから、二度と母親は護の前に現れることがなかった。
後になって、母親は自殺したという話を聞いたが、そのときは何の衝撃もなかった。
けれど、母親の最後の姿だけは鮮烈に残っていた。人間を見ると、その姿がフラッシュバックされる。すると、その人間に対して、いかなる感情もなくなってしまった。
だから、護は隣になったという女子生徒にも同じように無関心だった。
しかし、そんな護でも意識に残っている者がいた。
それは突然護の前に現れて、消えない血のように、護の心に沁みついていた。
「なあ」
「え?」
護は隣の女子生徒に突然話を振った。
まさか、護から話が振られると思っていなかったようで、女子生徒はとても驚いていた。
「クラスに月花真紅というやつはいるか?」
護は唯一記憶に残っていた者の名前を尋ねた。
「月花さん? うん、昨日から復帰したみたいだよ。2年生のときも同じクラスだったけど、よく学校を休んでた子だよ」
「そうか」
「病弱なのかな? ずるいよね。それだけで特別に扱われるなんて」
女子生徒は真紅に対する嫉妬を見せた。
「日向君でも関心あるんだ、ああいう子には。可哀想な子だからかな」
「別に関心はねえよ」
「なかったら聞かないよ、普通。ううん、ごめん。何でもない。忘れて」
「……」
女子生徒は護に好意を持っていて、真紅のことを露骨に意識した。しかし、自らで制止した。
◇◇◇
朝礼が終わると、担任の教師がさっそく護のもとにやってきた。
朝礼の間、護は目を閉じていたので、このとき初めて担任の教師とも顔を合わせることになった。
春風沙知(はるかぜさち)。
生徒からは「さっちゃん」の愛称で親しまれているまだ若い女教師だった。
優しさと東大教養部卒という聡明さ、何よりその美しさから、数多くの生徒から愛されていた。
沙知は護が教室にやってきた護に感激していた。
「日向君、ようやくやる気になってくれたのね」
沙知は教え子の問題児が朝礼の時点で教室に来ていたことに感動していた。
「あんた、誰だ?」
「ひどい。覚えてないの? 一年生のときも日向君の担任だったのに」
沙知はいちいちリアクションが大きかった。聡明さと女子らしさを兼ねそろえているところが人気の秘訣なのかもしれない。
しかし、護はまったく関心がなかったので、覚えていなかった。
「改めて自己紹介するわね。春風沙知です。あなたの担任。覚えた?」
「ああ」
しかし、護はまったく興味がなさそうだった。
「良かった。これから話があるの。廊下に来てくれる?」
「めんどくせえな。ここで話せよ」
「個人的な話だから。ね、すぐ終わるから」
「ちっ」
護は本人の前で舌打ちした。沙知は苦笑いした。
仕方ないので、護は沙知について、廊下に出た。
「日向君ね、いま現国8時間、古文6時間、英語22時間、数学15時間、社会7時間、理科8時間、家庭科5時間、情報7時間。それだけ卒業に必要な必修単位が不足してるの。もちろん、今日から全部の授業に出席することが前提なんだけど」
沙知は護の状況を簡単に説明した。
「それでね、その時間の分だけ補習をしないといけないんだけど、一応ね、家庭科は裁縫と調理実習それぞれ1時間で問題ないって。情報もプリント4枚の提出でいいそうなの。すると、あと、主要教科を放課後に1時間ずつやれば卒業式までに全部の単位を修得できるわ」
「……」
「国語の林先生と数学の志田先生が単位の足りない生徒のために毎週水曜日と木曜日それぞれに2時間分を1時間にまとめて補習をしてくださるそうだから、その方向で話を進めてもいいかな?」
沙知は護が復帰するときのために、常に護の卒業プランを練っていたようであった。
沙知は静かな熱血教師として知られており、生徒のために毎日夜遅くまで頑張っていた。
沙知は英語教師だが、授業で使用するプリントは毎日7枚以上。発売した参考書や問題集をすべてチェックして、入試問題は出そろった瞬間、すべて傾向を分析し、友人の予備校講師から、模擬試験の没問題をもらってきたり、海外の友人から、英語の文章をメールでたくさんもらい受けて、オリジナル問題もたくさん作っていた。
そんな熱心な沙知は、私生活でも生徒らに親身であった。
護のようなはみだし生徒のためにも熱心だった。
護は覚えていなかったが、沙知は護の不真面目さを正すためにあれこれ世話を焼いてきた。
最近はとある心理学の学びに則って、「見守る」ということに徹していた。
自分からあれこれ声をかけずに、ただ見守っていた。
すると、今日になって護が唐突に授業に復帰したので、沙知はひとしおに感動していたというわけであった。
そんなことは知らない護は面倒くさそうに適当に返事をするだけだった。
ただ、ボスの余命がもうまもなくという話を聞いたときから、護も卒業までは授業や補修に参加する決心を固めていたから、言われるがままの補習を受けることを了承した。