翌日も、護は高校に顔を出した。
朝から眠気が抜けなかった。
昨日は午前3時前になって、太田がマンションの部屋にやってきて対応したので、睡眠時間が大幅に削られてしまった。
太田は興奮気味に笑みを浮かべて言った。
「ツシマは守ったぜ。いや、まだ完全じゃねえが、あいつらもしょせんは人間。ビビらせればビビるもんだ」
それを聞いた護はまったく興味を示さなかった。
ツシマ・ビルはブラッディエンジェルが獲得した大きな不動産だったが、護はボスが亡くなると同時にブラッディエンジェルからは完全に離れるつもりなので、他人事だった。
護は義理でブラッディエンジェルに協力して、いくつか自作のコンピュータ・ウイルスを提供しただけに過ぎなかった。
まだ、ボスが元気だったころ、ボスは護に言っていた。
ボスはよく護を夕食の席に誘って話をした。
「護、お前も高校を卒業する日が来るだろ」
「おれは気まぐれだ。急にやめちまっても文句は言うなよ。そういう約束だったはずだ」
護はそう答えた。
「むろん、護の自由だ。だが、ワシは護を闇の世界に引き込みたくはない」
「さんざん引き込んでおいて何を言ってるんだ?」
「それは闇を封じるために仕方なかった。だが、まもなく闇の終止符を打たれる。すれば護を誘うこともないだろう」
ボスは笑顔を作った。
「高校を出れば大学へ行く。お前ならどこにだって受かるだろう。そうすれば、今度こそ日本のためになる仕事について国に貢献する。元来、人間はそうであるべきだ。ワシは闇を消し去るために闇に入った。だから、すべての闇をワシが責任を持って地獄に道連れにする」
ボスがそう言ってしばらく、がんの診断を受けて、余命を宣告されることになった。
護は孤児だったころに、ボスの資金援助を受けた。その支援がなければ自由の身にはなれなかったから、その義理に応える必要があった。
その義理が護をここに導いていた。
時が経つと、その義理も薄れたが、ボスの先が長くないことがわかると、その義理が少し取り戻された。
だから、護は真面目に補習に出た。
護以外にも、補習に参加する者があり、月花真紅は護と同じクラスということもあり、補習のときはいつも護の隣の席に座った。
補習が終わると、護の担任でもある沙知が護を呼び出した。
「護君。ラストワードノートなんだけど」
沙知は護のノートを開いた。
「あのね、初日から白紙はないでしょ。先生、すごくショックなんだけど」
「白紙の何が悪い? おかげで誰も死ななかったんだ。平和でいいことだろ」
「だから、デスノートじゃないつってんの。いいから、何か書いて。今日はなんか書いてね。絶対よ」
沙知はそう言うと、護の両手にしっかりと持たせた。もう一度催促する。
「絶対何か書いてね」
護は返事することなくきびすを返した。
その先には、ノートとにらめっこする真紅の姿があった。
先ほどの補習でわからないところがあったらしく、補習が終わった後も頑張っていた。
「どうしてもここがわからないです」
「……」
護はそんな真紅の様子を横目で見ながら帰り支度を始めた。
すると、真紅が尋ねて来た。
「護君、どうしてもここがわかりません。どうして、ここは過去形なのに、こっちは過去形になっていないんでしょうか」
「どうでもいいだろ、そんなもん。この先、何の役にも立ちやしねえよ」
「しかし、気になって仕方ないのです」
「なら、担任のあいつに聞いて来いよ」
「さっちゃんはこれから文学部に出るそうで、忙しいようなのです。さっちゃんの負担を増やしたくありません」
「おれも忙しいんだよ」
「そうだったのですか。護君は何か部活動を? えーっと、たしか吹奏楽部は12月の演奏会のために3年生も練習していると聞いてますが」
「自宅警備員のバイトだ」
「アルバイトをされていたのですか。すごいですね、勉強とお仕事の両立なんて」
「ああ」
護は荷物を片付けると、さっさと教室を出た。
しかし、出たところで足が止まる。振り返ると、教室に一人になった真紅の姿が見えた。
夕暮れ空に映る真紅は異世界の存在のように見えた。
護は思わず、その姿をぼんやりと見つめていた。
ふと、校内放送が入り、護は我に返った。
校内放送は生徒の帰宅を促すものだった。外はかなり暗くなっていた。
護はもう一度教室に戻った。
「あれ、護君、まだおられたのですか? お仕事に間に合わなくなってしまいますよ」
「ちょっと忘れ物を取りに来ただけだ」
護はそう言うと、自分の席について、特に忘れたわけでもないゴミのようなプリントの束をカバンに押し込んだ。
「日が暮れるのが早くなりましたね。もう星空が見えます」
真紅は外を見上げて言った。
これから冬に向けて、日暮れはどんどん早くなっていた。
5時前だったが、すでに外は十分に暗かった。
護は立ち上がると、真紅のほうに横目を向けた。
真紅は笑みを浮かべて待っていた。一緒に教室を出るのが暗黙の了解のように。
二人はどうしてか距離が縮まっていた。それは互いにまったく意識していない間に生じた接近だった。
護もどうして真紅が近くにいるのかわからなかった。
ただ、他者が近くにいることの嫌悪感はなかった。
人間を愛することではなく、嫌うことを美徳としてきた護にとっては不思議な感覚だった。
今日も自然と二人は並んで教室の戸をくぐる。
ずっと前からそうだったように、自然に外の世界へ渡った。
しかし……。
もう1つの世界に渡れなかった。
護は足を止めた。
近くで生じた物音のほうに目を向ける。
世界から1つ何かが消えていた。そこにあると思っていた物が存在しなかった。
探すように、護は視線を下げた。
真紅は隣に倒れていた。
卒倒したような倒れ方。意識を失って、後方に倒れるのを懸命に阻止しようとして、近くの机にもたれかかるように倒れたと思われた。
その後は力が入っていないのか、手が机から滑り落ち、地面に落ちていた。
護はそれを見て、何も感じなかった。
緊急事態という危機感がなかった。
人が倒れるということが、風が吹くようなことにしか感じられなかった。
護は小さく息を吐くと、落ち着いた様子でカバンを机に置いた。
真紅の様子を確かめる優先度はずっと低かった。
カバンをおろして、肩の凝りを解消して、それからようやく携帯電話を取り出した。
「迷惑のかかるやつだ」
護はそんなことを言いながら、面倒くさそうに119と押した。
救急センターにつながった。
護は女子生徒が学校で倒れたことを伝えた。そのあと、学校名を伝えた。
通信員がいくつか尋ねてきた。
「呼吸はありますか?」
「さあな。そんなことは担任の教師に聞け」
護はそう言うと、倒れた真紅の様子を確かめた。
呼吸は微弱で、無意識に体を動かそうとしている様子が見て取れた。
護の中にあった知識から、脳梗塞ではなくCOPDの可能性が高いと判断した。
護はさっと真紅の懐からスマホを取り出した。
すぐに中身を確認した。
連絡先がいくつかあり、その中に担任の沙知の名前があった。
沙知がいくらかの親しい教え子とSNSのやり取りをしているという話は聞いたことがあった。
護はそこに電話を入れたが、勤務中のために出ることはなかった。
「役に立たねえやつだな」
護は仕方なく自分の形態電話を耳に当てた。
「COPDだ。さっさと救急車を連れて来い」
護はそう言うと、電話を切った。
◇◇◇
救急車は非常に早く到着した。
護はその間、教室で退屈そうに待っていた。
救急隊員が教室までやってくると、すべての役目を終えたと知り、帰路につくことにした。
護は、自分がそれ以上に関わる義務はないと考えていたから、あとのことはどうでもよかった。
しかし、廊下を孵る途中で、教頭と沙知が慌ててやってきたので、足を止めざるを得なかった。
教頭は先に向かい、沙知は足を止めた。
「護君、何があったの?」
「自分で確認しろよ」
護は冷たくそう言うと、そのまま歩き出した。沙知は気にせず、真紅のもとに向かった。
救急隊は手際よく速やかに真紅を運び出すと、到着から3分も経たない間に、最寄りの病院へと運ばれていった。
護は2階のベランダからその様子を見ていた。
別に誰がどこで死のうがどうでもいい。そう思っていたが、救急車の赤点が視界に入る限り、護の視線はそちらに引き寄せられた。
夜が深くなるほどに、救急車の走行が良く見えた。
護は救急車が見えなくなると、ロッカーに降りて来た。
下は慌ただしくなっていた。
教師らが大きな声で色々と騒いでいた。
「中村先生、車出せます? 涼音(すずね)病院らしいです。県立涼音病院。はい。いやいや、教頭先生は先行ってるんですよ。いや、まだ連絡は来てません。さっきまだ救急車が出たばっかりですから」
護は騒がしい中を何も気にせず、邪魔をするかのように通り抜けていった。
「生徒には言わんといて。パニックになるから。運動部の先生はいいから、中村先生と後、石田先生車出してもらえますか?」
護はそんな中を抜けて校門を出た。
行先は……自宅のマンション。
しかし……。
足が動かなかった。その方角に足を踏み出そうとすると、見えざる力がそれを阻止してきた。
護は足を踏み出すのをあきらめた。
振り返ると、教師が運転する車が病院のほうに向かっていくのが見えた。
教師の話によると、真紅はここから最寄りの涼音病院に向かったそうである。このあたりでは一番大きな病院だ。
ここからは徒歩で40分ぐらいと思われた。
遠い距離だ。
しかし、その方角にしか足が動かなかったので、護はその方角に歩き出した。
「迷惑なやつだ」
護はそう一言、夕暮れ果ての闇夜の中につぶやいた。