「うわああああああ! 大変だー!」
医療部の扉を開けようとした時、そんな悲鳴が中から聞こえた。思わずびくっとしたが、すぐに中に入る。
「どうした! 何があった!」
入った先は診察室だ。しかし部屋には誰もいない。普段は壁際にある机と丸椅子に誰かがいるはずなのに、今はなぜか無人だ。
今日はいつものように、定期健診で医療部にやってきた。ワルファリンの薬によって体が小さくなってしまった私の体を経過観察するためである。
今日の担当はケルシーだったはずだが……今の悲鳴は誰なのだろう。
そう思っていると、左手にある扉が開いた。そこからフォリニックがゆっくりと入ってくる。
本当にゆっくりだった。顔が見えないくらい頭をだらんとさせ、これまた腕も前にだらんとして、まるでゾンビのように歩いてくる。
「フォ、フォリニック?」
ゆっくりと顔を上げると、死んだ目がこちらを捉えた。その瞬間、がくりと膝から落ち、両手を地面に付ける。
「おいおいどうしたんだ」
すぐさま近づく。
「ケルシー先生が」
「ケルシーがどうした?」
「ケルシー先生が小さくなってしまったんです……」
は? 耳を疑う言葉に戸惑っていると、開きっぱなしになった扉から小さい子供が出てきた。
ピンと立った耳に、さらりとした白の髪。そしてぶかぶかになったスケスケ素材の服を、肩に引っかける形で着た少女。
「ドクターか」
いつものように泰然とした様子で、ケルシーは言った。
◆
「誤ってあの薬を飲んだだって?」
「薬の配置がいつもと違ってまして、それで先生の飲む薬が間違ったんです」
申し訳なさそうにうつむくフォリニックが説明した。
ケルシーと私は丸椅子に相対して座り、フォリニックが傍らにいる。地面に足がつかない子供同士が真剣な話をしているのは、傍から見たらさぞかし滑稽に見えるだろう。
身長は私とほぼ同じだから130くらいで、身長と同様に顔も小さく幼くなった。そうなるといつもの仏頂面も、子供が背伸びしてすまし顔をしているように見える。
「おそらくワルファリンの仕業だろう。ドクターに何か試そうとしたところ急用が入り、ロドスの外に出た。だからそのままにしたのだろう」
また私に何か飲ませようとしたのかよ。
ケルシーが私と同じものを服用したのは、彼女も鉱石病の薬を常飲しているからだろう。その痛々しい症状は彼女の肩を見れば一目でわかる。ただでさえ肩や背中がぱっくり開いた服装なのに、今は子供の体型になってぶかぶかに……。
「あの、フォリニック」
「なんです?」
「彼女に何か適当な服を」
「あ! 慌てていたので気づきませんでした。すぐに取ってきます!」
フォリニックは駆け足で部屋を出る。元々きわどい服を着ているのに、今はサイズすら合ってない。そんな服を子供が着るのは危ない。何らかの法律に引っかかりそうで危ない!
「さすがにこれでは示しがつかないな」
ぶかぶかになった袖を上げながら言った。
「服装は相手の印象を操作するものだ。私も医療部を代表する身ではあるから……だから……」
服について恒例の長話が始まるかと思ったが、なぜか彼女は首をかしげながら唸った。
「ああ……」
なんか間の抜けたうわごと。
「どうした?」
「いや、何でもない」
取り直すように首を振った。訥々とした話し方はいつもの彼女ではあるが、その動作だけはやけに子供っぽかった。
「持ってきました」
しばらくしてフォリニックがやってくる。私とケルシーの間に仕切りを設置して着替えをする。
「これしかなかったので、すみません……」
「かまわない」
後ろめたかったので、仕切りに背を向けてしばらく待つ。
「終わりました」
フォリニックの声と共に、仕切りを引きずる音も聞こえた。ようやく終わったかと振り返ると、目の前には衝撃的な光景があった。
児童が履くような藍色の短パンに、柔らかい生地で出来たダボッとした灰色のシャツ。そのシャツの真正面に、子供の落書きのような猫の顔のアップリケがどんと貼りつけられていた。そしてその上にはローマ字で、
NEKOCHAN!
「猫ちゃん……ふふ……子供らしくていいじゃないか」
ダメだ。笑うな。笑ったら殺される可能性がある。
でも耐えられない。あんな無表情の真下にでかでかと猫ちゃんって……。
「前に治療した親子が難民用に寄付してくれたものなんです。子供が成人してるからもういらないので使ってくれって。探してみたけど、それくらいしか……」
「着衣など気にしてる場合ではないだろう。ワルファリンが戻るまでは辛抱するしかない。では、そろそろ仕事に戻るとしよう」
「え! それで診察するつもりですか!」
フォリニックが大声を上げた後、はっとして口を塞ぐ。
「こほん……さすがにその服装では無理です。ですが子供用の白衣はありませんので、患者さんの対応は難しいと思います。決して面白いから止めるわけではありません。決して」
なぜか念を押す。
「ですからケルシー先生、これを機会にしばらく休むのはどうでしょう」
「休む?」
「ええ。どうせ業務ができないのではあれば、思い切って休むのがいいんです。そうすれば大人になった後にまたスムーズに再開できるでしょう」
「しかし……」
「たとえケルシー先生であろうと、医療部は一人抜け落ちたところで支障を来すような軟弱な作りにはなってませんよ。あと単純に子供になってどうなるのかわからない以上、医療業務に関わらせるわけにはいきませんから」
理詰めでしっかりと説明する。まるで教育ママみたいな諭し方だ。
「フォリニックの言うとおりだ。ケルシー、ひとまず今日は様子を見てみないか? 私も子供になりたての頃は体の感覚が全くわからなかった。せめてそれが馴染むまで仕事はしない方がいい」
片眉を上げて難しそうな顔をしていたが、やがて長い息を吐く。
「二人の言うことはもっともだな。今日は休むとしよう」
「今日の業務は特別忙しいわけではありませんから、こちらの心配はせず安心してリフレッシュしてください」
「わかった。ただドクターの診察だけは私がある程度やっておこう。カルテは……向こうか」
そう言うと彼女は椅子から両足をつけて下り、隣の部屋に入っていった。
「自分一人でやろうとするのは相変わらずですね」
独りごちた後、フォリニックはこちらに近づいた。膝を折り、目線を同じに合わせてささやく。
「なんとかケルシー先生を休ませることができましたが、さすがに一人だと心配ですのでドクターがついていってください」
「私がか。まあ彼女がいいと言うならば」
「ドクターもリフレッシュするべきですからね。診察しなくても目がバッキバキなのがわかります」
「ああ、これか。昨日もうちょっと仕事をやろうとしてずいぶん夜更かししていたからな」
「またそうやって夜更かしを……」
ひ! 怒られると思って体が固まる。それを見て心底がっかりしたみたいにため息を吐く。
「さすがにそこまで身構えられるとショックです。子供に怒鳴ったりしませんよ。とにかく、今日は二人とも休んでくださいね」
猫ちゃんが戻ってきたので話を止める。
簡単な診察を受けたが、血を抜くのはフォリニックがやってくれた。
もろもろを終えて部屋を出る。まだ午前中だからか、医療部前の廊下はしんとしていて誰もいない。
「この時間に休むとは不思議な感覚だ。一体何をすればいいのやら」
歩きながら、腕組みをして言う。
「リフレッシュすればいいんだよ」
「リフレッシュ? リフレッシュとはなんだ」
ええ……。
「とりあえず落ち着ける場所に行って何するか決めよう。執務室はどうだろう」
「わかった」
執務室に進路を向ける。階段を下りると、起きて仕事をしているいろんなオペレーターとすれ違い、事情を説明する。大人のオペレーターはケルシーの怖さを知っているから、この姿でもおずおずとしていたが、ポプカルやスズランといった子供たちは遠慮なしに絡んできた。猫ちゃんかわいいとか、頭なでられたりとか、見ててひやひやしていた。しかしケルシー本人はそっけなく、しかし優しく対応はしていた。やはり子供には優しいんだと改めて思った。
「疲れたな」
子供たちに別れを言った後にそう言った。
「君の苦労がわかった。子供がこれほど不便だとは思わなかった」
「全くだよ。元に戻せる薬の研究は進んでいるか?」
「それについては研究中だ。まず君の飲んだ薬を分析し、成分を打ち消す素材でも作ればいい。子供になるということは、従来で言えば不可逆……」
「ん?」
先ほどと同じように首を振る。
「考えがまとまらないな。執務室に行ったらコーヒーを飲ませてほしい」
ケルシーと言えども、少しは環境の変化に戸惑っているらしい。
オペレーターたちの好奇な目とスキンシップをようやく切り抜け執務室に着くと、対面用のソファに座るのを促す。椅子部分に手を突き、よじ登るようにして座る。
「アーミヤはまだ帰ってきてないか?」
「まだだな。しばらく会ってない」
「私たちが子供になった様を見たらどういう反応をするのか心配だ」
「確かにな」
私が小さくなってしまったせいで、外勤は全てアーミヤが行っている。今回の外勤は私が小さくなってから行っているもので、さらに別の細かい外勤と組み合わさりずっとロドスに帰ってきていないのだ。だから次に帰ってくる時は、私が小さくなってから初めて対面する形となる。
……何か嫌な予感がするんだよな。気のせいだといいんだが。
「コーヒーだったな。すぐ用意する。他に何かいるか?」
「普段は食べないが、甘い物でもあると助かる」
さっそく用意するために執務机の後ろのスペースに向かう。
「甘い物とか珍しいな」
「さすがに疲れたんだ。子供になると何もかもが違って見える」
子供でも手が届く位置に置いたコーヒーメーカーを操作する。
「身長が極端に低いから、見上げるのがきついんだよな」
「そんな単純な話じゃない。精神面の話から言えば、見る世界がここまで違うと脳が混乱してしまうのだ。たとえて言うなら車酔いか。いつもと違う風景の流れに頭が混乱して……三半規管が……ああ」
ケルシーはまた首をかしげた。
まただ。何か難しい話をしようとすると、言葉に詰まるケースがある。いつもの長話の最初だけは出るのだが、後が続かない。
「さっきから話の途中で途切れるのが気になるんだが」
「自分でも不思議だった。だが、ある仮説が出てきた」
「仮説?」
耐熱容器に注がれるコーヒーから、ケルシーに目を向ける。
「語彙力が無くなってる」
「語彙力が?」
「ああ、話す度に次の言葉が浮かんでこないんだ。平たく言えば、知能が下がっている感じがある」
知能が下がる? 知能が下がって語彙力が下がり、難しい言い回しや言葉が出ないという意味か。
私は……どうだろう。そこまで知能が子供に還った感覚は今までないような気がする。ちょっと昔を思い返してみる。
『あぶさんとのしゃつでかくしきれないおおきいおっぱいすき』
言ってたわ。あの時にIQ50レベルのこと言ってたわ。(同シリーズ『ショタドクターとウルサス学生自治団』参照)
「……思い返してみれば、私も最初は欲に忠実になったり理性が抑えられなかったり、言葉が拙くなったりもした」
「欲に忠実?」
「いや、こちらの話だ。しかし時を経る事にそういうのは無くなったから、あまり心配する必要はないさ」
コーヒーができた。カップに出来たてを注ぎ、お菓子と一緒にテーブルに持っていく。
「助かる」
カップを置いた後、面倒だったのでそのまま隣のソファに登る。その間ケルシーは、両手でカップを持ってふうふうし続け、座る頃にようやく口をつけた。猫ちゃんは文字どおり猫舌らしい。
「これからどうする?」
「行きたい場所を思いついた」
カップから口を離し言った。
「療養庭園に行きたい」
聞いた覚えはある。
「それって、パフューマーが管理している施設のことか」
「香料で精神面の医療行為を行うという、医療部も世話になってる施設だ。今まであまり見学する機会がなかったからな」
結局仕事関係か。ケルシーらしいと言えばケルシーらしい。
「目的地も決まったことだし、飲み終わったら行こうか」
おやつの袋を開けて、無言の休憩タイム。
コーヒーの量はほどほどにしておいたので、おやつを二三食べた時にはカップは空になった。彼女はどうかなと隣を見ると、両手でぐいと飲んでいる最中だった。
しかし口を離しても、コーヒーの量は注いだ時とほぼ変わらない。
「どうした? コーヒーが口に合わなかったか?」
「いや、違う」
ケルシーは首を振る。
「砂糖はないか?」
「砂糖? 前に飲んでた時はブラックだったような」
「コーヒーの作り方、飲み方は実に多種多様だ。ドリップする通常のものから、コーヒーの濃縮液をお湯で希釈する方法、さらにはコーヒー粉とシナモンと黒砂糖を入れてお湯を入れるなど、国によって全く違う。そもそもコーヒーを無糖で飲むのは一部の国の文化であって、本場や他の国では砂糖を入れるのが通常の飲み方だ。だからたまには砂糖入りを飲むのもいいだろう」
今回は大人に戻ったように饒舌だった。しかし……。
「単純に苦いのが嫌になったって言えばいいのに」
ケルシーはぷいと顔を背けた。
◆
休憩した後、療養庭園に向かう。その間もいろんなオペレーターとの絡みがあったが、ここは省略。
療養庭園の中に入る。まず見えるのは、あらゆる植物が栽培されている栽培室だ。大小様々な棚があり、そこにプランターや植木鉢が色々置かれている。
奥には植物用の研究所があり、さらに隣には休憩室、温室などもある。ここ最近、隣の倉庫を撤去してより広くなったのだ。
「あら?」
栽培室の棚から、タイミング良くパフューマーとポデンコが顔を出した。
「ドクターくんじゃない。それと……ええ!」
最後の叫びは二人同時だった。
「ま、まさかケルシー先生ですか! なんでドクターくん以外も小さくなってるの」
「ドクターの噂は聞いていましたが、信じられないです!」
かいつまんで事情を説明する。
「ケルシー先生まで小さくなってしまうなんてね……それで、どうしてここに来たんです?」
「この体では仕事はできないから休養をもらった。だから機会だと思い療養庭園を見ていこうと思ってな」
「庭園をですか」
「あまり見学する暇はなかったからな。色々と教えてほしい」
「……わかりました。ではこちらに」
そう言って二人は棚が並ぶ場所へ向かう。パフューマーが子供への対応とは思えないくらいきびきびと動き、真剣な表情で語っている。ケルシーの威厳は子供になっても色あせないようだ。
「びっくりしましたよ。ドクターだけじゃなく、また被害者が出てしまうなんて」
と、ポデンコが哀れむように言った。そういえば今の私たちはポデンコやアーミヤより小さいんだよな。今まで接していたオペレーターを見上げるのはまだ慣れない。
「長居するつもりはないし、私は気にしなくていい。ポデンコは作業に戻ってくれ」
「わかりました。でしたらドクターは休憩室にいてください。後でハーブティーをお持ちしますよ」
「休憩室は、最近出来たやつか」
「はい! ドクターが計画を進めてくれたおかげでできたものです。そのおかげで私の温室ももっと広くなったので感謝しかないです」
弾けるような笑顔で言った。
「頑張った甲斐があったな。しかし飲料用のハーブも育てているんだな。てっきり香料の栽培だけだと思ったんだが」
「元々いろんな植物は育てていますね。私自身お花を育てるのが好きで、それを売ってお金にもしています」
なるほど。いろんな植物を育てているか。つまり……。
ここでひらめいた。
「なあポデンコ」
「はい?」
「猫じゃらしとマタタビってここにあるか?」
ポデンコがぽかんとしていたので、慌てて付け加える。
「実は知り合いが猫を飼っていて、その気を引きたいんだよ」
嘘である。猫は猫でも猫ちゃん、ケルシーに試してみたいのである。
「ああ、なるほど。マタタビなら研究の一環で育てていますよ」
「助かる」
「猫じゃらしはさすがに育てていませんが、おもちゃの方なら持っています。貸しましょうか?」
「ありがとう」
ポデンコはとたとたと温室の方に向かってくれた。
私が思いついたのは、ケルシーの精神的な作用の実験である。子供になると、なぜか欲に負けやすい傾向があるのは私自身体感している。今は落ち着いたが、最初期の私が体験した理性を抑えられない現象が、もしかしたらケルシーにも起きるかもしれない。
決してやましい気持ちはない。あくまで実験、研究の一環である。
「持ってきました」
ケルシーにバレないかと横目でちらちら見ていたが、つつがなく件の品を手に入れた。マタタビはチャック着きのビニールに入れているため、不用意に効果を発揮しない作りになっている。
猫じゃらしは服の中、腕に挟んで隠し、マタタビは内ポケットに忍ばせる。その後休憩室で待ち続け、ようやく話が終わったケルシーと一緒に庭園を出た。
「貴重な体験と情報を得たな。たまには散歩もいいものだ」
ケルシーの手にはプラスチッククリアファイルがある。金具式で分厚い物で、子供では脇に抱える感じで持つのが限界だ。これを用意するのはさぞかし苦労しただろう、先ほどの憔悴しきったパフューマーの顔が思い起こされる。
「これからどこに行こうか……と思ったが、もう昼食の時間だな」
腕時計を見ると、もう昼を回っていた。
「どうする? 食堂にでも行くか?」
「いや、いい。医療部に戻る」
「え!」
ファイルを持ち直して言葉を続ける。
「もう休憩は済んだはずだ。さすがに休みすぎた」
「午前に休憩しただけで休みすぎたはワーカーホリックすぎる。そもそもフォリニックも白衣がないから仕事は無理と言っていただろ」
「医療行為以外にも手伝えるはずだ。今もらった資料を今後に役立てる算段をつけるのなら白衣も必要ない」
機械のように淡々と言い返す。
フォリニックには今日二人で休むように言われている。子供になったばかりですぐ適応できるわけでもなく、身体的にしろ精神的にしろ心配な部分が多すぎる。フォリニックの心配ももっともだし、ここは引き留めなければなるまい。
よしわかった。猫ちゃんの気負いと、ついでに表情を崩してやろう。そう決意し、服に隠していたある物を取り出す。
「ケルシー」
ケルシーは振り返る。待ってましたと言わんばかりに、私はこれ見よがしに猫じゃらしを彼女の前に突きつけた。
「これは……」
本物と同じ色をした、先端がほわほわのもの。それを彼女の顔の前で左、右へと揺らす。
鉄仮面はすぐに崩れた。目を皿のように開き、猫じゃらしに引き寄せられているようにゆっくりと近づく。そして催眠術にかかったみたいに、視線を一切ほわほわから外さない。
左、右、左……ついにファイルを持ってない方の手を出してきた。招き猫のごとく手を丸め、
猫パンチ。猫パンチ。
これはいいぞ。あのケルシーが稚児のように遊んでいるじゃないか。稚児にしては無表情すぎるが、こんなケルシー見たことない!
左に動かし、猫パンチ。右に動かし、猫パンチ。左にフェイントして、右に動かし猫パンチ。
また左に動かすと、今度はなぜかクリアファイルを脇から滑らせ片手に持ち替えた。何でだろうなと思った瞬間、
スパァン!
視界に入った瞬間、クリアファイルはもう目の前にあった。ファイルの、あの鋭い角っこがしたたかに私のこめかみ部分を打った!
「いってえ!」
あまりの激痛と衝撃に、私の体は後方に弾き飛ばされた。だんと背中を打ち、内臓が浮き上がる感触が体を襲う。息が詰まるような感覚の中ケルシーを見上げると、彼女はこの世のものとは思えない怒気を放っていた。
「ドクター……さすがに今回は私も怒るぞ」
豚を見るような目で私を見下ろしていた。背筋が凍るほどに、怒りの圧が感じ取れる。
しかしその怒りの表情の中、若干頬を赤らめ、息が小刻みに吸って吐いてを繰り返している。
やけに落ち着かない様子なのは、理性を抑えるので精一杯だからか、欲に忠実になった姿を恥じているからなのか。想像以上に猫じゃらしが効いてしまっていたらしい。
猫じゃらしでこれなら、マタタビはもっとまずいんじゃないか?
わずかながらの警戒心が体の中で膨れ上がり、やがて自分の中の天使が❌印を作った。ダメだダメだ。絶対に大変なことになるから止めておけ、と。
わかった。自分の心と勘に従ってマタタビはやめておこう。床に落ちた猫じゃらしもすぐに回収し、服の中に隠す。
「わ、悪かった。謝るから」
そう言って立ち上がろうとすると、ケルシーは大股でこちらに近づく。そして何を思ったのか、腰を上げた私を押し倒して馬乗りになる。
「お、おい!」
抵抗しようとしたが、右手首をつかまれ拘束される。
「あ、謝るから! ごめんなさいもうしません!」
この懇願には何も言わず、顔を近づけてきた。
ケルシーの顔がすぐ目の前にある。先ほどと同じく若干頬を赤らめ、呼吸は先ほどよりも荒くなっている。
なんだ? なんで猫じゃらしでこんな迫ってくるんだ?
しかし顔に熱い吐息が当たると、疑問や恐怖は一切無くなり、別の気持ちが湧いてきた。
赤面してるケルシーはエッチだな。普段は無表情な分、焦り気味の表情で欲望に負ける様がたまらねえ……。
【まっかなケルシー(元ネタ まっかな秋):歌ドクター】
エッチだな♪エッチだな♪ケルシーの赤面エッチだな♪あたたか吐息もエッチだな♪
猫じゃらしに誘われて~♪ まっかなほっぺたのケルシーと僕~♪
まっかなケルシーに 迫られて~いる~♪
まずい。即席の替え歌を作るくらい私の理性もおかしくなってきた。どうする? このまま流れに身を任せる? さすがにトップがこんなハレンチな行為をしているなんて知れたら、今まで築き上げた信頼が全部崩れ去ってしまう。でも、なんかもういいかな……。
そう思った時、ふと視線を下にやると、ある文字が目に入った。
「NEKOCHAN!」
その文字とアップリケの猫を認識した瞬間我に返り、左手で隠していた猫じゃらしを取り出した。ケルシーははっとした様子でそれに目を奪われた。それを見て猫じゃらしをケルシーの後ろ方向へ投げ飛ばす。
手首と体の重圧が消えた! すぐさま地面を蹴って体を滑らせ、拘束から脱出し、振り返りもせず廊下をひた走った。
あぶねえ! 猫ちゃんに救われた! もうちょっとでR18の中でも業が深い展開になってた!
後ろを確認するのも怖くて、ひたすらに風を切って走るほか無かった。誰もいない廊下を行き、角を曲がり、階段を下りて執務室に着く。中に入ると内側からキーを操作して、扉に電子ロックをかけた。
電子音を認識した瞬間、全身の力が一気に抜けた。壁に手をやり、へなへなと座り込む。
子供の体力では、執務室まで逃げるのがせいいっぱいだった。もうここに籠城して医療部に連絡するしかない。机に向かいたいが、体力が一切回復しない。足が吊る寸前で、まるで水中から上がったばかりのように肺が息を求めている。
しかし、なんで猫じゃらしで興奮状態みたいになっていたのだろうか。単純にねずみのような生き物だと思い込んで釣られるだけの効果しかないと思っていた。いや、そんなことはどうでもいい。今は早く連絡を取ってケルシーを落ち着かせないと。
猫じゃらしは投げ捨ててしまったが、ポデンコの私物なので騒動が終わったら早く返さないとな。
もう一つ渡されたものはどうしようかと、思い立って服の胸部分にある内ポケットに手を突っ込む。
「ん?」
何か感触に違和感があった。なぜかビニールのつるつるの中に、植物のざらっとした感触があったのだ。
瞬間、何が起きたのか察知した。背筋に冷たいものが走り、ゆっくりとそれを取り出した。
思った通りだ。ビニールのチャック部分が開いてマタタビが飛び出しているのだ。おそらくファイルで殴られて倒れた時に、衝撃か摩擦でチャックが開いてしまったのだ。
あの興奮状態はマタタビのせいだったのだ。臭いがしないから全く気づかなかった。
でも待てよ。原因がマタタビだとしたら、私はこれを持ったままここまで来たわけだ。人間には感じ取れないその臭いや成分は、猫は敏感に感じ取ってしまうと言う。つまり、私が逃げた跡に臭いはまだ……。
「ドクター」
ぎゃあ! 扉の向こうから恐れていた声が聞こえてきた。
「ここを開けろ。今すぐ」
「待て。落ち着け」
「落ち着いていられるか。その臭いを感じてしまったら、もういてもたってもいられない」
もう完全に猫ちゃんじゃないか。
「とりあえず医療部に行こう。何か興奮状態を抑える薬が――」
「Mon3tr」
その単語が出た瞬間、疲れ切った体をすぐ起こしてドアの前から離れた。
刹那、破裂音のような大きな音と共に、ドアが飴細工のように内側に大きく膨らんだ。頑丈なはずのドアがあらぬ方向に二度三度膨らみ、ついには破られた。衝撃のあまりソファに吹き飛ばされ、その穴から鉱石にも似た鋭い爪が出てきたのが見えた。
ドアが完全に破られると、その正体があらわになる。九メートル近くはある巨体が、ケルシーの後ろの通路にいる。やがてそれはケルシーの背中へと収納された。
「君のせいだ。君のせいで私はおかしくなった」
先ほどよりも色濃い赤面と荒い呼吸をもって言った。
「責任は取ってもらうぞ」
ケルシーは早足でこちらに近づく。危機を感じ素早く目を四方に動かしマタタビを探すが、どこにもない。先ほどの衝撃でどこかに行ってしまった。
大元が無くなったのなら、ケルシーの目的地は絞られる。
必死に立ち上がろうとするも、腕を一気につかまれ、ソファの上に組み伏せられる。その後おもむろに服を腹の方からめくられた。そしてあろうことか、めくられた服の中に顔を突っ込まれた!
「きゃあ!」
内ポケットにしまっていたから、ここから濃い臭いが蔓延しているのだ! マタタビが離れた今、一番臭いがするのはここなのだ。だから今まさに、ぐりぐりと胸の間に顔を押し込められている!
吐息と体温が胸をくすぐる。それに乗じて私の体温も上がる。鼻先が皮膚をなで、唇のような柔らかいものも神経が敏感に感じ取ってしまう。
やばい。変な気持ちになってしまう。今までは理性を抑えていたが、もう爆発しちゃう。
その瞬間、自分の敏感な部分を舌が這った。
「あああああああ! だめえええええええ! 女の子になっちゃううううううう!!」
◆
医療オペレーターの記録
後にこの騒動を、事情聴取でフォリニックが語ってくれた。
「びっくりしましたよ。騒ぎを聞きつけやってきたら、ドクターは上半身をひんむかれて気絶状態。その上にケルシー先生が、餌にがっつく猫みたいに顔をうずめていたんですから。無理矢理拘束すると、ドクターの胸は唾液でびしょびしょでした」
隣のベッドには、うーんうーんと唸る声が聞こえる。
「精神的なショックで寝込んでいますが、自業自得でしょう。ケルシー先生が暴れたのはマタタビが原因です。ソファの奥にビニールに入ったものが落ちていたんですが、ポデンコさんの証言によると、ドクターに頼まれて用意したそうです。つまり幼くなったケルシー先生に、ちょっかいを掛けるために用意させたと推測されます」
呆れるように、フォリニックはため息を吐いた。
「アホみたいな話ですよ。全部ドクターの軽率な行動が起こした事件でした」
一体何が起きたのかと思いましたが、話はまとまりましたね。
「主な経緯は今話したのが全てですね。ただ……疑問が一つだけあって」
疑問?
「胸をなめられただけで寝込むかって疑問です。ちょっと気になる箇所もありまして、ドクターのズボンのベルトが外れていたんですよ。別に露出はしてませんが、どうも何かの拍子か意図的なものなのかわからないんですよね。それにドクターが回収された際にうわごとで『すっきりしたのかモヤモヤしてるのかわからない』とか言ってたみたいなんです」
真相は藪の中である。ここは個々人の想像にお任せしたい。
「仮に、仮にそういうチョメチョメがあったとしましょう。そう考えるとちょっとおかしいんですよね。マタタビにはマタタビラクトンやアクチニジンなどの成分があり、それによって脳の中枢神経が刺激され、一時的に軽い麻痺状態になる。わかりやすく言えば、酒に酔ったような酩酊状態になるんです。決して媚薬のような効果はないんですよね」
つまり?
「つまり、もしそういう行為が行われたとしたら、ケルシー先生にそういう気が多少なりともあって、それが酩酊状態によって枷が外れた。そう考えるのが妥当になってしまう。いや……さすがにどうなんだろうな」
彼女は頭を抱える。
「もちろん今までの話は憶測で、そういう行為があったかも全くわかりません。いずれにせよ、ドクターが全部悪いです。マタタビでケルシー先生をたぶらかそうなんて、とんだ変態ですね……」
フォリニックは足を組み、隣で寝ているドクターに冷たい目を向けた。
うーんうーんと唸る声の中に、かすかに歌声も聞こえる。エッチだな……エッチだな……と、何か意味不明なことを言い、大きなショックを受けた割りにはたまには笑顔も見られた。それが何を意味するのかは、ドクター以外は誰も知らない。