とろんとした眠気の中、眼前には見知らぬ土地が広がっていた。
やわらかな陽光の中、波のない沼の上で一隻のボートに乗っている。漕ぎもせず、ただあぐらをかいて上に乗っており、姿勢を変えるたびにボートはゆらゆらと揺れる。
辺りにはあまり見ない木々が広がっている。どうやら森深い場所にある沼地らしく、うっすらと雪の積もった木々の先には氷原がかすかに見えた。
私はこのような場所には来た覚えがない。イェラグやウルサスとはまた違った場所だ。しかしそのような見知らぬ土地であっても、なぜだか警戒心もなく、むしろ安心感に包まれていた。
ふと、左頬に何か刺激を感じる。誰かが指で突っついているような、朝露がぽたりと落ちたような感覚……。
はっとして目を開ける。そこは当然湖ではなく、いつも見る執務室の天井だ。だが感覚だけは夢の中にいた時と同じだ。なぜなら私は今、宙に浮いた水の中にいるのだから。
件の刺激は、肩に乗っているいたずらっ子の仕業だった。
豆粒にまで小さくなったミュルジスが、肩の上に乗っかって頬をつんつんとつついている。
「おいおい、くすぐったいよ」
そう声をかけると、小さいミュルジスは驚いた顔をして、ぱちんと弾けるように消えた。
「ドクター、起きたの?」
執務机に目を向けると、そこには本物のミュルジスがいた。こちらに笑顔を向け、とんとんと書類をそろえている。
「よっぽど疲れていたみたいね。三十分も寝ていたわよ」
「そんなにか。あまりにも居心地がいいから寝てしまった」
「あたし特製の水ベッドは成功したようね」
水ベッド。ミュルジスが操る水の塊の中に、頭だけを出して入るのだ。ベッドというよりは赤ん坊が布に包まれているような形になり、まるで無重力の中にいるような感覚になる。
「一人の人間を入れてよく安定して操作できるな」
「大人ならさすがに難しいかな。今のあなたはほら、小さくなってるから」
ああ、そうか。子供だから大丈夫なのか。ワルファリンの薬で体が縮んでしまったのは災難だったが、貴重な体験ができたのは救いだ。居心地のいい夢も見れた。
しかし先ほど見た夢は、あまりにも現実的だった。自分の記憶にはないが、まるで現実にあるかのような光景でもあった。この感覚は前にも……。
「じゃあそろそろ戻すわね」
ミュルジスが言うと、一塊の水が糸をたぐるように線状となって、ミュルジスの中に吸い込まれていく。小さくなると重力が働き、私はすとんと下のソファに落ちた。
水の居心地の余韻にしばらく浸っていたが、はたと気づく。
「そ、そうだ。すぐ仕事を終わらせないと」
「終わらせたわよ」
ミュルジスは書類の山をそろえ、手をはたく。
「何だって?」
あの量が終わっただと? すぐに机に行き、種類を確認する。
これは今日中にやらなきゃ行けない書類、こっちはさっきまでやっていた書類……その全てが振り分けられ、あとは最終確認を残すのみの状態だった。
「仕事が終わっている……だと」
え? 昼前にやるべき仕事がこんなに終わってる?
「ただの確認事項だけでも量が多いのに、ちゃんと精査もされている」
「修正案も抜かりなくやったわよ」
その後いくつか軽くチェックをし、あとは必要な印鑑を押すだけだった。当然それに時間が掛かるはずもなく、お昼の前には全ての書類が片付いていた。
「嘘だろ。午後に……暇な時間がある?」
「どれだけ普段忙しいのよ」
「ごめん。信じられなくて……」
「終わったならそれでいいじゃない。さてと」
ぐいっと顔を近づけてくる。
「じゃあドクター。午後の暇な時間は何をしましょうか」
いたずらっぽく微笑んで聞いてきた。
◆
ミュルジスはトリマウンツ事件の後にロドスと長期の協力契約を結び、ロドスのバイオテクノロジー研究室と多岐にわたる共同科学研究プロジェクトを展開した。その縁あってロドスに来ることもあり、今は仕事の手伝いもしてもらっている。仕事の処理速度は今までのどの秘書よりも早い。三十にも満たない年齢で主任になり、さらには大学で客員講師もしているという能力の高さは伊達ではないのだ。しかし全く地位を感じないのは、彼女の人柄故だろうか。
「さっきのお昼おいしかったね」
今はロドスが停泊している場所近くの街に来ている。平原にある大きな街で、石造りの大通りは、からっとした天気の中賑わっている。
「外出許可よく下りたわよね。小さくなったドクターを外に出すのは危ないって言われると思ってたのに」
ミュルジスがこちらを横目で見下ろしつつ言った。今日はいつもの実験衣のようなものではなく、よそ行きの服になっている。緑のニットワンピースに白のカーディガンと、色合いは普段の服装に似ている。
「実は、ケルシーに頼み込んだ」
「あら、そんなにあたしとデートしたかったの?」
「う、うーん……」
返事に困る。
「恥ずかしがっちゃって。子供になると思春期も戻ってくるのかな?」
「からかうのはやめろ。それよりどこに行くんだ?」
「この前あなたにあげたリップクリームを新しく買いたいな」
「前にもらったやつか」
唇がかさついているとかでもらったリップクリーム。
「あれ高いのよ。一度使うと効果がわかるんじゃないかしら。使った?」
「あ、ああ。すぐかさつきが無くなったからいい物を使ってるんだろうな」
使ってない。さすがに引け目を感じて使ってない。女性の使用済みのものを使えるわけないだろ! だが意識されてると思われるのも嫌だ! と子供みたいな見栄の張り方をしてしまっている。
近くの化粧品店に行き、リップクリームの他にもあれやこれやと化粧品も買っていた。店員も女性ばかりで、男、ましてや子供の姿だと居心地が悪いので隅で小さくなる。
「ドクターもこっち来て」
しかし手を引かれ、口紅やファンデーションの色はどんなものがいいかとアドバイスを聞いてきた。ものすごい恥ずかしかった。
その後も近くのブランド品店に行き、アパレルショップに行きと、まるでデートみたいな店巡りをした。どの店も女性用の売り場だからまあ気まずい。服を見に行った時は「この子に似合う服をください」と肩に手を入れられ持ち上げられた時は、もう羞恥心が破裂しそうだった。
散々歩いたため、カフェで休憩をする。
「疲れた……」
「体力も落ちたね。荷物はあたしが全部持ったのに」
「こういう時は男が持つべきなんだが、筋力も落ちてるから許して欲しい」
「いやいや、元々持たせる気はなかったよ。それにしても、一科学者としては人を小さくする薬が気になる。若返りみたいなものだと思えばかなりの技術革新ね。一体どんな仕組みなのやら」
ストローを回しながら眉を八の字にする。
「おっと、今は難しい話は置いておきましょう。せっかくのデートなんだし」
「デ、デート」
はっきりと口で言われるとやはり気恥ずかしい。
「なんかあたしたち、カップルみたいじゃない?」
「カップルというよりは、親子みたいに見えるんじゃないか」
実際店員にも親子を見るような温かい目で見られていた。それに私とミュルジスの身長差を考えると、親子に見られるのも当然ではある。彼女、意外と背が高いんだよな。
「あ、今何考えてるのかわかった。ちょっと気にしてるんだからね」
ふくれ面になった。
「悪い悪い。ところで、これからどこに行く?」
「見たいところは一通り行ったから、適当にぶらついて帰りましょう」
コーヒーを飲み終えたところで席を立ち、荷物を持って元の大通りへ。
太陽は街並みに半分顔を隠し、通りは橙色に染まっている。楽しかった時間はあっという間に過ぎた。
「あ」
通りの一画で、ミュルジスは足を止める。細い横道があるTの字を作る交差点で、彼女はそのすぐ入ったところにある店を見ていた。
今までの店とは違い、夕日が作る影の中ひっそりと佇んだ小さな店。右にある入口の横にはショーウインドウがあり、そこにはいくつかの植物が植えられて小さな庭のようになっていた。
彼女はふらふらと、花に誘われる蝶のようにウインドウに近づく。
「これは……スノーサラセニアにシカクヒマワリか」
つぶやくように言った。
「この植物がどうかしたのか?」
「トレントンとサーミの植物なのよ。全く違う場所と気候の植物なのに、ちゃんと管理しているわね」
ガラスに手を当て、きらきらした目を見て言った。今まで多くのブランド品を見てきたが、そのどれよりも目が輝いていた。
「荷物は私が管理するから、存分に見てきていいぞ」
「え? いいの?」
「いいよ。私は疲れたから、近くのベンチで休む」
「でも……」
「いいから。まだ時間はあるから」
「ご、ごめんね。すぐに済むから」
遠慮がちに手を合わせ、慌てるように店の中へと入っていった。
しばらく様子を窺うと、彼女が店員に話しかけているのが見えた。ガラス越しでも熱意と興味が伝わる表情をしていた。
最後にいい場所があったな。いくら仕事がないとはいえ、少し羽を伸ばしすぎたかもしれないが来てよかった。荷物を苦労して持ち上げ、近くのベンチに向かう。
小さくなるとこうも不便が出てくる。しかしそんな危惧があっても、ケルシーに頼み込んで外出許可を取ったのは、実はちょっとした理由がある。
ロドスとの共同開発プロジェクトが一旦落ち着き、彼女はしばらくトリマウンツに戻るそうなのだ。戻るだけなら今までもあったが、今回はそれがいつまでになるかわからない。数カ月、またはそれ以上になる恐れもあるらしい。つまりしばらく会えない状態になるのだ。
だから、外出許可を取った。彼女がデートをしようと言ったので、恥を忍んで頼んだのはそのためだ。
◆
デートが終わって数日後、いつものように仕事に忙殺される。ミュルジスは一旦ライン生命に戻っており、秘書がいない状態である。
きつい! ミュルジスがいないとこんなにままならないとは。しかも今日は量が段違いで、簡単な夕食を取って時間を使っても終わる気がしない。もしかしたら日付をまたいでも終わらない可能性もあって絶望していた。
「ドクター。戻ったよ」
天使の声が扉の方から聞こえてきた。
「ミュルジス!」
「わわ、ずいぶん書類がたまってるね」
「手伝って!」
何かビニール袋を持っていたが、それをソファの脇に置いてさっそく手伝ってくれた。
「……ふう」
やはりミュルジスと一緒だとすぐに終わる。
「助かった。特に今日はまずかったな」
「私が急にライン生命に戻りたいって言ったせいだね。ごめんね」
「いや、いいさ。ところでどうして急にライン生命に? もう戻るのか?」
ミュルジスは少し目をそらした。
「実は、近々戻らなきゃいけなくなっちゃって」
「そうか……」
もうそんな時期になるか。
「急にあっちに戻りたいって言ったのは、前倒しして予定を早く終わらせるためなのと、一旦ライン生命のラボに戻ってある物を持ってくるためだったの」
「ある物?」
彼女は先ほど置いた袋に近づく。
「ドクター。数日前に行った植物店を覚えてる?」
「ああ」
三十分くらい待たされたやつか、と言いかけたところでやめた。
「あそこはいろんな気候の植物を取りそろえていて、管理がちゃんと行き届いた店だったわ。私の生まれ育ったトレントンの町の植物もあった。でも、一つだけ残念だと思ったことがあった」
袋を持ち、こちらに近づく。
「ペールシダーがなかったのよね」
「ペールシダー。生態研究園にあったやつか」
「そう。でも当たり前よね。かなり貴重なものだから」
ペールシダーは、前に情報を見せてもらった不思議な植物だ。
二本の木がある条件下だと、他方の根が腐った時に、もう一方の木が腐敗や傷ついた部分に被膜植物を生やし、その損傷部分は回復させるという不思議な現象が起こるのだ。まるでお互いが傷を治し合うような現象に興味が湧いたのを覚えている。
もちろん本当にそんな現象があるか、この解釈で合っているかは、もう少し実験を試みる必要があるだろう。
「ドクター。はいこれ」
両手で袋を渡された。中身は透けており、大きな植木鉢が見える。
「これは?」
受け取ると、中に一本の細い幹がある。
「今話に出したペールシダーの苗木よ」
「え! 貴重な物じゃないのか?」
「貴重な物だけど、もう一つ研究園にもあるから平気よ。ロドスの園芸部も見学したけど、あそこなら安心だと思う」
「わかった。パフューマーに聞いておこう」
別々の場所にある二本の苗木、か。
「次に会える時はどのくらい大きくなってるかしらね」
「さすがに成木になるまでには戻るだろう」
「さすがにそこまでじゃないけど、本当に次にいつ会えるかわからないのよ」
一瞬だけ気落ちしたような顔になり、
「だから、私だと思って大事にしてね」
ちょっと困った顔のまま、ウインクをした。
「わかった。私も世話するよ」
二人して微笑み合う。
「話は戻るが、ロドスを離れるのはいつなんだ?」
「三日後ね。でも色々準備があるから、今日みたいに秘書はできないと思う」
「そうか……」
「あたしがいないと仕事の処理できなくて残念?」
「そっちじゃないよ。単純に寂しいんだ」
あ、つい声に出てしまった。
はっとしてミュルジスを見ると、彼女は赤い顔になっていた。
「はは……嬉しいことを言ってくれるわね」
「口が滑ってしまった。恥ずかしいな」
「なら、寂しがり屋のドクター。仕事も終わったし、お話をしましょうか」
執務机からソファのある応対用のテーブルに移り、話をした。
苗木の育て方、これからのライン生命のこと、あの日の出来事……これからの別れを惜しむように話した。執務室には菓子の甘い香りが漂い、温かな時間が流れ、二人の会話は長く続いた。
「もうこんな時間か」
気づくと、すっかり夜も更けていた。
「そろそろ眠らないとね」
「そうだな」
名残惜しむように言った。何か、心にぽっかりと穴が空いたような感覚があり、しばらくは会えない事実と、いつまた会えるかという心配が胸の中に去来する。
「最後にあれをやってあげましょうか。水ベッド」
まるでこちらの心境がわかったように、微笑んで言った。
「じゃあ、頼もうかな」
執務室からベッドのある部屋へ。私がベッドに腰をかけると、ミュルジスは前に手をかざす。まるで大きな気泡のような水の塊が出現し、ゆっくりと宙を進んでいく。私は手を伸ばし、その中に吸い込まれるように体が入っていく。すぐさま頭は出て、体は温かい水に囲まれた。
眠気はすぐにやってきた。
とろんとした眠気の中、眼前には見知らぬ土地が広がっていた。
やわらかな陽光の中、波のない沼の上で一隻のボートに乗っている。漕ぎもせず、ただあぐらをかいて上に乗っており、姿勢を変えるたびにボートはゆらゆらと揺れる。
辺りにはあまり見ない木々が広がっている。どうやら森深い場所にある沼地らしい。うっすらと雪の積もった木々の先には氷原がかすかに見えている。
この前見た時と同じ景色だ。だが今回は、はっきりとその光景を理解できた。
ここはサーミだ。
そう認識した瞬間、様々な映像が脳内に映し出される。
サーミ中部の森の奥にある沼地と氷原。樹下に広がる空洞、根が織りなす中に琥珀のような生態系。
そしてミュルジスと同じ耳をしたエルフたちの集落。同胞たちと話す彼女。同胞に会ったとは思えないような悲しみの感情……。そんな感情さえも、この夢の中だと感じてしまう。
水に浮かぶ無重力。宇宙。そこに旅立ったクリステン。
孤独。孤星
疎外感や孤独は私もずっと感じていた。記憶の無い中、あらゆる事象に巻き込まれた。自分はどこにいるのか、自分は何者なのか、記憶を取り戻したところで、以前の私と言えるのだろうか。
……ああ、この感覚はあの時と同じだ。あのトリマウンツ事件の時、ミュルジスが瀕死の時に手を伸ばした時と同じだ。これは、追体験をしているのか?
そう思い目を開けると、目の前にはミュルジスがいた。彼女は水の塊に手を入れ、私の手を握っていた。
「ミュルジス……」
「今度はあたしの番ね」
目を細めて言った。
「小さくなっても、過去に何があっても、記憶が戻ったとしても、あなたはあなたのままよ」
「……」
「あなたがつかんだ手よ。あたしからは、絶対離さないからね」
絡んだ指にぎゅっと力が入った。その手は確かに本物で、水の中でもわかる温かなものだった。