ズィマーとともに廊下に出る。最低限の常夜灯しか点いていない通路が左手、右手に広がっている。
足音は聞こえない。誰もいない。通路の先に行くごとに暗くなっていく。暗闇の奥底から化け物が這い寄るのではないかと錯覚してしまう。それほどまでに闇は深く、先ほどのロサの豹変ぶりが恐ろしいのだ。
背を少し屈めて辺りを物色。独特の息づかいで私を探す様はまさにモンスター。
何が彼女を豹変させたのかといえば、ズィマーいわく私がショタになったのが原因らしい。意味はさっぱりわからない。
「隠れる場所がないな。ひとまず音を探って様子を見るか」
「見つかったら逃げるしかない?」
「見つかったらおそらく終わりだ。お前の今の体じゃあ逃げるのもきついだろう」
確かに。頭脳や口調はそのままだが、体力は明らかに劣っている。推定130くらいの子供と同等の身体能力と考えるべきか。
「いつものコートは脱いだままだが、おそらく何の役にも立たないだろう。あいつは顔を知っているし、匂いに敏感だし」
「ええ……」
「さすがに近くまで来ないとわからないと思うがな。さあこれからどうする? 医療部までの道はわかるか?」
「ええと……」
地図を思い出しながらルートを頭でたどる。
左手の道を真っ直ぐ行き、しばらくすると階段が見える。その階段を下ってすぐの部屋が医療部の部屋となる。
道自体は楽だが、その階段までは推定100メートルほどある。しかもその間は直線で、何の障害物もない通路だ。つまり、ここを歩いている間に見つかったらほぼ終わりだ。
「あたしたちが一気に駆け抜けたとしても、向こう側にあいつがいたら一巻の終わりだな。しかも通路の途中にある部屋はどれも独立していて逃げられないときた」
「やはり音が重要か。洋ゲーのホラーは大体音が大事だと聞くし」
「何意味のわからんことを言ってるんだ。とりあえず靴を脱いで行くぞ」
今もロサはこの暗闇のどこかを這っているのだろうか。そんなステルスゲーに入ったような気分になりながら前に進む。
靴下ごしに、ひんやりとした通路の感触を直に味わう。靴を脱ごうと忍び足なのは変わらず、速度には全く期待できない。だがロサと鉢合わせるリスクを考えると、音を拾ってゆっくり進むしかない。
しっかりと耳をそばだてて通路を行く。ぺたぺたという足音。何かでかい虫でも飛んでるような、常夜灯の作動音。深夜らしい明かりと音に囲まれながら歩を進める。すると、
カンカン……。
明らかな別の音を耳が拾った。誰かの足音。しかもこの先にある階段から聞こえてくる。
「誰かが来るかもしれない。近くの部屋に行こう」
近くの金属製ドアのタッチパネルを操作して開けると、そこは倉庫だった。ドア近くの段ボールが重なった場所に隠れると、ドアが自動で閉まる。暗闇に隠れながら通路の方の音を拾う。
コツ、コツ、コツ……。
固い靴底の音がする。だがこれで靴の種類が判別できるわけではない。ローファーなのか、ロサが履いてるようなブーツかはわからない。
やがて足音は通り過ぎる。だが通路は一直線のため、出るタイミングを図れない。
「よし、行ったようだな。ちょっと待ってろ」
そう言うとズィマーは懐から無線を取り出す。
「イースチナ。今どこにいる?」
(今はドクターの部屋の前にいます)
「ん? さっき通路を歩いていたか」
(あ、はい)
「お前だったのかよ。そこから戻って三番目の部屋に来てくれ」
どうやら先ほどの足音はイースチナらしい。しばらく待つとドアが開き、イースチナが通路の明かりを受けて現れる。
「こんなところに隠れていたんですか」
「ロサはどこにいるかわかるか?」
「今頃は地下四階の倉庫にでもいるんじゃないですかね」
イースチナが不敵に笑った。
「安心してください。先ほど異様な雰囲気のロサと会った時、とっさの機転でドクターの嘘の居場所を教えてあげたんですよ」
「おお、いい手を考えたな。しかしよくあの状態のロサと会話ができたな」
「ええ、本当に怖かったですよ。まるで化け物みたいで……」
イースチナの足がぷるぷる震えている。
「とにかく今なら医療部に行けるはずです。さあ早く――」
そこでイースチナの声が止まる。そうしてなぜか左の方を見やる。
異形を見るような表情、パニック映画でやられる前の表情。目を見開き、何かを見つめている。
「隠れて!」
イースチナの声と共に、異様な音を耳が拾った。ダダダと駆ける音。いや、人の発する音なのか? まるで打楽器でも叩いているような、力強い音が聞こえる。
ドアは自動で閉まり、倉庫は再び暗がりへ。あたふたしていると、後ろから急に抱きしめられ、後ろに強く引っ張られる。そうして壁に突っ伏し、背中と腰辺りに柔らかいものを感じた。
ズィマーだ。タイツの感触があるからズィマーだ。
「馬鹿、さわんじゃねえ!」
ズィマーに小突かれて慌てて現実に戻る。
邪な心は一切排除してドアを見つめ続ける。心臓が弾けんばかりに鼓動し、耳は今までにないくらいに研ぎ澄まされる。
足音がぴたりと止まった。そしてドアが自動的に開き、通路の光が入ってくる。物陰に隠れているが、すぐ斜め前に巨大なシルエットがあった。
「いない……何かいたような気がしたけど」
一言残し、そのままドアは閉まった。
「う、嘘です……最下層の倉庫はだいぶ離れてるのに、もう確認した?」
「もはや化け物だな」
そのまま足音が遠のくのを待ったが、なぜか遠のいては近づいてくる。また遠のいたかと思ったら、また足音は近づく。このあたりを行き来しているのだ。
ウィンと、遠くから聞こえてくる。
「足音からして、ここら辺に目処をつけている。また部屋に入られたら面倒だ」
「どうします?」
「イースチナの作戦をそのまま使おう。今度は私が嘘の情報を教える」
私の体を離し、ズィマーが立ち上がる。気合いを入れるような吐く息だけが聞こえ、そのままドアを開ける。
「ドクター、こっちに」
明かりが入った瞬間に棚裏からイースチナが手招きをする。ドアが閉まったと同時に、反対側へとすぐに向かう。そして今度はイースチナに抱きかかえられながら通路の方に集中する。
(お、おいどうしたんだよ。そんな怖い顔をして)
ドア越しでも震えた声なのがわかる。
(ソニア……どうしてここにいるの?)
(急に本名呼びはやめろ。あたしはただ眠れないから散歩をしていたんだ。お前はどうしたんだ?)
(ドクターはどこ?)
(ドクターはさっき見たな。医療部に行ったが当事者がいないって、制御中枢の方に行くらしい)
(……)
作戦通りズィマーが、目的地と真反対の場所を教えた。しかしなぜか相手は押し黙る。
(どうした?)
(臭いがする)
(え?)
(あなたからドクターの臭いがする)
ええ……。
(な、何の話だよ。さっき会ったからその臭いじゃないか?)
(いいえ。会っただけでこんな臭いはつかない。ぴったりとくっつくくらいじゃないとここまで濃厚な臭いにはならない)
さっき抱きかかえられた時に臭いがついた? いや、そんな馬鹿な。
(あなたドクターを抱きかかえたりでもしたの? あなたとドクターはどういう関係よ!)
(ま、待て違う。これは)
争うようなゴトゴトと音がし始めた。まずい。このままじゃズィマーが。
「このままでは危険ですね。ドクターだけでも逃げてください」
「いや待て。ズィマーの身が危ない」
「確かに心配ですが、ドクターが見つかった後の凄惨さの方が想像するだけで恐ろしいです。私が助けますので、ドクターは早く」
「しかしどこに逃げれば?」
「通気口です」
「通気口?」
「ついさっき見つけました。この棚の上に入口があります。まず目の前の棚を上り、私がドアを開けた時の明かりで蓋を外してください」
二人を置いて行けというのか。
しかし小さくなった私はあまりに無力だ。囮になって逃げることもできない。二人の足かせとならないよう、せめて医療部に行った方がいいかもしれない。
「わかった。気をつけてくれ」
手探りで棚の縁をつかみ、一段ずつ上がっていく。四段目に足をかけたところでドアが開き、イースチナが戦地へ赴くがごとき足取りで外に消えていく。
通気口の蓋は見つけた。膝立ちのまま進ながら、蓋に手をかけて取り外す。手で金属の手触りを感じながら、狭い空間を這っていく。
(さっきはよくも騙したわね)
(騙してなんかいませんよ。ちゃんと調べたんですかね)
声が真下から聞こえてくる。今は通路の上を這っているのか。
(ほんとのことを話しなさい。でないとズィマーのようになるわよ)
え? 彼女どうなったの? 確認できるわけもなく、薄暗闇を行く。
(あなたからもドクターの臭いがするわね。その部屋にいるのかしら)
(ああ、では確認してみます? ドクターはいませんが、どうしてもと言うなら)
(……)
蓋は開けたままだが……大丈夫だろうか。時間稼ぎにはなりそうだから、このまま進んでいく。
(待って)
(ん?)
(天井の方から何か音がするわね)
その瞬間、全身から血が抜かれたような寒気が起き、体全体が硬直した。まさに蛇ににらまれたカエル。ユーネクテスににらまれたアズリウス。直接見られたわけでもないのに、こちらを見られているような恐怖感が前に体を進ませなかった。
(ま、待って――)
(黙りなさい!)
鈍い音が聞こえた。重い物が弾むような音が、一回、二回として遠くに行く。
その次の瞬間、下からとてつもない衝撃が伝わった。突き上げるような衝撃で体が浮いた後、目の前の通路にぼこりと金属が盛り上がる。そして一拍おいた後、金属が潰れるような音とともに破られる。
目の前に見えたのは捕鯨砲。ロサの愛用する武器が、私の目の前を突き破った。
「やめて!」
明朗になった声が穴から聞こえた。この声はグムだ。
「みんなを傷つけるなんて許さない!」
「また邪魔が入ったわね」
どうしようなんて思う暇はない。穴を何とか避け、再び前へと進む。
「うああああ! グムがやる! グムがやるよ!」
下からは重い金属の衝突音が聞こえてくる。とても個人の一対一とは思えない鈍く大きな音だ。かたや金属扉、かたや捕鯨砲。もはや兵器同士の争いとも錯覚する音の中ひたすら前に進む。
……どれだけ前に進んだのだろう。一応目算はしているが、どれだけズレがあるのかわからない。
音が遠のくのも基準にしている。その衝突音はさすがに小さくなっていた。このまま逃げなければみんながやられてしまう。急がねば。
そうして通気口の蓋を渡った時、
見てしまった。
それは今までに聞こえなかった金属音だった。鉄球で金属板の壁を壊すような音だった。
その音がした直後に、通気口の蓋越しに通路を見下ろしたが、
そこにグムがいた。私の進行方向に吹っ飛ばされたグムをちょうど見てしまったのだ。見たのは一瞬で、すぐさま目の前をスライドして消えていった。
グムふっとばされたー!
「ドクター! 上にいるんでしょ!」
もういやだ! 完全に化け物じゃないか!
みんながやられたから、今更私が出たところで囮にもならず、何の意味もない。ただ私がやられるだけじゃないか! 別の意味で!
目の前はどこまで続くのかと錯覚する通気口。そして横につながる場所もある。相手は通気口を突き破る膂力を持った化け物。一見すれば詰みである。
……いい手がある。
籠城しよう。このまま誰かが異変を察知するまで逃げ続ければいい。ロドスに穴を空けた以上、誰かが来るのは時間の問題だ。
音を出さないよう、横道へと進んでいく。このまま廊下と部屋の境目あたりにいればいい。
ゆっくりと這いずり、やがていい場所を見つけると、膝を畳んで頭を押さえてうずくまる。
さながら地震が来た時の、机の下の姿勢である。相手は地震並みの災害であるのは間違いないが。
「息を潜めても無駄よ」
声が聞こえてはっとした時にはもう遅かった。ひしゃげた金属の音が聞こえたと同時に、平行だった床が急激に傾いた。天地がひっくり返ったような錯覚の後、自分の体が滑っていく感覚があった。
一体全体何が起こったんだ!
全力で抵抗するも、滑り台を這って上っているような無力さしかない。やがて体ごと全てが重力に従い滑っていく。
そして宙に放たれたと同時に、何か柔らかいものを首と膝裏に感じた。
ぼうっとして目を開けると、そこには笑顔のロサがいた。
「ドクター、ようやく会えたわね」
甘い吐息が顔にかかる。
通路を見てみる。そこにはだらしなく頭を垂れた通気口があった。先はぐしゃりと、飴細工を引きちぎったような跡がある。
こいつ、通気口を無理矢理引っぺがしたのか。
「どうしてあそこにいるとわかったんだ」
「近くにいるとわかって臭いにのみ集中すれば楽勝よ。少々強引な手だけどようやく捕まえたわ」
少々どころじゃないじゃん、なんてツッコミをやれる心境ではもはやなかった。
紅潮した顔に荒い鼻息。子供となった今となっては喜ばしいシチュエーションかもしれないが、今はそんな気概は一切ない。ただただ生殺与奪の権利を握られている恐怖しか感じない。
もう、私は死ぬな。そんな諦めの心を持ったまま、ロサに連れられていった。
To Be Continued…