「――ッ! はぁ、はぁ――」
「……惜しいな。…鬼であれば…その才を失わずに…済むだろうに……」
「――生憎と、私は不死にも、力にも興味がないのでね……」
――瀕死の剣士と異形の鬼。
二人が立つ地面は抉れ、周囲の塀や屋敷の母屋も原型を留めないほど崩れている。
唯一、瀬織速日の背後だけは、何とか形を保っている。
“たった一薙ぎでこの威力。上弦の壱とはここまで次元が違うのか……!”
驚愕と共に慎寿郎は、その人知を超えた力を持つ鬼の一撃を防ぎ切った速日を見る。
“――死ぬ。今俺が何とかしなくては、確実に次の一撃で速日殿は死ぬ……!”
速日はすでに満身創痍。
その身体には深い傷が幾重にも刻み付けられ、右脚は膝から下が辛うじて繋がっている状態、左手も小指と薬指は切り飛ばされ、肩には大きな刀傷が口を開けている。
刀身を支えにして立つその地面は、多量の出血で血の海に染まっている。
しかしその目は未だ目の前の鬼を射殺すほどに睨み付けている。
「……そうか。では…楽にしてやろう……瀬織家の者よ…貴様は確かに兵であった…」
「はぁ、はぁ、はっ……ぐふッ」
ゆっくりと上弦の壱が速日に近づく。
速日は鬼を睨み付けたままだが、身体は一指たりとも動かせないようで苦悶の表情を浮かべている。
“俺が動かねばッ! 今ここでッ! なのになぜ動かない、なぜ動けないのだ!”
目の前の人知を超えた攻防を見て、炎柱・煉獄慎寿郎は初めて恐怖を感じていた。
それは今までも幾度も感じ、その度に乗り越えてきたはずの感情であった。
――鬼殺隊で初めて日輪刀を握り鬼を斬った時。
――信頼する仲間が斃れ一人で鬼と立ち向かった時。
――十二鬼月を初めて相手取った時。
その全てにおいて慎寿郎は打ち勝ってきた。
恐怖はあった。
しかしその恐怖を捨て、目の前の悪鬼を斬り伏せるだけの力を持っているという自負があった。
それだけの修練を、煉獄家の男として、炎柱として常人の何倍もの研鑽を積んできたからだ。
しかしそれだけの努力をして鬼殺隊の柱に上り詰めたが故に、どうしようもなく理解した。
自らの全身全霊を以てしても『この鬼には勝てない』と。
「……さらば…だ」
上弦の鬼が刃を頭上に振り上げる。
“――俺は誰だ? なんのために此処にいる! 今ここにいる者を守るためではないか!”
「俺はッ! 炎柱・煉獄慎寿郎ッ! ここにいる者は誰も死なせんッ!」
“たとえここで死んだとしても、子供たちは何としても逃がす!”
「……なんだ…まだ…いたのか」
「炎の呼吸 玖ノ型 煉獄ッ‼」
“煉獄”、歴代の炎柱が苦心の末に編み出した炎の呼吸最強の奥義。
家名を背負ったその業は、煉獄家の誇りでもある。
深い溜めをつくり力を爆発させるその威力は一撃必殺であり、十二鬼月にすら致命傷を与える。
間違いなく自身の放てる最強の業を慎寿郎は繰り出した。
――パキン
しかし、正確に鬼の首を捉えた刃は傷を付けることも出来ずにへし折れた。
“馬鹿な……! 傷すらつけられないというのか、この鬼には……。柱の攻撃ですら避けるまでもないというのか!”
「……嘆かわしい…お前は本当に…煉獄か?」
鬼の六つの瞳が慎寿郎を捉える。
たったそれだけで息もできないほどの重圧がのしかかってくる。
身体は震え、気を引き締めておかなくては折れた刀を握る力すら無くなりかける。
「……煉獄も落ちた…ものだ。…気迫も…闘志も…練度も足らぬ……この身体を傷つけるには…至らない。なぜ邪魔を…する? お前は…己の力量すら…わからない…のか?」
「――あ、うぅ」
慎寿郎には身体から力が抜け、闘志が失われていくのが手に取るようにわかった。
喉は詰まり声にならない言葉が出てくるばかり。
“――何が柱か。俺は何のために戦ってきたのか。俺はこのまま死に、杏寿郎も命を絶たれる。守りたかったものは何も守れないまま終わる。……だが、この鬼の前では何もかも無力なのだ。この鬼はいわば天災なのだ。人間に止められるものではないのだ……”
「……私の知る煉獄は…派生とは言え…気骨ある男だった…。……もう逝け…恥を晒し…家名を穢すな…。痛みもなく…殺してやろう」
“――瑠火、杏寿郎、千寿郎。無力な父を許せ”
「――水の呼吸 壱ノ型 水面斬りッ……!」
「……む…まだ動くか…」
上弦の鬼が慎寿郎を切り伏せようと動いた時、瀕死の速日がその刃を弾いた。
「……っはぁ…っはぁ、し、慎寿郎殿。死んではならないッ! 生きなさい! ご子息の為にも、諦めてはいけないッ!」
「……速日、殿」
速日は血を吐きながら慎寿郎に呼びかける、『死ぬな』と、『諦めるな』と。
慎寿郎を助けた男の目には未だ力が籠っていた。
絶望的な状況下で、自身の命は燃え尽きようとしているにもかかわらず、他人を助けたのだ。
“――なんという御仁なのだ、なのに俺は……何の役にも立たない”
「…もうよい……幕引きだ…」
鬼が刀を横薙ぎに振るう。
無駄のない美しい一刀。
首を斬るために最小の動きで迫るその刃は慎寿郎の首を捉えていた。
「……あ、あぁ」
「ぐうぅああぁぁ!」
速日が動く。
もはや型を使う力はなく、鬼の刃を弾くことはできない。
その身体を使って慎寿郎に体当たりすることで精一杯だった。
「がッ! ぐぁ、う」
速日の最後の力を振り絞った体当たりで、慎寿郎の身体は地面を転がり鬼の刃を逃れた。
“――生きている? なぜ? 何が起きた……? そうだ、速日殿は……!?”
「父上!」
「父さまぁぁぁあ!」
――ゴトリ、と音がした。
慎寿郎がその音の方に目をやると、そこには速日の首が転がっていた。
「――あ、あぁ、ああああ! 速日殿ッ!」
「……嘆かわしい…弱者を…守るために……最後に命を投げ出す…とはな。それが……人間の弱さ…だ」
“――俺のせいだ、俺のせいで速日殿が死んだ、俺のせいで……!”
「……さあ…お前も……死ね…」
慎寿郎の元に鬼が迫る。
一歩迫るごとに死の気配が強烈になっていく。
刃ゆっくりと慎寿郎の首に吸い込まれていく様に動いている。
“せめて杏寿郎、お前だけは生きて――”
「あ、あぁ」
「父上ぇぇぇ!!」
「――ヒュゥゥゥゥ!!!!」
――ガキンッ‼
「……む?」
――トスッ。
慎寿郎を斬ろうと動いていた鬼の腕はいつの間にか、鬼の後方に斬り飛ばされ握られていた刀が地面に突き刺さる。
“……何だ…誰が斬った…? ……傷口が…再生しない……。この痛み…久しく感じていなかった…”
“――何が起きた? また助けられたのか? 俺はまた生き恥を晒したのか……!”
上弦の鬼も、慎寿郎も、腕を斬り飛ばした者を探す。
それは速日の亡骸のそばに立っていた、手には速日の刀を持って。
「…お前は……何者だ…」
「瀬織家当主・瀬織速日が嫡男、瀬織氷川」
上弦の鬼は名を聞いたわけではなかった。
その姿から自身が葬った男の親族であることは分かったからだ。
そして分かったからこそ聞いたのだった。
己の腕を斬り飛ばした大きな痣を持つ少年が、予想を反した力を秘めている。
その力の正体を数百年生きる鬼の見識を以てしても見破れずにいる、まさに異常であった。
「……そうか、我が名は…黒死牟……」
「父の仇、いざ尋常に参る」
満月の宵は未だ深く、戦いの火蓋は再び切られようとしていた。