柱と呼ばれる存在も登場します。
お館様はまだ幼く、年上の奥方様にとってはものたりない存在です。
奥方様はおなじ年頃の柱の若者に心惹かれるようになります。
柱の若者もまた、奥方様と同様の思いを抱いていました。
ついに柱の若者が鬼狩りの最中に命を落とすとき、奥方様への思慕から彼は鬼となることを選び、明け方近い産屋敷の前庭へ向かうのでした。
いつの時代の話でしょうか。
その頃には産屋敷の当主が長となって、鬼狩りがおこなわれていました。鬼狩りに従事する血気盛んな若者の中でも、とりわけ鬼狩りに長けた剣士には、柱という呼称が使われるようになりました。
産屋敷家の鬼狩りが、ようやく組織として動き始めた時代でした。
すなわち幾多の悲しみが、あまたの若者たちを鬼狩りの剣士ならしめたのございました。
当時、まだ鬼たちは西の京におりました。
産屋敷の男が、神職の娘を娶るようになってから数世代が経ちました。
その娘も神職の血筋でした。年の頃は十八、産屋敷に嫁いでから五年の歳月が経っておりました。もとより長男へ嫁ぐはずが、長男が急逝するに至り、娘は家督を継いだ次男に輿入れしたのです。
祝言の年、次男はまだ十歳の少年でした。祝言のあとも、娘に「姉様、姉様」となつく幼さです。
幼いお館様の代わりに、鬼狩りの若者たちを取り仕切っていたのが、お館様の母上様でした。
母上様は、娘の遠縁にあたる方でした。母上様は娘に産屋敷の因縁を話しました。娘は輿入れ前に、両親からよくよくいい聞かされておりましたから、驚きはしませんでした。ただ、そのような縁を思うと、幼いお館さまがあわれに感じられて、いっそう愛おしくなるのでした。
* * *
祝言を挙げて五年、娘は十八になり、産屋敷の奥方として鬼殺隊士の若者たちの世話をするようになりました。とはいうものの、お館様が奥方様を「姉様」と呼ぶのは変わらず、陰で隊士が口真似をするありさまです。
その頃、お館様の母上様は留守が多くなりました。鬼殺隊士になる若者を遠方まで探し歩いていたのです。
奥方様は、母上様の留守を不安に思いもしましたし、また留守中に手落ちがないように緊張しておりました。奥方様にとって、幼いお館様はあまりに頼りなかったのです。
「奥方様」
と呼ぶ声がしました。
「はい、ただいま」
と奥方様は母屋の離れへ向かいました。
母屋から伸びる廊下の先には離れがありました。離れには、鬼狩りの若者たちが寝起きするための部屋があります。当時は、その一角で怪我人の治療もおこなっておりました。
年寄りの薬師が、隊士たちの手当てを終えたあとでした。薬師は白い布巾で神経質そうに手を拭きながら、奥方様に頭をさげました。
奥方様が見まわすと、あたらしく布団を敷いた上に、さきごろ柱になったばかりの若者が横になっていました。
「刀創は浅い」
年寄りの薬師がいいました。
「ただ、躰に毒がまわってるのが、よくない。刀創はじき治るだろうが、毒が抜けん。ゆっくり養生するがいい。この毒は、よくない」
「先生にも、わからない毒ですか?」
奥方様がたずねました。
年寄りの薬師は途方にくれたかのように首を振りました。
「わからん。ぜんぶ抜けきるかどうか。煎じ薬を飲ませて、とにもかくにも躰から出し切ることじゃな」
奥方様は下働きの女たちにまざって、看病しました。煎じ薬を飲んだあと、柱の若者は小半時も経たないうちに小水を出します。すると陶器の尿瓶からは、強い臭気が立ちのぼってくるのでした。
「毒が抜けていませんね」
奥方様がいいました。
「色はだいぶ薄らいでおります」
下働きの女のひとりが答えました。柱の若者の世話をよくしている女でした。
「奥方様がこのようなことまでなさらないでくださいませ」
また、べつの女がいいました。
すると奥方様は「なにをおっしゃるか」と、いつになく厳しい口調で返しました。
「剣士らの世話は、わたしが母上様より頼まれております。わたしの手が至らぬのを、みなに助けていただいておるのです」
奥方様はそういって、柱の若者の寝巻をはだけさせました。
「替えの布をこれに」
と、奥方様は柱の若者の上腕に巻かれた細布をほどきました。細布は血に染まっておりましたが、傷口はすっかりふさがっておりました。奥方様は傷口に薄く塗り薬をつけて、元のように細布を巻きました。
「治りが早いですね」
柱の若者に声をかけたとき、奥方様の目に、呼吸に合わせて大きく上下する胸が映りました。日に焼けた若者の健康な肌が、奥方様にはたいへん新鮮に見えたのです。細布を巻くときにつかんだ若者の腕の太く逞しい感触に、奥方様の胸は我知らず高鳴りました。奥方様はそのような雄々しさをついぞ知りませんでした。
奥方様の頬が、さっと赤く染まりました。
すると、それまで女たちの会話を黙って聞いていた柱の若者が、奥方様にだけわかるように触れました。
「もしや、奥方様は……」
柱の若者の言葉をさえぎるように、奥方様が立ちあがりました。奥方様の膝頭には、着物越しに柱の若者の手の熱が残っておりました。
まだ幼さの残るお館様から、姉のように慕われるばかりの奥方様が、自分に年の近い柱の若者に男女の情を覚えたのは無理のないことでした。柱の若者もまた、死と隣り合わせの日々のあいまに、いささかの安らぎを覚えたのです。
その後も、奥方様は柱の若者の看病を続けておりました。若者の刀創はすっかり治って、日暮れには鍛練を始められるほどになりました。
「毒のせいでしょうか? あの方の目が光って見えることがございます」
若者を世話していた女が、奥方様に告げました。
暮れなずむ前庭に、剣士らが木ぎれを手にして素振りをする影が長く伸びておりました。
奥方様のまなざしは、上半身をはだけた若者に向けられておりました。夕映えに輝く姿を見つめながら、奥方様は不思議な心地がしておりました。
せめてお館様が、自分に似合いの年であれば。
奥方様はそのように思う自分を情けなく、恥ずかしく思いました。
姉様、とお館様の呼ぶ声が奥方様の耳に届きました。
「はい。ただいま参ります」
そう答えながらも、奥方様の心はたとえようのないさみしさにあふれておりました。
* * *
京の闇に鬼の影がありました。あたりには血の臭いのする風が吹いていました。
――弱いなァ。
――人とはかように弱いのか。
鬼は薄ら笑いを浮かべながら、なぶり殺しにせんとばかりに剣士たちをいたぶり殺します。柱の若者もまた、脚を切られ動けず、利き腕を切り落とされてもはや死を待つのみとなっておりました。若者の口から奥方様の名が洩れました。
――なんだ? 女の名か?
――おお、未練がましいことよ。日の出に塵となる我らよりもあさましい。
――もはや駆ける脚の無きを知らぬか? 女を抱く腕も無い。
鬼が高い声をあげて笑いました。
――のう、鬼となれ。鬼となれば、脚も生えよう。女も抱けるぞ。
――なるか? ならぬか?
――ほれ、どうじゃ? もう口も動かぬか?
若者の脳裏にたった一人、女人の姿が浮かびました。
――たとえこの身、鬼となりても一目あの方を。
とうとう柱の若者は、鬼の血をすすりました。
若者の一念を、鬼が笑いました。
見るまに若者の四肢は妖気にあふれ、額には二本の角、瞳孔は開き、肌には痣模様があらわれました。こうして、若者の容貌はすっかり鬼の姿となりました。産屋敷の奥方様が愛でた若者の姿は、いまやどこにもありません。ただ、奥方様への思慕の名残りのように、若者の額に浮かんだ痣模様は、奥方様の紋である藤の花でありました。
藤の花の鬼は、切り落とされた若者の腕をつかむと、夜明け前の暗い空へ消えてゆきました。
――やれ、たのしや。
夜明け前のいっそう暗い空に、鬼の高笑いが響きました。
* * *
明け方ちかく、奥方様は目を覚ましました。
ふたつ並んだ寝具、お館様の姿はありません。部屋の隅の経机の前に、お館様の背中がありました。蠟燭に照らされたお館様の横顔は、蠟よりも白く見えました。経机に置いた燭台には、うずたかく蠟涙が積もっていました。
「お館様、まだ起きていらしたのですか?」
「うん、起こしたか」
寝床の奥方様に背を向けたまま、お館様が答えました。
「今日もじきに夜が明ける」
お館様はなにやら感慨深げにいいました。この夜にも鬼狩りの若者たちが己の命をかけて戦っているのを、お館様は知っておいででした。
「どうか、ご自身のお躰もたいせつになさってくださりませ」
奥方様はそういって、お館様の薄い背中に自分の袷着をかけました。
お館様が寝床へ入られたのは、さらに小半時経った頃でした。火の消えた蠟芯から細い煙がくゆっていました。奥方様はお館様の枕元に座って、まだ幼さの残る寝顔に目を落としていました。肩で切りそろえた黒髪に、白い顔がいっそう冴えています。
外では細い月が東の空に消えかけて、山の端が明るくなりかけていました。
そのとき突然、カラスがさわぎたてました。
奥方様は寝着のまま、はじかれたように立ち上がりました。欄間に手を伸ばし、薙刀を取りました。
カラスの鳴き声が響きわたる中、屋敷の塀を黒い影が飛び越えました。黒い影が前庭の玉砂利の上を走ります。奥方様の顔は緊張に青ざめました。襖を開けて、小走りに前庭へ向かいました。前庭の向かいの縁側に出た奥方様は、玉砂利の上に鬼の姿を見ました。夜明け前のほの暗い前庭に、鬼は縁側に向かって頭を垂れているかのように見えました。それはあたかも、鬼狩りの剣士がお館様を迎える姿に似ていました。
「姉様」
奥方様の背後から、しずかな声が響きました。寝入ったとばかり思っていたお館様でした。手には一振りの刀身を持っています。
「なりません」
奥方様はあわてて、お館様に声をかけました。
「よい。下がりなさい」
このような事態にありながら、お館様の声にはやさしい響きがありました。奥方様の先に立って鬼に向かったお館様の後姿を、奥方様は不思議な気持ちで見つめました。いつのまにやら、お館様の背丈は奥方様と並ぶほどになっておりました。
玉砂利の上で顔を伏せていた鬼が、不意に顔をあげました。鬼の手には、肘の下から切り落とされた人の腕が握られていました。その腕には赤黒い染みの残る細布が巻かれていました。
奥方様が柱の若者の名を呼ぶよりも早く、朝日が鬼を照らしました。朝日はお館様と奥方様と鬼と、三様の顔をそれぞれ照らします。鬼の顔は、朝の日の光をあびて輝いておりました。光のせいでしょうか、鬼の顔に浮かんだ藤の花の痣模様が薄れて、若者の面影がかいま見えました。
「なにゆえ、かようなあさましいお姿で戻られましたのか」
奥方様は悲痛の叫びをあげました。その胸に浮かんだのは、在りし日の柱の若者の姿でした。
奥方様はかたわらのお館様へ目を向けました。お館様はいつもと変わらない表情でしたが、その双眸は悲哀に満ちていました。
お館様と奥方様の目の前で、鬼は日の光をあびて、いまや姿形も魂も崩れようとしています。奥方様は声をたてずに泣きました。涙に濡れた頬に、朝日がいっそう輝いておりました。
屋敷の前庭、白い玉砂利の上に、鬼の姿は塵ひとつ残さず消えました。
力の抜けた奥方様の手から、薙刀が滑り落ちました。前庭は朝の日の光に満ちて、石のひとつひとつ、葉のひとつひとつさえ輝いて見えます。すがすがしい清澄な朝に、鬼の居場所があろうはずもありません。
「鬼の最期がかようであるとは、この目で見るまで知らなんだ」
お館様がぼんやりとつぶやきました。奥方様はただただうなずくばかりです。濃い睫毛が涙に濡れていました。お館様はしばらくのあいだ奥方様を見つめておりました。涙に濡れた頬に、お館様が指をあてました。奥方様は驚いてお館様を見返しました。お互いのまなざしがおなじ高さで交わりました。そのとき初めて、奥方様はお館様が自分にふさわしい歳に成長したのを知りました。
「――」
お館様が、奥方様の名前を呼びました。
「待たせたね」
お館様に自分の名を呼ばれた奥方様は、胸が熱くなるのを覚えました。
おしまい20190109