――足が、重い。
曇り空が広がるその日も、サイレンススズカは鬱屈とした気分でコースを走っていた。
その足取りは、まるで彼女の心情をそのまま表したかのように酷く重々しいもので、それまでの彼女を知る者からすれば信じられない程に――酷かった。
だがそれは、何も今日に限った事ではない。
ここ最近――否、スズカがベテラントレーナーにスカウトされて以降の日々は、こんなものだったのだ。
『スズカ、貴方の走りはまだ粗い。けれど、その走りに磨きを掛ければもっと早くなるわ』
選抜レースの後にそう誘われ、『
初戦こそ、初めてのレースで気分が高揚したのか、自然と逃げて、そして勝った。
だが、そんな彼女にベテラントレーナーが向けた感情は、あまり心地よいものではなく――
『それではいつか勝てなくなる』
そう言いたげな、どこか彼女の走りを不安視するようなものだった。彼女はそれを口にこそしなかったが、スズカには分かってしまうのだ。生まれ持った感受性の高さ故に。
勿論、彼女はスズカの実力を高く評価していた。その走りに光るものを感じたのも、また事実だ。
だからこそ、彼女はスズカに
ただ逃げるだけの脚ではなく、勝ち筋のあるレースをする術を――勝利への道を切り拓ける力を身に着けさせる為に。
スズカもその熱意には感じ入り、向けられる期待に応えるべく、言われるままに練習に励んだ。
『最初は抑えて脚を溜め、最後の直線で力を使う』。そんな王道的な走りをモノにする為に、友人のエアグルーヴの手を借りて勉強会をしたりもした。
……だが。それでも、結果は出なかった。
二戦目、彼女は改めてベテラントレーナーに指示された通りの作戦を実践しようとした。
しかし、結果は惨敗。最後の直線で脚を使おうとすると、『何故か』脚が前に進まなくなってしまったのだ。
それ以上に問題だったのは――
(……窮屈で、苦しくて――)
あの景色が、見えない。
そうして言われるがままの走りをしたスズカにもたらされたのは、走る事への嫌悪感に繋がっても不思議ではない、後味の悪さだけだった。
――否。実際、走る事が嫌になってしまったのだ。
あれだけ、走る事が好きで、走る事しか頭になく、走る事こそが己の全てだと信じていた自分が。
(……あれ。私、どうして走ってるんだっけ)
今はもう……どうしようもなく走る事が苦痛でしかなくなってしまっていた。走る理由を忘れてしまう程に。
「随分と苦しそうに走るんだな、君は」
そんな時だった。その青年が現れたのは。
「……? 誰、ですか?」
そう問うたスズカの瞳は、酷く濁り切ったもので。
「しがないトレーナーさ」
それこそ、青年の胸に輝くトレーナーバッジにすら気づかない程に。
だが、青年はそんな事を意にも介さず、ただ一言、
「少し、休憩しないか?」
そう彼女を誘った。
青年の目には、何処かで見た憂いを帯びた色が映っていた。
******
――場所は変わって、トレセン学園内のとあるベンチ。
「ほら、飲むといい。気分が落ち着く」
そう言いながら青年が差し出したのは、近くの自販機で買ったと思しきホットココア。
スズカはそれを、おずおずと手を伸ばし、受け取った。
無理に走っていたとはいえ、風をその身に受けて走った身体は冷え切っており、ココアの缶から伝わる熱に、スズカは僅かにビクリと肩を震わせた。
「あ、すみません……。ありがとうございます……」
そう小さく呟いてスズカはプルタブを開き、口をつける。
その様子を眺めながら、「それで、少し話せるかな?」と青年が切り出すと、スズカはしばらくの後、コクりと小さく頷いた。
「それで、随分と苦しげに走っていたが……体調が悪い、というわけではないようだね。これは……心の問題か」
その一言を聞いたスズカは、弾かれるように青年を見やる。
「あ、あの、どうして、それを……?」
「何、人より勘が少し鋭いだけさ。後は……人生経験、かな」
はあ、とスズカは生返事を返す。しかし、彼の指摘は間違っていない、というか正しい。実際、風邪を引いたわけでもなければ、熱があるわけでもないのだから。
「何かあったのかい?」
「それは……いえ、大した事じゃありません。ちょっと疲れただけ、です」
一瞬躊躇うも、結局は誤魔化す事にした。見ず知らずの相手に心の内をひけらかす程、スズカは幼くなかった。
だが――青年は、ふむ、と手を顎に当てると、眼を細めた。
「……そうなら、別にいい。だが君の場合、ちょっとどころでは済まないぐらいに重症に見えるが」
その一言は的を得ていたのか、スズカはグッ、と言葉を飲み込んだ。
同時に、そんな事まで察せられる程、自分の表情に表れてしまっている事実を突きつけられ――そしてそれが、自分の中で燻っている原因である事も。
「……そんなこと無いですよ。いつもこうなんです。練習もしてますけど、まだ上手く行かない事が多いみたいで。レースに出るとつい、その、焦ってしまって……」
一拍置いてそう言いながらも、その視線は自然と足元へと落ちる。
自分で言っていて情けないと思うのだろう。その口調は先ほどまでの張りつめたものとは正反対に弱々しく、声からも活力というものが消え去っている。
そんな彼女の様子を知ってか知らずか、青年は一切表情を変えぬまま、言葉を嚙み締めるように呟く。
「成程、焦る、か」
そう繰り返す様に言うと、不意に彼はスズカの隣に腰掛けた。それに驚いて顔を上げたスズカと、隣に座ってきた青年の目線が、交わる。
「君は……何の為に走っているんだ?」
そう問うてくる青年の目を見ていると、何故だろうか、その目には嘘もごまかしも通用しないような――『全てを曝け出してしまう』かのような感覚に陥るのは。
(この人は……一体……?)
今までの人生で出会ったことのない不思議な雰囲気に気圧されつつも、不思議と悪い気は全く起こらず、ただ素直に答えを返す自分に、スズカは戸惑いを覚えた。
「えっと……勝つ為、です」
「……それは、本心から言っているのか?」
まるで彼女の事を見透かすかのような青年の言葉に、スズカは何も言えずに口を閉ざす。その沈黙を肯定と捉えたか、青年はそのまま話を続けた。
「確かに勝ち負けというのは大事だ。だが、それだけに囚われていては、いずれ心が潰されてしまう」
スズカの瞳の奥底にある暗い影を感じ取ったのであろうか、青年は諭す様な声で語りかける。だがそれでもなお――否、だからこそか――スズカはその真意を掴みきれずにいた。
(どうして、そんな事を……)
「……実を言えば、以前に一度だけ、君を見た事があってね。サイレンススズカさん」
スズカは一切口を出していないのにも関わらず、彼女の疑問に答えるように青年が口を開いた。
自分の名前を名乗っていないのに知っているのも不思議だが、まさか心を読めるのかと、スズカは僅かばかりに警戒心を強めた。
そんな彼女の様子に気付いたのか、青年は少しきょとんとした顔をすると、すぐに微笑みを浮かべた。人の好さそうな笑みであった。
「ああ、すまない。君を見た事があるのも、名前を知っているのも、選抜レースを見ていたからなんだ」
そう聞くと、スズカとしては赤面するしかない。
慌てて頭を下げるスズカに、青年は「いや、いいんだ」と手を振る。
それから少し間を置いて、「続けていいかな」と問う青年に対し、スズカは少し恥ずかし気に、コクりと小さく首を動かした。
「君のレースを初めて見た時……驚いたよ。レースなのにとても楽しそうに走る子がいたものだ、とね。大抵のウマ娘は、勝つ為に必死になるものだから」
その言葉を聞いた時――スズカの胸中を驚愕の二文字が埋め尽くした。
何故なら、彼女の走りを見て「素晴らしい才能」だの「素質がある」だのと言って来る人間は山ほどいたが、走りに感情を見出すような人間は彼が初めてだったのだから。
(本当に、何なんだろう、この人……私のことを全部知ってるような……変な感じ……)
スズカの心中は困惑に包まれるが、しかし不思議とその気持ち悪さはなかった。それは多分、彼が持つ、自然で暖かみを感じさせる空気によるものかもしれない。
「あのレースを見た瞬間に思ったんだ。――まだ、レースの世界も捨てたもんじゃないと」
青年の声色が、僅かに変わる。
それまでの柔らかなものから――何かを慈しみ、尊ぶようなものへと。
「そして今、実際に会って確信した。君ならきっと……誰もが明日への『希望』を抱くような、そんなレースをしてくれるはずだ、と」
その一言は、紛れもなく彼の『期待』が込められていた。
(……想いが、伝わってくる。どこまでも、暖かな風。これは――)
ただ、純粋なまでの、『希望』があった。
そこでふと、彼女は思った。
「……あの」
「ん? どうした?」
「もしかして、私をスカウト、したいんですか?」
遠くでカラスが鳴いた。
それからひと呼吸おいて、青年はその空気に耐えきれなくなってしまったのか、思わず吹き出してしまった。
「っく、す、すまない。笑うつもりは……ふふっ」
「う、う~~~……!」
どうやら見当違いだったらしい。破顔する青年を見て、スズカは羞恥心がこみ上げてくるのを感じた。
「ふふっ……確かに、叶うならスカウトしたかったさ。タッチの差で叶わなかったがね」
「そ、そうだったんですね」
「ああ、そうさ。だが、他人のウマ娘を横取りするなんて、そんな野暮な真似はするつもりはない。……けれど」
そして――青年の表情は、一転して曇りのあるものへと変わった。
「だからこそ……放っておけなかったんだ」
えっ、と声が漏れる。
「辛いものだよ、今の君を見ているのは」
青年が、スズカの方へと向き直る。
「レースに身を置く者にとって、勝ち負けは全てだ。……俺とてトレーナーの端くれだからな。その価値観自体は否定しない。……だが」
彼はスズカの目を見据えながら続ける。その瞳には、僅かな憐みの色が含まれていた。
「勝利に囚われ過ぎていて、楽しむ事が疎かになっている君を見ているのは、とても辛かった」
青年の声が震えた様に聞こえたのは気のせいではなかったのだろう。今度は青年から、悲哀の感情がスズカに流れ込んでくる。
スズカの不調を心の底から嘆き、悲しむような、そんな想いが伝わってくる。
(……ああ、この人は――)
そこでようやく気付いた。この人は、単に自分を気遣っているだけなのだと。
そんな単純明快な答えに気付けない程、自身は憔悴しきっていたのだ、と。……同時に理解した。
この人こそが、自身が最も求めていた人物――すなわち、自分が本当に共に走るべき存在ではないのかと、直感的に感じた。
そして――スズカの心の奥底から、何か熱いものが込み上げてきた。
……今まではただ『勝ち』に拘ってきた。レースを楽しむ事など考えずに、勝つ為だけのトレーニングを続けてきた。
――でも、それでは駄目。私が求めていたものとは全然違う。だって、『勝つ為の走り』はこんなにも窮屈で。そして何より――
(何より――あの『景色』が見えないのは、嫌)
そうなってしまうのは何故か。理由は単純である。ウマ娘として、そして一流を目指す者としてはごく普通の事ではあるのだが――『勝つ為の走り』を教え込まれた事が、逆に彼女の足枷となっていたのだ。勝ちへの渇望を、彼女は自身の走り方へ強く刷り込んでいた。故に無意識のうちに、自身を苦しめる走りになっていたのだろう。
それを気付かせてくれたのは紛れもなく、この青年であった。
「……なら、私はどうすれば」
スズカがそう口にしてしまったのは、心が救いを求めてしまったからなのかもしれない。
――だが、青年の口から出たのは。
「……すまない。俺からその答えを言う事は、出来ない」
と、言うより。と、彼は続けて言った後。
「意味がないんだ。君自身が考えて、出した答えでなくては」
まるで子供に言い聞かせるような声で、そう諭した。
予想外の返答に、少しばかり落胆したスズカだったが――不思議と、彼を責める気にはなれなかった。彼の言ってる事は何一つ間違っていなかったからである。寧ろ自分の方がわがままを言っている様な気分になったくらいだ。
(私、そんなことさえ分からないくらい……)
思い詰めてしまっていた。情けない事に。
そう自覚して、改めて己を振り返る。
――自分は一体何故レースを続けている? どんな気持ちを抱いて走っている? どうしたらもっと走れる?
――どうやって、楽しみたいと思っている?
今更の様に湧き上がってきた疑問を一つ一つ頭の中で並べて行く内に――ある結論に至った。
その瞬間スズカの中に、確かな熱が生まれるのを感じた。それは、彼女がずっと待ち望んでいたものだった。
そんな彼女の様子を知ってか知らずか――否、彼の事だ。気づいているのだろう――青年は改めて、彼女へと問いを投げかけた。
「もう一度、訊こう。君は、何の為に走っているんだ?」
サイレンススズカは、もう迷わない。意を決し、彼女は――
******
「……よかったのか? これで」
俺が言うのもなんだが、と、青年は気まずげに頭を掻いた。
そんな彼に対し、「はい」と、迷いのない声が返ってくる。
そう返したスズカの顔は、まだ暗さもあるが、どこか晴れ晴れとした様子で。その瞳は澄んだ光を取り戻しているように感じられた。
「これで、良かったんです。でないと私は、きっと前に進む事すら出来なくなってしまいますから」
「……そうか」
あの後、スズカは青年を伴い、自身のトレーナーの元へと向かい、そして告げた。
『トレーナーさん。私、勝つ為の走りはできません。自分自身の走りを突き詰めてみたいんです。だから――チームを、移籍しようと思っています』
そう告げられたベテラントレーナーは――意外にも、その言葉をあっさりと受け入れた。
『……なんとなくだけれど、いつかこういう日が来ると、そんな気がしていたわ。ええ。残念だけれど、私では貴方の才能を引き出すのは難しかったみたい』
「自分の指導理論を持ってるんじゃ、特にね」と付け足しながら、ベテラントレーナーはどこか寂し気に微笑んだ。
スズカは、そんな彼女を前にして、ただ感謝の言葉を告げるしか出来なかった。
しかし、それだけでも彼女には自身の考えが伝わったようで、
『いいえ、謝らなければいけないのはこちらの方よ。本当にごめんなさい。……本音を言えば、最後までやり通したかったけれどね』
と言って頭を下げたのだ。スズカにしてみればそれどころではなかった為、困惑していたが。
……ともあれこうして二人は無事に和解。スズカは次の道へと進む決意を固め、そして新たなチームに移籍する事となった訳だが――
『私、この人の元で頑張ってみたいです』
その発言に、今度は青年の方が困惑する事になった。
『……俺が言うのも変な話だが……会って少ししか経ってない俺を選ぶのか?』
青年が問うと、スズカは躊躇わずに首を縦に振った。
『はい。この人と一緒ならば、きっと何処までも行けると思うんです』
そう自信満々に言われてしまうと、青年としては何も言えない。
気恥ずかしそうに頬を掻くと、「及ばないながら、尽力させてもらおう」と、承諾の意を示した。……という経緯があり。
そして――現在へと至るわけである。
スズカとしては、まさかこんなに順調に行くとは思っておらず、未だ実感が湧かずにいた。
「ふむ……」
「どうかしましたか?」
「いや、何、随分あっさり引き受けてくれたな、と思ってね。正直君のような逸材を手放したくはないだろうから、もう少し抵抗されるものだと思っていた」
その点に関してはスズカも同じらしく、不思議そうな顔で首を傾けるばかりであったが。
「……あの」
不意に、スズカは青年――新たなトレーナーへと向き直った。
「これから、よろしくお願いしますね?」
「――ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
気付けばすっかり空は晴れ、夕暮れの日差しが優しく二人を照らしていた。
(……そういえば)
ふと、スズカは先程、ベテラントレーナーの部屋から去る際に気になる事を聞いたのを思い出す。
『――見せてもらうわよ。かつて『ニュータイプ』と称された貴方の腕を』
ニュータイプ。それが何を意味するのか、