午後3時を過ぎたトレセン学園のグラウンド。そこには、授業を終えたウマ娘が多数集まっていた。
……ウマ娘だけではない。まばらだが、トレーナーの姿もちらほらと見受けられたのだ。
彼女らが何故集まったのか? それは――
「かぁーッ! なんやクリークの奴! いつもと変わらん感じしときながら、やっぱ走りたかったんやんか!」
「そして相手は……最近話題になってるサイレンススズカか」
やや遠巻きにグラウンドを見つめるジャージ姿の二人のウマ娘。
どちらも芦毛ではあるが、体格が明確に違う。
小柄な方は『白い稲妻』タマモクロス、そして彼女と比較して大きい方が『芦毛の怪物』オグリキャップだ。
どちらもG1を幾度となく勝ってきた一線級の実力を誇る名ウマ娘であり、周囲のウマ娘やトレーナーも彼女らをちらちらと見ていた。
彼女達が来たのは勿論、これから併走をする友人のスーパークリークの応援の為だ。
「なんやなんや、ウチらの誘い断っといて、結局走るとか……走りたかったらそう言えばええんや、全く!」
「まぁ、私だって人前でたくさん食べるのが恥ずかしかった時期もあったし、クリークにもそういうのがあるのだろう」
「いやなんでやねん。お前のそれと一緒にすな。ウチらウマ娘やぞ?」
呆れたように言うタマモクロスであるが、その表情にはどこかクリークが羨ましそうな感情が見え隠れしていた。
何せ、相手は当代屈指の逃げウマ娘、サイレンススズカだ。今でこそG2までしか勝っていないが、そのスピードは金鯱賞を後から見直したタマモクロスとオグリを驚愕させるには十分すぎるレベルにまで達している。
「……なぁ、オグリ。勝てる思うか?」
「クリークがか?」
「それもやけど、何よりウチらが、や。あれは間違いなく、いずれG1獲れる器や。あの大逃げ、普通やない」
そう深刻そうに口にしたタマモクロスに、オグリはしばらく考え込むと、口を開いた。
「……正直、わからない。あそこまでの逃げをする相手は今まで戦ったことがないから。……けど」
「けど、なんや?」
「……彼女と一度走ってみたい。そう思ってるよ」
その答えに、「ほんにオグリらしいなぁ」とにっかり笑うタマモクロス。
何故なら、サイレンススズカと走りたいのは彼女も一緒なのだから。
「あれっ、おーい! オグリ先ぱーい!」
そこに、元気のいい声が飛んでくる。
振り向くと、こちらに駆け寄ってくるウマ娘の姿があった。
「ん? あぁ、スペシャルウィークか。こんにちは」
「はい! こんにちは!」
「おっ、大食いシスターズの妹の方が来たな」
「……? タマ、私には妹はいないぞ?」
「なんでやねん!オグリやのうて大食いゆうたんや!」
「妹……スズカさんの妹になれたら……」
「あかん、こっちはなんかトリップしとる」
頭を軽く抱えるタマモクロスであったが、すぐに気を取り直してスペシャルウィークの方へ向き直った。
「んで、どないしてん? お前さんも見に来たんか? ……って、それは愚問ってやつか。どうせスズカの応援に来たんやろ?」
「えっ、どうして分かったんですか!?」
「逆になんで分からんと思うたんや」
素直に驚くスペシャルウィークにジト目を向けるタマモクロス。
「……でも、ちょっと心配なんですよね」
「心配って、何がや? スズカが負ける事がか?」
「それは……ちょっとだけありますけど……この間の金鯱賞の後、スズカさん倒れちゃったから……」
「ああー、そう言えば倒れとったなぁ……大丈夫なんかそんなんで?」
「ええ。あの後体調が回復したし、一度レースにも出たから大丈夫だとは思うんですけど……」
と、そんな時だった。
「キャー! スズカさーん!」
「クリーク先輩ー! 頑張ってー!」
「スーパークリークは、私の母になってくれるかもしれない女性だ!」
「え、唐突に何言ってんの……?」
この騒ぎの中心人物である二人が到着したらしい。
制服から体操服に着替えたスズカとクリークは、真剣な面持ちでグラウンドを横断する。
「お、来おったで! おーい! クリークゥ! 負けたら承知せぇへんでー!」
「クリーク、頑張れ!」
「スズカさん! 頑張って下さーい!」
三人の声に気付いたのか、スズカとクリークは揃って彼女達に向かって小さく手を振った。
「……あれ?」
その時、スペシャルウィークにはスズカのしている笑顔がどこかぎこちないものに見えたが、気のせいだろうと思う事にしたのだった。
「あらあら、気づいたら凄い事になっちゃいましたね~……」
「そう、ですね」
当然と言えば当然なのだろう。最近逃げて差すというそれまでのウマ娘にはあり得なかったスタイルで勝ちを上げ続け有名になったサイレンススズカが、先輩でありG1ウィナー、あるいは三強の一角として名が知られているスーパークリークに挑むのだ。
それも何人も利用者がいるカフェテリアで堂々と言ったものだから、噂になるのも速かった。
しかして、この状況はスズカにとってはあまり良い状況とは言えなかった。
(……意思の流し方は、ある程度分かった。けど……やっぱり、怖い)
あの金鯱賞の後、オープン特別のレースで身体を慣らしはしたが……もしまた、『領域』の時のような事になったらと思うと、身体が震えてしまう。
だが、それでも逃げ出すわけにはいかなかった。いずれは立ち向かわなければならない事柄なのだから。
……何より。
(……幼くなってしまったとはいえ、トレーナーさんに格好悪いところは見せられない)
そうして、視線を向けて見つけたのは――少年になってしまった己のトレーナーの姿。
どうも周囲にたくさんのウマ娘がいる事に慣れていないのか、そわそわした様子でこちらを見ていた。
そして、スズカが少年の方を見ているのに気づくと、その口元が小さく動く。
どうやら「頑張って下さい」と言っているらしかった。
思えば、小さくなってしまった彼は、スズカの走る姿を一度も見たことがないのだ。そんな彼に自分の走りを見せると考えると、何故だか初めてやったおめかしを好きな人に見せる時のような、羞恥心めいた緊張感を感じてしまう。
「レースの条件は芝2000m、左回り、馬場は……良ですね。この条件で大丈夫ですか?」
「あっ、はい、大丈夫です」
スーパークリークがスズカに確認を取るように条件を述べると、スズカはそれに了承する。
芝2000m、左回り。それは、いずれスズカが挑む事になるレースであり、かつてスーパークリークが勝利したレースでもある、天皇賞(秋)と同条件という事を意味する。
無論、このトレセン学園にあるグラウンドは東京レース場の起伏までは再現されていないが、それでも予行演習にはなる。
「二人とも、準備は出来てるかい!?」
唐突にそう投げかけてきたのは、美浦寮の寮長であるヒシアマゾンだ。
流石にゴールに誰もいないとどちらが勝ったかを判別出来ない為、急遽願い出たところ、快く了承してくれたのだ。
「はい、大丈夫です~」
「こちらもOKです」
クリークはいつもの調子で同意し、スズカは真剣な表情で頷く。
しかし、どちらもレースへの意気込みは本物なのは間違いない。
事実、おっとりしているように見えるクリークの目には、確かな闘志が宿っていたのだから。
「うし! それじゃ位置に着きな!」
ヒシアマゾンに促され、クリークとスズカはそれぞれスタート位置に立つ。
「頑張れクリーク先輩!」
「どーんと挑んでいけースズカー!」
観衆が声援と共に見守る中で、クリークとスズカは共に集中力を高めていく。
そして――
「よーい……スタート!」
ヒシアマゾンの掛け声と共に、クリークとスズカが飛び出していく。
大方の予想通り、スズカはいつもの大逃げスタイル。対するクリークは、そこから離れるようにしてスズカの動向を見守っていた。
(流石スズカちゃん、いい逃げっぷりですね~。……でも、捉えて見せますよ)
大逃げをかますスズカに対し、クリークは決して焦りを見せない。この辺りは、流石G1ウィナーと言うべきか。
努めて沈着冷静に、スズカのレースぶりを観察している。
一方でスズカはと言えば――
(……クリーク先輩、流石についてくる気はないみたい。それはいい。それより――)
それ以上にスズカが気になってしまうのは、周囲から聞こえて来る『声』。
『頑張れー!』
『負けるなー!』
(……駄目、気を取られては。いつも通り、前の景色にだけ集中して……)
そう自分に言い聞かせながら、スズカは向こう正面の直線へと入っていく――
「……なんだろう」
少年がその違和感に気付いたのは、向こう正面の直線半ばにスズカが達した時だった。
(なんだ、この感じ……抑えてる、いや違う……全力を出し切れてない?)
少年の幼いながら純粋な感覚は、スズカが力を出し切れていないのを鋭敏に感じ取っていた。
それ以上に不思議なのは、それまで出来た覚えのない事を、今当たり前に出来ている自分自身だった。
(分かる……周りの人達がどんな事を感じているのか……でもその応援の気持ちが、スズカさんには届いていない? いや、それを跳ね除けてる?)
何故そんな事が理解できるのか、自分にも分からない。分からないが……同時に、自分が何とかしなければという使命感があった。その使命感の理由も分からないが、そんな事まで気にしていては無限に悩むだけだと、少年は割り切る事にした。
そして、自分に出来る何かが無いかを模索する。
……いや、ある。あるにはあるが、それは今の奥手な少年には勇気がいる行動だった。
(……正直、恥ずかしさはある。だけど――それ以上に、何故か分からないけどスズカさんには勝って欲しい!)
理由は分からない。だが、理由のない気持ちなんてものは、この世には普遍的にあり得るものだ。
そして、少年はおもむろに手を振り上げ――
所変わって、タマモクロス達も違和感の輪郭を捉えつつあった。
「……なんやなんやぁ? スズカの奴、いつもの感じとちゃうやんか」
「ああ。何と言えばいいのか……走りに覇気を感じない」
「えっ、そうなんですか? 私にはちょっと分からないです……なんとなく、ちょっといつもより遅いかな? とは思うんですけど」
「そりゃ経験の差っちゅうやっちゃな、しゃーないしゃーない」
スペシャルウィークの言葉に、タマモクロスは苦笑する。
彼女はまだクラシック級になって間もない身。スズカのあの気迫を感じられる程の経験は積めていなかった。……とはいえ、彼女もスズカと何度も一緒に走った仲だ。その微妙な違いは分かったようであった。
「スズカのヤツ、迷っとるな」
「迷ってる?」
「せや。何に迷っとるかまでは分からんけどもな、そういう迷いは自然と走りにも出るもんなんや」
「ほれ、見てみぃ」と、タマモクロスがスペシャルウィークを促す。
そちらを見て見れば――
「……ああ!? もうクリーク先輩があんな位置に!?」
スズカとクリークの差が、向こう正面の時点で徐々に縮まりつつあるではないか。それに驚くスペシャルウィークだが、タマモクロスは特に慌てた様子もなくそれを認めた。
「まあ、クリークなら当然やろ。いくらスズカが速かろうが、あんな舐めた走りで勝てるほど甘ないで」
タマモクロスの物言いに思わずムッとするスペシャルウィークだったが、今はそれよりもレースの行方が気になる。
慌ててスズカの方へ視線を戻せば、既にクリークの姿が間近に迫っていた。
「このままじゃ追いつかれる......! スズカさーん! 頑張ってください!」
最終コーナーに差し掛かったところで、スズカは焦燥感に駆られていた。
想像通りの逃げができている筈なのに、それができていないような、何かが致命的にズレてしまっている感覚。
(なんで……!? この間は上手く走れてたのに……!)
確かに、オープン特別の時はちゃんと走れていた。なのに、本番のレースでもない今ちゃんと走れないのはどういう事なのか。
(あの時と、何かが違う。でも、それが何か……)
考えれば考える程に混乱し、焦りばかりが生まれていく。
そうこうしている内に、最終コーナーから最後の直線へと向いていく。
(……嫌だ)
先頭の景色を譲りたくない。その気持ちだけはあった。
……本当に?
自分の中の誰かが問いかけてくる。
(……)
スズカは、答えられなかった。
……他にも譲りたくない、譲れないものがあった。だから、クリーク先輩の提案に乗ったんじゃないの?
再び、別の自分が問い掛けて来る。
それも、答えられない。
ただ、大切な繋がりを失ってしまったかのような喪失感だけがあった。
そして、最終直線に入った時――
『――スズカさーん!』
(……スペ、ちゃん?)
数多の声に混ざるように聞こえる、後輩の声。
それが分かると、何故だか背中を押してもらえているような気がしてくる。
(……薄情ね、私って)
見知らぬ誰かの『声』は、誰もいない静かな景色に混ざる雑音のようで、嫌で嫌でたまらなかったのに。
こと知り合いの『声』となると、素直に受け入れられるなんて。
(……けど、足りない)
まだ、足りない。スズカの心は、スペシャルウィークだけの声援では物足りなさを感じていた。
(あと、もう少し……!)
『――スズカさん!』
「……え」
少年の『声』が聞こえた、気がした。
『スズカさん! 頑張れェー!』
少年の声が、聞こえた。
目だけでギャラリーの方を見やる。
はたして、そこには小柄ながら、大きく手を振りながら必死の形相で応援する少年の姿があった。
そして、その姿を……少年の輝く瞳に映る自分を見た瞬間――スズカの中で、欠けていたピースが嵌った。
――ねぇ、貴方。貴方には勝ちたいという欲望も、叶えたい夢もない。それなのに、何故走るの?――
不意に、金鯱賞で倒れた後に見た夢で聞いた、あの声が再生される。
ピースが嵌った事で気づいたのは、その答え。
(……そっか、そういうことだったんだ)
何故、今まで気づかなかったのか。
それは、自分にとって――否、自分達にとって、とても大事な事なのに。
スズカは大きく息を吸い込み、そして吐く。
まるで深呼吸のようなそれは、しかし彼女の中に燻っていた迷いを吹き飛ばす。
そして――彼女は加速する。
「……っ!!」
クリークは驚く。クリークから見ても何かがズレていたスズカが、持ち直したかのようにそのスピードを上げたのだ。
そんなスズカを見て、クリークは――微笑みを見せた。まるで、子を見守る母親のように。
(スズカちゃん、何か吹っ切れたって感じですね。分かりますよ)
スズカを見ていると、自身にも迷い、悩んでいた時期があったのを思い出す。
クラシック期、皐月賞と日本ダービーという二大レースに参加できなかった悔しさ。そして、落ち込む彼女を献身的に支えてくれた、己のトレーナー。
不思議な話だが、今こうしてスズカと一緒に走っているクリークには、スズカの抱えている悩みの根源が分かる気がしたのだ。
(ですが――負けてあげる訳にはいかない!)
瞳を閉じ、開く。その瞬間、母のようだったスーパークリークは、勝利を目指す一人のウマ娘と化した。
一歩踏み込み、自身も加速する。
スズカとの距離をどんどん詰めていく。
スズカは、近づいてくるクリークのプレッシャーを敏感に感じ取っていた。
(……ッ、流石クリーク先輩。無視できない……! けど!)
それでもと、踏ん張るように足を前へ前へと持っていく。
だが、残り100mの時点で、追ってくるクリークとの差は殆ど無くなっていた。
しかし――
「行っけー!!! スズカさーん!」
「勝ってくれーッ! スズカさーん!」
周りの『声』と違い、くっきりと聞こえる二人の声。
今は、周りの声まで聞き取れる程ではないけれど――スズカにはその二人の声があるだけで、凄く心強かった。
「……ありがとう、二人とも」
自然と口から出た感謝の言葉と共に、スズカの姿はクリークともつれ込むようにゴール板を超えた――
もっとレースをカッコよく描写する腕が欲しい...