日が傾きだしてしばらくした頃、スズカはグラウンドの向こう側に沈んでいく太陽を見守っていた。
「……その、惜しかった、ですね」
そんな彼女に、少年は言い辛そうにそう声を掛ける。
結局、スーパークリークとのレースは、僅差でクリークの勝ちとなった。だが、少年からすれば前半の違和感さえなければスズカが勝っていたと思わせるには十分なものだった。
『……ありがとうございました、クリーク先輩』
『いえいえ~、こちらこそありがとうございました』
レースを終えた後、彼女らはレースを始める前のプレッシャーを放っていた様子とは打って変わり、晴れ晴れとした表情で互いに握手を交わした。
テレビでしかウマ娘のレースを見た事がなかった少年は、生のレースの迫力にも圧倒されていたが、それ以上に負けた筈のスズカが悔しそうではなかった事の方が驚きであった。
「……悔しく、ないんですか?」
「悔しいわ、凄く」
あっけらかんとそう言ったスズカに、少年は呆然とする。悔しいのに、その表情からは悲壮感が全く感じられないのだ。
「それって、負けた事が、ですか?」
「どうしてそんな事を訊くの?」
「だって……悔しそうじゃないから」
少年の言葉に、スズカは微笑みながら振り向く。
「……私ね、嫉妬、しちゃったの。クリーク先輩に」
「えっ」
驚く少年に、スズカは続ける。
「君、お昼の時、クリーク先輩に釘付けだったでしょ」
「えっ、いや、そんな……」
「……ふふっ、別に怒ってないのよ? ……ただ、貴方……とトレーナーさんがよく似ている人だったから、「ああ、あの人も女性らしい人が好きなのかな」って」
「……それで、クリークさんの誘いに乗ったんですか?」
少年の問いに、スズカはコクリと頷く。
「私、そういうのには疎いと思っていたけれど……あそこまで露骨だとちょっと、妬けて来ちゃって」
「そ、それは……」
「わかっているわ。クリーク先輩も君も、何も悪くないもの。私が勝手に勘違いしただけ」
慌てる少年を見て、スズカはクスリと笑う。
「でも……結果はこの通り。上手く走れなくて、焦って……大事な事に気付いた時には、もう遅かった」
「スズカさん……」
「でもね」と、スズカは続ける。
「初心忘るべからず、とは言うけれど、その通りだったわ」
「どういう意味です?」
「……君は、今日の私の走りを見て、どう思った?」
「どうって……凄かったですよ。最初はアレだったけど」
「ふふ、正直ね。……他には?」
「他……」
そう呟くと、何かを言い淀む少年。まるで緊張しているようだ。
「他には?」
そんな少年に、スズカは悪戯っぽく微笑みかける。
「えと……最後の直線の時、その、凄く綺麗だなって思って……凄く、頑張ってるなって」
「うん」
「上手く言えないんですけど……勇気を貰えたような気がしたんです。僕も頑張れるって、言われてるような気がして」
その一言が、かつてスズカがトレーナーに言われた言葉を記憶の彼方から引きずり出す。
――あのレースを見た瞬間に思ったんだ。――まだ、レースの世界も捨てたもんじゃないと――
――そして今、実際に会って確信した。君ならきっと……誰もが明日への『希望』を抱くような、そんなレースをしてくれるはずだ、と――
(……やっぱり、そうなんだ)
スズカは改めて確信した。どれだけ若返ろうと、トレーナーの中にいる自分は、彼にとっての『希望』たり得ているのだと。
「……私ね。ずっと、全力を出せずに……いえ、出さずにいたの」
「えっ、全力じゃ、なかったんです!?」
うん、とスズカは小さく首肯する。
「……トレーナーさんは、昔の出来事が切っ掛けでトラウマを抱えてたみたいで。だから、そのトラウマを掘り返さない為にも、私は安全策を取ってたの。全力で走れば、いつかは足が持たなくなる時が来るからって」
「そんな……でもそれじゃ、貴方が満足できないんじゃないんですか!?」
「そう。……私は、私の見たかった景色を一度は見れた。けど、見れなくなってしまった。多分、私が全力を出し切れなかったから、神様が怒ったんだわ、きっと。……でも、それでも私は、本当の意味での全力を出さなかったと思う。これまでは」
「そこまでして……なんでトレーナーの言う事なんて!」
納得がいかないのか、少年は激昂する。そこに籠められているのは、スズカのトレーナー――未来の自分への憤りなのか、それとも何もできない自分への怒りなのか。あるいは、自分を蔑ろにしてトレーナー業に打ち込んでいた父親を重ねているのかもしれない。
「その答えは、分からなかった。ついさっきまで」
「さっきまで?」
「……私、トレーナーさんの事――」
そう口にした瞬間、傾いていた日が地平線の向こうに消え――どさり、という音が聞こえた。
「――!?」
驚くスズカの視線の先で、少年が崩れ落ちていた。
「どうしたの!?」
「……身体が、痛くて……それに、凄く、眠たい、です……」
そう言って目元を擦る少年の姿に、スズカは驚愕する。先程見た時より、僅かに身体が大きくなっていたのだ。
(もしかして……薬の効力が切れた?)
確信めいたものを感じたスズカは、少年の身体を持ち上げる。
その肉体は段々と大きくなっていくが、ウマ娘の膂力があれば、彼を運ぶのは造作でもない。
スズカは、所謂お姫様抱っこで少年を抱えると、そのまま校舎に向かうのだった。
******
「……ん」
身体中が悲鳴を上げているかのような痛みにトレーナーが目を覚ますと、見慣れたトレーナー室の天井の一部と、陰になっている何かが見えた。
そして――それが、自分を見下ろしているスズカだと気付き、同時に自分が何を枕にしているのかに気付くのに、そう時間は掛からなかった。
「な――!?」
大人としての気まずさが勝り、トレーナーは柔らかな感触から頭を離すと、そのままごろりと横に転がり――肉体が地面に叩きつけられる。
「ぐぅ……!」
「ん……あ! トレーナーさん!?」
どうやらスズカも目を覚ましたらしい。慌てたように立ち上がると、トレーナーを助け起こす。
「膝枕、していたのか?」
「気持ちよさそうに寝ていましたよ」
「……俺は、どうなったんだ?」
「覚えて、らっしゃらないんですか?」
「ああ、どうにもな」
そう言いながら、トレーナーは恥ずかしさを誤魔化すように癖毛を掻く。何せ、大の大人が高等部のウマ娘に膝枕をされていたのだ。
それはともかくとして、トレーナーの記憶はアグネスタキオンに誘われて彼女の実験室に出向き、そこで色々とインタビューをされ、その後薬を飲んたところまでは覚えていたが、その後の事は全く覚えていなかった。身体の節々が痛むのといい、恐らくは薬の副作用だろう。
「俺は、その……若返っていたのか?」
「はい。15歳になってました」
「15歳だって?」
それは、彼の想定した年齢ではなかった。彼の想定ではせいぜい数年程度若返る筈だったのだが……そこはテストもしていない薬品だからというのもあるのだろう。
「……なぁ、俺は何か、変な事はしなかったか?」
「いえ。至って普通の、大人しい男の子でしたよ。……凄く、可愛らしかったです」
「からかうなよ」
スズカの言葉に、恥ずかし気に苦笑するトレーナー。とはいえ、どうやら実験に失敗したのは間違いないらしい。
記憶は全く保持されていないし、己の悩みが解決されたような感覚もない。
(……アグネスタキオンだって神様じゃないんだ。そこまで求めるのは酷か)
そして、ふと腕時計を見ると既に20時を回っていた。
「……こんな時間まで見守ってくれていたのか?」
「心配ありません。寮長には報告済みですから」
「そういう事ではなくて……まぁ、いいか」
はぁ、と息を吐いて肩を落とすトレーナー。しかし、終わってしまった事はどうしようもない。
荷物を纏めて帰宅する事を考えていたところ――
「トレーナーさん、少し、いいですか」
「ん、なんだ?」
スズカの顔を見ず、荷物を纏め始めるトレーナー。しかし、彼の見ていないスズカの顔は、真剣そのもので。
「次のレース、宝塚記念ですよね」
「ああ、そうだな」
「……そのレースで私、全力を出します」
その一言を聞いた瞬間、まるで蛇に睨まれた蛙のようにトレーナーの身体が硬直する。そして、ゆっくりとスズカの顔を見やる。
「……それは」
「止めたって、やります。私は。例え、貴方に嫌われようと」
「嫌うだなんて……俺はそんな――」
スズカの覚悟を決めた瞳に気圧される様に一歩後ずさった瞬間、ぐらりと視界が揺れた。
「うっ!?」
思わずよろけた拍子に尻餅をつきかけたところで、スズカの手が伸びてくる。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……」
そのまま、スズカはトレーナーを引っ張り起こすと、憂いを帯びた顔でトレーナーを見つめる。
「……分かってます。貴方の気持ちは。私を守ろうとしてくれているのも……失う事への恐れも。それでも、決めたんです、私は」
「……何故だか、聞いてもいいか?」
「貴方が、教えてくれたんですよ?」
「俺が?」
「そう。時を超えて、貴方が改めて教えて下さったんです。私のあるべき……いえ、私のなりたい、サイレンススズカの在り様を」
それは、まさしく時を超えた教導だった。
無論、トレーナーは一つも覚えていない。それでも、過去のトレーナーである少年から、大事な事を思い出させてもらった。
それは、スズカにとって始まりとも言えるもので。
「だから、トレーナーさん。私が次のレースで先頭を走り切った後、聞いて欲しい事があるんです」
「……勝つつもりではなく、既に勝っていると?」
「当然です。絶対に、貴方に聞いて欲しいから」
「……分かったよ。君は頑固なところがあるからな。約束する。必ず聞く。だから――」
「はい。必ず、帰ってきます。貴方を悲しませる事は、絶対にしない」
そう言って、スズカは微笑む。
トレーナーはその言葉を聞いて、何故か胸の奥底が熱くなるのを感じていた。
それでも、恐ろしいものは恐ろしい。もしも、スズカに――『あの子』の時のように何かあったらと思うと。
しかし――それではいけないと、内側から声がする。
(……そうだ。スズカが前に進むなら、俺も進まなければならない。俺は、彼女のトレーナーなのだから)
「……なら、俺は俺の最善を尽くすよ。そして、スズカ。君にもう一度、君が望む景色を見せてみせる」
「トレーナーさん……!」
その言葉を聞き、感極まるスズカ。
「……それじゃあ、もう遅くなる。帰ろうか、スズカ」
「はい!」
二人は並んで部屋の外へ歩き出す。すると、スズカが唐突にトレーナーの手を軽く握りしめた。
驚きで一瞬震えたトレーナーだったが、やがて観念したかのように、ゆっくりとその手を握り返したのだった。
次回、宝塚記念!