おや? タイトルの様子が……
6月に入り、夏の暑さがじわりと迫ってくる頃、宝塚記念は始まる。
既に控室で勝負服に着替えを終えたスズカは、精神を統一するように目を閉じ、深呼吸を繰り返していた。
(……大丈夫。あの感覚は、身体が覚えてる。後は、心を合わせるだけ……)
あの感覚……後に『
しかし、以前のような不安は無かった。不思議と、自分の中に確信があるのだ。今なら、あの感覚を再現できると。
そんな時、ドアの向こう側から気配を感じた。
「……スペちゃんにトレーナーさん? どうぞ」
「うひゃあ……相変わらず凄いですスズカさん! なんで分かったんです?」
驚きながら入ってくるのはスペシャルウィーク。それに続くように入ってきたトレーナーは、さも当たり前のような顔でスペシャルウィークの問いに代わりに応えた。
「君、スズカの所に行く時は決まって浮足立ってるだろ? だからじゃないか?」
「えぇ!?︎ う、浮いてます? 私の脚」
「そういう意味じゃないが」
「そ、そうなんですね」と照れ笑いを浮かべて頭を掻くスペシャルウィークを見て微笑むスズカ。
「……大丈夫そうだな、スズカ」
「はい、おかげ様で」
全力で走るとトレーナーに宣言して以来、入念に調整した甲斐あり、今日のスズカは絶好調と言っていい状態をキープ出来ていた。
この調子ならば、最高のパフォーマンスを発揮出来るだろう。そう思える程には自信があった。
「そういえば、なんでお二人一緒に?」
「ああ。実はここに来る途中、妙にそわそわした彼女と出会ってな。それで聞いてみたら、君に渡したいものがあるそうだから、ついでにと思って連れてきたんだ」
「ちょ、そわそわしてたの言う必要あります!?」
顔を赤くしながら抗議するスペシャルウィークだったが、「まあいいか……」と言いつつ改めて向き直り、手に持っていたものを差し出した。
それは、本物のクローバーの入ったお守りだった。
「これ……四葉のクローバー?」
「はい! 私、ダービーの時にこのお守りをチームの皆から貰って勝ったので、それでスズカさんにも渡したいなって思って探してきたんです!」
えへへと誇らしげに笑うスペシャルウィークから押し寄せる親愛の感情に、スズカは感極まりそうになってしまう。
「……スペちゃん、ありがとう」
「いえいえ!いつものお礼ですから!」
「お礼? ……私、言われる程スペちゃんに何かしてあげたかしら……」
「えー! いつも時間がある時に併走付き合ってもらったり、勉強見てもらったりしたじゃないですかー!」
事実だった。確かに言われてみると、自分は彼女に色々と世話にをしていた気がする。最近は色々あったので忘れてしまっていたが。
良く言い換えれば、それが日常として自然に溶け込んでいるという事なのだろうか。
(スペちゃんに感謝しなくちゃいけないのは、きっと私の方なのに)
スズカは嬉しかった。まだ自分を慕う人に何も出来ていないと思っていた自分が、誰かの為に行動できていた事が。
――だからこそ、彼女は改めて決意する。
「スペちゃん。貴方の期待、絶対に裏切らないから」
「……! はい!」
スズカの言葉に力強く応えるスペシャルウィーク。
と、そんな時だった。
「……おっと、そろそろパドックの時間じゃないか?」
「え?……うわっ、ホントだ! じゃあ、私はこれで失礼します! スズカさん、今日は頑張って下さい!!」
トレーナーの言葉を聞き時間を見れば、確かにもうすぐスズカがパドックに出る時間が迫っていた。
それに気付いたスペシャルウィークは、慌ただしくまくし立てると急いで控室から立ち去って行った。
「……本当に、良い後輩を持ったよ、君は」
「はい。本当に」
トレーナーと言葉を交わした後、スズカは受け取ったお守りを握りしめ、目を閉じた。
「……トレーナーさん」
「なんだ?」
「さっき、もしかして嫉妬してくれました?」
「……よく大人をからかう。好きじゃないな、そういうの」
「違うなら、そういう事にしておきます」
スズカはくすりと笑みを浮かべながら、目を開いた。
どこか一皮剥けた気配を纏わせた彼女の笑みは、それだけ大人っぽく見えて。
「では、行ってきます」
「ああ。しっかりな」
「はい」
そう言って、スズカも部屋から出ていった。
「…………」
一人残された男は、静かに息をつく。そして、その顔には苦笑いのような表情を浮かべていた。
それはまるで、娘か何かのように思っていた相手が、知らぬ内に大人らしく成長していたのを知った時のような複雑さと、少し寂しさを感じさせるもので。
「……まったく、こっちの気も知らないで」
――……だが、悪くない。
そう呟いた男の顔は、どこか晴れやかに見えた。
******
『さぁ、やってまいりました、本日のメインレース! 宝塚記念! ファン投票で選ばれた13人のウマ娘が、この阪神レース場2200mを駆け抜けます!』
会場中に響く実況の声。観客たちの歓声が地鳴りとなって響き渡る中、地下バ道では――
「今日はよろしくお願いします。エアグルーヴ先輩」
「ああ。……これで三度目か。お前と走るのは。いい勝負をしよう、ドーベル」
「はい!」
エアグルーヴとメジロドーベルが握手を交わす。
去年の有馬記念から始まって、三度に渡り対戦してきた先輩後輩として、敬意をもって接する彼女らは、互いに健闘を誓い合う。
「それじゃあ、ターフで」
「ああ」
そう短く言葉を交わし、ドーベルは先に外へと向かう。
「……さて」
そして、エアグルーヴは親しい相手の気配を感じ取り、振り返る。
「待っていたぞ、スズ――」
カ、と続けようとしたエアグルーヴは、言葉を紡げず息を飲んだ。
「……? どうかした、エアグルーヴ?」
そう不思議そうに口にするスズカは、見た目はいつも通りであった。
違うのは――その瞳。
普段ならば澄んだサファイアを想起させる碧眼に宿るその光の奥に、何か底知れないものを感じる。
それを例えるなら、まるで深淵――
(――否。これは、これではまるで……)
小さな宇宙。広がる闇。そこに瞬く星の閃光。スズカの目を覗き込んだ時に脳裏に浮かんだ情景は、まさにそうとしか言いようがなかった。
「スズカ……」
「? どうかした?」
思わず名前を呼んでしまうエアグルーヴに、スズカはきょとんとした様子で首を傾げる。
その姿は、やはりスズカ以外の何者にも見えない。
だが、今の彼女からは、確かに常人離れしたものを感じた。
(……まさか、『
いや、それだけではない。エアグルーヴの本能がそう言っていた。
本能にそう囁かせるだけの、もっと別の何かを感じたのだ。
(……まさか、タキオンの言っていた
そんな、馬鹿な。そう思いつつも、エアグルーヴの背筋には冷や汗が流れる。
……だが同時に、胸の高鳴りも感じていた。
――ようやく、本気のスズカと戦う事が出来る。
それが、ただ嬉しかった。
「……スズカ。私は負けん。必ず勝つ」
「ええ。私もよ」
決意と熱を込めた言葉をエアグルーヴは口にし、スズカもまた、短い言葉と真っ直ぐな視線で応えた。
その短い言葉に、エアグルーヴは僅かばかりの感動を覚えた。
あの、走る事だけしか頭に無かったスズカが、先頭を走れれば満足気であったサイレンススズカが、自分と同じように勝利を目指している。
そこにどういった理由が、目的があるのかは分からない。だが――
(いいぞ、スズカ。それでこそ――私のライバルだ!)
エアグルーヴの口が、自然と孤を描く。そこにあるのは花に向ける慈愛でもなければ、妖艶な意味合いをもった色づきでもない。純粋な闘争心だけがあった。
******
同時刻、レース場の特別席にて。
「……今日も、大盛り上がりだな」
『皇帝』シンボリルドルフは、大盛況の阪神レース場を見下ろしながら、感慨深げにそう呟く。
だが、そこには笑顔はない。あるのは――一抹の不安。
思い出すのは、タキオンから聞いたニュータイプ論。
――いいかい? これはあくまでも、あくまでも即興で作り上げた仮説だ。聞き流してくれても結構。だが、私は本気だ――
――ニュータイプに目覚めたウマ娘、それは間違いなく、周囲に多大な影響を及ぼす存在となる。それは、エンターテイメントとしてウマ娘が提供するそれとは訳が違う。もっと別の……本能的な何かだ――
――この感覚を上手く説明する事は出来ない。しかし、そうだね……。あえて言葉にするなら――世界が変わる。それぐらいの変化が起きると思ってくれればいい。これは誇大表現でもなければ、過剰な妄想でもない。さっきも言ったろう? 私は本気だと――
――そして、その影響はやがて一種の感応現象となり、
――その果てに待つのは、覚醒したウマ娘による本能の暴走か、それとも……――
「……」
タキオンの言葉を思い出しながらも、ルドルフは黙って下を見下ろす。
そこにいるのは、今まさにゲートに入る所である二人の姿。
エアグルーヴとサイレンススズカ。二人の姿が、ルドルフの目に映る。
だが、今の彼女が考えられるのは、両者のいずれかの勝利予想ではなく。
(……サイレンススズカ。君はウマ娘に……人類に何をもたらす?)
それは、ルドルフが皇帝たる所以の、ウマ娘という種への変わりない愛情と、上に立つ者であるが故の尊大な疑問であった。
――ゲートが開くまで、後十数分。
******
時同じくして、レース場の入り口付近にて。
「ありがとう、此処まで連れてきてくれて」
「…………」
その二人は、周囲からすれば酷く目立っていた。まるで、黒の中の白、あるいはその逆のコントラストのように。
二人が見目麗しいウマ娘だから、というだけではない。
片や、車椅子に乗る褐色のウマ娘。その纏う神秘的な雰囲気は、とても不思議という言葉だけでは言い尽くせない。
そしてもう一方、頭の先からつま先まで、全てが白でコーディネートされた、仏頂面のウマ娘。
白い帽子から伸びる艶やかな白毛には、人を惹きつける妖しげな魅力がある。
白のフライトジャケットの肩部分には、かの伝説にて語られる角を持ったウマ娘、ユニコーンを象った赤い刺繍が為されている。
そんな二人に近づこうとする人間は――誰もいなかった。
当然と言えば当然である。何故なら――
「ふふ、もう。そんなに圧を振りまいていては、折角の可愛い顔が台無しよ?」
「…………」
「あら? なら貴方は私の騎士さんね。ユニコーンの騎士さん、うふふ、格好いいわ」
「………………」
終始無言で圧を振りまく白毛のウマ娘に、褐色のウマ娘が一人話しかけている。
傍から見ればなんとも奇妙な絵面だが、彼女らにとってはこれが普通のようで、周囲の奇異の視線もまるで気にならないようだった。
「…………」
「そうね。私もそう思う。緑の子が勝つわ」
「…………」
「何故って、レースを見たいから、ではいけない?」
「…………………」
「……久々にね。感じたかったの。生命の輝きを。そして――
「………………」
「あら、貴方にはなんでもお見通しね? 流石、彼と繋がっていただけあるわ」
「…………!」
「ふふ、ごめんなさいね」
その時、初めて白毛のウマ娘の表情が変わった。
眉間にシワを寄せ、明らかに不機嫌になった様子を見せる。
だが、それも束の間。すぐに元の凛とした表情に戻ると、小さく息を吐いた。
「…………」
「ええ、そうね。そろそろレースが始まるようだし、行きましょうか」
そうして白毛のウマ娘は、車椅子を押しながらゆっくりと歩き出した。
「……ねぇ、もしかしたら彼にも会えるかしら?」
「……………」
「確かに、貴方にとっては気まずいかもしれないわね」
「…………」
「そうね。お楽しみは後に取っておく、そういう事にしておきましょう」
そうして談笑をしながら、二人は進む。
彼女らの行く先は、まるで海を割るモーセのように人々が避けていく為、全く人がいない。
目指すは、夢の舞台。
その先に待つ、奇跡のような光景を見届ける為に――