「アグネスタキオン君、だね?」
「……おや? そういう君は、かの有名な……ライスシャワーのトレーナーじゃあないか」
「……本当は
「いやぁ! そんな事はないさ! それより、私に話があるんだろう? こうしてわざわざ呼び止めたんだから」
「ふむ。話は早い方がいい。単刀直入に言おう。君の研究に出資させてもらえないだろうか」
「……出資、だって?」
「これでも懐には余裕があってね」
「そういう事じゃない。君、私がどういう評判のウマ娘か、知っていて言ってるんだろうね?」
「評判など、この目で見た物事以上の事実を示さないものだよ、タキオン君」
「……なるほど。君がどんな人間かは、なんとなくだが分かった。私のようなウマ娘にも理解を示すタイプだと。その上で聞きたい。私になんの見返りを求めている? ライスシャワー絡みか?」
「ふふ、先に見返りを聞くか。君は想像以上に聡明な子だ」
「もったいぶらないでくれ」
「……そうだな。半分正解、といったところかな」
「半分?」
「何、単純な事さ。……これを、ある人物に渡してもらいたい」
「これは?」
「そうだな……人を変える、魔法のガラスの靴、とでも言おうか」
******
「…………」
トレーナー室を静寂が包む。しかし、そこに誰もいないというわけではない。寧ろ逆だ。
トレーナー室のソファーには一人、エルメス。そして、向かい側にパイプ椅子に座っているのが三人、トレーナーにスズカ、そしてホワイトユニコーン。
スズカとユニコーンは、何故かトレーナーを挟むように座っており、互いに席をトレーナーの方に寄せている。
ちなみにライアンはと言えば、「あっ、私、用事を思い出したので!」と、まるで逃げるかのようにその場から立ち去ってしまったのでここにはいない。
「……二人とも、何をそんなにいがみ合って……いや、なんでもない」
そう訊こうと思ったが、二人の無言の剣幕がその続きの言葉を紡ぐのを許さなかった。
「あら、両手に花ね」
そして、エルメスは対岸の火事を見るかのように、ふふ、と微笑んだ。
「……からかうのはよしてくれ。これでも困ってるんだ」
「あら、そういうのは男冥利に尽きるものではなくて?」
「そんなの、偏見だよ」
そうしてトレーナーは、自身の癖である頭を掻く仕草をしようとするが……思ったよりも不自由な密度で、腕を上げられなかった。
「……ホワイトユニコーンさん。トレーナーさんが困っています。少し離れてはどうですか?」
「………………」
いやだね、とでも言わんばかりに、ユニコーンは更に身体をトレーナーに寄せる。そして、スズカも負けじと身体を寄せる……どころか、既にトレーナーに密着する程の距離まで詰め寄っていた。
「…………!」
それを感じたユニコーンは、自身も更に距離を詰めんとし――
「――いい加減にしろ!」
――ようとしたところで、流石に我慢の限界が来てしまったトレーナーに止められる。
「二人とも! 何をいがみ合っているのか分からないが、一度外で頭を冷やしてくるんだ!」
そう言いながら、トレーナーは力ずくで二人を引き剥がしにかかる。
「ちょっ!?」
「…………!」
スズカは驚きの声を上げるが、それでも離れまいと抵抗する。
「スズカもユニコーンも、いい加減にしなさいよ!」
普段温厚なトレーナーだが、今回は珍しく声を荒げていた。その迫力に気圧され――あるいは、これ程までに怒られるとは思っていなかったのか――二人は思わず固まってしまう。
「とにかく! 二人とも一旦外で話し合うんだ!」
そして、トレーナーは勢いのまま二人を外に追い出し、ぴしゃりとドアを閉めた。
「……ふぅ」
「お疲れね」
「よく言う。君だな? 彼女を追いたてたのは」
「さぁ、なんの事かしら?」
そう言いながらとぼけるエルメスに、トレーナーはしかめっ面で睨む。
「……丁度いい。君とも、久々に話をしたいと思っていたんだ」
「あら、浮気? 駄目よ、そういうのは」
「茶化すなよ」
そう言いながら、トレーナーは改めて、彼女の前に座るのだった。
「……見ていたんだな。スズカの宝塚記念を」
「ええ」
トレーナーの問いに、エルメスはあっさりと答える。
「いや、それだけじゃないな? 君は、何かしらの形でスズカと接触した。違うか?」
その問いかけに、エルメスは驚いたような表情を見せる。
「……てっきり、ユニ子と離れた貴方の力は衰えたものだと思っていたのだけれど」
「スズカのおかげ、かもしれないな。また勘が鋭くなってきたような気がするよ」
「それって、あの頃よりも?」
「いや、あの頃は俺も若い感性があったからな。どうとは言い切れないさ。……それで、何故スズカに接触しようとしたんだ?」
そうね、とエルメスは少し考え込む仕草をする。そして、出た答えは――
「……ちょっと気になったから、かしら」
何かを誤魔化すかのように、二コリと微笑んだ。
******
一方、追い出された二人はと言えば、相変わらず剣呑な雰囲気をぶつけ合わせ、一言も発する事なくトレーナー室の前で立っていた。
中では、あのエルメスというウマ娘がトレーナーと何かを話をしているのが聞こえる。だが、入ったとてまたトレーナーに追い出されるだけだろう。
それだけに、スズカの中には何か焦燥感めいたものが渦巻いていた。
「……一つ聞いても?」
そんな感覚に耐えられなかったのか、それを紛らわそうとしたのか、唐突に口火を切ったのはスズカだった。
「……何故、そんな身体で挑んできたんです?」
ピクリ、とユニコーンが反応を示す。
「……分かりますよ。左腕があまり上手く動かせないんでしょう? それに、目もほとんど見えていない。貴方は、自分の持つ感覚だけで走っていた。そうですよね?」
その言葉を聞き、ユニコーンの
「……何故、私に挑んできたんです? 貴方は、本格化のピークだってとっくに過ぎている筈なのに。もう、トレーナーさんとは繋がりがないのに」
――トレーナーの前から、去ったのに。
スズカは暗にそう告げた。
そう、ユニコーンはかつて、引退レースとなった有馬記念の後、そのままトレーナーの前から姿を消した。その理由を、トレーナーも、スズカも知らない。だから今、ユニコーンが何を思ってここにいるのか、スズカには分からなかった。
ただ、ユニコーンはスズカの質問には何も答えず、ただ黙ってその場に立ち尽くすだけだった。
「…………」
……否、ユニコーンの心が、語り掛けてくる。トレーナーを想えばこそ、仕方のない選択だったと。
「……仕方の、ない?」
――当然だろう? 左腕が麻痺し、視力のほとんどを失ったウマ娘。そんな存在が、レースの世界にいていいはずがない。
――それはつまり、トレーナーである彼の元にいる理由すらも無くなった事を意味する。
――理由もなく傍にいるという選択肢が取れる程、自分は子供ではないのだ。
ユニコーンはそう考えていた。
「……!」
しかし、スズカは納得しなかった。
「そんなの……そんなの、逃げてるだけじゃないですか」
そうだな、とユニコーンは返した。
「それなのに、何故今更あの人の前に現れるんです?」
――……ついでだ。お前というウマ娘を図る、そのついで。
「嘘ですね。貴方の中には、まだ確かにあの人への想いが残ってる。だから――」
――気安いッ!
光の無い瞳に、ギラリと光る何かがあった。それは、紛れもなく怒り。
だが、怒りを露わにするという事は――
「……どうして、自分に正直になれないんです? 貴方も、トレーナーさんが好きなんじゃないんですか?」
そう言われたユニコーンは、顔を背けながらこう返した。
――……情けない走りをするウマ娘に、言われる筋合いはない。
「え?」
――事実、そうだろう? お前は、さっき走っている最中、何を考えた? 走る事だけに集中できていなかっただろう。違うか?
「っ」
――安っぽい嫉妬。その為にお前は、トレーナーに無様な姿を晒すところだった。
――トレーナーを想うのならば、お前が一番してはいけない事だろうが!
思念がプレッシャーとなって、スズカを圧し潰さんとする。
だが――それでもスズカは挫けない。挫けはしないが……しかし、彼女はそれに返す言葉がなかった。
何故なら、嫉妬したのは本当だから。
スズカがそう自覚していたから。
「……」
押し黙ったスズカを見て、ユニコーンはフン、と鼻息を鳴らした。
――お前は、
その思念が、そのままスズカの心にグサリと突き刺さる。
「そ、れは……」
――結局、お前は今まで通り自分の事しか考えていない。トレーナーの事を何も理解していない。
「……」
貴方に何がわかると、そう言うのは容易かった。だがスズカは……反論できなかった。ユニコーンの言葉は全て真実だと分かっていたから。
だが、そんな彼女に対してユニコーンは更なる追い打ちをかける。
――トレーナーを想う気持ちがあるのであれば、何故信じてやらない?あの人は、ウマ娘の事を信じる、誰よりも優しい人間なんだぞ。
知っている。それぐらい。
――なら、そんな人の担当ウマ娘たるお前が為すべき事は、一つしかない筈だ。
自分の感情よりも、もっと優先すべきもの。
それが何なのかを、スズカは考え込む。
――……次の毎日王冠、出るんだろう?
「……! どうして、それを」
――勘だ。だが、確か若いので生きのいいのが来るらしいな。
生きがいい。その言葉が示すのは、恐らく――
「……クラシック級の子」
思い浮かぶのは、後輩であるスペシャルウィーク。彼女はクラシック三冠の最後を飾る菊花賞を目指しているから毎日王冠には出ないが、しかし彼女の世代……世間では『黄金世代』と評されるウマ娘は、後数人いる。
そして、その中でも三冠の栄誉に拘らず、しかし抜きんでた実力を持つウマ娘が、二人いた。
――もし、そいつらとのレースで今日のような無様な走りを見せてみろ。あの人を力づくでも連れていく。
「そんなこと、させない!」
スズカの声に、力が籠る。
「トレーナーは、誰にも渡さない。たとえ相手が、かつての担当ウマ娘でも!」
スズカの目に、光が灯る。
「だから――次のレース、絶対に負けません」
キッ、と睨みつけてくるスズカに、ユニコーンは平然とした様子で目を細める。
――まだまだ、青いな。
「何が、です?」
――いや、何でもない。
そう思念を送りながら、ユニコーンは窓の外の空を見やる。
赤みがかった空に、大きな雲が浮かんでいた。