「え、トレーナーさん?」
それは唐突な質問だった。
トレーナーが今の彼に移ってから2戦、重賞にも挑み、無事勝利を収めた後、クラシック級のウマ娘として天皇賞(秋)に挑もうかという頃合いに、友人エアグルーヴにそんな質問をされたのは。
「ああ。聞けば、お前の担当になる前まではあまりレースでいい噂のない、謂わば閑古鳥状態らしかったからな」
「……いい噂のない?」
そう聞いて不安げにするスズカに、エアグルーヴはハッとした表情をすると、
「――ああ、誤解するな。いい噂というのはつまり、担当ウマ娘をあまり勝たせられていない……どころか、そもそも担当ウマ娘が就いた事があまりなかったという意味だ」
(……まぁ、何かしらの話を聞かない男だから、あまり信用できないというのもあるが)
そう訂正しつつ、エアグルーヴの心の中には、僅かばかりの疑念があったのだが。
元より男という性に対してあまりいい印象を持たないエアグルーヴ故、仕方のない事ではあるだろう。
「……担当ウマ娘が、いなかった……?」
「……? スズカ?」
「い、いえ、なんでもないわ!」
スズカは慌てて取り繕いつつ、誤魔化すように考え込む。
「そうね………………不思議な人、かしら」
「考え込んだ末に出るのがそれなのか……」
思わず関西人よろしくのズッコケをしてしまいかけたが、なんとかプライドだけで持ちこたえたエアグルーヴ。
しかし、スズカとしてはそう言う他ない。
「だって私……あまりプライベートであの人と関わらないし……あ、でも悪い人ではないわ。寧ろ、私なんかにも良くしてくれて……なんだか、一緒にいると安心できるの。それは間違いない」
「そ、そうか」
スズカのどうも要領を得ない発言に、エアグルーヴとしても不安にならざるを得なかった。
とはいえ、その男がどういう人物であれ、スズカにとって害のある存在でなければ問題はないのだ。これが無茶なトレーニングをさせるようなタイプだったり、スズカの脚を平気で触ったりするようなデリカシーのない男なら、エアグルーヴは容赦なく【自主規制】を蹴り上げ、生徒会の権限を使ってでもその男をトレーナー職が出来なくなるまで追い込むつもりだった。
「後は、そうね。トレーニングの指示も、ちょっと変わっているというか」
「変わってる?」
「例えば、限界を超える走りをするな、とか」
そう聞くと、なんとも不思議な気分になる。普通、この手の指示においてウマ娘に求められるのは、『限界を超えた走り』だ。そして、ウマ娘としてももっと速くなる為に限界を越えようとする。それをさせようとしないとは、どういう魂胆なのか。
「それから……これは気のせいかもしれないのだけど」
「ん?」
僅かにスズカが言い淀むが、意を決したのか、エアグルーヴの目を真っすぐ見ながら口を開いた。
「ちょっとだけ、なんというか……怖い、と思う時があるの……」
「…………」
スズカの言葉を聞いて、エアグルーヴは一瞬言葉を失った。
レースであれば分かりやすく先頭の景色を見られた事を喜ぶスズカだが、それ以外では滅多に自分の感情を口に出す事がない。
そんな彼女が、ここまではっきり口にしたのを聞いたのは、少なくともエアグルーヴが知る中で今までなかった。
「……ふむ、怖い、か」
「ええと、怖い目に合わされるとか、そういう意味じゃないの。どう言えばいいのか、自分でもよくわからないのだけど……たまに私の走りを見て、表情が強張る時があるの」
「強張る?」
「ええ。まるで何かに耐えているみたいに、歯を食いしばって……うぅん、違うわね。もっとこう……悲しげな顔と言うべきかしら」
「悲しげな……」
「ごめんなさい。上手く言えないけど、きっと私が変なフォームをしているんだろうなって思う事にしているの」
スズカの言葉を聞きながら、エアグルーヴは自分の中の思考を整理していた。
確かに彼女の目から見ても、今のスズカはめきめきと成長してはいるが、まだ走りに粗さがあるのは否めない。だが、それだけで果たして表情が強張ったりするだろうか? 他でもない、スズカに大逃げという作戦を容認するような男が。
「……わかった。お前がそう言うならば、一度確かめてみるとしよう」
「えっ?」
「大丈夫だ。……それと、もし何かあったらすぐに連絡しろ。生徒会の権限を使ってでも解決してやる」
「……ええ。ありがとう、エアグルーヴ」
そして、この日からエアグルーヴは、練習の合間にスズカのトレーナーについて調べ始めたのだが――結論から言ってしまえば、何も出てこなかった。
いくら生徒会の副会長とは言えど、プライバシーの関係からか学園側から得られる情報が少ないのは彼女としても知るところだったが、それでもある程度情報が集まる筈なのだ。担当してきたウマ娘だとか、勝ってきたレースだとか。
なのに、スズカの話以上の情報が全くと言っていい程出てこない。
どうやらここ最近閑古鳥が鳴いているという話は本当だったようだ。
故にエアグルーヴとしては不本意ではあったが、これは直接会ってみるしかないと判断した。
他ならぬ友人であり、いずれはライバルになるであろうスズカが抱く不安を取り除く為に。
そうして、スズカのトレーナーに会おうと決意した、その矢先の事だった。
「――悪い事は言わない。それ以上踏み込むのはよす事だ、エアグルーヴ君」
サングラスを掛けた金髪の男が現れ、エアグルーヴを止めに入ったのは。
「……失礼ですが貴方は?」
「……しがないトレーナーの一人さ。あの男の事を多少知る、な」
警戒心を露わにしたエアグルーヴの問い掛けに対し、男はサングラスを外すと素直に名乗り出た。
サングラスの下から出てきた憂いを帯びた瞳と、その端整な顔立ちも相まってか、悔しくも生徒会長であるシンボリルドルフにも似たカリスマを感じさせる男だった。
「あの男、というと……スズカの担当トレーナーですか」
エアグルーヴの問いに、金髪の男は首肯すると、そのまま話を続ける。
「……男にはね、触れてはならない傷というものがあるのだよ。エアグルーヴ君」
「……!」
その言葉には、エアグルーヴには決して分からない、見えない重みがあった。
「あの男がサイレンススズカ君の走りを見る時の眼差し……あれは、過去に傷を負った者が持つものだ」
「……何故それを、貴方が知っている」
「これ以上は止めておきなさい、と言っている」
言葉の丁寧さに対し有無を言わせぬ口調に、『女帝』と謳われたエアグルーヴですら気圧され、何も言い返せなかった。
そして、金髪の男はそのまま背を向けて立ち去ろうとする――が。
「……だが」
立ち去りかけて、一瞬立ち止まる。
そして、一言と一緒にある『名前』を告げると、男は再びサングラスを掛け直し、何処へと去っていく。
後に残されたのは、エアグルーヴただ一人。
「……何故、その名前が出てくる?」
エアグルーヴの脳裏に浮かんだのは、先日のスズカとの会話。
『まるで何かに耐えているみたいに、歯を食いしばって……うぅん、違うわね。もっとこう……悲しげな顔と言うべきかしら』
そして今聞いたばかりの――正確に言えば、名前だけは聞き覚えのある――とある存在。
それらが示す答えとは。
「スズカのトレーナー、貴様は一体……」
そう呟いた矢先、エアグルーヴは駆け出す。
目指すのは、彼女が知る限り唯一の手掛かりがあるであろう場所。そこは――
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「ええ、ありますよ! そのウマ娘の情報!」
興奮したようにそう返したのは、眼鏡を掛けたウマ娘、ゼンノロブロイ。
所謂図書委員である彼女のその言い知れぬ気迫に、エアグルーヴはまたもや気圧されそうになるが――そこは年上としてのプライドもある。何とか押しとどめると、気丈に振舞いつつロブロイに問いかけた。
「何処にある? その情報は」
「ええと、ちょっと待って下さいね。何せ、少しばかり時代が古いものですから」
そう言いながら、ロブロイは奥の本棚へと向かって行く。
エアグルーヴがやって来た場所……それは図書室。
ここには一般的なレースの知識のみならず、過去に活躍したウマ娘についての本や情報も所蔵されているのだ。
だが、トレーナーに関しては余程の名トレーナーの著書でもなければ、その限りではない。故に、最初は選択肢から外れていたが――
――もし、それでも知りたいというのなら、この名前を探すといい。無論、覚悟があればの話だが。
そうして出た名前が、彼が担当していたであろうウマ娘の事を指しているのなら、話は違う。
それからしばらくして、一冊の分厚い本――エアグルーヴの予想に反した代物であった――を持ってきたロブロイは、テーブルの上にそれを置く。
「これです」
「これは……『名ウマ娘列伝』か?」
彼女が金髪の男から聞いたその名は、レースの歴史を知る者にとってはあまりにも有名なもので。しかし、その歴史を詳しく知る者は、あまり多くない。何故ならその歴史は、かのベテランウマ娘、マルゼンスキーよりも古いのだから。
「はい! エアグルーヴさんがおっしゃったウマ娘。彼女についても、此処に記載されていると記憶しています」
「……あれだけの本の中から探し出すとは、余程詳しいのだな」
「はい! なんと言っても、一時代を象徴するウマ娘の一人……謂わば『英雄』ですから! 事実、その活躍から付けられた彼女の二つ名は――」
――『白き流星』
その異名だけなら、エアグルーヴでも知っていた。
だが――その奥底に潜む仄暗く悲しい過去を、彼女はまだ知らない。