『――さぁ、期待に応えてサイレンススズカが早くも先頭へ抜け出します!』
やめろ。
『なおもサイレンススズカはスピードを緩めません! いや、更に加速し、その差を広げていきます!』
やめろ。
『飛ばしに飛ばすサイレンススズカ、今1000mの標識を通過! いったいどれだけの着差で、どれだけのタイムでゴールを通過するのか!?』
やめて、くれ。
『先頭を走るサイレンススズカ! 今、大欅に差し掛かります! ―――――』
何故だ! 何故こんなものを僕に見せる!? 君は――僕に何をさせたいんだ!
――ん――
――ナー――さん――
いや、違う……違うんだろ?
――トレ――ん――
……待ってくれ。何処へ行くんだ?
「――トレーナーさん?」
己を呼ぶ声が聞こえた瞬間、ハッとした表情を浮かべながら、トレーナーは上体を勢いよく起こした。
見渡してみれば、そこは見慣れたトレーナー室で。
「ハァッ……ハァッ……」
その額からは脂汗が滲み出、呼吸も荒く乱れている。
頭痛と吐き気を覚えながらも、彼はどうにか深呼吸を繰り返して落ち着くよう努めた。
「トレーナーさん、大丈夫ですか? その、随分とうなされてたみたいですが……」
不意に声をかけられ振り向くと、そこには心配そうな顔つきをしたサイレンススズカの姿があった。どうやら彼女が呼びかけても反応がなかったため様子を見に来たらしい。
「……ゆ、め?」
そう口にして、ようやく今見た光景が夢だった事を自覚する。だがそれでも、心臓はまだバクバクと激しく鼓動していた。
(……夢にしては、感触がリアル過ぎる。あれは……
そう思考するトレーナーが視線を向けたのは、スズカの方――ではなく、何もない空中。
そんなトレーナーの様子を、不思議そうに見つめるスズカ。
「……それで、その。もうトレーニングの時間ですよ?」
「え? ……あ、ああ。そうだったね。すまない。少し疲れているのかもしれない」
声色は普段と変わらないものの、走りたくてうずうずした様子のスズカにそう言われ、慌てて視線を時計に向ければ、予定していた時間を少しオーバーしていた。恐らく自分の体調管理不足でスズカにも迷惑をかけてしまった事に申し訳なさを感じつつ、トレーナーは頭を切り替えようと一度大きく息を吸い込んだ後、ゆっくりと吐き出した。
「……そう、だな。次のレースまで日が無いし……緊張、してるんだろう」
何せ、次のレースは天皇賞(秋)。シニア級の中距離路線で活躍してきた一流のウマ娘達が集まるG1レースだ。そんなレースに、まだクラシック級であるスズカを送り込むのだ。ある意味でトレーナーである自分の腕も試される場だと考えれば、緊張もするだろう。
トレーナーがまるで自分にそう言い聞かせるように納得していると……不意に自分を見つめる視線に気づく。
「…………」
「ど、どうしたスズカ? ……怒って、るのか?」
外面では平然を保とうとするトレーナーだったが、内心では冷や汗ダラダラの状態であり、無意識のうちに目を逸らしたり合わせたりを繰り返してしまう。
そんなトレーナーの様子を見て、スズカは唐突に噴き出す。
「……ふふっ。トレーナーさんも、そんな風に慌てる事、あるんですね」
「……慌てもするさ。人間なんだから」
バツが悪そうに頭を掻くトレーナー。そんなトレーナーの様子に何を勘違いしたのか、「あっ、違うんです!」と訂正するスズカ。
「別に、責めてるわけじゃないんです。けど……」
「けど?」
「……その、こう言っては失礼かもしれないですが、私とは違うんだなって」
「違う?」
違うのは当たり前じゃないのかと思いつつも、その続きの言葉が気になり、トレーナーはあえて黙る事にした。
「私、普段からあまり感情が薄い方だと思われてるみたいで。……だからなんでしょうか。私、最初にトレーナーさんに会った時、どことなく親近感を感じたというか……」
「……ああ、そういう」
上手く伝えられないらしいスズカの意図に、トレーナーは気づく。
「それは、俺が大人だからさ。年を取ると、どうも感情表現が苦手になる」
「そう仰る割には、先程は慌てふためいてるようでしたね」
「からかうなよ」
「すみません」と言いながら、クスリと笑うスズカ。
そんなスズカに、トレーナーの心も絆されていくようで――
(……そうか。和ませようとしてくれてるのか、彼女なりに)
トレーナーは苦笑を浮かべながら、もう一度深呼吸をする。
「ありがとう、スズカ。おかげで楽になった」
「いえ、お気になさらず。それより、早くトレーニングに行きませんか? 脚がうずうずしてて……」
「そうだな。けど、今日はレース直前という事もあるから、軽い調整にしよう。いいかい?」
そう問いかけると、スズカは素直に「はい」と答える。
軽い調整とは聞いたが、それでも走れる事が心底嬉しいのだろう。軽い足取りでトレーナー室を出ていくスズカの背中を見送りながら、トレーナーは思う。
(……
「――あんな結末、もう沢山だ」
そう口にしたトレーナーの顔は、とても険しく歪んでいた。