――10月某日。ついに初めての天皇賞(秋)の日がやって来た。
レースを走るウマ娘にとって、この舞台はその中でも特別な思い入れのあるレースの一つ。
何故なら、これはG1。全てのウマ娘の目標であり、憧れであるレースなのだから。
大勢の観客が押し寄せるスタンドから離れた地下バ道にて。
僅かに歓声が聞こえるものの、いずれのウマ娘も刺々しく張り詰めた空気を纏わせているであろう中で、緑と白を基調とした勝負服に身を包んだサイレンススズカはと言えば、他よりも落ち着き払った様子であった。
当然と言えば当然だろう。今回の彼女が『クラシック級からの挑戦者』であるのもそうだが――何より、彼女が走る理由に、舞台設定等関係ないのだから。この天皇賞(秋)を選んだのも、彼女の実績と、彼女の感覚が「ここならもっと気持ちよく走れそう」と訴えた、その複合の結果に他ならない。
だから――
「緊張してないか、スズカ?」
「問題ありません」
トレーナーの言葉にも、彼女はただ淡々と答えるのみ。
しかし、それは嘘でも強がりでもない事は、表情を見れば分かる。
緊張は態度のみならず呼吸にも現れるものだが、その彼女の呼吸も安定している。
これなら問題は無い、とトレーナーも自信を持って判断出来た。
ただ、問題があるとすれば――
(今回はメンバーのレベルが上がるだけじゃない。あの『女帝』エアグルーヴもいる。そう簡単に先頭を突き進められないだろうな)
だが、あえてそれを口にしない。あのスズカがそれを不安視する事などないだろうが、万が一を考えてだ。それに、口にしたところで何かが変わるわけではない。それは、他ならぬトレーナー自身が一番分かっている事だ。
だから今は、とにかくこのレースに集中するだけである。
作戦は、ない。そもそも大逃げ一本でやっていくと決めた時点で、分かり切った事であるが。
ならば、自分が今してやれる事と言えば――
「……そうだ、スズカ」
「はい?」とスズカが振り返ると、スズカの艶やかな栗毛の髪がふわりと開く。
それに見惚れかけるトレーナーだったが、本題から逸れるまいと自制する。
「何か、ご褒美が欲しいとか、そういうのはないか? こういうのはモチベーションが上がると聞いたが」
「いえ、特には……」
その答えに、そうか、と返したトレーナーだったが、これではまるで集中を切らせたみたいではないか、と逆効果になってしまった事を内心悔やんだ。
そんなトレーナーを他所に、スズカは少し考え込むと――
「……そうですね。なら、トレーナーさんが知ってる、綺麗な景色が見たいです」
「俺の?」
意外な要求に驚くトレーナー。だが、スズカにとっては自然な欲求だったようで、はい、と小さく微笑んで見せた。
「……参ったな。物ならそれなりの値段だったら用意できるが」
「お金に変えられないから、いいんです」
「そういうものか」
「そういうものです」
困ったように頭を掻くトレーナーに、スズカは普段からは考えられない程に、悪戯っぽく微笑んだ。
「……わかったよ。何処かいいところ、探しとく」
「……! ありがとうございます!」
「その代わり」
そう口にしたトレーナーは、一瞬躊躇うような仕草をすると、ややあって口を開いた。
「……無事に帰ってくるんだ。いいね?」
「はい、勿論です」
その答えに満足したのか、トレーナーはにこりと微笑んだ。
「それじゃあ、走ってこい」
「はい。……行ってきます」
トレーナーの言葉に背を押されるように、スズカは駆け出した。
「……ふぅ」
スズカを送り出したトレーナーは、一人、溜息を吐いた。
その手は、微かに震えていた。
******
『さぁ始まりました第11レース、天皇賞(秋)芝2000m。G1ウィナーが揃う本レースにおいて、注目はこのウマ娘、サイレンススズカ! 弥生賞では振るわないところのあった彼女ですが、その後はG2以下のオープン戦において、まるで人が変わったかのような大逃げで観客を魅了し続けております! 現在クラシック級ながら、二番人気に推されています!』
『今年は一番人気に推されている『女帝』エアグルーヴと共に、これまで以上の活躍を見せてくれるでしょう。期待しています』
ゲート入り前。既に発走時間が迫っている中、観客席は既に満員御礼と言っても過言ではない状態になっていた。
ほとんどのウマ娘であれば、その視線の多さに委縮してしまうかもしれない。だが、此処にいるのは一人しか勝ち上がれない狭き門を通り続けた猛者ばかり。故に、そういった視線を気にする者は誰一人としていなかった。
――そして、視線を気にしてはいないが、別の事を気にしているウマ娘が一人。
「エアグルーヴ」
「ん……? あ、あぁ、スズカか」
どういうわけか、この場において何かを考えこむ様子を見せ、スズカに声を掛けられて驚いた様子を見せるエアグルーヴであったが、すぐに平静を取り繕う。
そんな彼女に、スズカは何となく違和感を覚えたが、「もしかしたら、エアグルーヴも緊張したりするのかもしれない」と思い、気にしない事にした。
「初めてね。貴方と一緒に本番のレースを走るのは」
「……ああ、そうだな。だが、手加減はしない」
そう言葉でやり取りした後、彼女らは何も言葉を発さないまま、ただ互いに微笑むと、視線を逸らし、各々ゲートへと向かって行く。
(……そうだ、迷うなエアグルーヴ。これは、真剣勝負の場だ。余計な考えは不要!)
そう心の中で呟きながら、エアグルーヴはゲートに入った。
******
約二分に及ぶ戦いの末、勝ったのは――エアグルーヴ。スズカは6着という結果に終わった。
だが――スズカの顔は、負けた後とは思えない程、晴れ晴れとしたもので。
(……やっぱりだ。G1なら、最高の『景色』が見られる!)
それは、確信だった。それまでのレースでも、彼女の求める『景色』を見る事は出来た。だが、G1は――別格だった。
特別なレースだから? それとも、周りのウマ娘達の熱意もあるからだろうか? あるいは――時折聞こえてきた、観客の『声』があるからだろうか?
『走れー! スズカー!』
『行けェー!』
そんな声が聞こえて来て、どうしてだか彼女の脚は自然と速くなっていった、ような気がした。それでも結果が伴わなかったが。
『――あーあ、スズカ、負けちまった』
不意にそんな声が聞こえて来て、スズカは振り返る。
当然、そこには誰もいない。ターフの緑と、観客席があるだけだ。
『スズカに勝ってほしかったのに、つまんねぇ』
『もっと粘れよー』
『やって見せろよ、スズカ!』
その時だった。何故だか胸がチクリと痛んだのは。
(……? 何、今の?)
今まではそんな事、一度も無かったというのに。
G1という舞台で負けたのが、自分でも自覚できない程、意外にもショックだったのだろうか? それとも――
「スズカ……? どうかしたのか、そんなところで」
そこに、同じくレースを終えて息を整えつつあったエアグルーヴが声を掛けてきた。
彼女の問いに、「う、ううん。なんでもないわ」と返すスズカだったが……その表情は、さっきまでとは打って変わって僅かに影を感じさせるものだった。