目が覚めた。汗の不快を感じながら障子戸を見ると、薄らと明るい。布団の中は暖かいけど、手を出せば冷たい空気がすぐに、僕の手を氷のように冷やす。どうやら、今日も寒いみたい。雪が降ってないといいんだけど。
最近は大量の汗をかくせいか、朝から身体が重い。今日もあまり調子は良くないみたいだ。そうやって少しずつ労咳に侵されていくのを感じ、ふと過ぎるのはあの薬。山南さんが飲んだ変若水だ。それを飲めば、僕の病は治るのだろうか、最近そんな事を考える自分がいる。でも、労咳が治るかは分かっていない。もしも変若水を飲んで、労咳が治らなかったとしても、刀を振るえる力が手に入るならそれでもいいかもしれない。同じ短い命とは言え、朽ちるまで戦えるのなら。ただ、山南さんのように狂わずにいられる保証は何処にもない。それに──昨日の山南さんの言葉を思い出す。
「私は雪が苦手です。確かに見とれてしまう程、綺麗な景色だと思います。ですが、見とれていると自分が立っている場所が何処だったのか、分からなくなってしまいます。これから何処へ向かえばいいのか、それすら分からなくて、途方に暮れるでしょうから」
確かに全てが真っ白になってしまったら、自分のいるべき場所を見つけにくい。雪に見とれて、居るべき場所を離れてしまったら、きっと、戻れない。
「ですから、自分の場所を見失わない為に買い物をして来たのですよ」
そう告げて、山南さんは自分の部屋へと戻って行った。
僕には、どうして自ら買い物に出向いて、自分を維持する事が出来るのか、検討も付かない。何を意味しているのか。せめて何を買ったのか教えて欲しかったけど、教えてはくれなかった。山南さんが裏切るような事をしてきたようには見えなかったから、この事は誰にも言ってない。
あの日、山南さんは狂う事を覚悟であの薬を飲んだ。相当な覚悟だったはず。そして腕の怪我は治り、無事に今のところ狂わずに自分を保っている。それなのに、山南さんは自分の居場所を守る為の行動を取っている。狂い始めている訳でもなさそうだったし、今は羅刹隊が結成されていて、居場所はあるはずなんだ。それじゃ、何処の居場所を守ろうとしているのか。分からない。何を意図するのかも。
僕は何を考えているのか。脳裏にちらつく薬を、振り払うように、強く目を瞑った。ただ、今分かる事は、そんな薬に頼らなくたって僕はまだやれる。身体は動くんだ。使い物になる。薬を使う必要なんてないんだ。絶対に。まだ戦える。
軽い足取りで、こちらに向かって来る足音が響いて来た。床の軋む音からして、あの子だ。
「沖田さん、起きてらっしゃいますか?」
障子戸越しに声を掛けられた。その声は清々しい空気を纏っていて、今日は機嫌がいつもより良い事が分かる。けれど、返事をする気になれない。
「沖田さん? 開けますよ?」
返事をしないでいると、遠慮がちに障子戸が開けられた。
「沖田さん、起きてらっしゃったんですね。声が聞こえなかったので、開けてしまいました」
少し戸惑うように、千鶴ちゃんは部屋へ入った。寝ているのを邪魔したと思っているのか、返事をしなかった僕が不機嫌だと思っているのか。どちらとも取れるような気がする。そのせいか下向き加減だ。
「で、何の用?」
不機嫌に見られてたとしても、気になるわけじゃない。だから僕はいつものような返事しか返さない。
「朝餉の準備が整いましたので、起こしに来たんです」
ああ、そんな刻限になってたなんて、随分と寝ていたみたいだ。いつもだったら、こっそり朝稽古に参加してるんだけど。
「お腹空いてないんだよね。ほっといてくれるかな」
食欲がないのはいつもの事だけど、今日は特に食べる気がない。そういう時は本当にほっといて欲しい。
「で、でもお食事をしないと、元気が出ないんじゃないでしょうか」
どうしてかな。僕の言い方に刺があるはずなのに、怯んでるようで、怯まない。僕がどうなろうと、この子には関係ないはずなのに。時々、この子って頑固になるんだよね。
「じゃ、僕を君の力で起こしてよ。起こしてくれたら、ご飯食べてあげてもいいけど」
どう考えても、千鶴ちゃんは不利だ。この体格差を考えれば一目瞭然。これですぐに諦めるでしょ。もし挑戦しても僕を起こせないって分かったら、すぐに諦めて行ってくれるはず。
「沖田さんを起こす事が出来れば、ご飯を食べて下さるんですね」
千鶴ちゃんは真面目に考えてるみたいで、目の奥には僕を起こそうとするやる気が込められてる。失礼します、と声を掛けて、僕の布団をゆっくりと捲る。それから僕の両手を掴むと、引っ張り出した。そんなんじゃ、全然僕を起き上がらせるなんて出来ないでしょ。そんな事を思いながら、僕は千鶴ちゃんが一生懸命に腕を引張ってる姿をぼんやりと眺めた。息が上がりながらも、顔を真っ赤にさせて歯を食いしばってる。疲れたら力も緩めてほんの少し休憩してる。ついでに顔も少し緩んでる。動作と顔の表情が一緒に休憩しているようで面白い。そしてあまり間を置かずにまた腕を引っ張る。
僕を起こす為にこんなに必死になるなんて、面白い子。いつも千鶴ちゃんを傷つけるような事ばかり言ってたはずなのにね。面白いから意地悪もしてるし。そんなこと思いながらも、嬉しさを隠しきれず、頬が緩んだ。だって、刀もそんなに振るえない小さな身体と手で、僕を必死になって救おうとしてるみたいで、くすぐったい。ただ、単純に僕にご飯を食べさせようとしてるだけなんだろうけど。食べても良い気がしてくる。
「これじゃ、僕を起こせないんじゃないかな」
笑いを堪えながら言う僕に、千鶴ちゃんは頬を膨らませた。
「いいえ、必ず沖田さんを起こしてみせます!」
今度は思考を変えたのか、腕を離す千鶴ちゃん。それから僕の右肩の位置まで近づくと、座り込んだ。それから左腕を僕の肩の下に滑り込ませ、右腕は僕の左肩を掴む。僕を殆ど抱きしめているような状態だ。それで僕の上半身を抱き起こそうってわけ。僕は全然構わない状況だけど、千鶴ちゃんは必死になり過ぎて何も分かってないよね。これを左之さん辺りにやってたら、押し倒されちゃうじゃない。
僕は千鶴ちゃんの引く力を使って、上体を起こした。
「ねぇ、千鶴ちゃん」
僕の声に反応して、千鶴ちゃんはこっちを見た。凄く至近距離だから、大きな目が僕を写してるのが見える。思ったよりも近いと分かったみたいで、千鶴ちゃんの顔全体がみるみる間に赤くなった。
今、この子の目に写ってるのは僕一人だけ。そう思うと、他の誰かも同じようにこの目に写ってるんだ、って当たり前の事を思った。それが、何だか許せない。僕以外の誰かをこの目に写すなんて、誰が許すと言うの?
僕は千鶴ちゃんの耳元に口を近づけ、囁いた。
「誘ってるの?」
千鶴ちゃんは飛び退くように僕から離れた。驚きのあまり、目は見開いている。
「そ、そんな事ありません!!」
酷く狼狽しきった千鶴ちゃんは、猫に追い詰められた鼠みたい。
「あ、でも、沖田さんを起こせたので、お食事摂ってくださいますよね?」
動揺を隠すかのように、千鶴ちゃんは話を変えた。こういう所、随分と回避するの上手くなったよね。僕のお陰って事かな。
「そうだね。面白い百面相見せてくれたから、食べてあげるよ」
千鶴ちゃんは満面の笑みで応えてくれた。
「それでは、原田さんと永倉さんを起こしに行きますから、沖田さんは先に行って下さい」
そして彼女は僕の部屋から去って行った。千鶴ちゃんの足音が聞こえなくなってから、着物に着替え始める。
今日の千鶴ちゃんは本当に機嫌が良いみたい。ここ数日、朝は暗い顔をしてたって言うのに、今日はお天道様みたいに晴れやかな笑顔を見せている。昨日の朝まで暗い顔してたから……昨日の昼から夜にかけて、何かあったのかもしれない。不安や心配事、考えを変える事ってなかなか難しいと思うんだけど、昨日でそれをあの子は解決、もしくは不安を取り除いた事になる。一人で考えた所で解決するものじゃないと思う。あの子は色々と悩みや心配、不安が多いはずだから。そうなると、誰かが相談に乗ってくれたとしか思えない──僕以外って誰なの? 誰があの子の支えになってるの?
どうしてだろう。分かってるのに。意地悪する僕なんかに相談するなんて事、あるわけないって。それなのに、この胸に穴が空いたみたいだ。病の苦しみと違う苦痛は、谷から足を踏み外しそうになる恐怖と似ている。
いつからだろう。この胸に労咳が巣くうと同時に、小さな桜もまた、咲き始めたのは。最初は面倒になる前に、斬ってしまえばいいのにと思うような存在だった。新選組に慣れて来るにつれ、不安顔が笑顔に変わり、それにもイラつく事だってあった。だって、新選組の仕事を本当に快く思ってる訳ないから。そう思ってくれる人なんて少ないしね。だけど、一緒に暮らしている内に、あの子は僕達の役に立つように動き始めた。最初は居場所作りだけの行動だから、すぐに止めちゃうんじゃないかって思った。でもそうじゃなかった。一人一人に声を掛ける内容は本気だし、僕がどんなに悪戯したって声を掛けて来る。まぁ、少し警戒してる時もあるけれど。何をするにもあの子は直向きなんだって事が分かる。そんな事が分かってしまう程、いつの間にか僕はあの子を目で追っていた。荒れた大地に桜が咲くように、心が奪われた。けれど、僕の行く先は死だ。労咳で死ぬか、敵の刀の錆になるかのどちらか。どちらにしても、僕の生きる道の先は早い死だ。それだったら、こんな感情、捨ててしまうしかない。だって、僕は未来を必要としてないのだから。
「いってええ!!」
突然の声。この声は多分、左之さんのもの。そんなに遠くから聞こえたものではないから、左之さんの部屋からだと思う。僕の部屋から近いからね。滅多に左之さんの部屋から騒動が起こる事ってないから、これは見に行くしかない。
着替えを終えると、左之さんの部屋を目指した。足取り軽く行けば、左之さんの部屋から一君が出てきた。こっちに振り向きもせず、さっさと広間へ向かっているみたいだった。それからすぐに、左之さんが部屋から出てきた。
「あ、左之さん」
僕の声に、左之さんは振り向いた。
「よう総司。お前も今起きたのか」
さっきの出来事が何もなかったかのような笑顔。これで島原の芸妓さん達はやられているんだろうね。流石としか言い様がない。
「まぁね。それより、珍しく左之さんの部屋が賑やかしかったけど、何かあったの?」
少し間を置いて、左之さんは僕から一瞬だけ目を逸らした。
「まぁな。なんつうか、夢の話で盛り上がっちまってよ」
こう言う左之さんの態度は、大体喋りたくない内容だったりする。平助や一君辺りだったら鎌をかければすぐに話してくれるんだけど、左之さんにはあまり通用しない。それでも、聞き出せる分は聞き出さないとね。
「夢の、話?」
「ああ。斎藤は不埒な夢は絶対に見ないんだとよ」
何となく、面白くなりそうな内容みたいだよね。
「ふうん……不埒ねえ。一君、面白い事言うね」
僕の一言で、左之さんは困ったような顔をしたけれど、それ以上何も言わなかった。
***
みんなが広間に揃い、朝餉を食べ始めた。今日は土方さんがいつも以上に眉間に皺を寄せているせいか、静かだ。みんな黙々と食べて、八つ当たりを避けているのが面白い。
吸い物を吸いつつ、何となく千鶴ちゃんを盗み見る。いつも通り、焼き魚から食べて、本当に美味しそうな顔で頬張って……目を瞑ってる。口は動いてる。だけど徐々に口の動きはなくなり、ぴたりと止まった。動かない。どうやら、食べながら寝ているらしい。思わず口端が上がった。食べながら寝るなんて、器用過ぎるよね。
少し頭が下がって、千鶴ちゃんは目をぱちりと開けた。そして何事もなかったかのように食べ始める。それがおかしくって、僕は笑うのを必死で堪えた。
けれど、この面白い一瞬を僕以外が見てるのか気になった。視線を感じる。直感で、土方さんを見た。僕の直感は当たったみたいで、土方さんは千鶴ちゃんの居眠りの刹那を目撃したみたい。さっきよりも、土方さんの目が釣り上がってる気がする。
目が合った。けれど、土方さんはすぐに視線を下に向ける。何かやましい事でもあるのかな。まさか、だけど。そんな事有り得ないって思いたいんだけど、千鶴ちゃんの相談に乗ったのって土方さんじゃないよね?
ご飯を食べながら、僕は土方さんの様子を窺ってみた。けれど、鬼瓦のような顔から何かを窺い知れる事はなかった。
食事が終わり、さっさと部屋へと戻るように口酸っぱく言って来る土方さんに、僕は素直に従って、自分の部屋へと戻った。あまりにあっさりと僕が部屋へと戻るものだから、さすがの土方さんも呆気に取られて間抜けな顔をしてた。それが狙いって気付いてないみたい。だけど、あの土方さんだ。いつも以上に警戒して、頭の固い山崎君辺りに僕の見張りでもさせるんだと思う。
少しの間、僕は布団の中で身体を温める事にした。行きたい所があるんだ。
「総司、入るぞ」
その声は力強くて、優しい声。僕の尊敬する、近藤さんだ。
「今日は大人しく布団に入ってるんだな、総司」
僕の横にどっかりと座る近藤さんは、笑顔を作っているけれど、少し眉尻を下げている。
「調子が悪い訳じゃないんです。だから、近藤さんは気にしないで下さい。僕はこの通り元気ですから」
僕は起き上がって、飛びっきりの笑顔を見せた。今から千鶴ちゃんに悪戯をしに行くなんて言えない。
「そうか? それならいいんだが。ああ、そうだ。総司に干し柿をと思って持ってきたぞ」
近藤さんは懐から包み紙を出して、僕に渡してくれた。
「ありがとうございます、近藤さん」
両手で受け取った僕は、早速包み紙を開いた。思ったよりも大きめな干し柿が三つ。この大きさは結構値が張る大きさだ。僕の為に奮発してくれたんだと思う。
「柿は身体にいいと聞く。これで少しは抵抗力も付くだろう」
「はい、早速頂きます」
一口食べると、柿の素朴な甘味が噛めば噛む程出てくる。僕は甘味と近藤さんの優しさを噛み締める。忙しいはずなのに、僕の所に来てくれる近藤さんの優しさは、道場に居た時から変わらない。
「しっかり治すんだぞ」
そう言って、近藤さんは僕の頭をくしゃっと撫でてくれた。もう子供じゃないけれど、この大きな手で頭を撫でられるのが好きだ。とても安心する温もりを感じて、僕は思わず目を閉じた。
「ええ、勿論です、近藤さん。僕は近藤さんの為に刀を振るいたいんですから」
胸が痛かった。近藤さんは真っ直ぐ信じて、僕の病が治るって思ってる。けれど、どんなに痛みを感じても、僕は病の事を話す気にはならない。知ってしまったらきっと、近藤さんは悲しんでくれる人だから。絶対にそんな事させたくないし、僕の事で近藤さんが気に病むような事は避けたい。
「すまぬが、そろそろ行かねばならんな。歳が仕事と共に待っているからな」
苦笑して、近藤さんは僕の頭から手を離した。温もりがまだ残っているけれど、心地良い重みが無くなって寂しく感じた。
「僕の事、心配して下さってありがとうございます。でも、近藤さんも気を付けて下さい。何処で何があるか分かりませんから。あ、もし風邪を引いてしまったら、土方さんに移すと早く治りますよ」
おどけた顔をすると、近藤さんは顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた。半分本気で言ったんだけれど、近藤さんは冗談として受け取ったみたいだ。
笑いながら、近藤さんは部屋から出て行った。
どうしてだろう。僕の好きな人が行く先は、土方さんだ。あの人は僕のほしい物を殆ど持って行く人だ。ううん、既に持ってた。近藤さんの隣。近藤さんが僕を弟のように思ってくれていても、あの二人の絆と違うものがある。別に近藤さんと僕のつながりに不満があるわけじゃない。ただ、それが一番じゃない事がもどかしいんだ。近藤さんは順序を付けているわけじゃないって事も分かってる。あの二人の絆の深さに嫉妬してるんだ。そして何より、僕は土方さんよりも近藤さんの役に立っていない事が一番悔しい。唯一、この極めた刀で近藤さんの役に立とうと思っていたのに。労咳がそれを邪魔するんだ。今は動き回るくらいの体力はあるけれど、いつか、この足さえも動かなくなる日が来るんだと思う。死ぬ事は怖くない。ただ、何の役にも立たずに死ぬのが怖いんだ。まだ近藤さんが僕にくれたものを返せてない。それを返さずして、死ぬわけにはいかないんだ。新選組の邪魔をする奴を斬る、それが僕の出来る最大の事。だから尚更畳の上でなんか死にたくない。畳の上で死んでしまったら、ただ近藤さんの役に立つどころか、悲しませて終わってしまうだけだ。せめて、戦いの中で死にたい。そうしたら、近藤さんは少し悲しむかもしれないけれど、「総司、よくやった」って言ってくれると思うんだ。
ゆっくりと、床の軋む音が響いた。気配からして、あの子しかいない。
「沖田さん」
障子戸越しに聞こえる千鶴ちゃんの気配は、安心してしまうような空気が流れている。
僕は障子戸を開けた。
「お茶をお持ちしました」
優しい声と共に、千鶴ちゃんの気配は僕の部屋へと広がる。まるで、春の訪れのような空気だ。
千鶴ちゃんは急いで中に入り、障子戸を閉める。僕を気遣っているのが見て取れた。
「今日は特別に寒いので、熱めにしました。気をつけて飲んで下さいね」
「ありがとう」
寒いのには変わりはないというのに、千鶴ちゃんが来ただけで暖かな気持ちになる。本当に不思議な子だ。
「でもさ、熱いんでしょ?」
その一言で、笑顔が驚いた顔をしている。それが僕の狙いなんだけど、この春の暖かさをくすぐったく思う僕は、僕なりの贈り物をしたくなる。
「だったら、ふーふーしてくれる?」
ええ! と驚いた声を出してから、頬を染めて千鶴ちゃんはお茶に息を吹きかける。
「こ、これでいいでしょうか?」
おずおずとお茶を差し出す千鶴ちゃん。僕は千鶴ちゃんの手ごと両手で湯呑を優しく包んだ。千鶴ちゃんの指先は雪のように冷たい。手の甲もあまり変わらないくらいの冷たさだ。
両手をそのまま、ゆっくりとお茶を啜る。
「うん、ちょっと熱いけど、これくらいが丁度いいかな」
千鶴ちゃんは良かったと言いながら、俯き加減だ。そんな反応されたら、もっと追い込みたくなっちゃうじゃない。
「ねぇ、今朝は機嫌が良いよね。いい事でもあったの?」
自分でも驚いた。そんな話をするつもりはなかったんだけど。
「え、いつもと変わらないつもりですが……そんなに私、嬉しそうでしたか?」
驚いたような声音だったけど、平静を装っているつもりみたい。誰かに慰められた、なんて言いたくないような事なのか。
「だって君、ここ何日か、朝は暗い顔してたよね」
気づかれてる、とでも言うような目の彷徨い。本当に分かりやすいな。でも、僕相手では嘘はつけないと思ったのか、溜息を付くように、千鶴ちゃんは息を吐いた。
「笑わないで、くださいね」
一瞬、僕に視線を向けたけど、頬を染めて、すぐにお茶へと視線を落とした。
「とても怖い夢を見ていたんです。ここ何日か、同じ夢で、それが本当になってしまうんじゃないかって、不安だったんです。ただの夢だって、分かってはいたんですけど」
「どういう内容だったの?」
千鶴ちゃんの手に、力が篭った気がした。
「父様に声を掛けても……私の声は届かない夢でした」
それはまた、不安になる内容だ。
「それで、その話、誰かにしたの?」
何を聞いているんだろう。誰が慰めたかなんて、僕には関係ないと言うのに。
「はい、原田さんに」
彼女はその時のことを思い出しているのか、また頬が赤くなった。頬を染めるような事でもしたのかな。左之さんの事だから、簡単に抱きしめる事だって出来るから、有り得る話ではあるよね。でもそんな話、聞きたくない。
「話すつもりはなかったんですが、私を心配して下さったので……その、お言葉に甘えまして、話したんです」
全然面白くない。僕の胸に渦巻く感情が、黒くかき乱される。
「ふうん。左之さんなら、安心して話せるんだ。まあ、左之さんならちゃんと話を聞いて、泣くことを許してくれそうだよね」
千鶴ちゃんの手がぴくりと動いた。顔は耳まで赤くしてる。まさか本当にそんな事をしてたなんて。
「どうして……分かったんですか」
言わなくてもわかるでしょ。分かりやすい顔するんだから。
「あの、この事、誰にも言わないで下さいますか?」
「それ、どう言う意味?」
何を思って言ってるのだろう。もう、左之さんとはそういう仲なの?
黒くなった渦巻くものが、僕の胸を占めていく。胸が詰まって、息苦しい。
「あの……私が泣いていた事を、内緒にしてほしいんです」
一瞬、何て言ったのか分からなかった。少し経って、理解する。
「え、それを秘密にして欲しいの?」
「はい。皆さんには心配をお掛けしたくないので」
目を見つめると、真剣な眼差しだった。
「あっはは」
僕は千鶴ちゃんから手を離して、お腹を抱えて笑った。そんな僕を見つめて、千鶴ちゃんはぽかんとしてる。
まさか、泣いた事を秘密にして欲しいだなんて。その考えに行き当たらなかった自分もおかしくて。胸に渦巻くものが飛んで行った気がした。
「ごめん。君が泣いた事を笑ってるわけじゃないんだ。そう。いいよ。黙っといてあげる。これで易易と僕の秘密も漏らせないだろうし」
僕の秘密、で千鶴ちゃんは硬直したように固まった。
「それは、絶対皆さんに言いません。そう、沖田さんと約束したじゃないですか」
口を一の字にして、千鶴ちゃんは目を潤ませていた。そんなに悲しい顔をしなくてもいいのに。僕なんかの為に、悲しくなる必要なんてないんだよ。
「そうだったね」
僕は千鶴ちゃんが持ったままの湯呑を受け取った。それを一口飲んだ。随分と温くなって、飲みやすい温かさだ。千鶴ちゃんは黙ったまま、僕が何を言い出すのか待っている。
そんな静けさを邪魔する足音が聞こえて来た。足音、と言っても、千鶴ちゃんには聴こえない程の音。足の裏を少し擦ってる様な、そんな音。
「総司、開けるぞ」
速やかに開かれる障子戸。黒い着物がすぐ目に入って来た。
「総司、そろそろ昼餉の支度の刻限だ」
言い終わると、千鶴ちゃんが居るのに気づいてか、ぴくりと眉尻が上がった。
「あんたは暖を取るのではなかったのか」
声を掛けられて、千鶴ちゃんは微笑んだ。
「はい。土方さんと沖田さんにお茶をお配りするのが、私なりの暖の取り方なんです」
またとんちんかんな事言ってる気がする。僕は湯呑を盆の上に乗せた。
「意味が分からぬ。どうしてそれが暖を取ることになるのだ?」
「少しお二人と話をしますし、お茶を入れている間、暖かいんですよ」
「それだけでは暖は取れぬ。ちゃんと自室で火鉢に当たって来るといい」
「ですが、お洗濯物を早く干さないと乾きませんから」
「ならば干したらちゃんと暖を取るのだぞ。あんたが風邪を引いてしまったら……困るからな」
千鶴ちゃんは元気よく返事をすると、僕が盆に乗せた湯呑を持って行った。
さっきの会話を聞くと、なんだか一君、心配し過ぎだよね。いつもの事かもしれないけど、特に千鶴ちゃんには輪を掛けて心配症というか。
「俺達も行くぞ。飯の支度をせねば」
僕に視線を送って直ぐに、一君は部屋を出て行く。
仕方なく立ち上がり、僕は一君に続いて自室を出た。
「で、今日は何を作るの?」
米を炊く準備を終えてから、僕は一君に問う。
「食事当番は皆を満足させることも役目の一つだ。味噌汁は欠かせん。医者に金を払うよりも、味噌屋に払えと言うことわざがあるくらいだからな」
僕はわざと溜息を吐いた。
「どうせ具は豆腐なんでしょ」
「無論だ。豆腐あっての、味噌汁だ。湯豆腐もしたいところだが、豆腐が足りんな」
さも残念そうな声音で、一君は鉋(かんな)を研ぎ始める。それを眺めながら、今朝の事を思い出した。
「そういえば、今朝は左之さんの部屋が珍しく騒がしかったけど、何かあったの?」
一君は動きを止めずに、きちんと刃が研げているか確認する。
「ああ。左之がくだらん夢を見たせいで、雪村を危険な目に合わせる所だった。恐らく、俺がいなければ……」
途中から一君はごにょごにょと言葉を濁した。
「くだらない夢って何?」
僕は鍋に水を入れ、火を強くする為に竹筒で薪の下に息を吹きかける。
「いい女の夢を見たらしい。だからとて、あのような行為をするとは修行が足りない証拠だ」
一君は鰹節を鉋で削り、薄さがどの程度なのかを日に翳している。一体、左之さんは何をしたのだろう。僕は気になって、内容を促す。
「いい女が誘いに来る、と言う夢だ。夢だからとて、現実で実行する事ではないはずだ。いや、そもそもいい女だからとて想い人以外の女に手を出すと言うのは褒められた事ではないはずだ」
「え、左之さんは千鶴ちゃんを抱いたの?」
僕の言葉に反応してか、一君はもの凄い勢いで僕に顔を向けた。
「そのような事はさせておらぬ! 左之が雪村の……雪村の尻を撫でようとしたのだ」
それが許せないと言わんばかりに、一君は鰹節を力強く削る。もう、薄さとかお構いなしのように見える。そりゃぁ、左之さんが千鶴ちゃんの尻を撫でようとしたのなら、僕が左之さんの腕を斬ってたかもしれないけど。ここでこうやって思い出して腹を立ててる一君を見ると滑稽に見える。
「は、一君、削り過ぎじゃないの」
我に返った一君はすまぬと声を落とした。僕は沢山削られた鰹節を全部鍋に突っ込む。
「総司、それは入れ過ぎではないのか」
「せっかく沢山削ったんだから、いいじゃない」
一君は返事もせずに、豆腐を切る工程に入った。いつも以上に真剣な眼差しになり、手の上にある豆腐を見つめている。
「でもさ、一君。想像してごらんよ。もし、一君の好みの女の子が寝巻き姿で部屋へ入って来て、誘って来るとかさ。口付けだけでもしたいとか、思わないの?」
そっと、包丁が豆腐に入る。
「可愛らしくて、面倒見がよくて、世話好きで、時々ドジな女の子とかさ」
包丁を持ってる手が止まった。一君の顔を見ると、目を瞑っている。想像しているのか、微動だにしない。
「ねぇ、どうかな」
軽く一君の肩を叩いた。すると、ぱっと目を開いた。
「雪村がそのような事をするとは思えん!」
動揺してるのか、手元が狂い、豆腐の形が歪になっていく。
「へぇ。僕、一言も千鶴ちゃんとは言ってないんだけど、一君の好みの女の子って、千鶴ちゃんなんだ。へぇー知らなかったなーふうん」
一君が千鶴ちゃんに対して甘いのは気付いていたんだけど、千鶴ちゃんで想像するとはね。
「そそそそ、そのような事は、なななない。あんたの言った言葉で当てはまるのが雪村だっただけだ」
「じゃ、千鶴ちゃんが寝巻きで誘って来るっていうのを想像したんだ。へぇ。一君、結構想像力豊かなんだね」
「そ、それは、その……そう言うあんたはどうなのだ」
話をすり替えてはいるものの、一君の手の上の豆腐はぐちゃぐちゃだ。それに全く気付いてない。
「そうだなー、僕は」
考えるまでもない。僕はあまり女の子に興味なんてなかったし、面白い女の子なんて、千鶴ちゃんしかいない。あんなに一生懸命で、頑固で、度胸のある世話好きな子なんてなかなか居ないと思うし。あの子が来ると、ほっとするんだ。
「左之さんと同じ事しちゃうかもね」
一君は自分の手元の豆腐に気づき、狼狽えながらも、それを仕方なく鍋に入れている。
「あーあ、豆腐が台無しだね」
「誰のせいだと思っている!」
睨みつける一君はちっとも怖くない。豆腐くらいでこんなに怒るのは一君くらいだよ。
「僕に責任を押し付けるの? やだな。僕は何も手を下してないんだけど」
僕はネギを切ろうと包丁を持ったけれど、一君が自分で切ると言い張り、包丁をまな板へと置いた。それを取り、一君はネギを均一に切る。多分、ネギくらいは綺麗に切りたかったんだと思う。それがおかしくて、僕は声無く笑った。
「あんたも左之と同じだと言うのなら、あんたの部屋に雪村を入らせる訳にはいかんな」
ちらりと視線を僕にやると、一君は味噌をお玉で掬い、それを溶き始める。
「一君それ、嫉妬なの?」
冗談交じりに僕が笑うと、一君は目を彷徨わせた。
「何故、俺が嫉妬などせねばならんのだ。雪村を任されているのは俺だ。何者からも守るのも俺の勤めだ。私情などそこには一つもない」
そんな事を言いながら、またお玉で味噌を掬って溶いている。いつもより多い気がする。
「じゃ、私情ってのはどういうものか聞かせてくれるかな?」
「何故あんたに聞かせねばならんのだ。それより、手を動かせ総司。目刺を焼けば終わりだ」
渋々と動いて、僕は七輪に目刺を乗せる。
「それはそうと、昨日は副長の着物が見当たらないと騒いでいたが、夕方になって出てきたそうだ。総司は何か知ってはいるか?」
そういや、昨日の山南さん、土方さんの着物に似た色を着てた気がする。外に出るには違う着物が良かったんだろうし、髪の毛も一つに束ねて、笠も被っていたっけ。あれだけで随分と雰囲気が変わるから、誰も気付いてないと思う。
「いや、僕は知らないなぁ。同じような色を着てた人は見たけど、まさか土方さんの着物を着る物好きがいるかな」
何も言わずに、一君は眉を顰める。それを横目に、僕はうちわで七輪を団扇であおぐ。
「ま、物好きな女の人なら沢山居るけど、屯所に入り込むような女の人はいないでしょ。男だとしても、屯所に入り込むなんてそうそう出来ないはずだよ。それに、わざわざ戻すかな。僕だったら案山子に着せると面白いと思うんだけど」
「総司」
窘める一君は、味噌汁にネギを入れ、そっとかき混ぜた。お玉で汁を掬い取り、小皿に注いだ。
「今のところ、何か起きたわけではないが……あんたの仕業ではないのか」
「酷いなー一君。僕を疑うの?」
「日頃の行いが悪いせいだ。また副長に良からぬ悪戯でも思い付いた訳ではあるまいな」
そう言いながら、一君は味見をした。その瞬間、一君は凄い勢いで咳き込む。
「今日は味が悪いのかな?」
ニヤける顔を抑えられずに言うと、一君は僕を睨んだ。
「辛すぎる……」
絶望するかのような顔を見せる一君。どれだけ落ち込んでるんだろう。ただの味噌汁なのにね。
「水でも入れる?」
「いや、これ以上水を入れられる程の余裕がない……このまま出すしかないだろう」
一君は僕に背を向けて、漬物を取り出した。心なしか、背中が小さく感じる。
「せめて漬物は多めに入れるしかない、か」
料理の失敗でここまで落ち込むなんて、一君らしいよね。そんな事を思いながら、目刺をひっくり返した。
目刺が焼ける間、黙って団扇をあおぐ。そろそろ焼けた頃合を見計らって、僕は立ち上がった。
「僕、そろそろ皆を呼びに行って来るよ」
「あ、総司、後片付けがまだ」
一君の言葉なんか聞こえてない振りをして、僕は駆け足で出て行った。
僕はそれぞれの幹部の部屋へと、昼食が出来たと伝えに行った。近藤さん、土方さん、平助、寝ている新八さんの鼻を摘んで起こし、残るは左之さんだけだ。
「左之さん、ご飯が出来たよ」
障子戸越しに声を掛けても、返事が返って来ない。いつもなら夜の巡察後でも起きてる左之さんだから、すぐに返事が返ってくる。部屋の中は気配を感じるから、そこに居るのは確かだ。僕は惑う事なく、障子戸を開けた。
そこには、左之さんが珍しく横になって眠ってる姿だった。雪が降りそうな寒さだと言うのに、上に被せるものなど乗っていない。夢を見ているらしく、苦渋の色が見える。こんな左之さんを見るのは初めてだ。どんな夢を見ているのか、興味が沸く。昨日の晩に千鶴ちゃんを慰めた翌日に、こんなに苦しむ夢を見るなんて、千鶴ちゃんの不安が左之さんに移されたみたいだ。
僕はぼんやりと彼を見つめた。少し経ってから、左之さんが急に目を見開いた。
「左之さん、ご飯出来ましたよ」
夢から覚めたばかりのせいか、僕をぼんやりと見つめる左之さん。
「何だ……寝ちまってたのか」
大きく息を吐いて、独り言のように発した。ばつが悪いのか、目が合うと思い切り僕から目を逸らす。顔色が悪い。左之さんは起き上がって胡座をかいた。
「左之さんがうたた寝なんて、珍しいなぁ。それに、幽霊でも見たような顔してるよ」
「ああ、夢見が悪くてな」
顔を伏せたまま、左之さんはぼんやりとしてるみたいだ。まだ、夢の余韻でも残ってるのかもしれない。ここまで左之さんを追い詰める夢ってなんだろう。いつも余裕のある左之さんからでは、想像出来ない。
「へえ。どんな夢見たの?」
少し考えるように間を置いて、左之さんは黙ったまま顔を上げた。今の僕に何が見えているのか、探るような視線をぶつける。
「なあ総司、お前……千鶴のこと、斬れるか?」
胸が大きく揺さぶられた。心臓を鷲掴みされたかと思う程だ。左之さんの口からそんな事を問われるなんて、思いもよらなかった。けれど、その一言で、どんな夢を見たか想像出来た。
「物騒な夢、見たんですね」
大方、千鶴ちゃんを誰かが斬る夢でも見たんだと思う。最近の左之さんは千鶴ちゃんに対して随分と甘い。女の子になら優しい左之さんだけど、好きでもない女の子には上手にあしらっているのを見たことがある。あれだけモテるんだから、誰にでも優しくなんて出来ないよね。そう思うと、左之さんは確実に千鶴ちゃんを女として見てる。男として、守りたい人だと思ってるのかもしれない。
じゃ、僕自身は? 僕も千鶴ちゃんが好きだ。けれど、もし新選組に仇を成すような事をするなら、僕は躊躇しない。代わりに、痛みなんて分からないくらいひと思いに斬ってあげるよ。それが、僕が千鶴ちゃんに対してしてあげられる事だから。
「僕は……斬れますよ。その時がくれば、いつだって」
僕が千鶴ちゃんを最後まで守り抜けるか分からない。それだったら誰の物にもならないように、斬るのも悪くないって思う。けれど、そんな事近藤さんが許すはずがないし、土方さんの命令で斬るのも惜しい気もする。
「そうか……」
やっぱり、と言う残念そうな顔して、左之さんは畳を見つめた。少しくらい怒るかと思っていたけれど、左之さんの中で何かが揺らいでいる気がする。
「怒らないんですか? 僕は、今でも彼女を殺せるって言ったんですよ?」
「どうして、そう思うんだ?」
顔を上げた左之さんは、答えを探しているように見える。自分ではまだ、見いだせてないものでもあるのかもしれない。
「左之さんは何があっても守る方を選ぶような気がするから。僕は左之さんのようにはなれない。だから、僕はその時が来れば斬る、それだけだよ」
今度は僕が左之さんを見れない番だった。
「それじゃ、新八さんにご飯取られちゃうから先に行くよ」
言いながら、僕は左之さんの部屋を出て行った。
この感情、何て言えばいいんだろう。何だか悔しい。無性に、僕が何も出来ない奴なんだって、思えるんだ。どうして。僕はまだ動けているのに。まだ刀だって握れる。なのに、どうしてこんなにも悔しいのか。
そんな思いを胸に抱えながら、僕は広間へと向かった。
***
「どうしてこんな事態になったか、説明してみろ」
土方さんは眉間に皺を寄せて、腕を組んでいる。広間には土方さんと僕、一君しかいない。食事中に、僕達に説教しだした土方さんを見て、みんなとばっちりを避けようとさっさと出て行った。味噌汁が不味いだけじゃなく、豆腐が粒状にしてしまったせいでこんな有様だ。
「僕は何もしてないんですけど、一君が勝手に助平な想像して、動揺なんてしたせいですよ」
「な、総司! 何を言っている。あんたがそのように仕向けたのだろう。そう言うあんたも、不埒な想像をしたはずだ」
ムキになって、一君は大きな声で反論する。その様子に、土方さんは大きな溜息を付いた。
「つまり、くだらねぇ話で食物を粗末にした訳だな」
その言葉に一君は膝に置いていた手を握り締めた。
「申し訳ありません。総司の言葉に誘導されてしまったのは事実です」
自分の行いを恥じるように、頭を深く下げている。
「ったく、総司はともかく、斎藤お前がこんな事をするとは思いもしなかったぜ。お前達には罰を与えなきゃならねぇな。斎藤は素振り千回、総司、お前は今日、自室から出るのを禁止する」
「承知しました」
一礼するや否や、一君は速やかに広間を出て行った。
「土方さん、僕は手を下してないって言うのに、罰が重いと思いますけど」
不服だと思い切り分かるように、口を尖らせた。
「厳正な判断だ。大人しく引っ込んでろ」
この人が落ち着いてお茶を飲んでいても、眉間の皺は伸びそうにないくらい、深く刻まれている。
「じゃ、土方さんは自分の好みの女の子が誘いに来る夢を見たら、動揺なんてしませんよね?」
突然の質問に、余計厳しい顔になる土方さん。それ以外の表情は出来ないのかと言いたいくらい不機嫌な顔だ。
「急に何言ってやがるんだ、総司。そんなもん聞かなくても分かってんだろうが。そもそも、夢ごときで動揺するのもおかしな話だろ。子供じゃねぇんだ。それくらいで動揺してたら副長なんて務まらねぇよ」
自信満々に、腕を組んでいる。今までの事を思い出せば、それくらいで動揺なんてするはずないか。土方さんにとっては、飛んで火にいる入る夏の虫ってところかな。
「なーに笑ってやがる」
「いえ。土方さんって、節操ないんですね」
「おい! 総司!! 俺だってな」
僕は土方さんの弁解なんて聞かなくていいから、急ぎ足で広間を出て行った。後ろの方で何か言ってるみたいだったけど、追いかけて来ることはなかった。
***
部屋に戻って暫く、僕は布団を肩に掛けて火鉢に当たっていた。こうしていたら、今朝近藤さんに余計な心配掛けずに済んだんだけど、横になってる方が楽なんだよね。あの時、近藤さんが来なかったら、温めた手で千鶴ちゃんの首をこの手で触れようとしてたんだけれど。いつもは冷たい手でやってるから、不意を付いて暖かい手にしようとしてたんだよね。でも今温めてるのはその為じゃない。身体の調子が少し良くなったから、巡察にでも出ようとしてるんだ。山崎君の気配も近くには感じられなかったし、いい機会だと思う。たまには外に出ないともっと病状が悪化しそうじゃない。それをちっとも分かってくれない土方さんは本当、鬼だよね。
立ち上がり、僕は一番組の平隊士の部屋へと向かった。
「千鶴ちゃん。一緒に巡察行かない?」
一番組の平隊士達を集め、僕は暇そうにしている千鶴ちゃんに声を掛けた。
「え、でも……」
僕の病の事を知ってるからか、不安げな顔をしている。
「大丈夫だよ。もし土方さんが怒ってきても、僕が適当に言い包めておくから」
千鶴ちゃんはその事もありますけどって言う困り顔をしている。
「でも、沖田さんは体調が悪いんじゃないんですか?」
僕は笑顔を崩さないまま、千鶴ちゃんの顔の位置と僕の顔の位置を合わせた。
「だとしても君と一緒に出かけるためなら、少しの無理くらいしてみせるよ」
「ええっ!?」
「冗談だよ、冗談」
本当は本気なんだけどね。面白い程反応が返って来るのが楽しい。
「今日は調子が良いんだ。だから心配しないで。……じゃあ行こうか?」
元気よく返事をした千鶴ちゃんの声を聞いて、僕はすぐに門へと足を向けた。自然に、千鶴ちゃんが隣に並ぶ。
今日の昼の巡察は源さんと他の組だ。怒られる事はないと思うんだけど、念の為、あまり巡察で回らない所を通って戻るとしようか。
久しぶりの巡察だけど、まだ人の気配を敏感に感じられる。人通りは少ないけれど、怪しい動きをしている輩はいる。殺気を感じない。だから許してあげてるけど、もしもここで、襲って来て一人でも捕縛出来たとしたら、土方さんだって僕を外に出さざる負えなくなると思うんだけどね。
辺りを警戒しながら、もっと人通りの少ない、少し暗い道へと入った。誰も歩いている姿は見えない。と思ったけど、遠くの方で、色鮮やかな桃色が見える。こっちに向かって歩いているみたいで、それはどんどん姿がはっきりとしていく。色鮮やかな桃色は着物で、優雅に歩いている女。歩き方まで上品だ。その女の視線は真っ直ぐ僕に向けられている。
「あら、沖田さん。お久しぶりですね」
ゆっくりと微笑んだ女は、「雪村さんも」と付け加えた。この向けられた微笑みは、誰もが妖艶だと騙されるんじゃないかってくらいの美しさなのかもしれない。でも、僕にはその微笑みの下に隠れている殺意に近いものを感じる。
「薫さん、お久しぶりです」
何も知らない千鶴ちゃんは笑顔で頭を下げている。頭を上げると、戸惑いながらも女を見ている。何か様子がおかしい。同じ顔を目の前にして、違和感があるのかもしれないけど、たまに視線を外しながら女を観察しているように見える。だけど、この女を怪しい人物だと思っているような難しい顔をしてるわけじゃない。寧ろ、目がきらきらしてる気がするんだ。何だか、気に入らない。千鶴ちゃんの行動も、この女も。
「ねぇ、お礼っていつしてくれるのかな。僕は待ちきれないなぁ」
冗談めかして女と目を合わせた。この女、女かどうかも怪しいけれど、それ以上に、気配が異様なものを醸し出している。涼しげな顔をしているけど、奥底にどんな感情を隠しているのか分からない。妙に違和感が残るんだ。それを確かめたいのと、この胸の嫌な思いが、僕の口を滑らせる。本当はこんな事、千鶴ちゃん以外に言うのはあまり好きじゃない。
「すみません。そのうち、そちらへお伺い出来ると思いますから、その時にお礼をさせて下さい」
僕の目を真っ直ぐ見つめる女は、僕の意図に気づいているのか、目を逸らすことはない。
「そう。楽しみにしてるよ」
お互いに、視線をぶつからせたまま、一陣の風が通った。
女はまた更に深い笑みを湛えた。
「雪村さん、さっきから私を見つめているようですけど、私に何か付いていますか?」
可笑しいと言わんばかりに、裾で口元を隠した。千鶴ちゃんは見つめていた事に気づかれて恥ずかしいみたいで、頬を赤く染めている。
「すみません。その……どうして薫さんはそんなにお美しいのかと思ってしまって」
「嫌だな、千鶴ちゃん。君と同じ顔の子をそんな風に言うなら、君自身も美しいと思ってるの?」
一気に耳まで赤くさせて、千鶴ちゃんは勢い良くこちらを向く。
「ち、違います! そうでなくて、似ている顔なのにどうしてこうも違うのかと思ったんです!」
「あっははは」
つい、警戒している女を目の前にして大笑いしてしまった。
「それは私が女で、雪村さんが男だからではありませんか」
さすがに女も、困り顔だ。女の言葉に、そうですけど、と声を小さくして言う千鶴ちゃんは可愛らしい。
確かに、振る舞いは目の前に居る女が艶やかな仕草をしてる。だけど、いくらそんな仕草をしていても、完璧に性格は隠せない。それは、同じ顔でも微妙に違うのと関係してるんだと思う。顔は性格が出るって言うからね。
「それにしても、沖田さんと雪村さん、仲がよろしいのですね。この前お会いした時もご一緒でしたし」
ゆっくりと目を伏せてから、千鶴ちゃんに視線を向けた。
「え、と、そう、ですね……」
どう反応していいか分からないのか、千鶴ちゃんは曖昧な相槌だ。
「あなたには、居場所があるみたいですから、羨ましいです」
女の目に、一瞬影が掛かったように見えた。何かを思い出すように、目を伏せる。
千鶴ちゃんは女の陰りに気付いたのか、いつもの笑顔が曇った。何か言いたげにしていたけど、口に出していいものか戸惑っている。
「その居場所、なくならないといいですね」
そう言い残し、女は軽く挨拶をして去って行った。何やら意味深げな言い方だったけど、何か邪魔でもする気なのかな。その気なら、僕が受けて立つよ。容赦はしない。新選組の邪魔をする奴は女でも男でも関係なく、斬り捨てる。例え、千鶴ちゃんの顔に似ていようともね。
「沖田さん」
女の去った後を眺めていたせいか、千鶴ちゃんが僕の隊服の裾を引っ張った。
「何?」
「薫さんの言われた居場所に、私は相応しいでしょうか」
眉尻が垂れて、口がへの字になってる。何が不安なのだろう。千鶴ちゃんは仲間じゃないけれど、仲間と近い距離に居る。それが不安、なのか分からない。でも、新選組の仲間でいたいって思うのは、変だよね。人殺し集団の仲間に入りたいって事なんだからさ。しかもその集団に軟禁されてるのにさ。おかしい子だよ、千鶴ちゃんは。
「お役に立てているでしょうか」
話が長くなりそうだから、平隊士達を先に帰るように促した。それから僕は、千鶴ちゃんを真っ直ぐに見た。
「どうかな。まず、役に立ってるかって言えば、役に立ってないよね」
やっぱり、と言いたげに千鶴ちゃんは視線を落とす。
「それに、仲間でもないのに新選組に相応しいかどうかなんて、君には関係ない事だよね。今でも立場は変わってないはずだよ」
口を固く結ぶ千鶴ちゃん。僕の言葉の痛みに耐えている。必死で僕に気づかれないようにしてるんだろう。それでも、千鶴ちゃんを仲間になんて入れてあげない。
「でも、君が作ったご飯は誰よりも美味しいよ。たまには甘い物作ってくれると嬉しいんだけど」
僕を見上げる千鶴ちゃんの目は潤んでいたけれど、瞬く間に笑顔になった。
「あ、ありがとうございます。そう言って頂けると嬉しいです。甘い物は材料さえあれば作れますけど、上手く作れるかどうかは分かりません」
嬉しさを隠すように、千鶴ちゃんは落ち着きなく身体を動かした。
そうやって、自分の立ち位置を不安に思わずにいればいいのに。出来る事が少ないとしても、些細な事だとしても、千鶴ちゃんの役割は大きいんだから。
──ですから、自分の場所を見失わない為に買い物をして来たのですよ
ふと、頭の中に山南さんの言葉が降ってきた。
そうか。山南さんは居場所とは言わなかった。場所だと言っていた。山南さんの、場所。自分の居るべき場所。自分の立ち位置。役割の事だ。自分の役割を忘れない為に、山南さんは行動したんだ。それでも、買い物がどう作用するのかは分からないままだけれど、山南さんなりに立ち位置が振れないようにしてるんだと思う。
僕の場合はきっと、立ち位置は僕であり続ける事。薬を飲もうが飲むまいが、僕で居続ける事が今の僕に出来る事だ。薬を飲むかどうかなんて、その時になってからで構わないんだ。
「あっはは」
急に僕が笑い出したものだから、千鶴ちゃんはきょとんとして、僕を見てる。
どうしていつもこの子は僕に答えを教えてくれるのか。本人は全く分かってないのがおかしいよね。答えを教えた事すら分かってないんだから。
「そろそろ僕達も行こうか。平隊士達だけ先に帰らせる訳にはいかないからね」
歩き始めた僕の隣に、千鶴ちゃんは急いで並ぶ。自分の気配と千鶴ちゃんの気配が混ざり合うのを感じる。お互いに信頼しているから感じるもので、出会って間もない頃はそんな事感じなかった。今は気配が混ざり合うのが心地良い。
この感情、やっぱり捨てられない。もし、この子の気持ちを手に入れる事が出来たなら、どんな状況になっても手放すなんて事、きっと出来ない。例え、彼女を傷つける事しか出来なくなったとしても。それでも、あの子を必要とするんだ、この胸が。
ああ、そうか。あの時左之さんと話した後のあの感情、左之さんに負けた気がしたんだ。左之さんは千鶴ちゃんを完璧に守れる人だ。戦になっても、それが終わっても、生涯ずっと守り続けられる人だって分かったから。だから悔しかったんだ。
でもさ、僕だって千鶴ちゃんを守りたい気持ちも、好きな気持ちも、誰にも負けない自信はある。左之さんに負けないよ。いや、左之さんだけじゃない。誰にも負けはしない。この感情、捨てる事が出来ないのなら、この戦、僕が最前線に立ってあげるよ。