プロローグ
許可なく閲覧しないこと Dr.Rより
―月―日
日誌を付けることにした。その日の出来事を書いていこうと思う。
研究続きで荒んだ私の心を癒すための丁度いい娯楽でもある。
記憶整理の時間としても丁度良い。この施設は娯楽が少なすぎるからな…。同僚たちは何らかの趣味を見つけていたが、遂に私にもそれっぽいものができたというわけだ。これで暫くは退屈せずに済むだろう。
―月―日
今日はいつにも増して忙しかった。この忙しさの根本的な原因は今現在世界的に流行しているウイルスにある。
私たちの目的はそのウイルスによる感染症の治療法を確立する事だ。ただ、そう簡単な話ではない…。
このウイルスは従来のものに比べて、潜伏期間がかなり長く、症状も非常に重く、感染経路も分かりづらい…と、非常に謎が多い。
一説によるとこのウイルス自体は太古の昔から存在していて、氷河期時代に南極大陸の氷に閉じ込められたが、地球温暖化によりその氷が融けた後、海に流れ、魚などに感染し段々と我々に近づいたとされている。
事実この地球上の裏側はもう既に機能していない。医療があまり発展していない途上国などは勿論、高度な医療技術を持つ大国や先進国なども滅びかけている。それほどまでに我々は追い詰められている状況にある。
今のところ唯一分かっていることはこのウイルスは人間にしか感染せず、感染者はまるで肌の色が抜け落ちた様に不気味なほど白い色になり、ある日突然密かに死を迎えるという事だけだ。しかも肌の色が変わる症状も末期の状態の為に、治療を行うには余りにも猶予がない…。
こんな凶悪なウイルスだが、治療法がないわけではない。今研究している治療法は人間の遺伝子を動物の遺伝子と融合させてウイルスに対する免疫を得るという方法だ。
しかしこの方法は欠陥だらけのであることは言うまでもないだろう。当然、遺伝子を無理矢理結合させるため、非常に死亡リスクが高い。そして例え適合したとしても、寿命が遥かに短くなる。
私達は今この欠陥だらけの方法をどうにか治療法として確立させようとしている。倫理的にも常識的にも欠けた治療法だと常々思う。しかし、後戻りするタイミングはとっくの昔に消え失せた。
私達に残された道はその先に例え何が待ち受けていようと、ただひたすらに進み続けることだけだ…。
―月―日
実はこのウイルスの存在は一部の情報しか公に開示していない。
勿論この研究すらも極秘情報だ。
政府としては市民の混乱を避けるため隠密に事を進めたいのだろうが、隠し事や嘘というのはいつか必ず暴かれるものが世の常だ。
それにおそらくだが、もう既に矛盾に気づき始めている者も多いはずである。他国からの音沙汰が全くと言っていいほど聞こえて来ないなど、気づかない方が無理があるというものだ。
しかしこのウイルスはまるで人類のみを滅ぼすように自然が意図的に創り出したもののように思えてならない。動物は感染してもなんの症状も出ないというのがいい証拠だ…。ピンポイントで人間だけに症状が出る。人と同じ霊長類に属するサルなども感染しても無症状なのだ。
…我々人間はこの星を余りにも汚し過ぎた。そのツケが今このような形で払わせられているとするならば、大人しく従うべきなのかもしれない…。
―月―日
治療法の確立の進捗はとても順調とは言えない…が、ある程度形にはなってきている。だがその度にまた新たな課題が生まれる。まあ研究に失敗は付き物であることは今に始まったことではないが。
今は人間の遺伝子と動物の遺伝子の融合をどうにか安定させる方法を見つけ出したので、それらを培養し、一度ゲル状の生命として成り立たせ、それを人間の被験者に注入し結果を見た。
実験結果は失敗。注入後、直ぐに症状が現れ始めた。被験者の体は徐々に体毛に覆われ、耳は頭へ移動し狼のような尖ったものに姿を変え、口元も同じく狼のようなマズルに変化した。腰からは尻尾も生え、足も趾行状に変化し、足裏には肉球も確認された。
さながら人型の獣(以降この様な姿を持つ者を獣人と呼称する)の様になった。その後、体温や身体機能の測定が行われたが、途中被験者が測定中に同僚の研究員一人を襲い、その…性行為…いや最早あれは交尾だった…。そのような行為をし始めたため、我々数人がかりで捕らえたが、
驚いたことに、大人数人で押さえつけているのにも関わらず、気を抜けばこちらが振り回されそうなほどの力で抵抗していた。以上のことから、獣人へと変化した人間は性欲と身体能力の大幅な向上が見受けられた。
正直予想外の出来事ばかりで動揺を隠せない。だがこれが成功すれば、研究の進捗は一気に進む事だろう。
―月―日
ペットの管理はしっかりしてくれないだろうか。よく廊下を歩いているのを見掛ける。躾はしっかりされているようだが、このままでは行方知れずになったとしても無理はないぞ…。
―月―日
前々から私達の研究とは別々に進めていた研究が失敗に終わった。動物の遺伝子を組み換えて造られた細胞…を基に生み出された生物。
通称「黒曜獣」。彼らの研究は上手くいっていたのだが途中でとんでもない事実に気付き破棄されることとなった。
そのとんでもない事実とは彼らの遺伝子にあった。彼らの遺伝子は不安定で、様々な動物の遺伝子が混ざり合ってできていることから、とても実用的ではないと判断されたようだ。
また、実験の途中で同僚の一人が事故で獣人化してしまった事も破棄された要因の一つだろう。
彼らの処遇をどうするかについては現時点では保留とするとのこと。
余談ではあるが彼らを造る際に基となった動物の遺伝子の一部が狼だった為、彼らの姿形もそれらしくなっており、彼らの行動も群れで行動するなどの特徴が見受けられた。
―月―日
良くない報告ばかりが入ってくる…。獣人化した被験者や黒曜獣たちが研究員を襲い、襲われた研究員らが彼らに寄生され、仲間入りを果たした。研究員のペットが実験体の粘液を誤飲し獣人化した、水生動物の実験体が餌やりの時に研究員に飛び掛かり研究員が獣人化した、ペットがベランダへ出て逃げ出した、配管の中へ実験体が逃げた、等々…。殆どが不注意による事故なのは偶然か、それとも実験体達が賢くなってきているのか…。
いずれにせよ警備や監視の目を強化しなければ被害は増える一方だろう。
明日辺り上へ報告し、要望を聞いてもらえないか取り合ってみようと思う。
―月―日
同僚であり友人のKが、私が疲れていると思ったのだろう。お茶会に誘ってきた。久しぶりに彼の顔を見た気がする…。 彼は責任感が強く優しくリーダーシップもある私達のチームのリーダーだ。
彼のこんな時でも変わらない姿は私達に安心感を与えてくれる…頼もしい限りだ。
だが、趣味の園芸…特に盆栽の事になると途端に饒舌になり出し、話に熱中するのはどうかと思うが…まぁ、それも含めて彼は信頼されているとしみじみ思う。
―月―日
もう既に破棄された黒曜獣の研究だが、調査を続けている同僚達がいると報告が挙がっている。成果はあるようだが、如何せん未知の部分が多い為あまり近づかないようにしてほしいところだ…。
同僚兼友人が減るのは悲しいからな…。少なくともこの建物以外には限られた場所でしか人は生存していない。もっと命を大事にしてほしい。
―月―日
今進めている計画が以前とは違い、成功の兆しが見え始めている。
今回も前と同じ動物の遺伝子から造られた細胞ではあるが前回とは違い比較的安定している。しかし被験者に点滴で細胞を注入した所、やはり獣人になってしまった。
だが、これまでよりかは理性が残っているようでこれをさらに改良していけば、いずれ自我を完全に残すことも可能な筈だ。尚、この時に生まれた獣人は皆白色を基調とした配色をしていたため「明曜獣」という名前に決定した。
明曜獣は黒曜獣と同じかそれ以上の知能を持っているようで、彼らの行動に明確な知性が確認できる。しかしその分狡猾であり、油断していると直ぐに襲い掛かろうとするしぐさを見せる。
扱いには細心の注意を払って行動すべきだろう。
―月―日
最近実験の過程で生まれた獣人達が私に熱烈な視線を送っているような気がしてならない。彼らが収容されている部屋の前を通ると必ずと言っていいほど駆け寄ってくる。
この事をKに話すと彼らは最近「優秀な宿主」を探すようになっているとのこと。ここでの彼らで言うところの「優秀な」は肉体的に逞しい者の事を指すようで私の他にも何人かの研究員や同僚が同じ目に合っているとのことだ。
しかしK曰く私に降り注ぐ彼らの視線は他の研究員や同僚達とは比べ物にならないらしい。彼らの前を歩くのはできるだけ避けた方が良さそうだ…。
―月―日
まだ試作段階ではあるが明曜獣の細胞を元に改良した治療薬は完成した。それと同時に被験者のストックも残り僅かになってしまったらしい。実験は先延ばしにされることとなった。実験が待ち遠しい。
―月―日
黒曜獣達の処分が決定した。
彼らを収容できるスペースがない為、今は使われていない事務室に無理矢理押し込み処分するらしい。
…黒曜獣は自身の心臓部である仮面のような物体を破壊されると死に至る…が、その仮面はその場に根付き黒い結晶へと成長し、その結晶から新たな黒曜獣が産まれるというサイクルがある。
そのような生態を持つ生物をどのようにして処理するのだろうか。そもそも、まだ謎の多い生態を持つ未知の生物なのにそんなに簡単に手を打っていいのだろうか…。
その辺りの詳しい内容は私も知らされていないが、嫌な予感がするのはきっと気のせいではないのだろう…。
日誌はここで終わっている。