「世界」は刻一刻と枝分かれしている。それは枝を広げる樹によく似た形をしている。
例えば勇者ローシュが邪神ニズゼルファに敗れた世界。例えば勇者ローシュが過ぎ去りし時を求めた賢者セニカに救われた世界。
あるいは「勇者」が大事な仲間を失った世界。あるいは、過ぎ去りし時を求め「勇者」が犠牲を出さなかった世界。それは言うなれば、「幹」となった世界。
「幹」に至るまで……「勇者」やその仲間たちが魔王や邪神を打ち倒せなかった世界ももちろん存在する。そのような世界は世界の楔である大樹が情報のみを収集し、「次」の世界を試行するための糧となる
これは無数にある分岐の一つ。十六年前、ユグノア王国滅亡の日。まだ赤ん坊の「勇者」が……。
「なんつーかお前、勇者の紋章以外にもなんか変わったアザがあるよな」
カミュがぼくのほっぺたを突っついた。面倒見の良さと比例するようにカミュは存外身内と認めた相手には無遠慮な人間なんだ。ほら、ベロニカちゃんとのやりとりとかまさにそれ。ぼく自身は別に構いはしないというか、むしろぼくのことを親しく思ってくれている証左のようで心地よくもあり、人間の距離感に戸惑うような気持ちもある。
これまで他者というのはただそこに在って、ただ静かに寄り添うものだと思っていたのだ。慣れないけれどこういう、なんというか少し騒がしい関係性もいいものだと思う。ぼくは結局のところ寂しかったから。
きっと「相棒」というのはただの仲間ではないし、友達やら配偶者ともまた違う、特別仲のいいものだ。ぼくはそのように学習したので同じようにほっぺたを突っつき返してやろうか検討し、やっぱりやめた。
カミュの顔には何もついていなかったので、突っついてやる理由にならない。わざわざびっくりさせてやることもない。カミュは見た目よりも繊細な男である。いや見た目通りかもしれないけど。変なことをしたらあとあとまで結構に気にするタイプというか。しっかり覚えているというか。
「なんか葉っぱみたいな形だな」
「形は違うけど腕とか足にもあるよ」
「おいおい、ぶつけすぎじゃね?」
「怪我のアザじゃないよ。生まれつきじゃないかな。気づいた時にはあったんだもの」
生まれつきだと思うものにそう言われても困る。じゃあカミュの髪の毛って丈夫な葦のように立っているね、と言いかけたが、恐らくは一般的ではない比喩表現に疑問が返ってきそうなのでまたやめた。相手の容姿についてどこまで言及すべきかはかりかねて。ツンツンの髪は結構いいなと思うのだけど、ぼくの髪は重力に負けっぱなしの様子だった。
というか、ぼくはまだまだおチビな苗木だけども、種族は人間にしても。せめていくつかそれらしいシンボルマークがあるのは当然ではないか。
とはいえ、カミュは親愛を込めて「カミュちゃん」と呼ぶとちょっと嫌がる程度には考え方が独特な人間なので……あんなに強いシルビアちゃんにあやかった敬意のこもった呼び方なのに嫌がるとは変わったヤツである……不思議に思ったのかもしれなかった。
「ふーん。変わってるなぁ。まぁ似合ってるぜ」
そっちから話しかけてきたくせにカミュはすぐに興味を失って、みんなの方へ歩き出す。
これはなんらかの返事が必要だったやつかもしれない。
「カミュの髪とか目は海の色みたいだ。ぼくの目は葉っぱの色。そういうものじゃない? そんなに変わってるかなあ」
「じゃあベロニカの髪の毛が燃えてないのはなんでだ?」
「あっそうかぁ。そうだね、じゃあたまたまかぁ」
「ちょっとあんたたち! おしゃべりしてないで行くわよ!」
お話に夢中になって足が止まっていたから怒られちゃった。ぼくたちは首をすくめて走り出す。なんせベロニカちゃんはこの世で最も強いので、万が一にも燃やされたくないじゃない? 彼女は笑っている方が素敵な女の子なのだ。
ぼくよりみんなずっと強いのさ。名も知らぬ生命力の強い草本のように伸びやかで、不屈の魂を宿している。温室育ちのぼくは強くなりきれなくて、地上に根差すことが出来ないで。二本の足は驚くほど軽やかに動く。そのくせ、今日もぼくはメラが成功しない。
耳を塞げばごうごうと、血潮が流れる音が聞けるだろう。この肉体は瑞々しく成長し、背丈も大きくなっていくことだろう。呼吸し、歩いて、食べるのに、ちぐはぐだ。
どうして、もうひとりではないのに。ぼくの指先は氷のように冷たいの。どうして、隣にいる仲間たちと隔たりがあるように思うのだろう。
ぼくはどうして、ここにいる? ごうごうと、どこか遠くで冷たい川が流れている。
「母さん、おはよう」
声変わり前のアルトボイスは軽やかだった。周囲は鬱蒼とした森だということを忘れさせるような朗らかさで、少年は機嫌よさげに伸びをした。彼は靴も履かず体に合わないサイズの服を着て、伸ばしっぱなしの長い髪と色濃く幼さを残すかんばせは、ともすれば彼を少女のように見せさえした。
そして彼はうきうきと、今にも歌い出しそうな雰囲気で、ぴょんと立ち上がる。
「今日はとってもいい天気だね! ぼくも日当たりのいいところへ行こうかな」
くるりと周囲を見回した少年は嬉しそうに小高い丘に駆けだし、小走りの勢いそのままてっぺんで仰向けに横になった。下草に頬がくすぐられると、彼は心底愉快そうに笑顔になった。
「太陽が気持ちいいね! ぼくにもみんなみたいに綺麗な葉っぱがあればいいのになあ」
まだ彼はどこからどう見てもまだまだ親に庇護されるべき年齢だったが、ひとりぼっちだった。その大きな声での独り言は寂しさをごまかしているのかもしれなかった。だけども、彼はまるで母の腕に抱かれた子どものように安心しきった顔をしていた。
彼は太陽を嬉しそうに見上げていた。その左手には奇妙な形をした紋章がくっきりと刻まれていた。彼はその紋章に愛おしげにキスをすると、空に浮かぶ大樹を眺めて微笑んだ。親愛をこめた、無垢な微笑みを。
すると、はかったようにひどく冷え切った少年の身体にあたたかな春の風が吹き込み、かじかんだ指先をあたためた。
おチビちゃんはたいそう喜んで、きゃっきゃと赤子が親にあやされたように笑った。
「母さん、ありがとう!」
子葉はすくすくと伸びやかに。養分を吸い上げながら、ヒトの形を保つ。おチビちゃんの頬には隠しきれない葉の模様が刻み込まれ、手足には根のようなひび模様が無数に存在する。
しかし、いまだ彼は他の人間を見た事もなかったので、無邪気に母を慕う子どもであったのだ。己について何も知らず、課された使命も知らず、勇者として開花するその日まで。庇護の元育つのだ。冷たい肉体には大樹の加護を。そうなるはずだった成長を再現しながら、彼は非常に健やかに育つ。
食料の不足と裏腹に、劣悪な環境をものともせず、背は伸び肉を付け、何も教えられずとも大樹の知識……これまで大樹へ還っていった魂の集合知とでもいうもの……を吸収して、剣を振るい魔法を覚え、戦う者として伸長していく。
彼こそは大樹の加護を受けし、今代の「勇者」の使命を与えられし者である。いや。「ソレ」は勇者の器と呼んだ方が正しいのかもしれなかったが。
救われる者からすれば、どちらでも一緒だろう。
それは嵐の夜。古き王国の終焉の日。「勇者」として生まれた赤ん坊は、濁流に飲み込まれてそれっきり。無垢な魂は当然、両親のもとを目指しました。