魔導士ウルノーガを
ソレの体に傷らしい傷はなかった。一方的に「邪悪」な意志を持った
仲間たちには彼がどうしてそうも苦しむのかわからなかったし、ソレの方はといえば、もはやまともな弁明ができるほど時間が残されていなかった。
仲間たちはソレのありさまを先ほどの戦いのせいだと考え、この場を離れるべきだと考えた。だが。
「ここでいい……ここがいいんだ。ここより相応しいところなんて、どこにもないでしょう?」
健気なソレは仲間たちを止めたのだった。事実、最早命の大樹のお膝元以外でとうに死亡した少年の肉体がわずかでも生き長らえる……いや、生きているふりをすることなど不可能なのだった。
その時、彼らは誰一人として空を見なかった。大樹の深奥において空など欠片も見えなかったし、誰も彼もそのような余裕はなかった。とはいえ、すでに空に終焉の扉は開いていた。解け、消えゆく世界の終わりはすぐそこに。ソレのからだから零れ落ちた光の粒子のように、空からゆっくりと世界は分解され、音もなく消えてゆく。
魔導士ウルノーガを屠り、彼を無力化した今襲い来るは次なる破滅の足音である。だがこの剪枝世界に対抗するすべはない。「勇者」の穂木は魔導士ウルノーガを光の下へ送ることはできても、それ以上は叶わない。借り受けた死者の器はすでにチカラを使い尽くして光を失い、ソレの歩みはここまでである。
「邪神」の復活を粛々と受け入れるほかない、と母なる大樹は理解した。すなわち、この世界の存続はないものとして決定した。
幸いこの世界は十六年も前から剪枝世界と定められている。この世界を剪定することなど何の問題にもならない。来るべき未来がとうとうやってきた、それだけのこと。必死に足掻いた寄る辺のない穂木に永遠の安息の時がやってきたのだ。
ただ、仲間たちに囲まれた穂木を観測していた大樹はふと、生前を思い出した。何も無かった闇の世界で生まれた聖竜だった頃の自分を。最初は孤独の戦いだったが、そのうち闇の向こうから神の民が現れ……一人ではなくなったこと。なぜ今思い出したのか。なぜ今更、情に似たものを抱いたのだろう。大樹は自分で不思議に思った。感情らしきものを抱くのは久しぶりのことだった。
穂木の活躍によって十六年間の存続を許されたこの世界。世界の終わりが確定した今、大樹こそ無数の世界との接続から離れ、ある種の集合知から脱し、ほんの少しかつての自我を取り戻した……そんな奇跡の欠片が作用し、母と呼ばれ続けた偉大な木はその時、本当の意味で母となったのだ。
温度のないはずの大樹は温度のないはずの穂木に一つだけ報いてやることにした。遅すぎた、最期の慈悲である。最初で最後の、親の情である。
自分を一途に慕ってくれた、幼く儚い命へのひとつの報いである。
情報収集完了 勇者再現体 停止せよ
ソレの頭の中に、ようやく求め焦がれた母の声が響く。懐かしくも愛おしい、無機質な声。「勇者」やその仲間、あるいは現行の生命たちに聞かせるわけではない、ただの「再現体」に終わりを知らせるために合成された音である。大樹の本質は機械ではないが、ある仕組みに造られた、命令を受諾し遂行するためのモノに対する態度はまさしく機械だった。
その声を聞いて、ソレはあどけなく笑う。嬉しそうに、それだけで心底報われたように。
「えへへ……ぼく、倒したよ……母さん……」
剪枝世界276269の 実行停止カウントダウン開始 全取得情報を 根幹世界に送ります…… しばらくお待ちください このプロセス終了まで シャットダウンは 無期限延期されます……
「ベロニカちゃんは無事? みんな、大丈夫? ぼくも、はは、まだ生きてるよ。結構無茶したつもりだったんだけどな。この体って丈夫だね。流石はユウシャっていうか……」
ソレは呑気に笑っていた。母が話しかけてくれたことは嬉しかったが、自分はもうどうせ先は長くないと確信していたので、もうどうだってよかったのだ。どんな命令もすぐさま実行できるような状態ではなかった。そう、有り体に言って「今すぐ死ね」という命令だとしても、それさえ実行できるような余力はなかった。
勇者再現体の 命令拒否を確認 暴走状態と認定 パターン:不明 勇者再現体と 大樹との接続切断を 実行します
「うん、じゃあね、母さん」
だから、一方的な別れだってすんなり受け入れた。とうの昔に痛みは麻痺し、悲しみも憎しみも消え失せて。そこに残っていたのは僅かな名残にすぎないのだから。
だけども。大樹の方こそ変わっていた。我が子の死の気配をかぎつけて、淡々としていた「声」に迷いが生まれた。
……少し待ちなさい。どうせこの世界はもう終わりなのですから。付与:勇者再現体の自我データ保持。持続時間は生存時間と比例します。えぇそれでは、さようなら。私の息子よ。今までよく頑張りましたね。
「……母さん?」
手向けにあたたかな風がソレを包み込む。ある日の義理によるものではなく、親愛を込めて。息絶える間近だったソレは奇跡のように息を吹き返し、赤みの増した頬で、不思議そうに見上げた。
だけども、奇跡は二度も起きないから奇跡なのである。すでに世にも美しい、すべての根源は沈黙していた。
それでも野暮に「もしも」を語るなら。彼女は僅かに微笑んでいただろう。
数多の消えゆく剪枝世界・唯一の根幹世界をすべて合わせた樹状世界は言うなれば。立派な装丁の、一冊の本だ。
それは巨悪を倒す「勇者」の、偉大な旅路の物語。いつだって「勇者」は「悪」を滅ぼし、弱きを助け強きをくじく。
苦難の旅路、絶望と希望の起伏があり。「勇者」は仲間たちと手を取り合い、光のチカラを
「魔王」を打ち倒し、「邪神」を光へ返し、「邪悪」な意思を打ち砕く。物語のクライマックスはいつだってそのような、勧善懲悪じみたカタルシスに満ちている。
失敗した「勇者」の物語や、「勇者」と呼ばれなかったモノの話など、いつだって希薄なもの。特段讃えられることもなく、有象無象として「物語」の中に埋もれていく。
「勇者」ならざる「穂木」の物語はそれ以下だ。何かの間違いで世界が存続したとて、「邪神」に滅ぼされることが確定している。語り継がれるべき「勇者」は長らえられず、悲劇的な終末の世界で名もなき凡庸な死として消えていく……。
だけども。
穂木は足掻いた。滅びゆくことが確定した、剪枝世界で。その世界でのことは、ただの情報として根幹世界に吸い上げられ、最良を模索するちっぽけな肥料とされるのだろうけど。それでも。
その努力を、ずっとずっと観測していた大樹はほんの少し絆され。生まれた闇に還るはずだった穂木はひとときの生存を赦されて。
その枝は剪定されている。成長することのない世界で、時が止まったような終末の中。穂木は愛おしい仲間たちと静かに最期の時を過ごすだろう。それを、もはや物言わぬ大樹が静かに見守っているのだ。
剪枝世界で足掻け穂木よ。
テーマ:スケープゴート
これにて完結です。ここまでの読了ありがとうございました。