女神像の加護のもと。旅人たちに愛されるキャンプ地には今日も穏やかな時間が流れている。
頭から足先までぽかぽかしていた。腹の底まであたたかかった。目の前には焚き火がぱちぱち燃えていて、薪がどっさりあって、その上ぼくの手の中には腹いっぱいになれるほど安全でうまい食い物があった。鍋が煮えていて、ふつふつとよくあたたまっているのがすぐそばにあった。しかも近くには信頼出来るやつらがいて、なんならこのまま寝てしまっても良かった。
その良さを口に出して伝えたいくらいだったけど、母さんはここのところずっとだんまりだったから言わないでおいた。それさえ、ちっとも気にならないくらい満ち足りていた。
雨上がり、空がぱぁっと明るくなった時のような晴れ晴れしさ。待ち遠しかった春が訪れ、枝から新緑が一斉に芽吹き、大地からは新芽が飛び出す土の香りの季節のような浮き立つ気持ち。
隣に座っているカミュもおれと似たような満ち足りた顔をしていたから、わき腹を小突いてやった。ねぇ、ここってちっとも寒くないよって。すると、すっげぇここってあったけぇよなって顔でこっちを見てきた。なにせぼくたち、相棒なのだ。相棒というのは少しも喋らなくたってぴったり心が通じるのだ。
恐らく、カミュとは全く違うところで育ったのだけども、不思議なくらい纏う空気が似ていた。他のみんなもすごくいいやつらなのだけども、まったく考え方が違うのだ。
彼女らはデルカダールの下層に仕方なく身を寄せて住民どもに石を投げられたことだとか、ひもじい腹を抱えて歩いていたら野良犬にひどく吠えられたとか、店に並んでいるパンを盗むかどうかずーっと考えた末にしないでおいて、しないでおいたのだが前を通っただけで店主に言いがかりで箒で殴られたことなどまったくなさそうだった。ずぶ濡れのまま寒くて寒くて眠れない夜も、指先が冷え切って感覚がなくなるのが続くのも知っていそうにない。
そんなこと、絶対に知らないほうがいいのだろうけど、その苦い経験のあるなしは、目に見えない蜘蛛の糸のような確かな境界線を生み出しているようだった。つまりぷちんと簡単に千切れるのだろうけど、払いのければ手にまとわりついて気になって仕方がない……そのような具合だった。
カミュとぼくは、言うなれば、大きくなるまであまり恵まれていなかったのだ。だけどそれはこれまでの話だ。今はこんなに満ち足りている。とても幸せだなぁという顔をして頷きあった。カミュはきっと手先から足の指先まであたたかだろう。
「どうした食わないのか?」
「食べるよお。今、感動に忙しいんだよ」
「あー……なら俺の分も食うか?」
「ヤダよ。みんな腹いっぱいじゃなきゃヤダ」
「なんだ、腹減りすぎてへばっちまってるのかと勘違いしたぜ」
「腹いっぱいだよ。まだ入るけどさ。感慨は大事だよ」
「誰も取らないもんな……」
「そうだね、そうさ、その感動が増えたね! もうちょっとしみじみさせておくれよ」
カミュだってまだ入るだろうに。譲ろうとするなんて。ぼくとは違ってきっと誰かと一緒に身を寄せあって育ったんだろう。食べられるうちに食べなきゃということは誰よりも知っているだろうにそうするってことは、年下のぼくがその誰かにちょっと似ているのかもしれない。
だけども、今はカミュもぼくも、ほかの仲間たちだっていっぱい食べられるのだから譲る必要なんてないのだ。しかも、満腹すぎて動きが鈍ることを恐れる必要だってないのだ。あぁなんて素晴らしいことだろう!
すると、焚き火をはさんで真向かいにいたベロニカちゃんが笑った。ベロニカちゃんのばら色のほっぺが焚き火に染まって、幸せの色をしていた。
「あら、おなかいっぱいで感動してたの?」
「そうだよ! しかもぼくだけじゃなくて、みんなでいっぱいなのさ! ここはあったかいし、このまま寝たっていい。なんて幸せなんだろうね。……母さんもそう思うでしょ? えへへ。そうかな」
「……なにか返事はあったの?」
「なーんにも! そうだねって言ってくれたつもりになってた」
「あら、お母様ったらつれないのねぇ」
同じく幸せの色のほっぺをしたセーニャちゃんが大きな紫の目をぱちぱちさせて、幸せの色のシルビアちゃんがにっこりした。ぼくの隣で火に照らされて全身幸せの色のカミュはもう頭の後ろで手を組んで大あくびをしていた。ぼくもあくびが移って大あくび。
ここのところ、ぼくはとてもとても幸せなのだった。キャンプの準備が出来ている今、寝たくなったら寝てもいいのだ。
「さぁみんな、そろそろ寝ましょうか!」
ぼくはシルビアちゃんにはぁいと返事をして、胸のうちで母さんにお休みを言って目をつぶった。
母さんは今日も何も言わなかった。母さんはいつだって、生きていくために大事なことしか言わない。きっと胸に何らかの事情で剣を突き立てようとしたら話してくれるだろうし、なにか間違って毒を飲もうとするならきっと止めてくれるだろう。
本当はわかっていた。母と呼ぶ偉大な存在に仲間たちのようなあたたかさや近しさはないのだと。しかしそれでも性別すらなさそうなその存在に救いを求めているのだ。十六にもなって。
なんせ、ぼくは母さんに護られて育ったのである。その大いなる慈悲にずーっと包まれてこれまで大きくなったのであるから、今更一日や二日で親離れできないのだった。
「おやすみなさい!」
「えぇおやすみなさい」
およそぼくの知っている中で最強の少女が笑っている。火、というのは何物にも代えがたい叡智の末に制御できるものであり、生きとし生けるものを害することも出来る矛である。それを自在に操れるのだからベロニカちゃんは最強なのだ。この世で一番強いに違いない。正面から戦って勝てる気がしないんだもの、これはぼくの強さがどうこうとかいうことじゃなくて、そういうものなのだ。
雪が冷たいように。空に母さんがいるように。当たり前のこと。枯れ葉は簡単に燃えるようなもの。
彼女が健やかでいる間は世界の平和は保たれているだろう。なんて心強い。なんて、闇を払うユウシャが思うことじゃないんだろうけど。
ね、母さんはどう思う?
返事はない。あったことなんてないのさ。
……いつか、ぼくとお話してね。おやすみなさい。