雪ノ下雪乃が最初から俺にデレてくるのはまちがっている。
『青春とは嘘であり、悪である。
青春を謳歌せし者たちは(中略)結論を言おう。
リア充爆発しろ』
特別棟の廊下を歩きながら、中庭を眺める。
青々とした緑の中に、男女が数組。昼食時間はカップルどもが昼食を摂り、放課後は帰り道による場所でも相談しているのか、やはりそこはリア充の巣窟だ。
読唇術の心得などなくても、彼ら彼女らの会話はトレースできる。
『今日どこ寄ってく? 最近マリンピア行ってなくない?』
『いいね~。久し振りサンマルクのチョコクロ食べたい!』
──まったく、なめとんのか。
こっちはこれから、奉仕活動に駆り出されるというのに。
ことの発端は、俺を呼び出した現国教師の平塚先生の一言だった。
『比企谷。この舐めた作文はなんだ。一応言い訳ぐらいは聞いてやる』
我ながら未熟さを感じざるを得ない作文ではあったが、そこからあれよあれよと言う間に連行され、現在に至る、というわけだ。
「着いたぞ」
そう言って立ち止まったのは、特別教室でも何でもない教室の前だった。見上げたサインプレートは真っ白で、使われている様子も感じ取れない。
平塚先生は勝手知ったる様子でガラリと扉を開けると、中の様子が見える。教室の後ろの方には机と椅子が無造作に積み上げられ、真ん中には長机。それだけ見れば、
しかしその風景に一人の少女が溶け込んでいるのを見て、俺は身体も思考も停止させた。
「平塚先生。入る時はノックを、とお願いしていたと思いますが」
その少女は読んでいた本に栞を挟んで机に置くと、鈴が転がるような声でそう言った。そうやって動いている姿を見て初めて、そこに在ったのは絵画でも人形でもないと信じられる。
──正直、見惚れてしまっていた。
「ノックをしても君が返事をした試しがないじゃないか」
「それは先生が返事をする前に入ってくるからです」
俺は、この少女の名前を知っている。
二年J組、雪ノ下雪乃。
おそらくこの学校で彼女の名前を知らない者はいないだろう。学校内一と名高いその恵まれた容姿に、成績は常に学年トップときた完璧超人。
かたや俺は無名の一般生徒。だから彼女が俺のことを知るはずはないのに──。
「────」
雪ノ下雪乃はこちらを見るなり、可憐な微笑みを俺に差し向けてきた。
⋯⋯は?
なんだその綺麗な笑顔は。まるでやっと恋人が待ち合わせ場所に来たかのような表情をされて、震えそうになる身体を必死に抑える。
馬鹿みたいにとくとくと走り出す心臓を落ち着かせながら、俺は過去を反芻する。俺、この子とどこかで喋ったことあったっけ? ない。そもそも人との関わりが全然ない。理由が酷いがないものはない。
「それで、その⋯⋯」
雪ノ下はしばらく俺を見た後、平塚先生に視線を移した。
「ああ、彼は比企谷。入部希望者だ」
「⋯⋯二年F組、比企谷八幡です。⋯⋯って、入部?」
「君にはペナルティとしてここでの奉仕活動を命じる。雪ノ下。見れば分かると思うが彼はなかなか根性が腐っていてな。そのせいでいつも孤独な憐れむべきやつだ」
そういうこと教師が言っちゃう? と俺がジト目を向けるが、平塚先生の口調は変わらない。人を見た目で判断しちゃいけないって、小学校で習わなかったのか。
「人との付き合い方が分かれば少しはまともになるだろう。彼の捻くれた孤独体質の更正が私の依頼だ。引き受けてくれるか?」
「分かりました」
何やら勝手に話が進んでいるが、そもそもここは何部だというのだ。しかもすんなり受け入れられちゃってるしよ。
しかし何故、彼女の即答に平塚先生まで不思議そうな顔をしてるんだろうか。自分が頼んだんじゃねぇか⋯⋯。こっちが一番不思議だっつーの。
「では頼んだぞ」
平塚先生はそれだけ言うと、俺たちを残して教室を後にした。つまり俺は、やたら広く感じるこの教室で、学校一の美少女と二人きりである。布の服とヒノキの棒だけ持った冒険者が、いきなりラストダンジョンに放り込まれたみたいなものだ。
「座らないの?」
さてどうすべきかと考えていると、雪ノ下は俺に向けてそう言った。しかし座ると言われても、彼女にやたらと近い位置に置かれた椅子が一つあるだけだ。
早く、と言わんばかりに椅子の座面をトントンと叩かれ、俺は渋々その椅子に座った。途端に雪ノ下は、俺の方に身体を向けてくる。
「奉仕部へようこそ、比企谷くん」
にっこり、と春の陽気に花弁が開くように、それはそれは素敵な笑みが俺に向けられていた。
え、可愛い。近くで見ると更に可愛い。八幡、イミワカンナイ(錯乱)。
「あ、ああ⋯⋯。えっと、雪ノ下、さん⋯⋯?」
「私のことは『雪乃』と呼び捨てでいいわ」
ふぁいっ? と裏返った変な声が口を
「いや、流石に呼び捨てっつーのも⋯⋯」
「そう⋯⋯。ではせめて『雪ノ下』と。さん付けは他人行儀すぎるわ」
いやまさに他人同士なんですがという話なのだが、どうにも譲ってくれる雰囲気でもなかった。まあ名字を呼び捨てるぐらいなら、そこまで違和感はない。
「じゃあ、雪ノ下。さっき言ってた、奉仕部ってのは?」
「この部活動の名前よ。平塚先生が斡旋する相談事や依頼をこなすのが主な活動の内容ね」
はーん、なるほど。――それで合点がいった。
つまりはボランティア活動で、その過程こそが雪ノ下にとってメリットになる。つまりは困ったボッチくんの更生に協力したら内申点アップというわけだ。だからこんなに距離も近いし、親密に振る舞って見せる。こいつ、学年一位の学力があるのに、内申点まで取りたいのかよ。
「⋯⋯つまり当面の活動は、俺の更生になる、と」
「平塚先生の言葉を借りるなら、そうなるわね」
そこまで正直に言われると、いっそ清々しい。ついでに内申云々まで吐露してくれれば一周回って尊敬できるが、流石にそこまでは言わないだろう。
「はっ⋯⋯」
思わず、そんな馬鹿にしくさったかのような笑いが漏れる。噂の完璧美少女様も、意外に強欲なものだ。容姿も学力もあるのに、まだそれ以上を求めるってか。
「悪いが無駄な時間にしかならないな。無理だろ。他人が人を変えるなんて」
「⋯⋯つまりあなたは変わるつもりはない、と?」
「そうだ」
雪ノ下の出鼻を挫くつもりで言ったが、ふむと顎に手をやるだけで少しも動じた様子がない。なかなか肝が座っていると思うが、雪ノ下にしてみれば想定の範囲内ってところだろうか。
「そう思うのも、当然のことだと思うわ。本気で変わりたいと思っている人なんて、ほんの一握りだと思うから。変わる覚悟をするよりも、変わらないでいる方がずっと楽だもの」
なるほど、共感の姿勢を示した上で焚きつけるようなこと言う、か。説得の手法としては悪くない。
しかしこっちだって伊達に何年もボッチをやっているわけじゃない。こいつなら分かってくれそうだなんて、そんな期待はするわけがなかった。部活動だからか内申点の為だかは知らないが、お互い無駄な時間を過ごすべきではないだろう。
「つまり、逃げているって言いたいのか」
「そうね。見方によっては、そうとも言える」
「けど逃げて何が駄目なんだ? 現状維持だって立派な選択肢の一つだろ。だから──」
「いいえ」
もうこの話はお終いだな、と続けるつもりだった。鞄を掴んで立ち上がった俺を、雪ノ下は強い目で見ていた。
「あなたは変わるわ。間違いなく」
あまりにも凛とした物言いに、俺はすぐに言葉が出てこなかった。
理論武装もなければ説得力も何もない発言だったのに、何故かきっとそうなるのだと予感させられるほど、その目は確信に満ちている。
「⋯⋯変わって何になるんだよ。他人の価値観でよしとされる人生を歩めってか?」
「いいえ、そういうことではないわ」
俺を捉えた目は片時も離されることはなく、段々と居心地が悪くなってくる。
そんな俺の心のうちなど知る由もなく、雪ノ下は続けた。
「全てが変わるのよ。過去の持つ意味も、今この時も、未来も」
それはどう考えても、俺の問いへの答えではなかった。
なのに、何故だろうか。
毅然と言い放つその姿を、素直に格好いいと思ってしまった。惚れ惚れするぐらいの自信。あるいは、覚悟。
「座って」
雪ノ下は俺の袖を引っ張ると、膝が素直に折れてまた椅子に着座してしまう。いやおい、さっきから近いんだって。一瞬手を取られるのかと思ってドキドキしたでしょうが。
「とりあえず、連絡先を交換しましょう」
「んん?」
なんで今の話の流れで、そうなるんだよ。
人の話聞いてました? と胡乱げな目線を送る俺に、雪ノ下はくてんと首を傾げて見せる。
「駄目⋯⋯かしら」
「い、いや、そういうわけじゃ⋯⋯」
そう言ってしょんぼりしてしまった雪ノ下を見て、思わずそう返してしまった。これって押し切られているパターンじゃないだろうか。
女子の、しかも高嶺の花で知られる雪ノ下雪乃の連絡先なんて、知っているやつの方が少ないだろう。普通であれば小躍りどころかブレイクダンスでもしてしまいそうなシチュエーションだが、今は危機感しかない。
「なら、携帯を」
しかしつい先程言ったばかりの発言を取り消すこともできず、俺はポケットから携帯を取り出した。なんとかならないものかと考えていると、連絡先交換の仕方を知らない残念な人だと思ったのか、雪ノ下は「貸して」と言って俺の手から携帯を取る。ポチポチと操作しだしたが、雪ノ下自身それほど携帯電話に精通しているわけではないのか、考え考えしながら画面をタップしていた。
自分の携帯を他人が、しかもあの雪ノ下が触っているという状況にいまいち実感が湧いてこない。本当に今日はおかしなことばかり起きるな、なんて考えていると、静寂に満たされた教室にガラリと無遠慮な音が響いた。
「雪ノ下、邪魔するぞ」
「先生、ノックをと⋯⋯」
「悪い悪い。⋯⋯で、何をしているんだ?」
「比企谷くんと、連絡先の交換をしていました」
ちょうど登録が終わったのか、雪ノ下は画面をロックして俺に携帯を返してくる。その様子を見ながら平塚先生は「うーん」と腕組みをしながら不思議そうな顔をしていた。いやこれ、全部あんたの策略でしょうが。
「⋯⋯仲がよさそうで結構なことだ。さて、そろそろ下校時刻になる。きりのいいところだったようだし、今日はこれで終わりにしよう」
はい、と返事をして帰り支度を始めた雪ノ下に倣って、俺も立ち上がる。とりあえず、このやたらと緊張したり予想外のことが起きる空間から解放されることを喜ぼう。
「鍵は私が戻しておく。君たちはそのまま帰りたまえ」
しかし気が緩めたのも束の間、平塚先生はそう言って雪ノ下から鍵を受け取った。二人で帰れってか。雪ノ下と一緒にいると調子を狂わされっぱなしになるから、一人で帰りたかったんだけどな⋯⋯。
「では行きましょうか」
そうななんでもないことのように言われると、気にしているこっちが馬鹿らしくなってくる。
別に余計なことを喋らなければ、どうということはないはずだ。というかそもそもなに喋っていいか分からんし。
階段を下りきると、そのまま昇降口の方へと進んでいく。その間雪ノ下はちらちらと俺の方を窺ってくるのみで、これと言って話題を提供するようなこともなかった。それに少し安心しながら昇降口を出ると、俺と雪ノ下は顔を見合わせる。
「⋯⋯俺、自転車だから」
「私はバスと電車」
ならば、ここでお別れだ。ようやく緊張が解れてきた俺に、雪ノ下はとびっきり素敵な微笑みを向けてくる。
「では比企谷くん。また明日」
「お、おう⋯⋯。また、な⋯⋯」
そう言って背中を向けた雪ノ下の後ろ姿を、俺は棒立ちになって見ていた。
反則だろ、あのスーパーキュートな笑顔は。美少女に笑いかけられるだけで、こんなにドキドキするもんなのかよ。
なんとなくそのまま見続けてしまっていると、校門を出て曲がる瞬間、雪ノ下はこちらに気付いて手を振ってくる。俺も胸の前で小さく手を振り返すと、今度こそ彼女の姿は見えなくなった。
「⋯⋯帰ろ」
なんだこの、甘酸っぱい感じ。ちょっとリア充っぽいななんて、思ってしまったではないか。
本当にさっきから、調子を狂わされっぱなしだ。
俺は後ろ手で頭をかくと、いつもより少しだけゆっくりと駐輪場に向けて歩いて行った。
* * *
その日の晩のことである。
「お兄ちゃん?」
もうすぐ晩飯を食べ終わるかという頃、妹の小町は神妙な声音で話しかけてきた。
「今日、なんかあった?」
「ん⋯⋯? なんでだ?」
「だって、なんか考え込んでる顔してたし、ご飯食べるのも遅いし」
自分では気づかなかったが、そうなのだろうか。
ちなみに今晩のご飯は中学三年になったばかりの小町ちゃんお手製である。中三から料理スキル習得とかポテンシャル高すぎるし、普通にめちゃくちゃ可愛い強キャラだ。うちの妹が強すぎる⋯⋯。
「小町の飯がうまいからゆっくり食べてたんだよ」
「うーわー、今の小町的にポイントたかーい。でも誤魔化したからポイントマイナス」
小町はジト目になって俺を見続けてくる。こうなるとちょっと面倒くさい。真実を語るまで止めないぞと、その目が語っている。
まあ別に、部活に入ることになった話ぐらいはしても構わない⋯⋯というか、しておくべきだろう。どのぐらい活動があるかは知らないが、間違いなく家に帰る時間は遅くなる。
「実は部活に入ることになってな」
「へえ⋯⋯何部?」
「奉仕部」
「なにそれ。メイド服着たり、紳士服着たりするの?」
「なぜ奉仕イコールメイドさんや執事なんだ⋯⋯」
まあ俺も平塚先生から奉仕活動を命じると言われた時に脳裏をよぎったから、人のことは言えないか。
それにしても、雪ノ下がメイド服着てたらすげぇ似合うだろうなぁ⋯⋯。なんてどうでもいいことを考え出してしまった俺に、小町はまだ興味津々な目を向けていた。
「何人ぐらいの部活?」
「⋯⋯俺含めて、二人」
その二人ってのが問題なんだよな、と思う。しかももう一人というのがあの雪ノ下雪乃だし、なんか妙に近いし。
どうしたもんかななんて考えながらお茶を一口含んだところで、テーブルに置いてあった携帯がブルっと震えた。メッセージか何かだろうか。
「ふーん。もう一人って、ひょっとして――」
「ぶふぅぅっ!!」
「ちょっ、お兄ちゃん、汚い!」
盛大に茶を吹き出した俺に、小町は非難の目を向けてくる。けどこんなの、仕方ないだろ。
もう一度メッセージの差出人の名前を見るが、見間違いでもなんでもない。
『雪乃♡』
差出人には間違いなくそう書かれていた。
あの女⋯⋯なんて爆弾を仕込んでやがる。
「一体なんなの? 急に⋯⋯」
「いや、すまん。ちょっとむせただけだ」
小町から台拭きを受け取って拭きながら、俺は隠すようにポケットに携帯をしまう。
本当になんなんだよ、あいつ。
次に会ったら、どういうことか問い詰めてやる。
――と、この時点まで俺は、そう考えていた。
* * *
翌日ホームルームを終えて教室を出た瞬間、俺を待ち構えていたのは平塚先生だった。
「比企谷。部活の時間だ」
むふんと腕組をしてお出迎えとは、熱烈なことだ。よっぽど俺のことが信用ならないらしい。
――まあ本当に信用ならないのは、誰だって話になるのだが。
「わざわざ引率ですか。そんなことしなくても行きますよ」
「まあ、昨日はだいぶ打ち解けていたようだしな。一応だ」
連絡先の交換をし合うのが打ち解けていたと感じるのはだいぶハードルが低い気がするが、俺にはそれすらもできないだろうと思われていたってことだ。確かに雪ノ下に言われなければ連絡先の交換などしなかっただろうから、平塚先生から見た俺への心証は正しい。
「では行くか」
そう言って平塚先生は背中を見せて、俺の前を歩き始める。その隣を、半歩遅れてついていく。
「昨日はずいぶん親しげな様子だったな」
「ええ、まあ」
それについては特に否定せずに、俺は頷く。確かに妙に近かったからそう見えたかも知れないし、事実雪ノ下の態度は初対面の人間に対して親しすぎるほどだ。
しかし、詰めが甘い。
雪ノ下も、平塚先生もだ。
昨晩あれから考えついた結論は二つ。雪ノ下雪乃は誰かと結託し、俺を陥れようとしている。あるいは雪ノ下自らの意思で、俺を弄び愉しんでいるのだ。
雪ノ下が俺にやたら親しげに接する理由は内申点の為という線も捨て切れないが、だとしても差出人の名前にあんな悪戯を仕掛ける意味が分からない。悲しいかなこう言った手合は、もう経験済みだった。
まったく、少しでも動揺してしまった自分が嫌になる。どう言った理由でとかはまるで分からないが、あんな状況はそうとしか思えない。
「なあ比企谷。君から見て雪ノ下は――」
平塚先生の言葉がずいぶん小さな声量で背中に届いた時にはもう、五メートルは離れていた。下校途中の生徒たちに奇異の目で見られながら、俺は廊下を全力で駆けていく。
「待てっ、比企谷!」
「先生さよぉならぁぁ!」
さらば、偽りのリア充っぽい部活動。
汗と涙と、感動の青春物語。
やっぱリア充なんて、爆発しろ。
という訳で第一話でした。
私の過去作を読んだことのある方からはまたこのネタやるのかと言われてしまいそうですが、あちらの話とは全然別の展開になる予定です。
私、気になります! という方はこちらをどうぞ。
『まちがった青春をもう一度。』
https://syosetu.org/novel/257731/
それではまた次のお話で。