やはり俺にモテ期がくるのはまちがっている。   作:滝 

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俺とさいちゃんがお風呂に入ると、間違いが起こる可能性がある。

 高原の夜は、木々のさざめきで満ちていた。

 平地に比べ季節が一つ先に進んでいるとすら感じるほど涼しく、虫の声もいくらか品があるように思える。

 

「どうぞ」

「あぁ⋯⋯。サンキュ」

 

 雪ノ下が淹れてくれた紅茶を受け取ると、俺は小さくそう答える。

 自分たちで作ったカレーを食べ終えた後、平塚先生を含む林間学校のサポートメンバーは炊事場横のテーブルに留まっていた。

 

「今頃みんな、修学旅行の夜っぽい会話をしてるのかな」

 

 こうしていると泊まりがけのイベントということに意識が向くのは必然なのだろう、葉山は思いを馳せるように真っ暗な空を見ながら呟いた。

 

「大丈夫、かな⋯⋯」

 

 由比ヶ浜はどこか不安気な表情を浮かべ、俺の方を見る。何が、とは聞く必要がない。由比ヶ浜が指す事柄は留美のこと以外考えられなかった。

 

「何か心配ごとかね」

「一人、孤立している生徒がいたので⋯⋯」

「ねー、可哀想だよねー」

 

 平塚先生が聞くとそう答えたのは葉山で、同情するように言ったのは三浦だった。

 それにしても可哀想、か。

 その感覚は、あくまで第三者として見た者の意見に過ぎない。留美が自己憐憫に陥っていない限り、どうにも楽観的な意見にも思える。

 

「それで、君たちはどうしたい?」

 

 平塚先生がそう問いかけても、すぐに答えられる者はなかった。

 小町は考え込むように紅茶を見つめ、さーちゃんはさっきから高原の夜闇(やあん)に目を向けたまま。誰もがそれと似たような行動を取っている。

 

「⋯⋯俺は、可能な限りなんとかしてやりたいと思っています」

 

 そんな沈黙を破ったのは、葉山の重々しい声だった。

 

「あの子の表情を見ていたら、そうすべきだと思いました。俺の押し付けになるかも知れませんけど」

「あなたでは無理よ。少なくとも今までのやり方では」

 

 思わぬ方向からの指摘に、はっとして雪ノ下の方を見る。

 雪ノ下は葉山と目を合わせた後に、それ以上言うことはないとでも伝えるように視線を外した。

 

「どういう意味かな」

「仲を取り持つようなやり方は、得策とは言えない。話し合えば分かり合えるなんて幻想だわ」

 

 冷静な問いかけに、冷徹な声が答える。

 何を思って雪ノ下がそう言っているのかは分からないが、その意見にはおおむね同意だ。いくら話し合っても、分かり合えない人間は少なからずいる。

 達成したい目的が違う者同士なら、なおさらだ。誰かを排斥することで自らの立ち位置を確立したい者に仲良くしようと言ったところで、どこまでその言葉が響くだろう。

 

「ふむ。では雪ノ下、君はその問題に対してどう考える?」

 

 平塚先生の言葉に、雪ノ下はまっすぐな視線を返した。

 

「私と比企谷くん、一色さん、そしてその生徒で話をして、私は自分の思いを伝えました。私は彼女の強さを、信じたいと思います」

 

 その毅然とした物言いに、誰もが口をつぐんでしまう。

 何とも雪ノ下らしい答えだと思った。魚を捕って与えるのではなく、捕り方を教える。あの時何かを得たような留美の表情を思い出せば、確かに彼女自身の強さを信じてもいいかも知れない。小学生に差し出す答えにしては、かなり世知辛いものだったとしても。

 

「比企谷くん、あなたは?」

「俺⋯⋯?」

 

 不意にそう振られて、集まったメンバーの視線が俺に集まってくる。なるべく静観しているつもりだったが、聞かれてしまっては仕方ない。

 

「問題⋯⋯だとは思ってる。あの子が孤立しているのは、悪意によってだからな」

「比企谷。よければだが、その子と話した時のことを聞かせてくれるか」

 

 悪意、という言葉に引っかかったのだろう、平塚先生はそう問いかけてくる。事情を話していいものか一瞬ためらったが、俺たちだけで共有していてどうにかなるものでもない。

 俺が留美の現状を説明すると、一色がその時留美がどんな反応をしていたかを補足してくれる。話を聞き終えた面々は、それぞれ複雑な表情を浮かべていた。

 

「大体の事情は分かった」

 

 話を聞き終えた平塚先生は、ざりっと地面を踏んで立ち上がる。

 

「この話を聞いた上で、君たちがどうしたいか考えるといい。私は寝る」

 

 それだけ言うと、平塚先生は俺たちを残してバンガローの方へと歩いて行った。

 あえて俺たちに託す。生徒の自主性を重んじる総武高校らしくもあり、何より平塚先生らしい判断だ。後は俺たちサポートメンバーの、意思の問題である。

 

「⋯⋯あたしももう戻る」

 

 さーちゃんは一言そう言うと、平塚先生の後を追うように席を立った。らしいと言ったらそうだが、この話し合いに参加するつもりはないらしい。

 

「っべーわー、女子って小学生のうちからそんなことしてんの?」

 

 再び流れ出した沈黙に耐えかねたのか、戸部は伸びをしながら言った。確かに俺たち男子側からすれば理解し難い価値観だ。

 

「あーしが小学生の時は、そんなのなかったけど?」

「まあ、優美子だからねぇ」

 

 解せぬ、という顔をした三浦に対して、海老名さんは苦笑を浮かべながら言った。まあ、確かにあーしさんならしないよな。気に入らないことあったら直接言うだろうし。

 

「それで、みんなの方から何か案はあるかな?」

 

 平塚先生の言い残して行った指示を遂行するつもりなのだろう、葉山は仕切り直すようにそう言った。それにすぐさま答えたのは三浦である。

 

「つーかあの子結構可愛いんだし、他の子とつるめばよくない? 可愛い子見つけんじゃん。声かけるじゃん。仲良くなれたらオッケー、みたいな」

「あー⋯⋯、ちょっと言い方は違いますけど、わたしも似たようなことは留美ちゃんに言いましたね」

「⋯⋯ふーん」

 

 一色が言うと、三浦は妙に冷めた声でそう答えた。何で同じ意見なのにそんな仲悪い感じになるの? やっぱあーしさん怖いわ。

 

「つーか俺ら男子も似たようなもんだべ? 仲良くなるきっかけって。な、ヒキタニくん」

「⋯⋯それは戸部だからじゃねぇの」

 

 何だよそれ、今の流れだとこれをきっかけに俺と戸部が仲良くなるっていうのか? つーかこの流れで仲が深まるとかパリピのノリがまず無理。だいたいこいつ俺の名前間違えてるし。っべーわべー。

 

「でも八幡とぼくが仲良くなったきっかけも、同じじゃないかな? どっちかから話しかけたりしないと始まらないっていうか」

 

 その発言に思わず「さいちゃぁぁぁぁん!!」と叫びそうになる。そうか⋯⋯さいちゃん、俺と仲が良いって思ってくれてたのか。俺だけじゃなかったんだな、そう思ってたの!

 

「そうだねぇ⋯⋯同じ趣味とかだと、喋りかけやすいんじゃないかな」

 

 一人感動している俺の向かいの席で、海老名さんはうんうんと頷きながら言う。

 趣味⋯⋯。やっぱり俺も、テニス始めようかな。

 

「趣味に打ち込んでるとイベントとか行くようになるでしょ? そういう場所だと初対面でも、推しカプが同じだといきなり意気投合できるし」

「推し⋯⋯カプ?」

 

 由比ヶ浜が疑問符を浮かべながら聞くと、海老名さんは意気揚々と続ける。

 

「そう! まあ攻めと受けでケンカになる可能性もあるけどね。逆もありだなって考えだすとそれはそれで妄想もはかどるっていうか、世界がひろがる感じがして乙だし。後は尊みポイント語りだしたらもう止まれないよね!?」

「あぁ⋯⋯うん」

「後は全然違う作品とかもレコメンドし合ったりしたらまた別のイベント行きだしたりして友だちも増えるよ。顔出すコミュが増えるとちょっと大変だけど人気ジャンルだと供給多いし毎日推しカプイチャつき見れて最高っ! ってなるから! 絶対!」

「へぇ⋯⋯」

「ということでBLの良さが分かれば友だちは増えます。時に雪ノ下さん、わたしの最近の推しははや✕はちなんだけど、一緒に──」

「結構よ」

 

 押され気味の由比ヶ浜に代わって急に振られたというのに、雪ノ下はバッサリ切り捨てた。うん、今の会話で海老名さんの趣味がよく分かったわ。葉山には近づかないでおこう。

 

「なるほど⋯⋯兄の処理に困ったらその道も⋯⋯」

 

 ところで小町ちゃんは隣で何をボソボソと言っているんでしょう? 処理とかお兄ちゃんはゴミじゃありませんよ。多分。きっと。そうだといいな!

 

「比企谷くん。あなたの意見を最後まで聞いていないわ」

 

 脱線しだした話を元のレールにのせるように、雪ノ下は冷静な声でそう言った。確かに「悪意によって孤立しているのは問題」というところまで言って、それ以上の意見は挟んでいない。

 

「俺は⋯⋯別に孤独なのは問題じゃないと思ってる。ただあのやり方は、冗談とかじゃなくて悪意だ。それにひっかかるところはあるし、対処のしようはあると思う」

 

 思っていたよりもずっと鎮痛な声が出ると、さっきまでの空気と打って変わって静寂が訪れる。

 これはあくまで憶測の域をでない話だが。

 留美を排斥している彼女たちはただ振りかざしたいのだ。集団の力を。

 強い側に居たいのだ。己の弱さを直視したくないから。

 本当に封建的というか、はみ出す者を許さない風潮には辟易する。手を差し伸べた者が被害を被るなど、あってはならないことなのに、それが普通になってしまっているのだ。だが──。

 

「比企谷くん」

 

 ──まだ、足りない。行動を起こす理由がない。

 だってまだ、求められてもいないから。

 

「何を考えているのか何となく分かるのだけど、外力を加えるやり方は駄目よ」

「⋯⋯分かってるよ」

 

 雪ノ下に言われなくとも、理解している。俺が思いつく方法は、少しも褒められたものではない。

 それを求められてもいないまま実行に移すつもりは更々なかった。それをしてしまえば、ただの私的な代理戦争のようになってしまう。戻れない過去に抗うだけの、自己満足だ。

 

「⋯⋯とりあえず、それぞれ持ち帰ってまた明日話さないか? もう遅くなってきたし」

 

 どん詰まりまで行き着いた会話を救い出すように、葉山は皆に視線を送りながら言う。

 その提案にそれぞれが頷きや声を返すと、俺たちの心を映すようにように木々はざわりとさざめいた。

 

 

   *   *   *

 

 

 さて、葉山が言ったとおりすっかり遅くなってしまった。

 コテージへ戻るついでに確認すると、大浴場が使える時間はもう少ししかない。大浴場の利用権を女子たちに譲ると、残る男子はどこで風呂を入るかという話になるのだが。

 

「見せて貰ってきたけど、内風呂はそんなに広くないから入れても二人までかな」

 

 葉山が調整してくれた結果、管理人棟にある内風呂を貸して貰えるらしい。であれば一人ずつ入るの一択だろう。広くもない風呂場で葉山や戸部と過ごすなんて選択肢はない。

 まあ、相手がさいちゃんなら別だけど。

 

「だって。八幡」

 

 そう、さいちゃんとなら⋯⋯って。

 なんでさいちゃん、男子側にいんの?

 

「あー、ならヒキタニくんたち先入っちゃってよ。俺ら後でもいい系だし」

 

 戸部は気軽にそう提案してくるが、俺にとっては色々マズイ系だ。

 流石に一緒には入りたがらないだろうが、さいちゃんが入った後に風呂に入ってしまえば湯船が空になるまで残り湯ごっつぁんですになるし、先に入ると俺の汗やら何やらで汚してしまった風呂に入ってもらうことになってしまう。これは困った。

 

「ありがとう。じゃあ、二人でささっと入っちゃおうか」

 

 ――なんて困惑していたら、更に困惑を呼ぶ発言が耳に飛び込んできた。

 いいんでござるか!? と前のめりになってしまいそうになるが、いいわけがない。精神的なことを置いておけばさいちゃんは女子である。確かに自認している性別を優先させる配慮は必要だが、流石にそれは越えてはいけない一線というものじゃないでしょうか。

 

「男同士、裸の付き合いだねっ」

 

 しかし俺の動揺など微塵も感じ取っていない様子のさいちゃんは、実に朗らかな笑顔でそう言った。え、マジでこの流れ一緒に入るの? 俺の心の準備、何も整っていないんですが?

 

「⋯⋯さいちゃん、本気か?」

「え、うん⋯⋯。八幡は、イヤ?」

「そんなわけあるか!」

 

 思わず秒で答えていた。いや秒もかからなかった。

 うっかり本音が出てしまったが、これはヤバい。何がヤバいって説明できないぐらいヤバい。色々想像しだしたらもう興奮してきた。八幡くんたら正直者過ぎる。

 

「うんっ。じゃあ一緒に入ろ」

 

 またも浮かべられた可憐な笑みに、思考回路はショート寸前である。よし、こういう時は素数を数えるんだ。ところで素数って何おいしいの?(混乱)

 バンガローに戻って風呂の準備を取ってくると、運命の時は刻一刻と差し迫ってくる。そしてついに二人で脱衣所の前までくると、俺は最後のあがきとばかりに提案した。

 

「流石にその、あれだ⋯⋯。俺が先に入るから、後から入ってくれるか?」

「あ、うん⋯⋯」

 

 一緒に服を脱いだり先に入ってもらったりしたら、思わずさいちゃんの裸を見ちゃうかも知れないからな⋯⋯。先に俺が入って、鋼の精神でさいちゃんの身体を見ないようにしよう。じゃないと狼になってしまう。俺が。

 俺は一人で脱衣所に入ると、手早く服を脱いで風呂場に入る。そのすぐ後に脱衣所の扉が開く音がすると、いよいよ心臓の高鳴りが止まらなくなってきた。

 身体を洗うためにボディタオルを擦り合わせると、無心で泡を作る。落ち着け。落ち着け。やればできる。俺は紳士だ。理性のある人間だ。獣になど堕ちてはならない――。

 

「八幡、入るよ?」

「あ、ああ⋯⋯」

 

 天使の声にそう答えると、カチャっと扉が開く音がする。振り返るなよ俺。絶対に振り返るな⋯⋯。

 

「あ、ねえ。ぼくが背中を流してあげるよ」

「ほぁっ!?」

 

 思わず、自分でも信じられないぐらい間抜けな声が出ていた。言うなればさいちゃんがお背中お流ししますって状況である。最高か? いや即行で頭沸かせてる場合じゃない。しかし、一緒に風呂に入って置いて無下(むげ)にするというのも気が引ける。いや別に是非背中を流して欲しいと思っているわけではなく。

 

「あ、ああ。じゃあ頼めるか?」

「うん」

 

 結局迷った末に、俺はそう答えた。

 まあ、背中を洗ってもらう分にはさいちゃんの方を見るわけでもないし、なんとか耐えられるだろう。

 俺は振り返ることなくタオルをさいちゃんに渡すと、固く目をつむった。そして数秒とせずに伝わってくる、泡が背中を撫でる感触。さいちゃんと泡あわプレイ。黙れ俺の思考。嗚呼、さいちゃんのソフトタッチ、心地いいなぁ⋯⋯。

 

「八幡、背中大きいね」

「そそっ、そうか?」

 

 ひっくり返りそうになる声を意思の力で何度か押さえつけて、そう返事をする。さっきから心臓はドッキドキのバックバックだ。何も見えないというのもまた想像をかきたてられてヤバい。

 

「こっち向いて。前も洗うよ」

「そ、それはいいっ!」

 

 俺の勢いに驚いたのだろう、背中を洗っている手がビクッと震えた。

 さいちゃんを驚かせてしまったのは心苦しいが、俺にも守るべき最後の砦というものがある。俺のヒッキーがバッキーになっているところを見られたら、明日から合わせる顔がないからな⋯⋯。ええ私の身体は正直です。大変申し訳ありませんでもおさまりません。

 

「そっか⋯⋯。じゃあ今度はぼくの方も洗ってくれる?」

 

 その提案に、俺は思わずごくりと生唾を飲んだ。

 まあ、この流れならそうなるよな⋯⋯。きっと断るべきなのだろう。しかし本当にそうだろうか? 一方的に施しを受けたままというのは、性分に合わない。

 それに背中なら、背中だけなら何とかなる。なるといいなぁ⋯⋯。

 

「ああ⋯⋯」

 

 俺はそう呟くと、小さく頷いた。

 さいちゃんに泡を流してもらうと、椅子から立ち上がって前屈みになりながら場所を入れ替わる。ちらりと見えた細くて白い脚がとても綺麗だ。いや見てんじゃねぇよ真面目にやれ。でも背中を洗う以上、どうしても何も見ないわけにはいかないのである。

 

「⋯⋯じゃあ、いくぞ」

「うん」

 

 意を決して視線を上げると、途端に飛び込んでくる白くて小さな背中。腰に巻かれたタオル。艷やかな曲線を描くうなじ。

 

 俺は泡立たせたタオルを握ると、壊れ物を扱うようにやさしくその身体に手を伸ばしたのだった――。

 

 

   *   *   *

 

 

 バンガローに戻ってきて、およそ小一時間は経っただろうか。

 

「うぃー、いいお湯だったー」

 

 葉山と連れ立って戻ってきた戸部はバンガローの部屋に入ってくるなり、緊張感のない声を上げた。しかしまあ、そんなことはどうでもいい。

 

(われ)(そく)神也(かみなり)。我、即、神也――」

「⋯⋯なあ。ヒキタニくん、風呂上がってからなんかおかしくね?」

「あはは⋯⋯。ちょっとのぼせちゃったみたいで」

 

 違う、俺は三女神が一柱・サイーカの御身に触れたことによって神と同格化したのだ。これからは八幡神を名乗ろうそうしよう。いやでもこれ中学の時ノートに書きなぐっていた黒歴史の設定と変わんねぇな。やっぱやーめたっと。

 

「そんなに内風呂が気に入ったのか?」

「⋯⋯そういうわけじゃないけど」

 

 葉山に声をかけられると、一気に頭の中が冷えてくる。それにしてもさいちゃんと風呂が一緒ということは、寝床もこのバンガローで一緒ということだ。今晩ちゃんと眠れるかしら⋯⋯。

 

「それじゃ、寝るか」

 

 そんな俺の心のうちを知る由もない葉山は、そう言って就寝の段取りを始める。各々がそれにならうように荷物を片付けたり、目覚ましのアラームを設定していると、葉山は一声かけた後に照明を落とした。

 茶色になった部屋の中。すぐ隣にはさいちゃんの横たわる布団。どうしても気になってしまって目を開くと、薄闇の中で微笑むさいちゃんと目が合った。

 

「何だか修学旅行みたいだね」

「⋯⋯だな」

 

 俺としてはハネムーンの初夜でも構わないけどな。なんてまた頭を沸かせていると、それを聞いていたらしい戸部の声が割って入ってくる。

 

「ってことでー。恋バナしちゃう? するっしょ」

「⋯⋯戸部」

 

 葉山は諌めるような声で言ったが、どうにも覇気がない。今日は誰にとっても非日常の連続だっただろうから、疲れているのだろうか。

 

「俺さぁ、海老名さんのこと気になってんだよね」

 

 聞いてもないのに、戸部は実にあっけらかんとそう言った。かなり意外だ。海老名さんは今日の会話から腐女子のイメージしかないし、戸部みたいなギャル男風の人間と親和性は低いように思える。

 

「結衣もまぁ可愛いけど、人気高いから競争率やべーし。優美子はこえーし隼人くん推しじゃん? なんかこう、喋ってて安心するんだわ」

 

 戸惑いもなくそう言った戸部に、俺も葉山も、さいちゃんも黙り込む。

 由比ヶ浜は――やっぱりモテるのか。まあどこからどう見ても可愛いし、俺が何を言ってもドン引きすることはあれ嫌いはしないのだから性格だっていいと言える。改めて考えてみると、競争率が高いというのも当然の話だった。

 

「んで、みんなはどうなんよー?」

 

 薄闇の中で、戸部の声がこちらに向けて発されたのが分かる。

 面倒くさい⋯⋯と思い出してすぐ、これってさいちゃんの気持ちを知るチャンスではないかと思い至った。え、待って、まだ心の準備が──。

 

「ぼくは⋯⋯、いないかな。うん」

 

 と、動揺しているうちにさいちゃんは答えを言ってしまった。

 そうか⋯⋯さいちゃん、好きな人いないのか⋯⋯。ワンチャンありかなと思ってしまった自分が悲しい。だがしかし! 未来のことはまだ分からない! 諦めなければチャンスはある! けど今だけは泣いてもいいかな⋯⋯。

 

「そんじゃ、隼人くんは?」

「⋯⋯もう寝るぞ」

「いやいやいや! 俺の方だけ聞いておいてそれはないっしょ!」

「戸部が勝手に喋りだしたんだろ」

 

 葉山の冷静な突っ込みにもめげずに、戸部はなおも食い下がる。そろそろ静かにしてくんない? こっちは今傷心真っ最中なんだけど。

 

「誰か好きな子いるんしょ?」

「俺は⋯⋯いや、やめておく」

「ちょーちょー、言いかけてやめるのはずるいって。イニシャルだけでいいから!」

 

 それにしてもウザいテンションだなこいつ⋯⋯。葉山の好きな相手とか興味ないからもう寝させてほしい。

 

「⋯⋯、Y」

「え、Yって⋯⋯。ちょ」

 

 思い当たる節がありすぎるのだろう、戸部の頭がビジー状態になって言葉が途切れる。

 それにしてもY、か⋯⋯。もう材木座義輝ってことでいいんじゃないだろうか? 今度機会があれば海老名さんによし✕はやをレコメンドしておこう。

 

「もういいだろ。寝るぞ」

「待った。まだヒキタニくんの聞いてないっしょ」

 

 しょうもないことを考えていると、はっきりと指名されてしまった。いやもう、俺のことはいいだろって思うのだが。

 その瞬間からぐるぐる、ぐるぐると。まるでメリーゴーランドのように。

 花が綻ぶような微笑や、犬っぽくて人懐っこい笑顔や、小悪魔めいた笑みが頭の中をまわって、一つの場所に定まらない。

 

「⋯⋯いねぇよ」

 

 だから俺は、そう答えるしかなかった。今はその答えしか知らないのだから。

 

「そーなん? てっきり結衣か雪ノ下さんだと思ってたけど」

 

 戸部の言葉に、ざわりと心の中で波が立つ。それに答える言葉を探していると、また別の声が聞こえた。

 

「そう言えば、いろはもよく君のところに顔を出しているな」

「あー、なんて言ってたっけ。ほーし部? いろはす掛け持ちで入ったっつってたもんなー」

 

 話を聞くに、以前言っていたとおり一色はサッカー部の方にもちゃんと話をしていたらしい。しかし葉山は何が言いたいんだ、と心中探っていると、戸部はガヤガヤと続ける。

 

「つかあの部活って男子ヒキタニくんだけじゃん? 前に雪ノ下さんヒキタニくんに弁当作って来てたし、結衣もよく気にして見てるし、モテ期きてんじゃね?」

「⋯⋯そんなんじゃないだろ」

 

 ⋯⋯多分、知らんけど。

 話は終わり、とばかりに布団をかぶり直すと、誰かがひっそりと息を吐いた。それにすら気付かない振りをして、俺の思考を深いところに沈ませる。

 

「さあ、本当に寝るぞ」

 

 葉山の声に戸部が応えると、今度こそ誰も喋らなくなった。十分もすれば静かな寝息が聞こえ、更に十分すればまた寝息が重なる。

 そうして更に十分が過ぎても、まったく眠気は訪れなかった。それもこれも戸部が変なことを言い出したせいだ。

 まあ、夜風でも浴びれば気分転換になるだろう。のそりと起き上がると、抜き足差し足でバンガローを出た。ざり、と舗装されていない道に足を下ろすと、林の方へと歩みを向ける。

 高原の夜は、ひたすらに青白かった。

 夏とは思えないぐらいひやっとした風に吹かれながら歩いていくと、川が近いのか水の流れる音が聞こえてくる。それに(いざな)われるように進んでいくと、見覚えのある後ろ姿が見えた。

 青みがかった髪。すらりとした後ろ姿。こちらから顔は見えなくとも、見間違えるはずもない。さーちゃんはこれだけ涼しいというのにまだ涼を求めているのか、川辺に座って足を川に浸からせていた。

 

「よお、さーちゃん」

「⋯⋯っ! び、びっくりした⋯⋯」

 

 俺が近づいて来たことに気付いていなかった様子のさーちゃんは、見開かれた大きな目で俺を見た。どうやら結構驚かせてしまったらしい。確かにこの状況で急に声をかけられたら、めっちゃビビる。

 俺はさーちゃんの真似をするように、サンダルのまま川に入った。少し間を開けて手頃な石に腰掛けると、さーちゃんは川面に視線を戻す。

 

「こんな時間にどうしたんだよ」

「⋯⋯はーちゃんの方こそ」

 

 何だか拗ねたような声音で、さーちゃんは俺に目を向けることなくそう答える。

 さーちゃんの長い髪は風呂の後だからなのか、シュシュにまとめられることもなく下ろされていた。見慣れないクラスメートの姿に、少しばかりドキッとしてしまう。薄暗がりで見る女の子の顔って、どうしてこうも綺麗に見えるのだろうか。

 

「何だか寝付けなくてな」

「まあ、あたしもそんなところ。⋯⋯あの子らうるさくて、寝られないっていうか」

 

 あの子ら、というのは当然女子陣のことだろう。どうやら俺たちよりも遅い時間まで、お喋りは止んでいないらしい。

 そうか、と小さく答えると、俺も川面に視線を落とした。月を映した川面を見ていると、夢か現か分からなくなってくる。

 

「⋯⋯昼間、いい仕事してたな」

 

 しばしの沈黙の後にそう言うと、さーちゃんは説明を求めるように俺の方を見た。その目に視線を返すことなく、俺は続ける。

 

「カレー作ってる時、小学生たちめっちゃ懐いてたじゃん。やっぱ年下の扱い、慣れてるな」

「⋯⋯また見てたの」

 

 また、って何だよと思ったけど、そう言えば前にクラス内の様子を観察していて引かれたことがあったんだった。けど結構目立ってたから、ついつい視線が吸い寄せられるのも仕方がないと思う。

 

「あんな感じの方が、さーちゃんには似合ってると思うぞ」

「⋯⋯っ。またあんたは⋯⋯」

 

 あんたは、何だと言うのだろう。ツンツンしてるより、面倒見のいい姉御肌を前面に押し出した方がいいのは間違いない。そうしてないと、さーちゃんなんか怖いし。

 何だこの空気⋯⋯と訝しんでいると、背中の方から砂利を踏む音が聞こえる。振り返ると月下美人が、月みたいな微笑みを浮かべていた。

 

「ここにいたのね、はーちゃん(・・・・・)。川崎さんも」

 

 わざとらしくそう言うと、雪ノ下はざぶざぶと川の中に足を踏み入れる。何でこいつまでこんなところに、と思っていると、雪ノ下はちょうど椅子みたいなサイズの岩に腰掛けた。川面を滑ってきた風が、雪ノ下のワンピースをはためかせる。

 

「⋯⋯よう。お前も眠れないのか?」

「いいえ。散歩していたらあなたに逢えるような気がしたから、出てきたの」

 

 そう言うと雪ノ下は、浮かべた笑みを少しだけ深くさせる。蒼い月の下で見る雪ノ下は、キラキラと月光を照り返す川面に照らされてまるで妖精のようだった。

 

「けれど邪魔をしてしまったかしら。川崎さん、比企谷くんに口説かれたりしなかった?」

「⋯⋯どうだろ。口説かれてたのかも」

 

 さーちゃんは何を考えているのか、そう言ってふっと笑った。急に笑顔になられるとドキドキするので控えて頂きたい。あと口説くってなんのことだよ。

 

「あら、二人とも隅に置けないのね」

「そんなんじゃないっての。雪ノ下の飼い犬なら、ちゃんと首輪つけときな」

「そうね。前向きに検討するわ」

 

 なんだこの流れ⋯⋯俺、そのうち雪ノ下に首輪つけられて散歩のお供にされるのかしら⋯⋯。

 そうなったら全力で脱走しよう。それでうっかり車道に飛び出して車に轢かれそうになったらその辺の男子高校生に助けてもらえばいい。それなんてラブコメだよ知らねぇよ。

 そんな益体もないことを考えていると、雪ノ下は僅かな沈黙の後にさーちゃんを見て言う。

 

「ところで、川崎さん。オリエンテーリングの時、一人でいた子を覚えている?」

「⋯⋯覚えてるけど」

「あの子⋯⋯鶴見留美さんを見て、どう思った?」

「どう、って⋯⋯」

 

 その問いは余りにも漠然としていて、いかようにも捉えることのできる質問だった。

 雪ノ下の言葉で思い出したが、さーちゃんは夕食後の話し合いの場にいなかったから、留美の事情について何も知らない。さーちゃんは俺たちの中で唯一、見たままの留美について聞くことのできる相手だった。

 

「正直、分かんないよ。あたし、元々一人でも平気な性格だし⋯⋯」

 

 さーちゃんの答えを聞いて、らしいなと思うと同時に親近感を覚える。

 よくよく考えてみれば、俺とさーちゃんの共通点は多いのだ。めちゃめちゃ可愛い妹がいたり、コミュニケーション苦手だったり、一人が平気だったり。だからつい、視線が引き寄せられることがあるのかも知れない。

 

「自分の環境をどう受け取るかは、自分の問題でしょ? 結局、あの子がどう思ってるか次第じゃないの」

 

 言葉こそ冷淡に思える内容だったが、その声音には実感と真摯さで満ちていた。

 事実、そうなのだ。どんな現状であれ、自分の価値観というフィルターを通して問題が見えてくる。そのフィルターを外してしまうか、つけたままにするか、はたまた見なかった振りをするのかは自分次第。まだ小学生の留美に指し示すには、はばかられる現実だが。

 

「あなたらしい答えね」

「らしいって⋯⋯あんたそんなにあたしのこと知らないでしょ」

 

 さーちゃんは相変わらずぶっきらぼうに言うが、その響きに非難めいたものはない。どちらかというと、妙に絡んでくる雪ノ下に諦めかけているようなニュアンスがあった。

 

「そうかも知れないわね。では相互理解に努めながら帰るとしましょうか。少し冷えてきたわ」

 

 雪ノ下はそう言うと、またざぶざぶと川を渡って陸に上がった。ふくらはぎのあたりにまとわりついた水が、月から届いた微光を照り返す。

 

「あー⋯⋯。送るか?」

 

 少しの逡巡の後にそう言うと、雪ノ下は小さくをかぶりを振った。

 

「大丈夫。こんな場所で不審者なんていないでしょうし、ここではあなたが一番の危険人物ね」

「さいですか⋯⋯」

 

 行きましょう、と雪ノ下は声をかけると、さーちゃんと一緒に帰途についた。あの二人がどんな会話をするのか多少興味のあるところだが、これ以上首を突っ込むのも野暮というものだろう。

 随分冷えてきた足を川辺に上げると、俺はそのまま河原で寝転んだ。見上げた先の空には、宝石箱をぶちまけたみたいな星々が瞬いている。

 

 俺たちが、あの子を見つけたみたいに。

 彼女もまた答えを見つけられたらいいと思いながら、俺はそっと目を閉じた。

 

 






 千葉村編、二話目でした。
 次回は二日目の話ですが、千葉村の二日目といったらもうあれしかないですね、あれ。
 引き続き、お楽しみください!
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