俺が奉仕部の部活動を自主的に不参加としたその日。
雪ノ下から何通かメッセージが来た後に電話もかかってきたが、全て無視を決め込んだ。中身も読んじゃいないし、留守電も聞いていない。
当然だろう。理由はともあれ俺を貶めようとしている相手から、受け取るものなど何もない。
だから本日の部活動も、生徒の自主性を重んじる校風に則り自主的に──。
「ほれ、行ってこい」
──不参加の予定だったのだが、俺は奉仕部の部室に放り込まれたところであった。
平塚先生も雪ノ下も詰めが甘いと思っていたが、本当に甘かったのは俺の考えのようだ。
「では比企谷、
「はい⋯⋯」
昨日のようにホームルーム後に抜け出していては、恐らく平塚先生に先回りされるだろう。そう思ってホームルームが始まる前に教室を出たところ、平塚先生に捕まってそのまま職員室で詰問説教駄目出しの雨嵐。教育的指導の成果ですっかり逃げ出す気力を失った俺は、雪ノ下の目の前に差し出されていた。
「比企谷くん⋯⋯」
雪ノ下が呟いた瞬間、バン! と扉は閉められる。その瞬間部屋中の空気が震え、「次逃げたら○す」と言われているような気がした。いや勿論、俺がそう感じただけだが。あれ⋯⋯。だけ、だよな⋯⋯?
「私、凄く悲しかったわ。また明日って約束したのに」
「あー、はい⋯⋯。さーせん⋯⋯」
本気で悲しそうな顔をしている雪ノ下に、どうにも居心地が悪くなってくる。いや逃げるの当たり前でしょなんて思うが、しかし雪ノ下が俺を欺こうとしている証拠がないのも事実。ぐるりと教室を見回すが、隠しカメラなんてないし、よくよく考えてみればそこまでする意味もない。
「何度もメールを送ったのに」
「でしたねぇ⋯⋯」
まあ、中身は読んでないから知らないんだけど。
しかしメールで思い出したが、あの『悪戯』は一体どういう事だったのか。もしも雪ノ下の言動は素であってそこに嘘がないとしても、やはり意味が分からない。
「それにしても、あれ⋯⋯。なんで名前の登録、あれなんだよ」
「あれ、とは?」
「その、ハートマークが⋯⋯」
「あら、だったら『雪乃☆』の方がよかったかしら」
「そういう問題じゃねぇよ!」
「なら『♡♥雪乃♥♡』の方が⋯⋯」
「数の問題でもねぇ!」
いや、本気で何なんだよ、こいつ⋯⋯。
真意を問い質すように視線を送りつけると、雪ノ下は「んんっ」と咳払いしてから俺を見る。
「それはともかく、話を逸らさないでちょうだい。今はあなたが約束を反故にしたことについて話をしているのよ」
「まあ、それはあれだ⋯⋯。うちの猫が急病でな」
「そうなの? それは心配ね。早速お見舞いに──」
「いや待て待て待てなんでそうなる。猫だぞ? にゃんこだぞ?」
「だからこそ心配なんじゃない」
なんだその人間より猫が大事ですみたいな発言は。っていうかそんなに猫好きなのかよ、こいつ。
「とりあえず、猫はもう元気だからそれはいい。⋯⋯まあ、黙って休んだのは悪かったよ」
ここまで善人猫好きムーブをかまされると、こっちも非を認めざるを得なくなる。これも雪ノ下の作戦のうちだとしたら、何とも恐ろしいやつを相手にしなくてはならないらしい。
「なら、贖罪が必要ね」
「うん?」
非は認めた。謝りもした。
しかしまったく予想していなかった言葉に、俺は首の角度を九〇度回転させる。
「贖罪って⋯⋯。何をしろってんだよ」
「簡単よ。ただのお使い」
そう言って雪ノ下は鞄から財布を取り出すと、百円玉を二枚俺に渡してくる。
「野菜生活一〇〇いちごヨーグルトミックスと男のカフェオレをお願い。自分の分は好きにしてちょうだい」
「自分の分⋯⋯?」
「ええ。今日はお客さんがくる予定なの」
なるほど、だから二人分の注文なのか。しかしこの部活、意外に忙しいのだろうか。
「分かったよ」
忙しい部活とか嫌だなぁ⋯⋯むしろ奉仕して欲しいなぁ⋯⋯とか思いながら席を立つと、部室の出入り口へと向かう。扉を開けようかというその刹那、雪ノ下は「比企谷くん」と呼び止めた。
「なるべく、ゆっくり買ってきてね」
「⋯⋯了解」
クライアントからのヒアリングは、自分一人で充分ってことだろうか。だったら何で部活に来いって言うんだか。
俺は心中でそんなことを独り
* * *
一階にある自販機のモックを見ていると、目的の飲み物はすぐに見つかった。
しかしすぐに見つかり過ぎて、なるべく時間をかけるというミッションがある以上戻るには早すぎる。ひんやりと冷たい廊下を歩いていると、陽の満ちる外の景色ばかりが目に入った。
春だなぁ、と。ふとそう思った。
グラウンドでは新入生と思しき真新しいユニフォームに、上級生らしき生徒からの叱咤が飛んでいる。そんな姿を見ていると、なんでまた俺はこんな中途半端な時期から部活に入ることになってしまったんだろうと思った。
吸い寄せされるように外に出て、グラウンドを眺める。こうして立っている分にはぽかぽかと暖かいが、身体を動かしている者にとっては暑いぐらいなのだろう。グラウンドを走りまわっているサッカー部の連中は髪から雫を垂らしながら、声を張り上げている。
そうやって何となく、サッカーボールを目で追っていた時だった。
誰かが弾いたボールが、タッチラインを大きく越えて俺の方に飛んでくる。そのこぼれ球を、コート外で見ていたジャージ姿の女子が追いかけていた。
悪戯に走らせるのもあれだし、ここでボール止めて差し出してやるのが紳士というものだろう。ボールに向かって軽く走ると、サッカーボールを華麗に――。
「ぬわっ!」
「きゃぁっ!」
受け止めるはずだったのだが、俺が顔面で受け止めたのは二つの柔らかなボールだった。どてーんと俺の方が女子生徒の勢いに負けて押し倒される格好になっているんだから、何とも情けない。あと柔らかい。
「ご、ごめんなさい」
「い、いや⋯⋯」
女子生徒が慌てて立ち上がると、俺ものそりと立ち上がってパンパンと服についた砂を払う。ちらりとその女子生徒の後ろにサッカーボールが見えて、俺はそれを拾うと彼女に渡した。
「あ、ありがとうございます。あの⋯⋯怪我とかなかったですか?」
「いや、全然だいじょうぶだから⋯⋯」
怪我の代わりに一生の思い出は出来ました、なんて口が裂けても言えない。
こうして向き合ってみると、女子生徒は結構⋯⋯というかかなり可愛い顔立ちをしていた。亜麻色の髪が何かを喋るたびにさらりと流れ、小動物を思わせる大きな瞳が取り込まれてしまいそうになるぐらい魅力的だ。
格好と行動からして、きっとサッカー部のマネージャーなのだろう。きっとモテるんだろうなぁとか、そんなどうでもいいことを考える。
「一色さん、大丈夫?」
そこで、ふと。
横からそんな声が聞こえた。声のした方を向くと、これ以上ないぐらい爽やかな顔をした男が、心配そうな表情を浮かべて一色と呼んだ女の子を見ていた。
その男の名前を、俺は知っている。
俺と同じ二年F組、トップカーストリア充集団の中心人物、葉山隼人。ぼっちマイスターの俺と対極にいるような人間だ。そう言えばこいつ、サッカー部だったか。
「ちょっとボール取りに行った時にぶつかっちゃって⋯⋯。わたしは大丈夫ですけど」
「え、っと⋯⋯。ヒキタニくんだったっけ?」
「比企谷だけど⋯⋯」
その言葉に、少しだけ驚いた。微妙に間違えてはいるが俺のことを認識しているとは。
「うちの部員がすまなかった。怪我はないか?」
「ああ、全然⋯⋯」
やはりリア充の頂点に君臨するにはそれなりの理由があるってことか。俺のように陰日向で生きる人間を認識していただけではなく、自分がやらかしたわけでもないのに我がことのように謝罪するとは。
「ならよかった。じゃあ一色さん」
ボールを、と言外に伝えたかったのだろう。葉山は一色の前に手を差し出した。しかし──。
「もー、葉山先輩。また呼び方間違ってますよ。いろは、です」
俺に向けていたものとは明らかに質の違った、甘ったるい声。一色は葉山にボールを渡すどころか、ぷいと顔を背けて見せる。
はーん、なるほど⋯⋯。葉山に先輩をつけるってことはこの子は一年で、サッカー部のエースで次期部長候補のイケメン目当てにマネージャーをしてる、ってところか。
それにしても清々しいぐらいあざとい。声も作ればキャラも作る。それにこれだけ可愛ければ男なんてお手玉も同然だろう。中学にもいたな、こんなやつ⋯⋯。
「あ、ああ⋯⋯。いろは、ボールをありがとう」
「はい♪」
満面の笑みでボールを手渡す一色いろはと、苦笑を浮かべながらそれを受け取る葉山。
⋯⋯あのー、それを止めたのは俺なんですが? いや、ちゃんと止められてなかったな。っていうかなんで俺はリア充のラブコメ展開なんて見せられてるんだ。よそでやれ、よそで。
「じゃあ」
俺の心の中の非難が届いたのか、葉山はそう言ってコートに戻って行った。一色の方は一応俺の存在を忘れていなかったのか、ペコリと一礼してそれについて行く。
耳に入ってくるのはグラウンドからの掛け声やボールの弾む音。正しく彼ら彼女らの青春はそこにあって、何を見てもその目には輝いて映るのだろう。さながら俺はその青春の一ページに登場した、脇役くんってところか。
「⋯⋯戻ろ」
本当、青春謳歌型リア充は爆発しろ、マジで。
* * *
特別棟の廊下を、ひたひたとなるべくゆっくり歩く。
雪ノ下がなるべくゆっくり買ってきて、と言った真意は不明だが、雪ノ下が俺を欺こうとしている可能性がある以上余り長居したい場所ではない。こんな状況でなければ物腰柔らかな美少女と部室で二人きりなんて言う心踊る状況だというのに、世の中というのは上手くいかないものである。
奉仕部の部室が見えてくると、扉が少し開いているのに気が付いた。俺が出た時にはしっかり閉めたはずだから、雪ノ下の言っていたお客さんが来たということか。
「つまり、比企谷くんが気になっているということでいいのかしら?」
扉の取っ手に手を伸ばしたところで、俺は思わず動きを止めた。聞き捨てならない言葉は、雪ノ下のものだ。
「うーん、そうなる⋯⋯のかなぁ」
どこかで聞いたことのある声が、雪ノ下の問いに微妙な肯定を返す。
⋯⋯は? 俺のことが気になっている女子がいるってのか、この部屋の中に。
「では話をまとめさせて貰うわね。由比ヶ浜さんは入学式の日、犬の散歩をしていたらリードを離してしまいペットの犬が路上に飛び出した。車に轢かれそうになった時、通りがかった比企谷くんが犬を助けようと飛び出し、代わりに轢かれてしまった」
「⋯⋯うん」
「お見舞いに行こうとしても、彼の家族にそこまでしなくてもと止められてしまい行けなかった。それを気にしていたら二年生から同じクラスになって、これを機会にお礼をしたい、ということね」
雪ノ下の言葉に、俺は身に覚えがある。というか高校の入学式に起こったことそのままだ。
あの時の女の子、俺と同じクラスだったのか⋯⋯。
「うん⋯⋯。でもよくその話で、あたしが気になってるって分かったね」
「ええ、だって
部屋の中がピシリと凍りつき、それは俺にまで伝播する。
――これは一体、どういうことだ。
雪ノ下には俺がいないところでまで、俺に気のある素振りをする必要はないだろう。
「え⋯⋯。ほ、本当に?」
「ええ、それにね由比ヶ浜さん。私もその事故の当事者なの。比企谷くんを轢いてしまった車に、ちょうど私が乗っていたのよ」
二人の会話のペースに、頭が追いついていかない。
雪ノ下も当事者だった? だからと言って俺が気になるという理由にはならないはずだ。言葉通りにただ気にしているだけという可能性もあるが、今の会話の流れからそうは思えない。
「だからあなたの依頼を受けるわ。クッキーでよかったのよね。あなたと一緒に私も作って、由比ヶ浜さんはお礼の気持ち、私は改めて謝罪の気持ちということで渡すのはどう?」
「う、うん⋯⋯。それで大丈夫だけど⋯⋯雪ノ下さんもヒッキーのこと、気になってるの?」
「ええ。
「うぅ⋯⋯。どうしよ⋯⋯雪ノ下さんが相手じゃ、全然敵わないよ⋯⋯」
「あら、じゃあ始める前から諦めるのね。その方が助かるわ。これで安心して比企谷くんを──」
「ま、待ってっ。その、諦めたりとかはしないしっ!」
盗み聞きはよくないと思いながらも、俺は全神経を耳に集中させてその会話に聞き入っていた。
にわかには信じられない。犬を救ったら、女の子二人から気になっている──つまり恋愛対象として見られるようになった? どこのラブコメだよ。ご都合主義にもほどがあんだろ。あと雪ノ下さん、俺をどうするつもりなの?
「⋯⋯そう。なら勝負をしましょう」
雪ノ下の表情はここから見えないが、その声音から挑戦的な笑みが伝わってくる。声を聞いているだけなのに、思わずぶるりと怖気が走った。
「由比ヶ浜さん。私とあなたで、どちらが比企谷くんを手に入れることができるか。正々堂々と、勝負よ」
⋯⋯本当にこれ、どういう状況だよ。
まったく意味が分からないけど、これがモテ期ってやつなのか?
しかしそんな風にけしかけたって、由比ヶ浜がのってくるとは──。
「⋯⋯分かった。受けるよ、その勝負。始める前に終わらせるのは、嫌だから」
ってのってきちゃったよ! いや俺、犬助けただけだぞ?
そもそも由比ヶ浜って誰だよ⋯⋯。顔を見たら思い出すかも知れないが、部室の外からでは当然その顔は見えない。
「でもさ、勝負するのに、あたしのことを手伝ってくれるの? その、クッキー作り⋯⋯」
「もちろん。それが依頼だから、ちゃんと私と同じレベルのものが作れるように教えるわ。そうじゃないとフェアじゃないでしょう?」
「雪ノ下さん⋯⋯めっちゃいい人⋯⋯」
由比ヶ浜は感動しているっぽいが、雪ノ下の方は結構な自信だ。まあ教えられるぐらいなんだから、当然と言えばそうかも知れない。
しかしこれ、どのタイミングで入ればいいんだろう⋯⋯。そんなことを考えだすと、ふとまた俺の名前が聞こえてくる。
「それにしても比企谷くん、ずいぶんゆっくりね。そろそろ帰ってきてもいい頃だけれど」
「え⋯⋯。ヒッキー、ここに来るの?」
「ええ。比企谷くんもここの部員だから」
「なるほど⋯⋯。だから雪ノ下さん⋯⋯」
何やら由比ヶ浜は勘ぐっているようだが、たぶん違う。何せ俺が部活に参加するのは二度目だ。そんな短期間で気になると言うなんて、一目惚れぐらいしかあり得ないだろう。
とにかく、もう俺が戻っていってもいいタイミングが来たらしい。俺は足音を立てないように廊下を戻ると、今度はあえて足音を立てながら歩く。がらりと扉を開くと、二人の女子が俺を見た。
「おかえりなさい、比企谷くん」
「あ、ヒッキー⋯⋯。本当に来た」
うん、まぁ、来たけど⋯⋯。ヒッキーってなんだよさっきから。
その言葉に反応するように由比ヶ浜を見ると、たしかに見覚えはあるような気がしないでもない。さっき会った葉山のグループ、つまりクラスのみならず学年でも割りと目立つグループにいる女子だ。
あのグループの女子は葉山と並ぶ中心人物、三浦優美子が見た目で選んでいるらしく、顔立ちは非常に可愛らしい。お団子頭は幼さを感じなくもないが⋯⋯しかし後はギャルっていた。着崩した制服に短いスカート、薄桃色がかって見える茶髪は、校則を遵守している雪ノ下とは対照的だ。
「ジュース、買ってきたぞ」
そう言って俺はコトリと買ってきたジュースを並べた。あっ、と小さく言ってポケットを探り出した由比ヶ浜に、雪ノ下は「いいから」と首を振る。
「ありがとう。帰ってきてすぐで悪いのだけど、お願いがあるの」
「⋯⋯なんなりと」
ちょっとわざとらしい返答だったか、と思ったが、言ってしまったらもう引っ込めようがない。
雪ノ下は立ったままの俺を見上げながら、うっすらと微笑みを浮かべて言う。
「今からクッキーを作るから、あなたには味見をお願いしたいの」
展開の分かっている会話ってのは、なんて空々しく感じるのだろう。
そう思いながら、俺は雪ノ下の言葉に首肯を返した。
* * *
ついさっき。本当にちょっと前のことだ。
雪ノ下は「ちゃんと私と同じレベルのものが作れるように教える」と、確かにそう言った。
それが、何故。どうして──。
「おい。これはなんだ」
「クッキー、だけど⋯⋯」
ところは家庭科室。
今俺の目の前にあるのは、カントリーマアムも尻尾巻いて逃げ出すレベルのしっとり具合⋯⋯というかグジュグジュになった塊だった。
オーブンから出したてだからか、ぽこぽこと泡が膨らんではプシュっと弾け、そのたびに瘴気を吐き出す。おい、今何か叫び声みたいなのが聞こえたんだけど? マンドラゴラでも入ってんじゃねぇの、これ。
「雪ノ下⋯⋯」
「救いを求めるような目で見ないでちょうだい。流石に食べろなんて言わないわよ」
「さらっとひどい!」
由比ヶ浜の悲痛な叫びの最中でも、クッキーもどきは形を変えていく。いやこれカントリーマアムと比べたら田舎のオカンにガチギレされるな。クッキーじゃねぇわ、これ。
「つーか、なんで由比ヶ浜に一人で作らせたんだよ」
聞いていた話では雪ノ下が教えるという話だったはずだが、何故か雪ノ下はレシピを渡しただけで由比ヶ浜一人にクッキーを作らせた。その結果がこれだ。
「必要な工程だからよ。何を間違えてどこに気をつければいいか分かれば、改善の余地はあるわ」
「失敗する前提なのもひどい!」
うわーんと今にも泣き出しそうな由比ヶ浜を尻目に、雪ノ下は調理台の上をてきぱきと整えていく。しかしあんな奇妙な半生命体を創り上げられた後では、フォローのしようもない。
「さあ、もう一回よ」
「雪ノ下さん⋯⋯あたし、本当に作れるのかな⋯⋯」
「ええ。そんなあなたが今からでも、作れるクッキーはあるの」
「なんか病気になってから入れる保険みたいな言い方だな⋯⋯」
思わずボソリと言うと、雪ノ下が俺の方を見てくる。茶化すなと咎められるかと思ったが、意外にも送られたのは非難ではなく「まあ見ておきなさい」とでも言いだしそうな笑みだった。
「ただ、作る前に約束して。私の説明を聞いて、一つひとつ確実にすること。それから、絶対に自分にはできると信じること」
「う、うん⋯⋯。頑張る!」
巷に溢れる自己啓発系の謳い文句みたいな一言に、由比ヶ浜はガッツポーズで応えてみせる。しかしレシピの言うことを聞かなかったやつが、どれだけ人の言うことを聞けるだろうか。
──と、思っていたのだが。
雪ノ下の指導は、正直目をみはるものだった。間違えそうになるポイントを先回りして教え、それでも上手く出来ないと目の前で実演して見せる。段々と雪ノ下が作っているものと自分の作っているものが同じになってくると、由比ヶ浜は目をキラキラと輝かせだした。
「これで完成ね」
オーブンがチーンと焼き上がりを知らせ、雪ノ下がオーブン皿を引き出す。
机の上に置かれた二つのオーブン皿の上には、見た目も香りも瓜二つのクッキーたちが並んでいた。
「すごい⋯⋯! これ、本当にあたしが作ったんだ⋯⋯!」
「喜ぶのはまだ早いわよ。味見をしていないわ」
雪ノ下がそう促すと、二人はフーフーとクッキーを冷ましてから、パクっと小さめのクッキーを口に含む。どうでもいいけどフーフーする時の女の子の唇のかたちは妙に艶めかしいよね。いや別に今そう感じたというわけではないんだけど。
「⋯⋯美味しい!」
「由比ヶ浜さん。私のも食べてみて。同じ出来になっているはずよ」
言われて由比ヶ浜は雪ノ下が差し出したクッキーを食べると、お目々のキラキラをもう一段階強くさせた。
「本当だ⋯⋯。すごいよ、さっきと全然別物じゃん!」
「ええ。諦めずにやれば、できるでしょう?」
「うん! あたし、ゆきのん好き!」
由比ヶ浜はそう言うと、思わずといった調子で雪ノ下に抱きついた。あとなんだそのあだ名とポニョっぽい言い方。雪ノ下は雪ノ下で、満足そうな顔してるしよ。
見目麗しき乙女たちがゆるゆりしている姿を見ているのも目の保養になって大変良いのだが、一体いつになったら俺に味見をさせてくれるのだろうか。
そんな念が通じたのか、雪ノ下たちはこしょこしょと内緒話をした後、皿にクッキーを用意し始める。それぞれが作った中で、おそらく一番大きくて形のいいクッキー。なんの奇をてらうこともないハート型のクッキーが、白い皿の上にのせられている。
「ヒッキー」
由比ヶ浜と雪ノ下は、俺の目の前に並んで立っていた。雪ノ下が目配せすると、由比ヶ浜がクッキーののった皿を差し出してくる。
なんとも反応に困る展開だ。これから言われることを分かっているというのは。
「入学式の日、道路に飛び出した犬を助けて怪我しちゃったでしょ? あの犬、うちのこで⋯⋯怪我させちゃってごめん。あと、お見舞いもいけなくてごめん」
「いやまあ⋯⋯。あれは俺がそうすべきだと思ってやったことだから。謝る必要も、それを気に病む必要もねぇよ」
「⋯⋯優しいね。じゃあこれはごめんなさいじゃなくて、ありがとうの気持ちってことで」
そう言った由比ヶ浜から皿を受け取ると、次に皿を差し出したのは雪ノ下だった。
「比企谷くん。その時の事故であなたを轢いてしまった車に、私が乗っていたの。改めて、うちの者が迷惑をかけてごめんなさい」
「いや⋯⋯それこそお前に非はないだろ。飛び出したの、俺だし」
「それでも今思えば、お見舞いには行くべきだったと思うわ。遅くなったけれど、お見舞いの品ということで受け取ってくれる?」
こくりと頷くと、俺の両手にはそれぞれの作ったクッキーがのった皿がある。
まったく、少し前までは全く想像もしなかった状況だ。それぞれどんな想いがのっているのか、とりあえずは言葉通りに受け取っておくとしても。
「さて、比企谷くん」
そんな感慨に耽っていると、雪ノ下は俺を呼んでくすりと笑った。どこか蠱惑的で挑戦的な笑みに、ほんわかしていた空気が一気にピリリと引き締まる。
「それで、どっちから食べるのかしら。私たちが気持ちを込めて作ったクッキーを」
⋯⋯いや、マジかこいつ。
少し前の『勝負』の話を思い出して、思わず戦慄した。敵に塩を送った後に勝負をしかけるなんて、どこの大将だよ。
「ひ、ヒッキーっ。あたしのだよね?」
「あら、別に渡した順番通りじゃなくてもいいと思うけれど?」
さあさあ、どっち? と二人が詰め寄ってくる。
え、何この展開。思ってたのとちがう!
「さあ、どっちの
完全にパーソナルスペースまで入ってきた二人が、期待と愉しみに満ちた目で、あるいは懇願に近い目で俺を見詰めてくる。
なんだこの胃がキリキリするラブコメ展開。クッキーすらまともに食わせてくれないのかよ。
「⋯⋯味は一緒だって言ったよな」
「ええ。それは私が保証するわ」
「なら、これでいいだろ」
俺はそう言うと、クッキーを二枚重ね合わせた。そのままパクっと口に入れると、もぐもぐと咀嚼する。一気に食べるには多すぎて頬がリスみたいになっているが、気にしない。
「うわぁ⋯⋯。そうくるんだ」
どうだ、と胸を張る俺に、二人は普通に引いていた。
いや、おかしいだろ。ちゃんと順番をつけないやり方を取ったのに。
「比企谷くん⋯⋯」
未だにムグムグと咀嚼を続ける俺に、雪ノ下はぽつりと話しかけてくる。じぃ、っと問い質すような大きな目が、俺を覗き込んでいた。
「二人いっぺんにがいいの?」
「んんんっ! がふっ、ゴフッ!」
「うわ、ちょっ⋯⋯大丈夫?」
思わずむせ返った俺の背中を、由比ヶ浜が優しくさすってくれる。え、ちょっと待って近い。あと普通にスキンシップしないで本当ドキドキするし全然心づもりできてないのでお願いしますいい匂いだな!
「まあ、比企谷くんらしい答えかも知れないわね」
いやお前、そもそも俺のことそんなに知らないだろうが。
そう言いたかったが、口の中にクッキーが残ったままではそれも出来ない。
──やっぱ俺に青春ラブコメは、無理だ。無理ゲーすぎる。
とりあえずこんなのが楽しめる青春リア充は、みんな爆発しとけ。
ということで第二話でした。
こんな感じでバタフライエフェクトが起こって、少しずつ変わっていく物語。
引き続き楽しんで頂けたら幸いです!