文化祭、二日目。
その朝は、けたたましい鳴動音とともに始まった。
「ふぁ⋯⋯」
眠り足りないとぼやく頭を無理矢理に起動させて、アラームを止める。ベッドの上で上体を起こすと、ぐっと天井に向かって伸びをした。
昨日と同じく、普段よりもずっと早い起床時間。世間は土曜日だが、今日は文化祭の二日目だ。一般客も訪れる、言わば本番の日である。
延々と出ようとしてくるあくびを噛み殺しながら自室を後にすると、リビングの扉を開ける。その瞬間、鼻腔をくすぐるトーストの焼ける匂い。
「あ、おはよ。お兄ちゃん」
「おお⋯⋯おはよ」
そう言ってほとんど惰性で、ダイニングテーブルの席につく。皿の上に鎮座した目玉焼きは出来立てなのか、ほかほかと湯気を立てていた。
「起きるの早くないか?」
こうして出来立ての朝ご飯が食べられるのはありがたいが、それにしたっていつもより早い。俺はともかく、小町にとってみれば休日の朝なのだ。
「なんか、楽しみで目が覚めちゃって」
小町はそう言いながら焼き上がったトーストをテーブルに置くと、俺の向かいに座って手を合わせた。俺もそれを合図に手を合わせると、熱々の朝食を食べ始める。
「楽しみだなー。お兄ちゃんの文化祭」
「別に俺のってわけじゃないんだが⋯⋯」
こんがり焼けたトーストをひとかじりすると、そう言って小さくかぶりを振った。
マイ・ワールドワイド・リトル・シスターである小町ちゃんは総武高校を目指す受験生だ。本日の一般公開も、他の多くの受験生と同じく来訪予定である。
「でもお兄ちゃんが実行委員長なんでしょ? 会社が社長のものなら、文化祭は実行委員長のものじゃん」
「絶対ちがうだろ⋯⋯」
なんだそのワンマン社長のクソ理屈みたいな考え方⋯⋯。
小町の将来を若干不安に思いながら朝食を食べ進めていると、ふとしたタイミングで目が合った。
「大丈夫?」
「⋯⋯何が?」
唐突なその言葉の意味が理解できずに、首をかしげて問い返す。もしかして緊張してるんじゃないかとか、そんな心配だろうか。
「お兄ちゃん、だいぶ疲れた顔してるよ。小町がじっと見てても、中々気付かなかったし」
「ああ、まあ⋯⋯。疲れてないっちゃー嘘になるわな」
痛いところを突かれて、そう認めざるを得ない。
実際、この一週間は激務だった。文実の中でも一番遅くまで仕事をしていたし、本番直前で神経を使う仕事ばかりだったし。疲労感を見せないようにはしていたつもりだったが、やはり家族の前では隠し通せるものではない。
「ん。素直でよろしい。そんなお兄ちゃんを元気づけるできたて朝ご飯をたんと召し上がれ」
⋯⋯ってことは、やっぱり小町の早起きには理由があったってことなんだよな。
何この子超健気スーパー可愛いさすが俺の妹⋯⋯。と感動に
「頑張ってね、お兄ちゃん」
「⋯⋯おう」
妹とは思えぬ聖母じみた眼差しが、どうにも面映い。こんなに素直に応援してもらうのは、いつぐらいぶりだろうか。
「もー! まだ辛気臭い顔してるなぁ。泣いても笑っても今日で最後! なら笑う!」
「お、おお⋯⋯」
朝っぱらから中々のテンションの高さに、ちょっと
しかし元気付けようとしてくれている小町の想いをむげにするなんて、俺にはできない。
にっ、と引きつったような笑みを浮かべると、小町は同じような引きつり笑いになる。
「うわぁ⋯⋯。それで笑ってるつもりなんだ⋯⋯」
「えぇ⋯⋯。小町が言ったのに⋯⋯」
ドン引きしている小町に、俺もドン引き返していた。さながらドン引き綱引きの様相である。何それ不毛。
「でもさ」
急に真面目なトーンになると、小町はまっすぐに俺を見つめてくる。
「楽しそうでよかった」
いやこれのどこが⋯⋯と言おうとして、やめた。
小町からそう見えたということは、小町にとっての事実にちがいないからだ。
「⋯⋯ぶっちゃけ、しんどいんだけどな」
「いいじゃん。前向きなしんどさなんだから」
そう言われると、今度こそ返す言葉がなくなってしまう。
返事をする代わりにスープをすすると、小町は小さく頷いて朝食に戻るのだった。
* * *
閑散とした体育館は、ひやりと冷たい。
集合時間にはまだ早いからきっと一番乗りだろう、とそう思って来たのだが。
「おはよう、比企谷くん」
「おう、おはよ」
ミーティング用のホワイトボードに何事かを書いていた雪ノ下は、俺に気づくと振り返って微笑んだ。
「朝のミーティング、こんな感じでどうかしら」
ホワイトボードを見ると、そこには昨日の反省点やら今日留意するポイントが簡潔に書かれていた。
優秀な俺の右腕は、誰よりも早く来て連絡事項やその他諸々を考えてくれていたらしい。こういう部分を見ると、やっぱこいつの方が委員長に向いていたんじゃないかと思ってしまう。
「ところで、昨日のお弁当は美味しかった?」
どこか試すような口振りに、ぞわりとして雪ノ下の方を振り向く。そこには想像していた通りの、愉快そうな笑みが待っていた。
「⋯⋯ああ。きっと師匠がよかったんだろうな」
「あら、あなたも少しは気の利いた言い回しができるようになったじゃない」
うるせ、と聞こえないぐらいの小さな声で悪態をつく。その視線から逃れるようにホワイトボードに書かれた文字を目で追っていると、体育館の扉が押し開かれる音が聞こえてきた。
「やっはろー!」
「おはようございまーす」
随分遠くから届いた挨拶は、ほとんど人のいない体育館によく響いた。俺たちの返す声もまた、同じく。
由比ヶ浜と一色がこちらに向けて歩いてきている最中に、雪ノ下はそっと身体を近づけてくる。そして内緒話をするみたいに耳に手をあてると、ぽしょりと言った。
「今日は私がお弁当を作ってきたから、一緒に食べましょうね」
「⋯⋯⋯⋯はい」
「素直でよろしい」
今朝の小町じゃないが、自分でも素直になったというか⋯⋯いや、これはそんなのじゃないな。昨日は由比ヶ浜に作ってもらったし一緒に食べたから、これで断れないでしょって追い込み漁だ。
「先輩たち、なに話してたんです?」
ホワイトボードの前まで来た一色は、目の奥をぎらりと光らせながらそう問いかけてくる。
そしてそれには、こう返すしかない。
「⋯⋯今日の予定についてだよ」
俺は問い質すような一色の視線に気付かなかった振りをして、ホワイトボードに視線を送るのだった。
* * *
数時間後の体育館には、制服、私服の老若男女がひしめいていた。
本日から一般来場者にも学校が開放され、それに合わせて地域からの参加団体の出し物もある。果たしてどこまでの集客があるだろうかと思っていたが、はっきり言って予想以上の人出だ。
「いやー、たくさん入ってるねぇ」
そんなのんびりとした声で舞台横の控室に入ってきたのは、一般参加者の一人でもある陽乃さんだ。これから自分たちの出番だというのに、緊張している様子は一切ない。
「体育館の演目って、こんなに人集まるもんでしたっけ」
「いやー、さすがにこれは多いと思うよ? 私の時はこんなに集まらなかったんじゃないかなぁ」
陽乃さんは
「失礼します。出番まであと五分ですので、準備をお願いします」
「はーい」
どこまでもビジネスライクに言う雪ノ下に、陽乃さんは極めて軽い調子で答えて立ち上がる。
とても姉妹の会話とは思えないが、これが雪ノ下家のやり方なのだろう。陽乃さんが控室を出て行くと、雪ノ下は小さく息を吐いた。
「こっちはもういいから、あなたは観てきたら?」
「ああ⋯⋯。けどお前は?」
「私はさすがに離れられないわよ」
そう言って雪ノ下は、頭につけたヘッドセットをトントンと指で叩いた。本日の雪ノ下は、体育館まわりのイベントを取り仕切る責任者だ。俺と同じくある程度は自由に動けるように采配しているが、まだ細々とした仕事があるのだろう。
「んじゃ、お言葉に甘えて」
ええ、と頷いた雪ノ下に見送られて、控室を出た。ステージの上では近隣に住む中学生たちで構成されるダンスチームが、BGMに合わせて笑顔と汗を飛ばしている。
関係者だから舞台袖から観てもよかったのだが、どうせなら会場の様子と反応を見ておきたい。壁沿いを歩いて体育館の後方に移ると、ちょうど会場に入ってきた一色と鉢合わせになる。
「あ、先輩も休憩ですか?」
「いや⋯⋯。まあ休憩みたいなもんか」
そんなやり取りの後に、残響を残して音楽が止まる。わっと広がる歓声と拍手。
一色と隣り合って壁に背中をあずけると、転換の為に降ろされる暗幕を目で追う。セットが置き換われば、いよいよ陽乃さんたちの出番だ。
「ビッグバンド? でしたっけ。雪乃先輩のお姉さんのステージ」
「ああ。やる曲はよく知らないけどな」
何やら英題の曲だったことは申込書で見た覚えがあるが、さすがにそれで分かるほど音楽に詳しくない。アニソンだったら大体分かるのに。
それっきり黙って待っていると、ようやく暗幕が上がり始める。スポットライトが照らすのは、真っ赤なドレスで着飾った陽乃さんだ。
「――」
陽乃さんが静かに持ち上げたタクトを振り下ろすと、サックスが聞き覚えのあるメロディを吐き出した。
後を追うように駆け出したドラムス、合いの手を入れる管楽器たち。照明がステージ全体を照らし出すと、拍手が巻き起こる。
「うわぁ⋯⋯」
拍手がそのまま手拍子に変わると、一色はそんな声を漏らしていた。
たしかこの曲は、ブライアンなんちゃらとかいう海外アーティストがカバーしていたり、色んな映画にも使われたりしている曲だ。よく知らなくても聞いているだけで身体がうずうずするような旋律は、見事に聴衆の心を掴んでいた。
「⋯⋯すげぇな」
そしてそれは、曲のお陰だけじゃない。
演奏の間に手が空いた演者はくるりとその場で回ったり、左右に揺れ動いたり。とにかく楽しさを体現して、その熱が聴くものの心に伝播していくのだ。
腕に覚えのあるOBとOGでやる、とは聞いていたが、このレベルに仕上げるまで一体どれほど準備を重ねてきたのだろうか。一朝一夕の
「あ⋯⋯。もう行くんです?」
俺が壁から背中をはがすと、一色は意外そうにそう言った。
このステージを観ていたら、じっとしている場合じゃない気がしてきたのだ。
「ああ。もうここは大丈夫だろ」
ステージには陽乃さんが、統括者には雪ノ下がいる。
ならば俺は俺のやるべきことをしようと、歓声に包まれる体育館を後にした。
* * *
正直、一般公開日を舐めていた。
来場者予測が当てずっぽうだったわけではない。想定アクシデントの洗い出しもしていたし、それに対して対応方法だって決めていた。
ただ少し、みんなはっちゃけ過ぎているのだ。呼び込み合戦が白熱して申請にないことをやり始めるクラスが出てきたり、想定を上回る落とし物や迷子。その上気合を入れすぎたのか、途中で体調を崩した文実メンバーの補填でてんやわんやである。
「お疲れー⋯⋯」
「あ、ヒッキー」
ヘロヘロになりながら文実の本部である会議室に入ると、当番の由比ヶ浜が小さく手を振ってくる。
「⋯⋯なんか、すっごい疲れてるね」
「まあな⋯⋯」
昼時はとうに過ぎて、飯も食いそびれている。雪ノ下と昼ご飯は一緒にと約束はしたが、完全に
「そうだ。これ、各賞の投票結果ね」
「ん、確かに」
一般公開の今日は、地域からの参加も含め各優秀賞を投票で決める。由比ヶ浜からその結果の書かれた紙を受け取ると、俺は上着のポケットにそれを突っ込んだ。
「じゃあ、こっちは頼んだぞ」
「あ、うん⋯⋯。もう行くの?」
「ああ」
もうちょっとゆっくりしていったらいいのに、とでも言い出しそうな表情をしていたが、あいにくまだまだやることがある。是正勧告したクラスがちゃんとそれを守れているか見回りつつ、どこかで落としてしまったという思い出の詰まったハンカチを探さねばならない。
「ヒッキー、どこかでちゃんと休憩してね?」
「ああ、手が空いたらな」
そう言って片手を上げると、俺は会議室を出て歩き始める。由比ヶ浜に言われたから、だけではないが、いい加減休憩はしたい。
ずっと動きっぱなし、頭も働かせっぱなしで軽く頭痛がするレベルなのだ。こりゃマッ缶三本ぐらい飲まないと治らないかも知れない。
「はーちゃーーん!」
そんなことを考えながら本校舎を歩いていると、喧騒の向こうから高い声が聞こえてくる。俺をそんな風に呼ぶのは、この世で二人しかいない。
「お久しぶりです、お兄さん!」
そう言って京華を連れて現れたのは、小町によりつく毒虫野郎・大志だった。二人から数歩遅れて、気まずそうにさーちゃんもやってくる。
「おう。久しぶりだなお兄さんって呼ぶな殺すぞ」
「うす! じゃあ俺もはーちゃんでいいっすか!」
「いいわけねぇだろ殺すぞ」
「ちょっと、はーちゃん⋯⋯」
京華の前で何言ってんの、とさーちゃんが睨みを効かせてくる。その目久しぶりですね! ちょっとゾクゾクしちゃう⋯⋯。
「はーちゃん、えらいひと?」
しかし俺たちのそんなやりとりを気にした様子もない京華は、俺がつけた文実の腕章を見ながらそう言った。
こんな幼い子でも、腕章を巻いていればなんらかの役責を負っていることは分かるのだろう。興味を持ったならば、真実というものを教えてやらねばならない。
「これはな、組織にこの身を捧げますっていうマークだ。これを巻いてる間は己を滅してみんなの為に必死にならなきゃいけないよってやつだな」
「あんたね、小さい子に何教えてんの?」
「別に間違っちゃいないだろ」
俺とさーちゃんの会話を視線を行き来させながら見ていた大志は、「ああ」と何か得心したような声を出す。
「姉ちゃんが最近丸くなったのって、お兄さんと付き合い始めたからっすか?」
「はぁぁっ!?」
「いや、ないから」
過剰なまでに反応するさーちゃんに続いて、俺もないないと手を振った。
しかし今のやり取りだけで
「⋯⋯はっくしゅ!」
俺たちのやり取りを見ていた京華は、何に反応したのか思いっきりくしゃみをした。たらーんと漫画みたいに鼻水が垂れていく。
「あ⋯⋯っ。けーちゃん、すすっちゃダメだよ。えっと⋯⋯」
何やらまだ動揺しているのか、さーちゃんはすぐにティッシュやらハンカチやらを探し当てられない様子だった。いつの間にか俺の疲れを吹き飛ばしてくれた京華の為だ。救いの手などいくらでも差し出そうではないか。
「ほら、これ使ってくれ」
「あ⋯⋯、ありがと⋯⋯」
すっとポケットティッシュを差し出すと、さーちゃんは申し訳なさそうにしながらそれを受け取る。ちーんと鼻をかませるが、とても一枚で済む量ではなかった。
「そのティッシュ、そのまま使ってくれ。俺はもう行くわ」
「あ、はい。お疲れ様です!」
こうして京華の世話を焼いているのも悪くないが、残念ながらまだ仕事はあるのだ。
俺がそう言って片手を上げると、大志はビシッと綺麗にお辞儀を返してくる。こういうところは悪くないなって思うもんだから、困ったものだ。
「はーちゃん、またねー」
「おう。楽しんでってくれよ」
さーちゃんに鼻を拭き拭きされながら手を振る京華に手を振り返すと、俺はまた喧騒の中へと歩みを進めた。
* * *
大方の仕事を終えて体育館に戻ると、そこには知った顔が揃っていた。
「あー、やば。緊張してきた⋯⋯」
そう言ってらしくもなく不安そうな表情を浮かべているのは三浦で、その近くで「いやイケるっしょ! あーでも緊張すんわー。べーわべー」とうるさいのが戸部だ。
「葉山くん。準備の方は大丈夫かしら」
「ああ、いつでもいけるよ」
雪ノ下がそう問いかけると、葉山はギターからチューナーを外しながらそう答えた。二年F組内で組んだバンドで出演するらしく、大岡と大和もそれぞれの楽器の感覚を確かめている。
「葉山くんたちの出番が終わったらエンディングセレモニー。それぞれの配置と役割をもう一度確認しておいて下さい」
続いて雪ノ下は、集まっていた文実のメンバーにそう声をかける。
「委員長は各賞の発表、結びの挨拶。こちらも大丈夫ね?」
「ああ」
雪ノ下の問いに、俺は
「各賞の投票結果は受け取っているわよね?」
「ああ、これが──」
そう言って俺は上着のポケットに入れた投票結果の紙を出そうとして、指に伝わる感触がないことに気付いた。ポケットをひっくり返してみても、そこに探しものはない。
「⋯⋯ひょっとして、なくしたの?」
「ちょっと待てよ」
一応、入れた覚えのないポケットも全部手で探って、中身を裏返して確認していくが、投票結果の紙は見つからない。
さぁ、と血の気が引いていく感覚がした。これは本当に、落としてしまったのか?
「はぁ⋯⋯。文化祭実行委員長には、こういうミスが付き物なのかしら」
「⋯⋯その口振りだと、お前の姉さんも何かあったのか?」
呆れた調子の雪ノ下は、やれやれとでも言うように首を横に振った。危機的状況だというのに責めるでもなく、妙に落ち着いているように思える。
「誰か、集計結果を知っている人は?」
「あたし、ヒッキーに紙を渡したけど⋯⋯。結果は見ちゃダメな気がして見てないんだ」
「では集計をした人は?」
「そう言えば集計係の人、集計が終わってすぐに体調不良で帰ったんですよね⋯⋯」
矢継ぎ早に繰り出される雪ノ下の質問に、状況を把握している由比ヶ浜と一色が答えていく。
こうなると、いよいよもってマズイ。誰も投票結果を知らないということは、各賞の発表は後日、なんてことになってしまう。特に地域賞はこの場で発表しないとほとんど意味がないから、これでは文化祭に大きな
「⋯⋯探すしかないな」
とは言え、残る演目は葉山たち有志のバンド演奏のみ。それが終わればすぐにエンディングセレモニーだ。心当たりのある場所だけ行くにしても、時間がなさすぎる。
「どうかした?」
ただごとじゃない雰囲気を感じてか、ギターを置いた葉山がそう言って近づいてくる。
「葉山くん。あなたたちのバンド、あと一曲多く演奏することは可能かしら」
「は!? え、ちょっ、無理ムリむり!」
遠くからばっちり聞いていたらしい三浦が、激しく動揺した上に拒絶の意を示す。レバートリーがあるなら、確かにそれで時間稼ぎはできるが。
「でもほら、練習の合間にやってた曲あっただろ。それならやれると思うけど」
何やらわちゃわちゃしだした葉山たちに背を向けると、雪ノ下は超然とした様子で言う。
「これで五分⋯⋯MCも入れたら七、八分稼いだわ。これと同じだけの時間を作って各賞発表を遅らせるから、その間に見つけて来られる?」
「⋯⋯正直、やってみないと分からんが」
正味捜索にあてられる時間は一五分少々と言ったところか。この時間では、探せたとしても一箇所か二箇所ぐらいだろう。
さっきからずっと俺は、頭の中で今日の行動をトレースしていた。体育館も含め校舎全体を見回っていたから、捜索範囲が広すぎる。しかし、どこかに的を絞れと言われたら最優先の場所があった。
「由比ヶ浜、さーちゃんの連絡先って分かるか?」
「え⋯⋯。うん、分かるけど」
「悪いが電話して、どこにいるか聞いてくれ」
もしも落としたとしたら、鼻を垂らした京華の為にポケットティッシュを差し出したあの時だ。しかしその様子は大志が見ていたから、落としたらそこで気付くはず。そう考えると、ポケットティッシュと一緒にさーちゃんに渡してしまった可能性が一番高い。
「ダメだ。電話出ないよ」
「じゃあ、どこにいそうかとかは?」
「今なら多分、クラスの方だと思うけど⋯⋯」
分かったと頷くと、俺は雪ノ下の方を見た。彼女もまた頷きを返す。
「じゃあ行くけど⋯⋯、どうやって時間を稼ぐつもりなんだ?」
「策ならあるわ」
そう言って雪ノ下は、由比ヶ浜と一色を順に見る。見られている方の由比ヶ浜と一色は、キョトンとした表情をしていた。
「後は
そんな強い言葉と目が、俺の背中を押してくれているようで。
「⋯⋯分かった。頼む」
俺はそう言うと、控室を飛び出した。
* * *
エンディングセレモニーに向かう人の波をかき分けるよう走ると、たどりついた校舎はまさに
本来なら廊下を走っている生徒がいたら注意する立場なのに、何やってんだと思いながら階段を駆け上がる。骨が軋むのを感じながら上り切ると、乳酸を無視しながら脚を繰り出す。
「はぁ⋯⋯はぁっ⋯⋯」
二年F組の前まで来る頃には、すっかり息は上がり切っていた。脚はパンパンだし、何故か手先まで痺れている。
由比ヶ浜は、さーちゃんは教室にいるはずだと言っていた。もうこの時間は公演していないだろうから、居残りの当番をしているはずだ。
そう思って近づいていった先にいる女子生徒は。
「え⋯⋯」
受付の席に座ったその女子生徒は、さーちゃんではなかった。
俺が近づいてくるのに気付いた相模が、ぎょっとした表情で見上げてくる。
「さーちゃ⋯⋯川崎は?」
「あ、えっと⋯⋯なんか大事なメモ? みたいなの見つけたから、本部に届けるって」
「そうか⋯⋯」
どうやらさーちゃんが投票結果の紙を持っている、という推測自体は当たっていたようだ。答え合わせができたのは収穫だったが、制限時間は確実に近づいてきている。
「驚かせて悪かったな。じゃ」
「あ、うん⋯⋯」
今度は文実の本部、教職員用の会議室に向けて走り出す。また筋肉が悲鳴を上げるが、黙れと鞭打って階段を上っていく。
さっきより荒い息をつきながら開けっ放しの出入口をくぐると、室内を見渡した。そこにさーちゃんの姿はない。代わりに目の合った当番担当の女子が、ビクッと震えた。
「ど、どうしたの、比企谷くん」
「ああ⋯⋯。ここに紙の落とし物が届かなかったか?」
当番の女子は落とし物回収ボックスを検めると、ふるふると小さく首を振った。
「紙の落とし物は来てないよ」
「じゃあポケットティッシュは?」
「えっと⋯⋯それもない」
「そうか⋯⋯」
相模はさーちゃんが「本部に届ける」と言っていた。文実の本部はここ以外ない。
だとしたら──。
「悪い。じゃああとよろしく」
俺はそうとだけ言うと、会議室を飛び出した。廊下を走り、階段を駆け下り、校舎から体育館へと急ぐ。
一つ、俺は大きな勘違いをしていた。
大事なものと分かっているさーちゃんが、落とし物としていつ俺の手元に届くかも分からない手段を取るはずがなかったのだ。
それに文実に関わっていない一般の生徒にとっての本部は、体育館で間違いないだろう。今まさに人が集まっている場所に届けてこそ意味を為すと、さーちゃんなら分かるはずだ。
「は、っあー、きっつ⋯⋯」
体育館に着くと、そんな泣き言が口から
引きずるように、一歩いっぽを繰り出す。やがてステージが見えると、俺は思わず歩みを止めた。
恋文をやり取りするかのような、二人分の可憐な歌声。
複雑に絡み合うリズム隊、几帳面なほど正確なリフを刻むギター。音の奔流に負けじと声を出す、聴衆の圧倒的な熱量。
その熱狂の渦の真っ只中、その源泉は──。
「──マジかよ」
太陽のように眩しいステージの上で、雪ノ下は弦を弾く。由比ヶ浜と一色はマイクを握りしめ、代わるがわるコーラスを歌い上げている。
彼女たちだけではない。平塚先生はベースのネックを握りしめ、陽乃さんはしなやかにスティックを振り下ろしていた。その隣では、めぐり先輩が力強く鍵盤を叩いている。
見惚れている場合じゃないというのに、目を離せない。
疲れからではなく、もう一歩だって動けなかった。
由比ヶ浜は言った。
文化祭を楽しみ切りたいと。
小町は言った。
俺が作り上げた文化祭が楽しみだと。
平塚先生は言った。
精一杯、文化祭を楽しめと。
そして雪ノ下は宣言した。
今までで一番の文化祭にしてみせると。
このままじゃ、俺のせいで全部台無しになる。はっきり言って危機的状況だ。
それなのに。
それなのに、俺は──。
「⋯⋯めちゃくちゃ楽しいじゃねぇか」
思わず、そう呟いていた。
胸の内を渦巻く感情に、何と名前をつけていいのか分からない。ただ分かっているのは、今この時を、ただ純粋に楽しいと思っている事実だけだ。
間奏に入り辺りを見渡すと、すぐ青みがかった長い髪が目に入った。
何かを強く握りしめ、肩で息をして。
果たして俺の探し人であるさーちゃんは、体育館の後方で呆然とステージを見つめていた。
「⋯⋯さーちゃん」
俺が呼ぶと、はっとした様子でこちらを振り向いたさーちゃんと目が合う。ほっとしたような、しかしどこか申し訳なさそうな、優しい表情だった。
「やっと見つけた⋯⋯。これ、大事なものなんでしょ?」
「ああ」
そう言って差し出された紙を受け取る。それは確かに俺の探していた、投票結果の書かれた紙だった。
これでちゃんと、彼女たちの想いに報いることができる。
彼女たちが繋いでくれたこの文化祭を、終わらせることができるのだ。
これで、やっと──!
「サンキューさーちゃん! 愛してるぜー!」
「~~~~────っ!!」
そう言って駆け出すと、背中にさーちゃんの絶叫が届いた。なんだよ、さーちゃんもみんなと一緒に叫びたかったのかよ。
ならば俺が成すべきことは一つだけ。
あのさーちゃんですら熱狂の渦に巻き込んだこの文化祭を、最高のフィナーレで飾るだけだ。
* * *
「もーっ、めっちゃくちゃ緊張しましたよっ」
「あたしも、すっごいすっごい緊張したー」
サプライズライブも、センディングセレモニーも全て終わった舞台袖。
俺たち文実のメンバーはそんな思い思いの感想を交えながら、弛緩した空気の中で片付けを進めていた。
「お疲れ、委員長くん。いやー、久々に燃えちゃったなー」
大仕事が終わってもぬけの殻状態になっている俺の肩を、陽乃さんはポンポンと叩いてくる。
あれだけの人の前で二回も演奏をやってのけた後だと言うのに、この人のテンションは上がりも下がりもした様子がない。改めて陽乃さんの肝の座りっぷりというか、底なしのポテンシャルを見せつけられた気分だ。
「さすが、言い切るだけあったね。君と雪乃ちゃんの文化祭は」
「いや、別に俺とあいつのってわけじゃ⋯⋯」
俺がそう言うと、陽乃さんは黙ってふるふると首を振った。
──ああ、そうか。
雪ノ下の名前をあえて言うっていうことは、あの宣言のことを指しているのだ。
「よかったんじゃない? 少なくとも雪乃ちゃんは、嘘つきにはならなかったね」
「それって⋯⋯」
つまり、と言いかけたところで、陽乃さんは歩き出す。
「じゃーねー。雪乃ちゃんによろしくー」
俺の質問を受け付ける気はないのだろう、そう言って颯爽と去っていく。
まあ、改めてする質問でもなかったのかも知れない。終盤で慌ただしい展開になったものの、何も知らない人間から見ればサプライズ演出にしか見えなかったはずだ。
「比企谷くん」
文実メンバーにあれこれ指示を出していた雪ノ下は、一段落ついたのか近くにやってくるとそう声をかけてくる。
「こっちに」
「お、おお⋯⋯」
袖を引っ張ってくると、有無を言わせぬ勢いで歩き始めた。ちらりと由比ヶ浜と一色の方を見るが、まだ何やかやと喋りながら片付けを続けている。
舞台袖に一番近い扉から外に出ると、ひやりとした風が頬を撫でた。
「お昼、食べ損ねてしまっていたわね。ここで食べましょう」
「⋯⋯ああ。お前も食ってなかったんだな」
雪ノ下がこくりと首肯したのを合図に、俺たちは段になっている部分に腰を下ろした。
手提げ鞄から出された弁当を受け取ると、隣り合ったまま十数時間ぶりの食事をとり始める。バカみたいに腹が減っているせいで、雪ノ下の弁当はいつもよりずっと美味しく感じられた。
「無事終わったわね」
もしゃもしゃとミートボールを頬張っていると、雪ノ下はどこか柔らかい声でそう言った。ああ、と頷きを返すと、雪ノ下は箸を置いて俺を見てくる。
「ところで比企谷くん。これであなたの名誉は挽回できたと思う?」
「え⋯⋯? まあ⋯⋯、多少はなったんじゃねぇの」
「ええ、私もそう思うわ」
雪ノ下はそう言うと、満足そうに微笑む。
だったらなんでそんな試すような聞き方をするんだって話だ。
「ではどうしてあなたは、名誉を挽回する必要があったのかしら?」
「どうしてって⋯⋯。チェーンメールの噂が嘘だって証明する為だろ?」
「そうね。ではそれは誰の為?」
「誰って、そりゃ⋯⋯」
さっきから質問ばかりだな、なんて考えながらそこまで言って、俺はふと気付いてしまう。
なぜ雪ノ下がそんなことを聞くのか。
どうして嬉しそうに、笑っているのか。
「私はあなたに言ったわよね。
そこまで聞き届けて、俺は戦慄した。
あれ、俺ひょっとして、雪ノ下の為に全力で頑張ってたのん?
「証明してくれてありがとう。やっぱり私にはあなたしかいないわ」
そう言って向けられた笑みは、まるで女神みたいなのに捕食者のそれで。
ひょっとしたらこいつは陽乃さんよりも規格外の存在なのかも知れないと、そう思うのだった──。
やっと、文化祭が終わりました。いや、長かった。
チェーンメールの話を書いていた頃ぐらいからこの展開を考えていたので、ようやく書けたって感じです。
さて、文化祭が終わったら、今度はあのイベントですね。
引き続きお楽しみください!