やはり俺にモテ期がくるのはまちがっている。   作:滝 

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修学旅行でも、俺のラブコメはまちがっている。

 清水の舞台から飛び降りるつもりでやれば何でもできる! なんてよく言ったものである。

 しかしそんな自殺願望じみた覚悟を持った人がもし失敗したら、本当に清水の舞台から飛び降りてしまうのではないだろうか? できればバンジージャンプするぐらいの気概で物事にあたりたいものだ。

 

 さて、そんな屁理屈じみた持論の舞台がある清水寺。修学旅行も当日である。

 そんなメジャーなことわざは永続的な宣伝効果をもたらすらしく、晩秋の清水寺は多くの人で賑わっていた。

 

「うわー、めっちゃ紅葉してる」

 

 由比ヶ浜は拝観入り口へと続く列に並びながら、そう言って真っ赤なもみじに携帯のカメラを向ける。

 修学旅行一日目はクラスでの行動だ。故に戸部のサポートを行えるのは俺と由比ヶ浜だけということになる。

 

「秋だな⋯⋯」

 

 由比ヶ浜の発言に対する俺の反応は、おおよそゼロ点の回答だった。

 綺麗だな、とか、素敵だね、なんて言いだすキャラでもない。だってめっちゃ秋だし。ここまでステレオタイプな秋を表現できる京都は、やはり日本屈指の観光名所だけある。

 

「それにしても、混んでるね」

 

 由比ヶ浜の言う通り、この季節だから仕方ないとは言えかなりの混雑ぶりだった。俺たち修学旅行生だけではなく、一般のお客さんも入り混じって長蛇の列になっている。

 

「ねえ、待ってる間にあれ行こうよ」

「あれって?」

 

 由比ヶ浜の指差したのは、小さなお堂だった。胎内めぐりというものらしく、真っ暗闇の中でお堂をめぐるとご利益があるとか云々かんぬん書いてある。

 

「いや、待ってる間に拝観の順番きたらあれだし⋯⋯」

「もう。それより大事な仕事(・・)があるでしょ。そんなに時間もかからないみたいだし」

 

 そう言って由比ヶ浜が視線を向けた先は、何やら喋っている様子の海老名さんと戸部だった。

 引き受けたから仕方ないとは言え、旅行先に仕事って言葉を聞くのはワーカホリックな感じだ。これが流行りのワーケーションってやつですか違いますね。

 

「⋯⋯分かったよ」

「じゃあ、ちょっと話してくるね」

 

 由比ヶ浜は戸部たちの方へ向かうと、短い会話の後に葉山隼人と愉快な仲間たちをつれて戻ってきた。

 

「置いていかれないように、さくっと行こうか」

 

 そう言った葉山の横には三浦がいて、何やらもうどんな組み合わせでお堂の中に入るのか決まっている様子だ。海老名さんの隣で戸部がわーわー言っているのを見て、少し安心する。

 そこまで考えたところで、はてと疑問が湧いて来た。三浦は葉山と、海老名さんは戸部と、では由比ヶ浜は?

 

「はい、行くよ」

 

 急かすように言うと、由比ヶ浜は俺の袖口を引っ張ってくる。ああ、やっぱりそうなるんですね。それにしてもそういう仕草、ちょっと子どもっぽいのにいたずらにドキっとしてしまうので控えて下さいね。

 拝観料を支払って中に入ると、闇を超えた暗闇が俺たちを出迎える。ちらっと説明書きを見て分かってはいたが、本当に何も見えない。

 

「うわ、本当に真っ暗だね⋯⋯」

 

 やけに近く、ともすれば耳元とも言える位置から由比ヶ浜のつぶやく声が聞こえる。

 視界を奪われ五感の一つに割く意識が減ったからだろうか、残された四つの感覚がやたら過敏になっているように思えた。

 

「これ、本当にすぐ終わるんだよな?」

「たぶん⋯⋯」

 

 張り切って行こうと言った割りには、頼りない返事である。

 しかし先の長さが分からないのだから、それも仕方がないだろう。お堂の中では壁に巡らされた数珠を頼りに歩いていく以外、道しるべはないからだ。

 

「なんか、おばけ出てきそうだね」

「寺で出たら即行で成仏させられるだろ⋯⋯」

 

 むしろこの暗闇で出てくるとしたら真っ黒クロスケではないだろうか。

 真っ黒クロスケ出ておいでー! 出てきても分かんないけど!

 

「うわっ!」

 

 また近くで声がしたかと思うと、ぎゅうぅと手首がつかまれ腕に柔らかな感触が広がる。柑橘系の香り鼻腔をくすぐり、かすかな息遣いが喉元を撫でた。

 

「ご、ごめん。ちょっとこけかけた」

「お、おう⋯⋯」

 

 まあ、真っ暗だからそういうこともあるだろう。

 あるだろうけどガハマさん、まだ何というかその、腕が柔らかさで幸せいっぱいなんですが? 身動き取れないんですけど。

 

「あのさ⋯⋯ちょっと怖いから手握ってていい?」

「あ、はい⋯⋯」

 

 由比ヶ浜も壁の数珠を頼りにしていけば⋯⋯と考えてしまったが、暗闇で怯える女の子にそう言うのはさすがにはばかられた。まあ誰に見られるでもないし、八幡さんは紳士だからエブリシングイッツオーケーだ。

 由比ヶ浜は手を握ってもいいかと言ったが、実際に掴んできたのは俺の手首だった。なんでおんなのこのてってこんなにやわらかいんですか。やべぇやっぱ紳士は無理。

 

「えっと、あれかな?」

 

 必要以上にどぎまぎしながら歩いていくと、暗闇の中にぼんやりとした弱い光が見えてきた。近づいてみると淡い光に照らされた石には文字のような模様が描かれていて、どうやらこれが目的の物で間違いないらしい。

 この石を撫でながら出っ張りを持って回し、祈りを捧げてからお願いを一つするとそれが叶う。これが人づてに紹介されたありがたい石であれば全力で疑ってかかるものだが、由緒あるお寺の中にあると信憑性が天と地の差になるのだから人間とは都合のいいものだ。

 由比ヶ浜は説明のあった所作の通りに石を回すと、密やかな息遣いだけが聞こえてくる。本物の暗闇の中で、いったい彼女は何を願ったのだろうか。

 

「はい。ヒッキーも」

 

 ん、と短く返事をすると、由比ヶ浜の動きにならって石を回す。

 こういうところに来ると思うのだが、祈りとはどう捧げるのが正解なのだろう。祝詞(のりと)でも上げるべきか? うんそれ神社の作法だな。

 

「⋯⋯行くか」

 

 石から手を離すと、そう言って歩き始める。また柔らかな手が俺の手首を握ってきたが、さっきまでのような心臓の高鳴りは不思議と起きなかった。

 なんとなく、そのまま口を開かずに歩く。やがて出口までやってくると、するっと離れていく手。ようやく光の満ちた世界に戻ってこれたと安堵すると同時に、おかしな名残惜しさを心の隅で感じる。

 

「どうです? 生まれ変わった気分でしょう?」

「っすねー。マジ新しい自分になった感じっすわ!」

 

 先に出ていたらしい戸部が住職に話しかけられて、お堂に入る前と一切変わらないノリでそう答えた。本当、ある意味戸部はブレねぇな⋯⋯。

 

「あ、やばっ。もう列だいぶ進んでる!」

 

 見ればまさに俺たちのクラスが拝観入り口に差し掛かったところだった。どたどたと慌ただしくクラスに同流すると、そのまま入り口に滑り込む。

 流れにのって進んでいくと、ようやくかの有名な清水の舞台に辿り着いた。

 

「うわー、すっご! たかっ!」

 

 由比ヶ浜は欄干(らんかん)に手をかけると、そんな感動の声を上げる。

 写真でしか見たことがなかったが、なるほどやはり現地にいかないと分からないスケール感というものがある。ここから飛び降りるとか、バンジージャンプでも勘弁願いたい。

 

「っべー。マジでたけーわ。べー」

「おー、凄いねー。これで聖地巡礼一箇所目だ」

「うわ、やば。ねー隼人、写真撮ろ」

 

 件の戸部たちも、常より若干テンション高めになっているように思える。ちなみに海老名さんの言う聖地が何のことなのかは知らないし、知ってもロクなことになりそうにないので聞かないでおく。

 まあ悪くない雰囲気だな、なんて思いながら見ていると、不意に三浦と目が合った。

 

「ヒキオ、写真撮ってくんない?」

「⋯⋯いいけど」

 

 三浦から携帯を受け取ると、私も俺もとデジカメやら携帯やらを渡してくる。どれか一台で撮って後でシェアしてもらえませんかね⋯⋯。

 カシャカシャと渡された台数分だけ写真を撮ると、それぞれの手元に返していく。やっと一息ついてさて俺も写真を撮るかと思っていると、ふらりと由比ヶ浜が隣にやってくる。

 

「ヒッキー、あたしたちも撮ろうよ」

「え、ああ⋯⋯」

 

 風景撮るつもりだったんだけど、と思っていたが、別に伝えるべきことでもない。俺が返事をすると、由比ヶ浜は携帯のカメラをインカメラにして更に距離を詰めてくる。

 え、近くない? なんかマッ缶自販機の前で撮った時よりくっついてませんか由比ヶ浜さん。

 カシャと、軽快な音が鳴ると、小さな画面の中に俺たちの写し絵が収まる。何というか、これカップルの近さなのでは⋯⋯。

 

「あ⋯⋯」

 

 誰も見てないよな、思って辺りを見回すと、さーちゃんと目が合った。どうやらばっちり見られていたらしい。

 何とも言えない空気に身を捩ると、由比ヶ浜は近づいたままだったことに気付いたのか少しだけ俺と距離を取った。

 

「えと⋯⋯」

 

 さーちゃんは携帯を片手に持ったまま、何やら言いたげな表情を浮かべていた。

 ⋯⋯何この()。あんたら付き合ってんのとか言われて「べべべ別にそんなんじゃねーし!」って気まずくなるやつじゃねぇの。

 

「あ、沙希も一緒に撮ろうよ」

「え、あ、いや⋯⋯あたしは⋯⋯」

「ん、今度はあーしが撮ったげる」

 

 受けた恩は返すタイプなのか、三浦は有無を言わさぬ勢いで俺と由比ヶ浜、それからさーちゃんの携帯を取っていった。いやあの、僕の分まではいいんですけど⋯⋯。

 

「はい、撮るよー。寄って寄って」

 

 三浦が言うと、由比ヶ浜とさーちゃんは俺の方に半歩ずつ詰めてくる。いやさっきから本当近いって君たち。なんで女の子っていい匂いするんですか香水ですねそうですね。

 カシャ、とまたシャッター音がすると、三浦は携帯の向こうから呆れた表情を見せる。

 

「ヒキオ、ピースぐらいしたら?」

「あ、はい⋯⋯」

 

 確かに女子二人に挟まれて直立不動というのも様にならなかった。

 いえーいピスピス! なんてテンションには全くならないが、いたく滑稽な写真を残すよりピースでもした方が多少はマシに思える。あと三浦の言うことガン無視してたら本気で怒られそう。怖い。

 

「はい、もう一回」

 

 シャッター音が鳴る寸前にハイピース。由比ヶ浜も隣で横ピースをばっちり決め、反対側ではさーちゃんもためらいがちに二本指を立てる。

 何枚か撮ってもらって携帯を受け取る頃には、背中に変な汗をかいていた。秋も深まった京都は寒いぐらいだというのに、やけに身体が熱い。

 

「あ、もう次行くみたい」

 

 クラスの後方に合流したせいで、さっきから少し慌ただしい。途中で地主神社によったりしながら進んでいくと、清水の舞台に次いで有名な音羽の滝が見えてくる。

 なんでも左が学問、中央が長寿、右が良縁⋯⋯と言われているが、元を辿れば同じ水らしい。案内にもそう書いてあるというのに、俺たち学生が並ぶのはもっぱ左の学問か右の良縁、恋愛がらみの方である。

 

「ね、ゆきのんならどれにするかな?」

「さぁな。左じゃねぇの」

「どうかな。意外に真ん中とか、右だったりして」

 

 そんな何でもない会話を交わしていると、やがて俺たちの順番がくる。

 俺の前に並んでいた由比ヶ浜は、迷わず右の滝に柄杓(ひしゃく)を伸ばした。水を飲む直前、かき上げられる髪。ちらりと耳が見えただけだというのに、その所作に一瞬意識を奪われていた。

 

「はい」

 

 由比ヶ浜は水を飲んだ後、そのまま柄杓を渡してくる。

 いや、うん。ありがたいんだけど、これは間接キスというものになるのでは⋯⋯。

 

「いや、ね⋯⋯。それはちょっと⋯⋯」

「⋯⋯あ」

 

 俺の言わんとしていることが分かったのか、由比ヶ浜はほのかに頬を染め出した。

 そしてそのまま柄杓を引っ込めると、ううんとかぶりを振って小さく笑う。はにかむような表情が、実際の歳よりも彼女を幼く見せた。

 

「⋯⋯気にするんだ」

「ええ、まあ⋯⋯」

 

 何だこの空気⋯⋯と思っていると、何を考えたのか由比ヶ浜は柄杓に水を汲む。

 

「えいっ」

「むぐっ!?」

 

 そのまま柄杓を押し付けられて、意図しないタイミングで唇が潤う。当然うまいこと飲めるわけがなく、ほとんど溢れて俺の制服を濡らしていた。

 

「ちょっと君、何してんの?」

「あはははっ」

 

 知らなーい、と由比ヶ浜は柄杓を返すと、先に歩きだしてしまう。さっきからこの子、粗相が過ぎるのでは⋯⋯。

 

 

「⋯⋯もっと気にしたらいいのに」

 

 

 ぽしょりと呟いた声が、かしましい生徒たちの声でかき消えていく。

 本当に、何を考えているんだか。俺は学業の滝の水を飲もうと思ってたのに。

 

 俺は視界の端で戸部が恋愛成就の水をガブガブ飲むのを見ながら、ゆっくりその背中を追い始めるのだった。

 

 

   *   *   *

 

 

 まどろみとは、長くも短い生の中でもっとも心地のいい時間ではないだろうか。

 まるで母なる海に揺られているような、真白く混濁した意識。そのまま手放せば深い眠りの底に辿りつける、甘やかな時間。

 

「んん⋯⋯?」

 

 そんな至上の時間に終わりを告げたのは、ポケットの中で震える携帯電話だった。

 ところは本日の宿泊先、京都府内のホテルである。

 あれから南禅寺まで行った後、どういうわけだか銀閣寺までの長い道を歩かされた。道中では戸部と海老名さんが自然と喋るように気を使ったりしていて、その疲れもあったのか思わずうたた寝をしてしまっていたらしい。

 

「八幡、鳴ってるよ」

「ああ、うん」

 

 さいちゃんが同じ部屋なのは、もうツッコまない。戸部たちが「あ、それロン!」と盛り上がっているのを尻目に携帯を見ると、そこに表示された名は『一色いろは』だった。あの子、急に電話かけてくるの多いよね⋯⋯。

 

「もしもし?」

『もしもーし。お疲れ様でーす』

 

 聞こえてくるのは一色の溌剌(はつらつ)とした声で、寝起きでしゃがれた俺の声とは雲泥の差だ。こんな時に、一体どうしたと言うのだろう。

 

『ひょっとして寝てました?』

「まあ、ちょっとウトウトとな」

 

 身体を動かせば、多少なりとも意識がしゃっきりするかも知れない。そう思って話しながら部屋を出ると、そのまま廊下を歩いていく。

 

「で、何か用かないなら切る」

『先輩冷たーい。用事ならありますよ』

 

 俺のとりあえず何事も遠ざけておくボッチボーイムーブを意に介さず、一色は朗らかなままの声でそう答える。

 

『お土産のリクエストを伝えていなかったなと思いまして』

「⋯⋯やっぱ切っていいか?」

『ダメです』

 

 やれやれ、何かしらは言ってくるかと思ってはいたが、まさか当日に伝えてくるとは。

 辿り着いたエレベーターホールには、ちょうどかご室が到着して扉が開いたところだった。部屋を出たついでに飲み物でも買うかと思って、俺はそのままエレベーターに乗り込む。

 

『京都と言えば生八つ橋ですけど、わたし意外にかわみち屋の蕎麦ぼうろも好きでして』

「知らねぇよ⋯⋯」

 

 確かに一色には和菓子よりも洋菓子の方が似合うけれども。

 そう言えば土産物屋が一階にあったことを思い出す。まったく、何もかも一色の思惑通りにことが進んでいるようで末恐ろしい。

 

『まあでも先輩に貰えたら何でも嬉しいので、わたしに食べて欲しいものを買ってきてくださいね?』

 

 甘い声が耳朶に響いて、思わず脳が痺れる。

 あ、あざとい⋯⋯。今までになく過去一であざといわこいつ。飲料の王者がマックスコーヒーならあざとさの女王はマックスいろはす。今俺が決めた。

 

「とりあえず、食い物がいいってことだけは分かったよ」

『はい。それでは、わたしの分まで楽しんでくださいねー。結衣先輩と雪乃先輩にもよろしくです』

「ああ。じゃあな」

 

 そう言って通話終了ボタンを押すと、いつの間にか思考の鈍さが消えていることに気付く。我がことながらなんでだろうかと思っていると、やがてエレベーターは一階で扉を開いた。

 

「あ。おーい、ヒッキー」

 

 さて土産物屋で目星だけでもつけとくか、と歩きだすと、そんな声が俺を呼び止めた。声のした方を見ると、ソファベンチに隣り合って座った由比ヶ浜と雪ノ下の姿が見える。

 

「おお⋯⋯。何してんの?」

「んー、明日の打ち合わせとか」

 

 何とも曖昧に感じる言い方だったが、隣の雪ノ下はこくりと頷きを返していた。明日はクラス内で作ったグループでの行動だから、雪ノ下が依頼に応えるには相談ぐらいしかない。

 

「比企谷くんは何をしていたの?」

「あー⋯⋯。一色から電話かかってきて、土産物は食い物がいいって言われたからどんなのがあるかなって」

「ヒッキー、あいかわらずいろはちゃんに甘いよね」

「ええ」

 

 由比ヶ浜の指摘に、即座に肯定を返す雪ノ下。甘い⋯⋯のか? 土産物を買って行ってやるぐらいは、普通だと思うが。

 由比ヶ浜が端に寄ってベンチを空けてくれたので、立ちっぱなしも何だし座らせてもらうことにする。明日の相談をしているなら、俺も話に入っておくに越したこともないし。

 

「そういや一色が、お前らにもよろしくって⋯⋯」

 

 言ってたぞ、と言うとして、俺は言葉を飲んだ。俺たち以外誰もいなかった通路に、突如としてサングラスをした怪しい女性が現れたからである。

 スーツにジャケットを羽織り、長く艶めく髪が軽やかになびく。颯爽と歩いてきた思ったら俺たちを見て固まるもんだから、胡散臭いったらない。

 

「な、なんで君たちがここに⋯⋯」

 

 怪しい女性こと平塚先生は、俺たちの顔を順に見ながらそう言った。外は真っ暗だってのに、なんでサングラスなんかかけてんの、この人。

 

「それはこっちのセリフなんですけど⋯⋯。こんな時間からどこに行くんすか」

「⋯⋯まあ、見られてしまったら仕方がない。ついて来たまえ」

 

 平塚先生は言い聞かせるようにもう一度俺たちを見てから、足早で歩き出した。ついてくるのを確信しているような足取りに、俺たちは顔を見合わせる。よく分からないが、固辞する理由もない。

 平塚先生を追ってホテルを出ると、今度は由比ヶ浜が問いかける。

 

「あの、どこに行くんですか?」

「ふむ、まだ言ってなかったな。ラーメンだ。口止め料としておごってやろう」

 

 ラーメンだ、ラーメンだ、ラーメンだ⋯⋯。と、脳内にエコーがかかってリフレインされる。こんなところまで来てもラーメンかよ、この人。

 しかしまあ、理解できないわけでもない。ラーメン好きにとって京都は有名な激戦区だ。何となく京都に抱くようなイメージ通りの淡麗系ラーメンより、むしろ背脂ちゃっちゃ系であったり、意外にもこってり系が多い。

 

「みんなに内緒だよ?」

 

 平塚先生はそう言って、人差し指を唇に当てる。大変お茶目で可愛らしい仕草なのだが、ネタが古すぎるんだよなぁ⋯⋯。

 反応に困っている雪ノ下と由比ヶ浜を置いて、平塚先生は通りを行き交うタクシーを片手で停めた。最初に平塚先生が助手席に乗り込んだので、俺たちは後部座席に乗るわけだが。

 

「ほら、ヒッキー早く乗って」

 

 最初に乗り込んだ雪ノ下に続いて乗り込むと、見事二人に挟まれる形になってしまった。雪ノ下さん、運転席の後ろの席は序列一位が座る席だって分かってて先に乗り込みましたね?

 

「一乗寺まで」

 

 平塚先生の告げた行き先を聞いて、俺はやはりなと一人得心していた。

 ラーメン戦国時代とも言える状況の京都でも、一番熱い場所と言えば一乗寺だ。関西で唯一のラーメン二郎があることでも有名である。さすがにこの面子で二郎はないだろうけど。

 女子二人に挟まれるという文字通り肩身の狭い状態のまま、窓越しに京都の夜景を眺める。たったそれだけの動きで湯上がりのような香りが鼻に届いて、妙にどきりとしてしまった。

 

「先に降りててくれ」

 

 しばしのナイトクルーズの後に目的地に到着すると、平塚先生はそう俺たちに促した。

 果たしてタクシーを降りた先にあったのは──。

 

「こ、これが天下一品総本店⋯⋯」

 

 愛称『天一』こと天下一品。チェーン店だからこその味のバラツキはあると聞くが、共通して言える特徴は箸が立つほど濃厚なこってりスープである。

 全国展開している割りに、何故か大都会・千葉に天一はない。そのうちできるなんて噂があるが、総本店の味を確かめた後に支店の味との違いを楽しむのもまた一興だろう。

 

「なんかよく分かんないけど感動してる⋯⋯」

「⋯⋯まあ、ラーメン好きにしか分からないものがあるのでしょうね」

 

 なぜか雪ノ下と由比ヶ浜には、若干呆れられてしまっていた。いや感動するだろ、憧れの名店が目の前にあったら。

 店の外観も抑えておこうと写真を撮ったりしながら待っているが、平塚先生は中々タクシーから出てこない。何をしているのだろうと車内を覗き込むと、携帯電話を耳に当てている平塚先生が見えた。

 

「ええ⋯⋯。はい、ちょっと外に出ていまして⋯⋯。はい、すぐに戻ります」

 

 開かれたままの後部ドアから聞こえてくるのは、そんな先生(・・)らしい声だった。がっくり肩を落とす姿を見るに、何か緊急の用事らしい。

 

「比企谷」

 

 平塚先生は助手席の窓を開けると、そう俺を呼ぶ。

 

「すまんがすぐにホテルに戻らなければならなくなった」

 

 会話の内容から何となく分かっちゃいたが、やはりそういう話になるのだろう。

 さよなら、俺の天一⋯⋯。いつかまた、食べに来るからな⋯⋯。

 そんな寂寥感に己を酔わせていると、すっと平塚先生の手が伸びてきた。その人差し指と中指の間には、諭吉さんが挟まれている。

 

「だから君たちだけで食べて来い」

「でも⋯⋯」

「帰って来る時、絶対誰にも見つかるなよ」

 

 ぐい、と俺に万札を押し付けると、そのまま平塚先生は窓を閉じてしまった。やがて走り出したタクシーを見送ると、後に残ったのは唖然とした俺たちだけだ。

 

「どうすっかね、これ⋯⋯」

 

 平塚先生が残していったのは、ちょっと多すぎると思える額面の紙切れだけ。あの人も楽しみにしていただろうに。社会に出るというのはこれほどまでに悲しいものなのだろうか⋯⋯。

 

「まあ、ここまで来て何も食べずに帰る方が不義理と言うものでしょうね」

「うん⋯⋯。まあ、感想とか聞きたいかも知れないし」

 

 雪ノ下たちの言うことももっともだ。厚すぎるほどの厚意は、ありがたくちょうだいすることにしよう。

 店に入ると、さすがに遅い時間ということもあってかすぐに席に通される。テーブルに用意されたメニュー表を見るが、俺の注文は店に入る前から決まっている。

 

「俺はこってりだな」

「よくそんなに食べられるね」

 

 真向かいに座った由比ヶ浜は、ちょっと驚いたような顔でそう言った。今日はたくさん歩かされたし、男子高校生にとってラーメンは別腹だ。

 

「私もこってりで、ハーフにしようかしら」

 

 斜め向かいに座った雪ノ下の選択は、かなり意外だった。てっきり食べてもあっさり、それかこってりとあっさりをかけ合わせたこっさりだと思っていた。

 

「あ、ハーフもあるんだ。じゃああたしはあっさりのハーフかな」

 

 二人とも限定メニューには特に興味がないのか、呆気ないぐらい早くそれぞれの注文が決まる。店員さんに注文を伝えると、無為な沈黙が訪れた。

 何とも不思議な夜だ。千葉から遠く離れた地でこんな夜更けにラーメンを食べるというのも、それがこの三人でっていうのも、中々に奇妙だった。

 やがて着丼すると、それぞれに「いただきます」を言ってラーメンに箸をつける。何だかこうしていると、部室で飯を食う時みたいだった。

 

「あ、おいしい」

 

 麺リフトでふーふーからの、ちゅるりと一口。由比ヶ浜は口元を抑えながら言うと、雪ノ下もこくこくと頷く。

 

「比企谷くんの好物もバカにできないわよね」

「おいやめろ。俺をいくらバカにしてもいいがラーメンをバカにすんな」

「何そのラーメン愛⋯⋯」

「ええ、だからバカにしていないじゃない」

 

 二人につっこまれながら、俺もこってりを一口頂く。煮詰められているのとは違う、独特の濃さ。言うなれば旨味を凝縮したようなスープと麺が絡み合い、咀嚼するたびに口の中がハッピーになる。地球に生まれてよかったー!

 

「不思議なものよね」

 

 脳内で食べログ糞レビュアーごっこをしていると、雪ノ下はふと神妙な声でそう言った。

 その視線は自分のこってり、それから隣のあっさりへと向けられている。

 

「私たち、性格も何もかも違うのに、いつも一緒にいるわ」

 

 確かにそれは、雪ノ下の言う通りだ。俺たちは考え方も、外見的な特徴も、それこそ生い立ちなんて全然違う。

 かたや捻くれボッチにリア充女子、他を寄せ付けない高嶺の花なんて組み合わせは、不思議なんて言葉で言い表し切れない。

 本当に近くにいるせいでよく忘れそうになるが、奇妙で奇跡的な組み合わせだと言っていい。しかし、そんなことは改めて言うまでもなく分かっている話だ。

 

「当たり前の話だけどね、由比ヶ浜さん」

 

 雪ノ下はいったい何を言いたいのだろうと言葉を待っていると、その視線が由比ヶ浜に向く。

 

「私たちは食べ物じゃないから、こっさり(・・・・)にはなれないのよ」

 

 そう言った雪ノ下の瞳には、見覚えがある。

 どこか愉悦混じりで、挑発的。その視線を受けた由比ヶ浜は、何かを思い出したみたいにはっと息を吸い込む。

 

「⋯⋯そうだね。ヒッキーは、どっちの方が好みなのかな」

 

 由比ヶ浜は雪ノ下に向けて言った後に、俺の方へと視線を移す。思い出すのはいつかの春の日。由比ヶ浜が初めて奉仕部を訪れた、あの日の会話だ。

 

「そうね、私も興味があるわ」

 

 おい、何なんだよこの空気⋯⋯。俺たち、ただラーメン食いに来ただけだぞ。

 どっちが好みかなんて言われても、もうこってりを頼んでしまったし、というかそれしか食ってないし。

 しかし雪ノ下の発言の意図を汲むならば、俺の答えはあの頃から変わっていない。

 

「さあな⋯⋯。こっさりじゃねぇの」

 

 雪ノ下の例え話を一蹴するようにそう言って、俺は麺をすすり出す。

 その様子を見ていた由比ヶ浜は、視界の端っこで「はて」と首を倒した。

 

「ってことは、いろはちゃん?」

「んんんっ! がふっ、ゴフッ!」

「⋯⋯動揺しすぎじゃないかしら」

 

 やれやれ、と雪ノ下は嘆息する。けどこれ、全部あなたのせいですからね?

 

「⋯⋯わけ分からんこと言ってないで、今は仕事のことに集中しようぜ」

 

 平静を装ってもっともらしいことを言うと、ふと由比ヶ浜は微笑んだ。対する雪ノ下は、やれやれと言った様子の表情を崩さない。

 

「⋯⋯人の恋路を応援している場合ではないのだけどね」

 

 しみじみと言われると、今度こそ何も言えなくなって。

 

「⋯⋯」

 

 無言でスープをすくうと、レンゲを口につける。

 

 ──拝啓、平塚先生。

 天一のラーメン、おいしかったです。

 たぶん。知らんけど⋯⋯。

 

 






 修学旅行、一日目のお話でした。
 超どうでもいい情報ですが、筆者は無類のラーメン好きなのでラーメンの為だけに京都に行ったりします。とは言え天一総本店はまだ行ったことがないので、聖地巡礼と称していつか行かなければ思っております。ちなみに私はこってりが好きです。

 次回は修学旅行も二日目。引き続きお楽しみください!

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