スクールカースト。
嫌な言葉だ。特に俺のように最底辺、あるいはそのピラミッドにすら入っていない人間にとっては。
四限目の授業が終わり、教室には弛緩した空気が流れていた。今から昼食を買いに行く者、早弁をしてゲームやお喋りに時間を費やす者、はたまた部活動に勤しむ者。
多種多様な過ごし方の中で特に目立っているのが、先日奉仕部に依頼を持ち込んだ由比ヶ浜が属する葉山たちグループだった。本人たちは目立とうと声を出しているつもりはないだろうが、どうしても耳につく。
「でさー、めっちゃアイス食べたい気分なわけ。放課後行くっしょ?」
そんな声を上げたのは、三浦優美子。葉山グループの、女子の総大将ってところだ。
とても進学校に通う生徒とは思えない金髪縦ロールに着崩しまくった制服。由比ヶ浜もまぁまぁギャルっぽいと思ったが、三浦と並ぶと可愛いものに思えてくる。
「ってかそんなに食ったら太るべ」
「えー、あーし全然太んないから大丈夫だし」
「やー、ほんと優美子マジ神スタイルだよねー。脚とか超綺麗。でさ、あたしちょっと⋯⋯」
どうやら放課後の予定を話しているようだが、ちらりと見た由比ヶ浜は何やら言い出したそうにもじもじしていた。
「そうかなー、でも雪ノ下さんとかいう子の方がやばくない?」
「あ、確かにゆきのんはやば⋯⋯」
「⋯⋯」
「あーでも、優美子の方が華やかっていうかっ」
眉根を寄せ始めた三浦を見た由比ヶ浜が、即座にフォローを入れる。いや大変だな。トップカーストに属するっていうのも。
それにしても、三浦は雪ノ下に対抗意識があるらしい。由比ヶ浜も大変そうだが、見知らぬところで目をつけられている雪ノ下も大変だ。
張り詰めた空気を察してか葉山が何やらフォローを入れると、由比ヶ浜はやがて意を決したように三浦に向けて言う。
「あの、あたし、お昼ちょっと行くところがあるから⋯⋯」
由比ヶ浜は何か予定があるのか、妙に遠慮した様子だった。単独行動を取るにもここまで言いにくそうにしているのを見ると、ちょっと同情してしまう。
しかし女王然としている三浦には、由比ヶ浜の口ぶりを歯牙にかける様子もない。
「そーなん? じゃあ帰りにレモンティー買ってきてくんない? あーし、今日飲みもん持ってくるの忘れてさー」
「え、あ、けどあたし戻ってくるのが五限目になるから、それはちょっとどうだろー、みたいな⋯⋯」
「は?」
その一言に、一瞬しんと教室中が静まりかえった。周りが徐々に喧騒を取り戻す間も、由比ヶ浜たちに漂う空気は張り詰めたままだ。
三浦にしてみれば、由比ヶ浜の発言は離反に近い印象を持ったのかも知れない。きっとそれは女子同士にはびこる同調意識からではなく、もっと男性的で支配的な意識からだろう。
「あんさー、何そのはっきりしない言い方。行くとこあんなら言ってくれたらいいじゃん」
三浦の一言に、由比ヶ浜は何かを言いかけて口を引き結んだ。口調からして、三浦に後ろめたい事でもあるのだろうか。
「いやー、あはは⋯⋯そこはおっしゃる通りと言うか、どこって言うとあれなんだけど⋯⋯」
「だーかーらー。それをはっきり言ってくれたらいいじゃんって」
苛立ちを隠さない声に、また教室が静まりかえる。
⋯⋯まったく、見てられないな。
まあ、由比ヶ浜の飼い犬を助けたついでだ。力になれるかどうかは分からないが、標的を変えさせることぐらいはできるだろう。
そう思って立ちあがろうとした、その瞬間のことだった。
「優美子、ごめんっ! あたし、部活に入ることになって、その⋯⋯部活仲間? と食べる約束してるんだ」
ガバッと大袈裟なぐらい思いっきり頭を下げると、三浦は呆気に取られて口をあんぐり開けていた。まさか本当にはっきり言うとは思わなかったって顔だ。
由比ヶ浜の一連の言動を見ていて、ふとつい最近聞いた一言を思い出した。
『絶対に自分にはできると信じること』
⋯⋯なるほどな。由比ヶ浜も、頑張ったじゃねぇか。
そんな風に感心していると、一つの足音が教室に入ってくる。それは微かな音であったはずなのに、自然と衆目は入り口へと集まっていた。
二年F組への来訪者、雪ノ下雪乃へと──。
「そういうわけで三浦さん。今日から由比ヶ浜さんは私と一緒にお昼を食べる約束をしているの」
「ゆきのん⋯⋯。なんでここに?」
「来るのが遅いから、迎えに来たのよ」
雪ノ下たちの会話を聞きながら、皆が一様にポカンとした顔をする。
って言うか、部活仲間が雪ノ下だったってことは、由比ヶ浜も奉仕部に入るってことか? 俺、なんも聞いてないんですが⋯⋯。
しかしこれで、由比ヶ浜が言いにくそうにしていた理由が分かった。三浦が目の敵にしていると
「三浦さん。そういうことだから、了承してもらえるかしら」
「え、あ⋯⋯。まあ、ユイのことだから、あーしが口出しすることでもないし⋯⋯」
筋を通された以上三浦も強く出られないのか、そんな殊勝なことを言う。いやそもそもあなた、思いっきり由比ヶ浜のことに口出してましたからね?
まあ、これにて一件落着か、と胸を撫で下ろしていたら、さっきよりもカツカツとはっきりした足音が近づいてくる。つまり、雪ノ下雪乃が俺の方を真っ直ぐ見て、こちらに向かって来ていた。
「比企谷くん、あなたもよ」
「ふぁ?」
思わず、自分でも信じられないぐらい間の抜けた声が出た。教室中の視線が俺と雪ノ下に集まっている。理解が追いつかない。
「あなたに食べてもらおうと思って、お弁当を作ってきたの」
そして手に持っていた巾着袋を軽く持ち上げると、にっこりと笑って見せた。瞬間、殺気立つ視線(男子オンリー)。待って、待って待ってマジしんどい無理くそ笑顔めっちゃ可愛いな!
「いつもパンか何かを買って食べているだけでしょう?」
「⋯⋯なんで知ってんだよ」
雪ノ下は質問には答えず、「ほら」と言って肩口辺りの袖を引っ張ってくる。本当にそうやって服とは言え気軽に触るのやめてくださいすげぇドキドキするから。
あと俺の状況にも少しばかり思いやりを持って欲しいものだ。いつも教室のすみっこで過ごすボッチに学校一と称される美少女が弁当を作ってきたなんて、嫉妬の劫火で処される案件だぞ。
ともあれここで断って雪ノ下に恥をかかせるのも忍びないし、そうしたとしても俺へのダメージは変わらない。というか、もっと酷いことになりそうだ。
観念して立ち上がると、無数の視線が追尾してくるのを感じる。それに気づかない振りをしながら、先を行く雪ノ下の背中を追いかけた。
「ゆきのん、本気だ⋯⋯」
そんなボソッとした呟きを横から聞きながら、俺たちは教室を後にした。
* * *
「はい、比企谷くん」
そう言って雪ノ下は、俺の目の前に弁当箱を差し出した。
ところは奉仕部の部室。長机の端には由比ヶ浜が座り、その右隣に雪ノ下が座っている。俺はその間に、彼女たちと対面するように座っていた。
「⋯⋯どうも」
そんな軽い礼を言うと、雪ノ下は頷きを返して自分の分の弁当箱を開ける。それを合図にして弁当箱の蓋を持ち上げると、その中身はまるで色彩豊かなキャンバスのようだった。
目に飛び込んでくるのは、赤黄緑と色とりどりのおかず。心なしか艶めく白米には胡麻がかけられており、手間暇だけではなく気遣いも感じられる。ウインナーやら卵焼きやら、内容としてはオーソドックスだが、どれもやたらと美味しそうだ。
それではお手並み拝見、と俺は卵焼きを口に放り込む。
「⋯⋯うまい」
卵焼きを嚥下した瞬間、思わずそんな声が出た。甘すぎずしょっぱすぎない味付けが絶妙で、仕出しの弁当なんて比じゃないぐらい、文句なしに美味しいのだ。
「そう? よかった」
「うぅぅ⋯⋯まずいよ⋯⋯、これじゃどんどん差が⋯⋯」
自信ありげに微笑む雪ノ下の横で、由比ヶ浜は母親に作ってもらったらしい弁当を広げていた。
由比ヶ浜さん、もうちょっと心の声が小さくなりませんかね⋯⋯。
「何か勝手に負けた気になっているみたいだけれど、食べてから決めて欲しいわね」
「あ⋯⋯。いいの?」
雪ノ下はそう言って弁当箱を由比ヶ浜の近くに滑らせると、その問いにこくりと頷く。由比ヶ浜は俺と同じく卵焼きをパクっと口に含むと、その瞬間パァッと目を輝かせた。
「本当だ、美味しいっ」
しかし絶品卵焼きに舌鼓を打ったのも束の間、すぐに由比ヶ浜の表情は暗くなる。
「うぅ⋯⋯やっぱり凄い美味しいじゃん⋯⋯。あたし、絶対こんなに美味しくできない」
「あら由比ヶ浜さん。前に私が言ったことを、もう忘れたの?」
雪ノ下の一言に、由比ヶ浜はハッとして彼女の顔を見ていた。縋るような目が、どうにも犬チックだ。
「ゆきのん、ひょっとして⋯⋯」
「ええ。私でよかったら、料理を教えるわ」
「本当にっ⁉ やったっ、やっぱりゆきのん好き!」
抱きついてくる由比ヶ浜に雪ノ下は動きづらそうにしているが、文句を言うどころかむしろ嬉しそうな表情さえ浮かべている。
ゆるゆりしだした二人を見ながら、やはり分からないなと思った。
あの日の放課後、雪ノ下は由比ヶ浜に勝負をけしかけた。百歩譲って雪ノ下が本当に俺に気があるとしたら、勝負相手である由比ヶ浜の利益になるような行動を取る理由が分からない。
ここまでくると二人して俺を騙そうとしているのかと考えてしまうが、どうにも二人が嘘をついているようには思えなかった。小町に事故の時の話を聞いたら、確かに由比ヶ浜の特徴と一致する女の子が家に菓子折りを持ってやって来たというのだ。事故の相手も雪ノ下の家の車で間違いないようだったし、今のところ彼女たちは一つも嘘はついていない。あるいは、嘘を見破れていないだけなのか──。
「比企谷くん?」
箸を止めてしまった俺を不審に思ったのか、雪ノ下が声をかけてくる。当の雪ノ下はと言うと、由比ヶ浜におかずをあーんさせている所だった。何ゆるゆりをエスカレートさせとんじゃけしからんもっとやれ。
「仕方ないわね」
と、雪ノ下は脈絡なくそう言うと、プチトマトを箸で摘んで俺の口元に差し出した。
「はい」
いや、はいって。
左手は俺の顎に触れんばかりの近さで添えられ、その上恋人然とした可憐な微笑み付き(可愛い)。とととっ、と走り出した心臓が、妙にうるさく感じる。
っていうかその箸で食べたら、雪ノ下だけじゃなくて由比ヶ浜とも間接キスになっちゃうんですけど⋯⋯。
「あーん、と言ってあげないと口が開けられない?」
固まってしまった俺を見ながら、雪ノ下は笑みに
食えるわけねぇだろ、こんな状況で。きっちり意思表示をしないと手を引いてくれそうもないので、俺ははっきりと言ってやった。
「自分で食べられましゅ」
嘘だ普通に噛んでた。
雪ノ下は満足そうにふっと笑うと、ようやく手を引っ込める。
一連のやり取りをポカンと見ていた由比ヶ浜は、はっとお団子頭を揺らして硬直をほどいた。慌ててミニハンバーグを箸で摘むと、俺の眼前に差し出してくる。
「はいっ、ヒッキー。あ、あーん⋯⋯」
「ねえなんで今の流れで同じことやっちゃうの? 食べないよ?」
っていうか恥ずかしがるならやるなよ可愛いな。ちっとは可愛いを自重しろ。
二人の視線を引き剥がすように少しだけ身体の向きを変えると、むぐむぐとまた弁当を頬張りだす。本当に何を考えてるんだ、こいつら。
ああでも、くそ。
なんでこいつの料理、こんなにうまいんだよ。
* * *
翌日の放課後。
「ヒッキー、部活いこっ」
ホームルームが終わって暫しの後、由比ヶ浜結衣は実に朗らかにそう言った。すでに俺とは同じ部活だと認知されているからか、周りの目も気にせずに。おい誰だよ今舌打ちしたやつ。今なら空耳ってことにしてやるから名乗り出なさい。いや名乗り出られても困るんだけど。
「えぇ⋯⋯」
「なんでそんな嫌そうだし⋯⋯」
なんでって、当たり前だろうと心中独り
「あ、さいちゃんも部活?」
俺が渋っていると、由比ヶ浜は近くを通りがかった女子生徒に声をかけた。ジャージ姿であるところを見ると、きっと運動部なのだろう。ショートカットに大きめのお目々。身の回りの人間を見てくれで選んでいる三浦の目にとまらなかったのが不思議なぐらいの美少女だ。
「うん。由比ヶ浜さん、比企谷くんも?」
不意に自分の名前を呼ばれて、驚いた。まさか由比ヶ浜以外に俺の名前を知っている子がいるとは⋯⋯。
あれ、そう言えば俺、由比ヶ浜からはヒッキーとしか呼ばれてないな。由比ヶ浜さん、俺の名前知ってますよね?
「うん。今から行くところー」
「二人とも、同じ部活なんだったよね。お互い部活、頑張ろうね」
二人はバイバーイと手を振り合うと、俺にも目を合わせて来たので小さく手を振り返した。やばい、超可愛い。顔も仕草もやったら可愛い。名前も知らないけど、超絶可愛い。駄目だ頭の中にお花畑が見えるよぉ⋯⋯。
「⋯⋯ねぇ、なに見惚れてるの?」
「みみみ見惚れてなんてねぇし」
即座に否定を返すが、由比ヶ浜のジト目は引っ込むことがない。どう見ても動揺しています。本当にありがとうございました。
「⋯⋯で、さっきの誰?」
「え。本気で言ってるの? 同じクラスじゃん」
「人の顔と名前を覚えるのが苦手でな⋯⋯」
ぶっちゃけ同じクラスメイトだと認識したのもついさっきなんて言ったら、更に呆れられそうだ。席を立って歩き出すと、教室を出たところで由比ヶ浜が溜め息の後に言う。
「テニス部の、戸塚彩加ちゃん。クラスメイトの名前ぐらい覚えなよ」
なるほど、それでさいちゃんか。八幡、覚えた。それにしても俺の周り、急激に可愛い女子が増えすぎだな。
とぼとぼと廊下を歩きながら、そう言えばと思い出す。由比ヶ浜のやつ、いつから部活に入るなんて話になったのだろう。
「そう言えばこの前部活に入ったって言ってたけど⋯⋯。マジであの部活に入ったのか?」
「え、あ⋯⋯うん。⋯⋯駄目?」
「まあ、部長がいいっていうならいいんじゃねぇの。知らんけど」
「むぅ⋯⋯。自分から聞いておいてなに、その素っ気ない返事⋯⋯」
唇を尖らせて軽く睨んでくる由比ヶ浜から視線を逸らすと、正面の景色に目を向ける。どうして入部する気になったのか聞こうと思ったけど、止めた。そんなことを確かめても、何にもならない。
やがて部室の前まで来ると、由比ヶ浜は元気よく扉を開けて言った。
「やっはろー!」
「こんにちは、由比ヶ浜さん、比企谷くん」
「⋯⋯うっす」
何だよその挨拶、と思いながら背負っていた鞄をおろして椅子に座った。
昼飯を食う時と違い、三つ並べた椅子の真ん中には雪ノ下が座り、その左隣には由比ヶ浜が、右隣には俺が座る格好になる。昼飯時のように対面して座っていると、いざ依頼者が来た時に対応しにくいからだ。
「ねーゆきのん、昨日言ってたブランド、調べてみた?」
「ええ。私の趣味とは少し違うけれど、中々面白い品揃えね」
女子たち二人がおしゃべりを始めると同時に、俺は文庫本を開く。こうしていると先日の彼女たちの会話が嘘みたいに思えてくるが、取り合いのようなことをされるよりずっとか気は楽だった。
そして、トントン──と。
それは談笑の間にもはっきりと聞こえるぐらい強い、ノックの音だった。はっと俺たちは目を見合わせると、雪ノ下は「どうぞ」と扉の向こうの人物に返事をする。
「邪魔するぞ」
そう言って入ってきたのは、奉仕部の顧問、平塚先生だ。それに続きペコリと軽く会釈をして、見覚えのある女子生徒が入ってくる。
──一年生でサッカー部のマネージャー、一色いろは。
流石にこの前会ったばかりだから、顔と名前を覚えるのが苦手な俺でもその名前は覚えている。しかしその表情は、以前あった時と比べまるで別人のようだった。
「あ、いろはちゃん」
「あ⋯⋯結衣さん。どーもです」
由比ヶ浜は元々知り合いだったのか、一色はぺこりともう一度会釈をして見せる。しかし一色は愛想笑いを浮かべながらも、
以前雪ノ下は、奉仕部の活動は相談事や依頼をこなすのが部活動だと言った。つまり一色いろは、何らかの事情を抱えてこの部屋を訪れたということだ。
「先輩も、また会いましたね」
「⋯⋯おお」
一色は俺の方にも目を向けると、由比ヶ浜に向けた笑みと同質の笑顔を向けてくる。その一連のやり取りに、平塚先生も雪ノ下も、ついでに由比ヶ浜もはてなと疑問符を頭に浮かべた。
「知り合いだったのか? だったら話は早い。この子の相談にのってやってくれるか」
「構いませんが⋯⋯その相談というのは?」
「それなんだが、あまり教師には話したくない内容らしくてな。直接話を聞いてやって欲しい」
未だ秘匿されたままの事情とやらは、推察するに中々の厄介事らしい。
ついでに男子禁制の話にしてくれないかしら⋯⋯と思っていたら、平塚先生は「では頼んだぞ」と言って部室を出ていく。俺も出て行きたかったなぁ⋯⋯。
「どうぞ、かけて」
雪ノ下がそう声をかけると、一色は由比ヶ浜が用意した椅子に腰かける。
さらりと流れる亜麻色の髪に、少し着崩した制服。萌え袖を握りしめる仕草やら小動物然とした佇まいから、やはり先日見た通りのあざとさを感じてしまう。
「一色いろはさん。確か一年生で、サッカー部のマネージャーをしているのよね?」
「あ、はい」
まさか雪ノ下にまで名前を知られているとは思っていなかったのか、言われた一色はしゃんと背筋を伸ばした。
しかしすげぇなこいつ。まさか全校生徒の名前と顔を覚えてるんじゃないだろうな。
「相談の内容を、教えてもらえるかしら」
「⋯⋯はい。簡単に説明するとですね」
一色はそこで言葉を区切ると、俺たちの顔を順に見る。その目は暗に、これからの話は門外不出にして欲しいと言っていた。
「サッカー部の同級生から、ストーカー行為を受けているんです」
想像もしていなかったキーワードに、部室の空気がカチリと固まったのが分かった。クッキー作りの次はストーカー対応か。これまた随分重たい案件が来たものだ。
「⋯⋯詳しく聞かせてもらえるかしら」
対する雪ノ下の声も、常とは打って変わって重たい声音になっている。こくりと一色は頷くと、訥々と状況を語り始めた。
「順を追って説明するとですね、その男の子⋯⋯川名くんって言うんですけど、向こうからどんどん話してくるし、ぶっちゃけうざいなーと思ってた程度だったんです」
深刻な状況であるはずなのに、そのあけすけな物言いに肩透かしをくらってしまう。本当この子、葉山のような目当ての男がいないとキャラが変わるな。まあどうでもいいんだけど。
「けどサッカー部に入って少ししてから、家まで送ってくよとか、そんな話が多くなってきて。当然変な噂立ってもあれなんで断ったんですけど、帰り道で一人になった瞬間振り返るとその子の姿が見えるんです。毎日じゃないですけど、結構な頻度で」
その状況を自分に当てはめて考えてみて、思わずぞわりとする。そんなことをされたら、繊細な子であればトラウマになってもおかしくない。
ちらりと隣を窺うと、雪ノ下は瞑目して話に聞き入り、由比ヶ浜は嫌悪を滲ませた表情を浮かべていた。
「それだけならまあ、家が同じ方角なのかなーで済んだんですけど⋯⋯。ある日、メールが来るようになって」
「いろはちゃん。その内容って⋯⋯」
「⋯⋯はい。『ずっと君を見ているよ』とか、そんなすっごい長い文章でした」
これです、と言って見せてくれた携帯の画面には、読んでいて思わず鼻白んでしまうぐらい粘着質な言葉が羅列されていた。
⋯⋯なるほど。ここまでいけば、つきまといと合わせて立派なストーキング行為だ。
「このこと、隼人くんには相談した?」
「いえ⋯⋯。それも考えたんですけど、面倒くさいなーって思われても嫌ですし、まだそこまで関係性を築けていないと言うか」
ふむふむ、と由比ヶ浜は納得しているようだが、それってこの部活なら面倒ごとを押し付けても問題ないって言われているような⋯⋯。出会った時から分かっちゃいるが、一色は中々いい性格をしているらしい。
「一応聞くが、直接やめてくれって話はしたのか?」
「いえ⋯⋯。あれだけ一緒に帰るのを断ってもつきまとってくるぐらいなので、言っても意味がないと思います」
真剣な眼をした一色に、ふむと俺は首肯を返した。
一色の言うことはもっともだし、そもそも直接本人に言うのは相当勇気のいることだ。場合によっては状況を悪化させかねないだろう。
「じゃあ平塚先生に事情を話さなかったのはどうしてだ? この手の問題なら、まず頼るのは教師だろ」
「話を大きくしたくないんです。相手を罰して欲しいとかは全然なくて、元の学校生活が送れたらそれでいいんです」
想像していたよりはっきりと言い切られて、ちょっと気圧されてしまう。
まあ、確かに女子ならそう考えても不思議はない。相手にペナルティが下るほどの大事になれば、当然尾ひれはひれの付いた噂になる。心ない連中は被害者の方にも思わせぶりな言動があったんじゃないか、なんて口さがないことを言うだろう。それが自らの品位を貶める結果になると理解しているのだ、一色いろはという女の子は。
「それで、その⋯⋯雪ノ下先輩?」
どうやら有名人は一年にもその名を轟かせているらしく、一色はそっと窺うように雪ノ下に声をかけた。その言葉に瞼を持ち上げた雪ノ下の瞳には、轟々と燃え盛る青い炎が宿っている。
「⋯⋯虫唾が走るわね」
明らかな怒気を孕んだ声音に、部屋中の空気が凍りつく。由比ヶ浜も一色も、その感情の強さに呆気にとられていた。
正直、意外だった。いつも超然としている雪ノ下が、今は包み隠すことなく嫌悪を、怒りを顕わにしている。
ひょっとしたら、雪ノ下も過去に同じような目にあっているのかも知れない。見てくれのことを考えると、充分ありえる話だった。
「一色さん。その依頼を受けるわ。まずは物証を──」
「待て雪ノ下。それに一体何の意味がある?」
言葉を遮った俺に、雪ノ下は鋭い視線を向けた。しかし俺には、明確な論拠がある。
「一色は話を大きくしたくないんだろ? 証拠を集めたところで、断罪ができない以上意味がない」
「⋯⋯なら、どうすると言うの?」
そこまで言ったはいいが、雪ノ下の問いに俺は答えを持っていなかった。解決策を考えるには、まだピースが足りない。俺たちはまだ上辺だけの状況しか知らないような、そんな感覚があった。
「まずはもうちょっと聞いてみないと、何とも言えん。⋯⋯こういう聞き方はしたくなかったんだが、その男に気を持たせるような素振りをしていたとかは?」
「んー⋯⋯どうなんでしょう。ぶっちゃけ葉山先輩狙いなんですけど、あとの男子はそれなりに、って感じですね」
「まあ、こっちが普通にしてるつもりでも、相手には特別にうつってるってあるもんね」
一色の答えにマジでぶっちゃけるなこいつ⋯⋯とげんなりしていると、由比ヶ浜は「わかりみー」とばかりに頷いている。由比ヶ浜の場合、たまに近かったり普通にスキンシップをしてくるから、確かにそんなことはありそうだ。分かってるんなら自重して欲しい。
「じゃあ、何かきっかけがあったりしてそうなったわけじゃないんだな」
「あー⋯⋯。それを言うと、なんというか⋯⋯」
俺の問いに、一色は今日初めて答えを言い淀んだ。女子のプライベートに踏み入るつもりはないが、こういう時に秘匿される情報こそ、本質的な原因である可能性が高い。真実は得てして、隠されるものなのだ。
「言いにくかったら、無理にとは言わないが⋯⋯」
「いえ、わたしはいいんですけど、先輩に関係することなので」
俺? と思わず聞き返した。俺と一色の接点なんて、こぼれ球を拾ったあの時ぐらいしかないはずだ。
「比企谷くんの方は別にいいから、差し支えなければ教えてもらえるかしら」
「なぜお前が答えた⋯⋯」
「あら、違うの?」
「⋯⋯違わないけど」
俺と雪ノ下のやり取りを、一色は顔を右へ左へと動かして不思議そうに見ていた。やがて意を決したように、一色は語り始める。
「前にグラウンドで、こぼれ球を拾ってもらった時があったじゃないですか。あの時遠目からだと、先輩と葉山先輩がわたしを取り合っているように見えたっぽくて⋯⋯。まあ本人が言ってたわけじゃなくて、後から女子マネに言われただけですけど。やたら長文のメールが送られてくるようになったのが、その日でした」
「なるほど⋯⋯」
嫉妬心が動機となって、焦りが明後日の方向に発露したというところか。っていうかそれ、俺にも責任の一端ありありなんじゃ?
「何をしているのよ⋯⋯」
「んなこと言われても⋯⋯」
雪ノ下がジト目で俺を見てくるが、当時はあれが最善の行動だと思ったのだ。その自負はあるから、ボールを拾おうとしたことに後悔はない。起きてしまったことに挽回のチャンスがあるなら、その機を逃さないようにするだけだ。
「まあ、これで状況はわかったわ。対応策を考えてみるから、また明日ここに──」
「頼もうっ!!」
来てくれる? と続くであろう言葉は、次の瞬間ドパァンッと派手に扉が開かれる音と、やたらと格好いい声に遮られた。
開け放たれた扉から一陣の風が吹き込み、彼奴のトレードマークであるトレンチコートがはためく。後光を背負い、塵芥はスターダストのように煌めいていた。
「待たせたな、比企谷八幡! 剣豪将軍・材木座義輝、ここに見ざ⋯⋯んん?」
まるで総武高ガチャでSSRでも引いたかのような演出だったが、残念ながら普通にノーマル級、いやそもそもキャラガチャ未実装の男・材木座義輝は部屋の中の状況が分かった瞬間素になっていた。
誠に遺憾ながら、俺はこの男を知っている。ただ体育でペアを組む時に一緒になるだけだったが、時折りこんな風に絡んでくるのだ。
どういうわけか中二病をこじらせたこいつは、自分のことを室町幕府の十三代将軍・足利義輝の生まれ変わりだか何だか分からないオリジナル設定のキャクターだと思っている、痛いやつど真ん中を行く男である。
「⋯⋯八幡、これはどういう状況か?」
華々しい登場演出とは打って変わって声量を絞ると、材木座は俺にそう問いかける。そりゃ教室に入ったらSSRレベルの美少女がわらわらいるんだから、萎縮もするって話だ。一色はうへぇと露骨に嫌そうな顔をし、由比ヶ浜は可哀想な人を見る目でドン引いていた。
「剣豪将軍。まだ時は満ちていないわ。あなたが顕現するには早過ぎる」
「中途半端にノリを合わせながらご退室願うのはやめて差し上げろ⋯⋯」
雪ノ下も雪ノ下で調子を合わすんじゃねぇよ。うっかり惚れられても知らないぞ。
それにしても材木座も折悪しく来たものだ。割りかし重めの依頼案件に、こいつの重篤な中二病まで加わると手にあまる。
「ぬ、ぬほんおほんっ! そ、そうか。では機が訪れるまで再び眠りにつくとしよう。ではな、八幡」
そう言って材木座が踵を返した瞬間、ピカーンと俺の頭の中の電球が光った。
「ああ⋯⋯。いや、ちょっと待て」
材木座という存在を認知したことで俺の頭は高速回転を始め、一つの策が構築されていく。一色いろはのストーカー被害。もしかしたら、止められるかも知れない。
「一色、俺にアイデアがある。それの実現にはこいつの存在が不可欠なんだが、事情を聞かせても構わないか?」
「あ、はい⋯⋯。それで何とかなるのなら⋯⋯」
「おーい、八幡? 我、勝手に手伝うことになってない?」
材木座の声は聞こえなかったことにして、俺たちは車座になるように椅子を並べた。
かいつまんで事情を話した後に俺のアイデアを伝えると、奉仕部プラス客人たちはそれぞれ違った反応を見せる。
「ヒッキー、よくそんなこと考えつくね⋯⋯」
「本当ね⋯⋯。呆れ半分、感心半分といったところかしら」
「あのぅ⋯⋯それ、我が一番貧乏くじを引いているような⋯⋯」
由比ヶ浜と雪ノ下は半分引いているし、材木座は本気かこいつと言った目を向けてくる。
「えぇ⋯⋯。先輩、本当にそこまでするんですか?」
「逆に言えば、そこまでしないと止まらないだろ。そういう手合いは」
一色はと言えば、半分どころではなく普通に引いていた。しかし現状思いつく、最も確度の高い対応策はこれしかないのだ。
「⋯⋯でも、このやり方で問題になったりしたら」
「そもそも問題にはならんと思うけどな⋯⋯。もしバレたら、俺の指図だったことにすればいい。それでいいだろ?」
そう言葉を投げると、一色はぽかんとした表情で俺を見ていた。
まあ、俺のせいにするにしても、当然裏で手を引いていることはバレないに越したことはない。いくら俺が責任を取ると言っても、一色を奉仕部に斡旋した平塚先生の責任が問われるからだ。
「部長。俺の策に異論は?」
俺が雪ノ下の方を向いて問いかけると、彼女はふむと顎に手をやり考える。
しかしそれも僅かな間のことで、すぐに答えは返ってきた。
「やり方に引っかかるところはあるし、あなた一人に責任を負わせることはできないけれど⋯⋯。現状取ることのできる、最善手でしょうね」
同意の言葉が返されると、ほわんと張り詰めていた空気が弛緩していくのが分かった。
さあ、不逞の輩よ。心得違いの卑劣な者よ。
恐怖の輪舞曲といこうじゃないか。
ということで第三話でした。次に投稿する第四話と上下セットのお話なってます。
前の話を投稿したあと日間総合ランキングに入ったらしく、過去にないぐらい沢山の方に読んで頂いて驚いてます。
俺ガイルが大好き過ぎる作者が毎日この話の事ばかり考えて書いていますが、ストックが切れてきたので更新は徐々にゆっくりになっていくかと思います。
次の話は日曜日ぐらいに投稿予定ですので、引き続きお楽しみ下さい。