それは控室代わりに借りた、狭い会議室でのことだった。
「先輩、じっとしてください」
「いや、無理⋯⋯うわ⋯⋯」
俺の肌を筆が這い回り、未知の感覚に心臓ごと身体が震えた気がした。
そんな俺の反応に遠慮する様子もなく、一色はただ単調な作業のごとく続ける。
「初めてじゃないんですから、そんなに敏感に反応しなくてもいいじゃないですか」
「いやこれは前のとは⋯⋯うぅ⋯⋯」
だんだん楽しくなってきたのか、一色はふっと俺に笑いかけながらその手を緩めることはない。
またもゾクゾクとした感覚が背中を痺れさせ、意識は冴え渡っているのに視界が揺れる。
「ふふっ。だんだんクセになってきたんですねー」
「おい、さっさと終わらせ──」
「いつまで遊んでいるのかしら?」
一体いつからそこにいたのだろう。射抜くような雪ノ下の声がして、思わず背筋が伸びた。
「あ、もう動かないで下さいって。雪乃先輩はそこの付け髭取ってください」
「はぁ⋯⋯」
動じない一色に若干呆れながら、雪ノ下は言われた通り付け髭を一色に手渡した。一色は最後の仕上げとばかりに、俺の顎へそれを押し付ける。
「はい、完成です」
雪ノ下はちょっとオコな感じになっているが、何もやましいことはしていない。
一色がしてくれていたのは、俺を老人化させる為のメイク。実に千葉村ぶりの仕事である。
ゾンビの次は文化祭でのピエロ。それに今回は付け髭の
「持ち場を離れても大丈夫なのか? 調理室、由比ヶ浜だけなんだろ」
「大丈夫よ。クッキーは作り慣れたものだし、アレンジ禁止は徹底しているわ」
俺は仕事量のことを心配して言ったのだが、微妙に伝わっていなかった。
雪ノ下は壁に背中をあずけると、腕組みして俺をしげしげと眺める。鏡がないせいで自分ではよく分からないが、ちゃんと爺さんになっているはずだ。雪ノ下さん飯はまだかや? 比企谷くんさっき食べたでしょ。
「ちょっと様子見てくるわ」
「え、その格好のまま行くんですか?」
「別にいいだろ。どうせ後で顔合わせるんだし」
俺はそうとだけ言うと、会議室を出て廊下を行く。途中のトイレで出来を確認しておくかと思いながら歩いていると、前方から見知った顔が現れた。
「さーちゃん」
「ひえっ」
いやひえって⋯⋯と思ったが今の俺は爺さんなんだった。
どうやら海浜総合高校が声をかけた保育園に京華が通っているらしく、付き添いで来たさーちゃんとはさっきも会ったばかりだ。それで気付かれないのだから中々のものではないだろうか。
「なんだ、はーちゃんか⋯⋯。なんでそんな格好してんの?」
「役作りだよ」
さーちゃんの問いには、そう答えるしかない。
俺が留美を表舞台に引き出す交換条件。それは俺も演劇に出るという選択だった。
「そう⋯⋯。まあ、楽しみにしてる」
「おう」
ぶっちゃけ演技力に大した自信はないが、千葉村の一件でコツは掴んだつもりだ。台詞もしっかり頭に叩き込んである。
じゃあ、と軽く手を上げてさーちゃんと分かれると、一路調理室を目指す。近づくにつれて鼻腔をくすぐる甘い香り。室内からは笑い声が漏れ出ていて、和やかな雰囲気の中で調理している様子が窺い知れた。
「それでその時いろはすちゃんに会って──」
ガラリ、と戸を引いた瞬間、室内の会話が止まった。
向かい合ってクッキーの生地をこねている由比ヶ浜と折本。そしてそれを眺めている本日の音楽担当である陽乃さんは、俺の姿を見るなり口を開けたまま固まっていた。
「え、比企谷やば。マジジジイじゃん」
すぐに正体に気付いた折本は、小麦粉のついた指先で俺を指しながら笑い出す。つられるように由比ヶ浜と陽乃さんも相好を崩すと、硬直していた空気が和らいだ。
それにしてもマジジジイって⋯⋯もうちょっと言い方あるんじゃないですかね。
「へぇー、一瞬気付かなかったよ」
「うん。ヒッキー、ちゃんとお爺ちゃんだ」
「だろ?」
そう言えばトイレで自分の姿を見てくるのを忘れていたが、そこまで言うなら相当な仕上がりなのだろう。
「こっちは順調か?」
「うん。⋯⋯あ、そうだ。さっき焼き上がった分あるから味見してよ」
由比ヶ浜はそう言うと、バットを覆っているクッキングペーパーをめくった。香ばしく焼き上がったクッキーの一つを摘むと、俺の口に近づけてくる。
「はい、お爺ちゃん」
「ん」
甲斐がいしくも食べさせてもらったクッキーを
「どう?」
「うまい」
「ヒッキー、いっつもそれしか言わないじゃん」
そうは口で言いつつも、由比ヶ浜は嬉しそうに笑っていた。いや甘いものは好きでも批評家ぶって論じるのも何か違う気がするし⋯⋯。
「「⋯⋯⋯⋯」」
なんて考えていると、俺たち以外の時間が止まっていることに気がついた。陽乃さんも折本も、ポカンとした表情のまま俺たちを見ている。
⋯⋯やっべー。ついノリで受けちゃったけど、普通にあーんされてんじゃん。何これ恥ずかしい⋯⋯。
「青春だねぇ」
いち早く動きを取り戻した陽乃さんは、実に楽しそうな笑みを浮かべていた。すぐ隣では折本が意味有りげな笑顔を作っている。
「も、もうすぐ生地できるから、型抜き手伝ってってゆきのんに伝えて!」
「お、おう⋯⋯」
その声に追い立てられるように、俺は調理室を後にした。
ちょっと助かった、なんて考えてしまうのは、仕方のないことだと思います。それある!
* * *
コミュニティセンターの三階、大ホール。
会場となったそのホールには、ご老人を中心とした近隣住民が集まっている。
スポットライトに照らされたステージの上で、その劇は順調に進んでいた。
「クリスマスなんてバカげとる!」
もはや古典と言っていいぐらい古くから愛される物語、クリスマス・キャロル。
主人公であるスクルージに扮した俺は、そう声を張り上げた。プロデューサー巻きのピーが演じる甥のフレッドに、メリークリスマスと言われそう言い返したのだ。
「もう就業時刻を三○分も過ぎているじゃないか。早く帰れ」
物語の舞台はロンドンのとある商店。時はクリスマス・イブ。
部下のボブにそう言い放ったスクルージは金貸し業をやっている守銭奴だ。ひねくれ者で底意地が悪く、みんなからの嫌われ者。
その日の帰り道、スクルージは子どもたちから
陽乃さんたちの生演奏が舞台転換の間を繋ぐと、場面はその夜に移り変わる。
「⋯⋯マーレイ?」
床につこうとしているスクルージの元に、死んだはずの元共同経営者・マーレイ──その役を演じる葉山隼人が現れる。イベントの人手が足りていないことを察知した陽乃さんが、無理矢理参加させたのだ。
「これは生前に背負った罪だ」
老人化に加えて幽霊メイクという状況でもイケメン具合が隠せていない葉山は、繋がれた鎖と重りを見せてくる。
こんな役を押し付けられるとは、協力してもらっている側だと言うのに同情してしまう。
「今から三人の精霊がお前に過去・現在・未来を見せる。言動を改めないと私と同じ目に遭うぞ」
マーレイは生前に負った業により呪縛されていると告げ、スクルージに警告して消えていく。
時は過ぎて真夜中。過去の精霊に扮した小学生が枕元に現れると、場面は過去の世界へと変わる。
「懐かしい。私が初めて働いた商店だ!」
若き日のスクルージが勤めていた店の主人は、寛大で温かい人だった。しかし恩返しをしたくとも、店主はもうこの世にいない。
それを嘆くスクルージに、過去の精霊は助言をする。
「店主さんの代わりに、部下のボブを大事にしてあげたらどう?」
「馬鹿な。商売は商売だ」
しかし、彼はそれを聞き入れない。
頑なな態度を貫くスクルージに、過去の精霊は呆れながら問いかけた。
「あなたはクリスマスが嫌いなの?」
「ふん。クリスマスなんてくだらんよ」
そう言って過去から帰ってきたスクルージの元に、今度は別の精霊が現れる。
「さあ、みんなのクリスマスを見に行こう」
そう告げたのは現在の妖精──留美だ。
手作りのマントを羽織った留美は、スクルージを連れて現在のクリスマスの様子を見せていく。
「この家は⋯⋯ボブの家か?」
「そう。あなたがクビにしたボブの家族よ」
責めるでもなく、慰めるでもない声音で、留美は台詞を紡ぐ。ボブの家庭は子沢山で、その子ども役の中に京華もいた。
ボブは職を失い、大家族を養っていかなくてはならないというのに、努めて明るく家族に接している。スクルージが知らない、幸福な光景だ。
「あの子は元気になるのだろう?」
スクルージは足の悪いボブの息子・ティムを見て言う。人々の営みを見た彼の、大きな変化だ。
「いいえ。高額な医療費が払えなくて、彼は次のクリスマスまで生きられないの」
「そんな⋯⋯」
ボブをクビにしたのはスクルージ自身だというのに、その事実に落胆を隠せない。
街では誰も彼もがクリスマスを祝い合っていた。貧乏だと馬鹿にしていた甥のフレッドも、婚約者と一緒に楽しいクリスマスを過ごしている。
「さあ、もう終わりよ」
「いいや待ってくれ。もっと見せて欲しいんだ」
留美が──現在の精霊が、奇跡的な時間の終了を告げる。
しかし俺は──スクルージはそれを拒む。
「クリスマスなんて嫌いじゃなかったの?」
「そんなわけはない。本当はクリスマスが好きなんだ!」
叫ぶようにそう言った瞬間、舞台は暗転する。
続いてスクルージの目の前に現れるのは黒いマントを被った、未来の精霊だ。
「これが⋯⋯未来のロンドンなのか」
未来の精霊は無言のまま、どこかさびれた雰囲気のロンドンを案内する。
酷く疲弊した様子の人々が出てきたのは教会で、そこでは誰かの──スクルージの葬儀式が行われていた。
「これが、私の死。誰も悲しんでいない⋯⋯」
自分の葬式に誰もが仕方なく参列している光景を目にするスクルージ。
反面、ボブ一家はティムが居ないことに傷心している。残された家族を大事にしようと努めるボブを見ながら、スクルージは叫んだ。
「こんな未来は嫌だ!」
切望の声が響くと、照明が落ちると同時に舞台の下からハレルヤの演奏が聞こえてくる。
クリスマスの朝。現実の世界に戻ったスクルージは、変わらなければ決意していた。ボブの解雇を取り消し、甥の婚約を心から祝福する。街に出るなり人が変わったように振る舞うスクルージに周囲は驚くが、やがて受け入れられていく。
「メリークリスマス!」
その最後の台詞を合図に、子役を務めてくれていた小学生と保育園児たちが駆け出した。
子どもたちは拍手を送り続ける観客たちに「メリークリスマス」の言葉を添えてクッキーを配って回る。
その光景を、その意味をどう捉えるかは、観客たちの自由だ。
クッキーを配り終えた子どもたちと、カーテンコールに応じた後。
「隼人ー、よかったよ~!」
葉山のメイク係として参加してくれていた三浦は、亡霊メイクの葉山に駆け寄って明るい声を出していた。
一仕事を終えた達成感と、緊張からの開放感。演劇後の舞台は、安堵と互いを称え合う笑顔で溢れている。
「はーちゃん、はーちゃん」
やれやれ終わった終わったと俺も安心していると、衣装がむんずと掴まれた。天使のような呼び声で、見るまでもなく誰なのか分かる。近隣の保育園から参加してくれていた京華である。
「けーか、上手だった?」
「おー、上手だったぞ。ばっちりだ」
「いえーい、ばっちり!」
そう言った京華と、小さくハイタッチする。うーん、癒やされますねこの子! でも気軽なスキンシップは今後多大なる勘違いを引き起こしそうでお兄さんは心配ダゾ!
「あ⋯⋯、お疲れ」
京華がここにいる、ということは当然付き添いの保護者もいるわけで。そう言って姿を見せたのはさーちゃんだった。
「おお。ありがとな、協力してくれて」
「いや、あたしはただ付き添いで来ただけだし⋯⋯」
そう俺は礼を言うが、なんとも歯切れの悪い感じの言葉と態度だった。携帯片手に、どこかそわそわした雰囲気だ。
「あのさ⋯⋯写真撮っていい?」
「え? ああ⋯⋯」
そうか、俺がいつまでも京華の傍にいるから写真が撮れなかったのか。これは失敬、と京菓の隣から離れる。
「いや、そうじゃなくて⋯⋯」
しかしさーちゃんは写真を撮ることもなく、ちょっと困った顔をした。
「その、京菓と一緒に写真撮ってもいい?」
「ああ、そういう⋯⋯。別にいいけど」
なるほど、俺も舞台に出ていたしまだ衣装もメイクもしたままだから記念にってことか。
じゃあ撮るか、と京華に目で合図をすると、にこーっといい笑顔が返ってくる。やだこの子本当に天使。八幡、イケナイ趣味に目覚めそう⋯⋯。
「お疲れ様、主演くん」
パシャパシャと何枚か写真を撮られた後に、そんな愉快そうな声が横から飛び込んでくる。本日の音楽担当、陽乃さんだ。
さーちゃんは陽乃さんと目が合うと、小さく目礼を返した。そう言えばこの二人、初対面だったか。
「じゃあ、これで⋯⋯」
「おう」
「はーちゃん、またねー」
さーちゃんはそう言って、手を振る京華と舞台袖を後にした。
そして後に残ったのは、爺さんメイクの俺と楽しそうな笑みを湛えた美人のお姉さんである。
「なぁに、新たな彼女候補?」
「違いますけど⋯⋯」
どうしてすぐそういう話になるんでっしゃろ⋯⋯と苦笑を浮かべるが、陽乃さんは多分分かっていてからかってくるのだろう。このところ関わることが多くなってきたから、何となく予想はつく。
陽乃さんは仕切り直すように「それにしても」と切り出す。
「君、けっこう演技派だねぇ。お姉さん感心しちゃった」
「それはどうも⋯⋯」
何だかこのやりとりにも、身に覚えがある。思えば文化祭のオープニングセレモニーでも、似たようなやり取りをしていた。
随分前のように感じるが、実際にはたった数ヶ月前の出来事だ。その間も依頼があって、仕事して、仕事して⋯⋯基本暇な部活だったけど、今思うとそれなりに動いていたと思う。
であればその短くも濃い時間は、俺に何をもたらしたのか。きっとその結果は、言動になって出てくるべきなのだと思う。
「あの、陽乃さん」
「うん?」
俺は陽乃さんに向き直ってその顔を正視すると、深々と頭を下げた。
「ご協力ありがとうございました。雪ノ下からもあるかと思いますけど、先にお礼を言わせてください」
ゆっくりとお辞儀の姿勢から戻っていくと、唖然とした表情が俺を迎える。何というか、全然陽乃さんらしくない表情だった。
「へぇ⋯⋯。うん⋯⋯。そっかそっか」
そんな妙な返事が返ってくると、陽乃さんはふと顔を綻ばせる。それはいつもの含みのある笑みではなく、何の邪気もない純粋な笑みのように見えた。
「君も成長したんだね」
そう言った陽乃さんの目には慈愛のようなものが浮かんでいるように見えて、それはそれでちょっと怖かった。かなり失礼なことを考えている気がするが、今までのことがあるので許してほしい。
「それはまあ、必然的にと言いますか何と言うか⋯⋯」
俺はそう言いながら、ちらりと会場の方を見た。
未だ歓談の続く会場。その端の方で、子役を演じてくれていた小学生たちは何事かを話しながら盛り上がっている。
──その中心には、留美を据えて。
「⋯⋯そっか。まあよく分からないことも多いけど」
そう言って陽乃さんは、どこか儚げに見える瞳を俺に向けた。
「なんだかわたしだけ、置いていかれているみたい」
楽しげな声と、クッキーと紅茶の香り。
その中で陽乃さんの声は、どこか寂しげに響いた。
* * *
夜の帳の落ちた街には、暖かそうな光が灯っていた。
イベントの片付けが終わったところで海浜総合側から打ち上げに行こうと誘われ、すっかり遅くなってしまった。
「いやー、やっぱり先輩のラップは何度聞いてもいいですね」
「やめろ⋯⋯」
先ほどまでのことを思い出して、俺は思わず顔を伏せた。打ち上げと言われててっきり飯を食うだけかと思いきや、カラオケまで行くことになってまたラップバトルを仕掛けられたのだ。玉縄さん、やはり野良ポケモ○トレーナーなのでは?
「あはは。でも前より今日の方がよかったよ」
由比ヶ浜はそう言って、
俺と玉縄のラップバトルで以前と違うのは、対立スタイルからお互いの功を称え合う感じになったところだろうか。もうそれバトルって言わねぇな。
「前、というのを私も聞いてみたかったわ」
隣を歩く雪ノ下は、少し拗ねたような声音でそう呟く。正直、もう二度とごめんである。
そんな会話をしながら歩くと、やがてあたりは高層マンションだらけになっていく。今日は女子三人でお泊まり会らしいのだが、遅い時間ということもあって送って行くことにしたのだ。
やがて雪ノ下のマンションに着くと、俺はエントランスに入る前に足を止める。
「じゃあ、俺はこれで」
「待って」
帰るけど、と続けようとしたところで、雪ノ下の声がかぶさってくる。
いったい何の用があると言うのだろう。さっき冗談で「泊まっていく?」と聞かれて、断ったばかりだ。
「実は今朝出かける前に集まって、三人でケーキを焼いたの」
「ケーキ⋯⋯」
今日はクリスマス・イブだから、時期的に考えてクリスマスケーキで間違いないだろう。ほほう、と頷きを返すと、一色が続けた。
「ただ、ちょっと大きく作りすぎちゃったんですよねー」
「だからヒッキーにも、食べて欲しいなぁって」
⋯⋯まったく、こと俺の扱いについて手慣れすぎていて恐ろしいぐらいだ。一番断りにくい口実を、一番都合の悪いタイミングで伝えてくるのだから。
「⋯⋯なら。デザートとしてもらうかな」
俺がそう言うと、妙に優しげな笑みが向けられてむず痒くなる。そんな表情をされるぐらいなら、茶化された方がまだいい。
「じゃあ、入って」
雪ノ下に先導されて、俺たちはマンションの中に足を踏み入れた。高層階までエレベーターで上がると、久々に雪ノ下の家に入る。
相変わらず部屋の作り自体は豪華に見えるのに、物の少ない部屋だ。自分の部屋は汚い方ではないと思うが、ここまで徹底して片付けられるのは中々できることじゃない。
「少し待っていてね」
「ゆきのん。あたしも手伝うよ」
ケーキを準備してくれるらしい二人をよそに、俺と一色はダイニングの椅子に腰掛けた。
一色とふと目が合うと、意味ありげににこーっと微笑まれる。いや君も手伝わなくてもいいのこれ⋯⋯。
「今日は何のお泊り会だったんだ?」
「んー、名目的にはクリスマス会みたいな感じですかね。何もなくてもたまにやりますけど」
そんな会話をぽつぽつと交わしていると、やがてダイニングキッチンには嗅ぎ慣れた紅茶の香りで満たされる。ケーキとカップの配膳が終わると、雪ノ下と由比ヶ浜も席についた。
目の前に鎮座したケーキは、店で買ってきたと言われれば信じてしまうぐらい完璧な見た目だ。
「それじゃ、食べましょうか」
雪ノ下の言葉を合図に、それぞれ小さく頂きますとしてフォークを手に取る。
発色の良い苺に、純白のクリーム。スポンジは口に含むとじんわりと甘さを伝え、味の方も完璧だった。
「ん~。今回も上手くできたねっ」
「いやー、手前味噌ながら本当美味しいですね」
そんな会話で思い出すのは、以前こうして雪ノ下の家を訪れた時のこと。
夏休みのあの日、俺の誕生日祝いでケーキを振る舞ってくれたのだ。そう考えると、時間の流れというのは早い。
「どうかしら?」
その言葉にケーキから視線を上げると、雪ノ下と目が合った。そう言えば、まだ感想を言っていない。
「ああ、すげぇうまいな」
またうまいしか言ってない、なんてツッコミを受けるのでは思いながら言うと、彼女たちは視線を交わし合った。まるで内緒話でもするかのような無言の応酬の後、くすりと笑いが漏れる。
「よかった」
由比ヶ浜がそれだけ言うと、またフォークと皿が当たる音が響く。いつもの弁当といい、ケーキといい、何だか与えられてばかりだ。
しかしそれではいけないということを、俺は分かっていた。フェアじゃないからとかそんな理由は建前で、俺からも彼女たちに贈るものがある。
「ご馳走さん」
ゆっくり味わいながら食べ終わると、俺はフォークを皿に置いた。わざと時間をかけて食べたせいで、食べ終わったのは俺が一番最後だった。
「あー、その⋯⋯。ケーキの礼ってわけじゃないんだけど⋯⋯」
そう言っていそいそと、俺は鞄から三つの袋を取り出した。
ラッピングされたそれは、つまるところのクリスマスプレゼント。それを見た由比ヶ浜と一色は、キョトンとした表情をしていた。ただ一人、雪ノ下だけは穏やかな笑みを湛えて目を伏せる。
「よかったら、使ってくれ」
ピンクの包装は雪ノ下に、青の包装は由比ヶ浜へ。そして緑の包装を一色に渡すと、俺はそう言った。
「あ、ありがと⋯⋯。ちょっとびっくりした」
くしゃ、とラッピングを握り込むと、由比ヶ浜は困惑と喜びを
「開けてもいい?」
ああ、と俺が頷くと、三人はラッピングを結ぶリボンを解いていった。どんな反応が返ってくるか、少しだけ緊張する。
「シュシュ、ですか」
呟くような一色の声に、俺は頷きを返した。
「あたしが青で、ゆきのんがピンク?」
「ああ」
由比ヶ浜が疑問に思う気持ちは、分かる。イメージカラーとしては雪ノ下の方が青だろうし、由比ヶ浜がピンクだろう。
しかし、俺はそれでいいと思ってチョイスした。なぜと聞かれると答えに窮するが、悩んだ末に選んだのだ。
「わたしが緑、ですか」
一色の方も、意外そうに手にしたシュシュを見ていた。確かに一色と緑という色は、あまりイメージがないかも知れない。
「ああ。その⋯⋯夏に着てた浴衣、似合ってたからな」
頭に思い浮かべるのは、夏休みも後半。みんなで夏祭りに行った時のことだ。三人がそれぞれに色違いの浴衣を着ていて、そのどれもがよく似合っていた。
「そ、そうですか⋯⋯」
一色は呟くようにそう言うと、ふいと俺から目をそらした。その様子を見ていた雪ノ下は、はぁと溜め息をつく。
「そういうところなのよね⋯⋯」
「本当にね⋯⋯」
こめかみを押さえてかぶりを振る雪ノ下と、それに同調する由比ヶ浜。
何なのその反応⋯⋯と思っていると、雪ノ下はおもむろにシュシュで髪を結わえた。新月の夜みたいな黒く長い髪が、ピンクのシュシュにまとめられて肩を流れる。
真似をするように由比ヶ浜はお団子頭に、一色は横ポニテを作るようにシュシュを着けた。アレンジの仕方があざとい。いやそれにしても、これは──。
「⋯⋯ちゃんと似合ってよかったわ」
俺は何とかそう感想を口にできたが、そんな程度ではなかった。ぐうカワでめっカワで、カワカワのカワだった。可愛いの塊かよ、こいつら。
「ふふっ」
そう吹き出したのは一色だった。そのヘアアレンジとは裏腹にあざとさも欠片もない、嬉しそうな声。ちょっとこれ以上は、俺も耐えられそうにない。
「⋯⋯そろそろ帰るわ」
ええ、と雪ノ下が頷くのとほとんど同時に、席を立つ。玄関に向けて歩きだすと、どういうわけだか家主である雪ノ下だけでなく由比ヶ浜も一色もついてくる。
「じゃあな。あんま夜更かしすんなよ」
「んー、それはどうでしょうね」
「あはは。約束はできないかなー」
朗らかに笑う彼女たちは、どこまでも幸福そうに見えた。そうであって欲しいと、心の底から思う。
「おやすみなさい、比企谷くん」
「ああ、おやすみ」
玄関扉が閉まってその姿が見えなくなるまで、彼女たちは手を振っていた。
さて帰るかと歩き出す前に、大切な一言を忘れていたことに気付く。
聞こえないと分かってはいる。
けれど祈るように、そして祝うように──。
「⋯⋯メリークリスマス」
俺は壇上で声高に叫んだ台詞を、重厚な扉に向かって呟いた。
以上、クリスマスイベントでした。
あれ⋯⋯そう言えば玉縄さん出てきてないですね。うん、まあ頭の中でろくろを回しながらラップに興じる玉縄さんを想像して楽しんで下さい。
この話を書き終わった後に俺ガイル結1を読み返していたら、今回題材にした『クリスマス・キャロル』も候補にあった描写があって驚きました。頭の中に刷り込まれていたのかも知れませんね。
次回からは冬休み編です。正確に言うと時系列的にはもう冬休み入ってるんですが、そんな感じで。
引き続きお楽しみ下さい!