あれから旅館に戻ると食事専用の別室に通され、豪華な夕食に舌鼓を打った。
夕食後に部屋に帰れば、当然のようにそこには四人分の布団が敷かれている。布団が四人分⋯⋯。
「先輩、どうかしました?」
「いや⋯⋯」
そう、一組四名様の温泉旅行券ということは、当然寝室も一緒なわけである。ここには一つ、俺のミスというか目論見が甘いところがあったのだ。
雪ノ下たちを旅行に誘った当初、俺は最悪自分だけ別室を取ればいいと思っていた。だが後から調べてみたら存外にお高い宿のようで、交通費等の旅費も考慮すると、何度計算しても予算オーバー。つまり詰んだ。
「お茶を淹れるわ」
とりあえず座椅子も片付けられてしまっているので、雪ノ下の一言に促されるように広縁の方へ移った。そして椅子に座った瞬間、閃く。
「俺、寝る時はこっちに布団敷いて寝るわ」
「何を考えているの。そんな窓際じゃ寒くて風邪を引いてしまうわよ」
お茶を淹れながら耳ざとく聞いていた雪ノ下につっこまれ、うぐぐと言葉に詰まる。確かに窓に面しているから、今の時点で結構ひんやりしている。夜が更けて朝に近づくにつれ、より寒くなっていくだろう。
「先輩、ひょっとして寝言を聞かれるのがいやだとか?」
「いや、自分が寝言いうタイプかどうか知らんし⋯⋯」
呆れながら答えると、めちゃんこ楽しそうな笑顔と目が合った。こいつ、絶対わざと言ってやがる⋯⋯。
それから雪ノ下の淹れてくれた緑茶を飲みながら、あれこれと明日のことを話し合った。時々生徒会や奉仕部の話に脱線しながら話していると、あっという間に時間は過ぎていく。
「ふぁ⋯⋯」
一番最初にあくびをしたのは、由比ヶ浜だった。それが伝播するように一色も口元に手を当てると、
「さて、そろそろ寝ましょうか」
時刻は十時半を少し回ったところ。慣れないことばかりで疲れているし、いい頃合いだ。
そうするか、と返事をして席を立つと、布団の上で就寝の準備をする。部屋が広いお陰で布団の間隔は空いているし、これならあまり気にせず寝られるかも知れない。
「電気消すよー」
全員が身支度を整えると、由比ヶ浜はそう言って照明を落とした。薄茶色になった室内は、夏休みに雪ノ下の家に泊ったことを思い出させる。
あの時は別室に逃げ込むことができたが、今日はそうもいかない。慣れない環境ではあるが、眠るしかないのである。
「先輩、もう寝ました?」
かさこそ、と布団と浴衣が擦れ合う音がすると、隣の布団の上から一色がこちらを見ていた。そんな秒で寝られるのはのび太くんぐらいしかいねぇよ。
「お前、それ言いたかっただけだろ⋯⋯」
そう言った瞬間、デジャビュに襲われた。こんなやり取り、前にもした気がする。
「一色さん、眠いんじゃなかったの?」
「そうなんですけど⋯⋯。なんか寝ちゃったら、もったいないなぁって」
「うん。それある」
一色の答えに、由比ヶ浜は折本の口癖を真似て答える。最近妙に仲いいよね、君たち⋯⋯。
「よい子はもう寝る時間だ。寝ろ」
「先輩、悪い子は嫌いですか?」
「⋯⋯いいから寝ろっての」
雪ノ下が「一色さん」と言外に諫めると、はぁいと声がしたきり会話が消失する。これでようやく、眠れそうだ。
そうして半刻もしないうちに、すぅすぅと気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。
そして、さらに半刻。
眠れない。寝息が気になるのもあるが、やはり状況が特殊すぎるのだ。
「⋯⋯」
俺はなるべく音を立てないように布団から出ると、立ち上がって三人の顔を見る。もう全員眠っているようで、一人気にしている自分が酷く間抜けに思えてきた。
こうなってしまっては、中々寝付けないだろう。気分転換をした方が、まだ眠れる気がした。
抜き足差し足で部屋を出ると、
そうして目的のロビーにつくと、その一角で宿泊客が数人集まっているのが見えた。『夜鳴きそば』と書かれたのぼりが立てられ、宿泊客に無料でラーメンが振る舞われているらしい。
晩飯はしっかり食べたが、鶏ガラベースのいい匂いを嗅いだ途端にきゅるるると腹が鳴った。うん、ラーメンは別腹だよね。高校生男子の胃袋を舐めるなよ誰に言ってるの?
大将に注文してラーメンを受け取ると、俺は誰も座っていないテーブルを選んで座る。箸で麺リフトしてその質感を確かめると、ちゅるりとそれをすすった。
「呆れた⋯⋯。まだ食べられるの?」
誰か歩いて来たなと思ったら急に声をかけられて、ちょっとむせそうになる。声の主を見上げると、雪ノ下は言葉通り呆れた表情を浮かべて俺を見ていた。
「⋯⋯ラーメンは別腹なんだよ」
「まるでデザートに対する女子の言い訳ね」
君だって女子でしょうが⋯⋯と思っていると、雪ノ下は俺の向かいの席に腰掛けた。一体こんな時間に、何してるんだか。
「眠れなかったのか?」
「うとうとはしていたけれど⋯⋯。あなたが部屋を出て、中々帰ってこないから」
ひょっとしたら、心配させてしまったのだろうか。それで探していたらラーメン食ってるわけだから、なるほど呆れられても仕方ない。
「どうせだし、お前も食ったらどうだ?」
「そんなに食べられないわよ」
まあそうだろうなと思いながら、俺はまたちゅるりと麺をすすった。その様子を見ていた雪ノ下は、くすりと笑う。
「少しだけ、懐かしいわね」
果たしてそれは、いつのことを指しているのだろうか。懐かしむ目が妙に儚げで綺麗に見えて、そっとラーメンに視線を戻した。
「修学旅行のことを言ってるのか?」
「どちらもよ。私の家に泊った時も、こうしてあなたを追いかけてきたの」
考えていたことは同じのようで、妙に面映ゆい。
夜更け、ラーメン、二人きりの思い出をごった煮にしたような再現だったが、その実何一つとして同じではない。多分、色々なことが変わったから。
それっきり、俺たちの間には沈黙が流れていた。
聞こえてくるのは夜鳴きそばを楽しむ密やかな話し声と、麺を湯切りする音だけ。ふと雪ノ下の方を見ると、ずっと見られていたのかすぐに目が合ってしまう。
「思っていたのと、逆になってしまったわ」
それはさっきまでの話の続きなのか、それとも新しい話のきっかけだったのか。
「何の話だ?」
「さあ?」
示唆を含んだ笑みは、決して真実を語らない。
それが分かっているから、俺はまた黙って麺を口に運ぶのだった。
* * *
奉仕部兼生徒会の慰安旅行。その二日目は帰るだけ⋯⋯とは当然ならず、本日の行動予定は女子陣によって決められていた。
よくよく考えてみれば一日目だって何とくなく場所的にスキー場でしょ? と決まっていて、俺の意見は何一つ入っていない。あれ、もうこれ女子旅のおまけに俺がついて来ているだけなのでは?
「こんな寒い時期なのに、けっこう人来てるんだね」
バスから見える町並みを見ながら、ポツリと由比ヶ浜はそう言った。
旅館でまたも豪華な食事をとった後、向かったのは山間の町にある観光地だ。古民家の連なる古い町並みはしっかり観光地として開発されているらしく、雪が降る中だというのに人は多い。
「こういうところは、海外からの観光客も多いようね」
同じように車窓を見ながら雪ノ下が言うと、俺も窓越しに大通りを眺めた。確かにアジア系や白人系の観光客も多く、食べ歩きをしている人たちでにぎわっている。
ほどなくして、バスは終点で停車した。粉雪が降るなか地面に降り立つと、その瞬間脚に痛みが走る。
「いっつつ⋯⋯」
「どうしたんですか、先輩?」
「いや⋯⋯、ただの筋肉痛だ」
確かめるまでもなく、昨日のスキーが原因だろう。最初無駄に踏ん張りすぎていたし、慣れない動作の繰り返しだったからだ。
その上昨晩はとてもぐっすり眠れたとは言えず、むしろうとうとしていただけでずっと起きていたまである。さっきまで乗っていたバスの中でも、一瞬かくんと落ちてしまったぐらいだ。ちなみにあの現象にはジャーキングという名前が付いている。決してシャーマンキングではない。
「ふーん⋯⋯。なら肩を貸してあげましょうか?」
「冗談は寝言だけにしてくれ」
俺が言った瞬間、え、と一色は固まった。
「わたし、寝言言ってましたか?」
「言ってた。超言ってた」
「な、なんて言ってたんです?」
「⋯⋯さあな」
しらばっくれながら思い出すのは、昨晩のことだ。
何だよ「先輩おかわりー!」って。俺、夢の中でいろはすの給仕係してるのん?
「何で言わないんですか。教えてくださいよー」
「⋯⋯行くわよ。二人とも」
小競り合いを一歩離れたところから見ていた雪ノ下は、冷ややかな目を俺たちに向けていた。ただでさえ寒いのにその目で見られるとより冷えて感じる。それある。
「あ、ねぇねぇ、あれから行かない?」
しばらく歩いたところで、由比ヶ浜はそう言って看板を指さした。古めかしい看板と、その下にはテレビの中でしか見たことのないオート三輪。名前から推察するに、昭和をテーマにしたレトロ館というものらしい。
「ガイドに載ってたところですね。行きましょう行きましょう」
一色の言葉に促されるように館内に入ると、途端に雰囲気が変わって昭和真っ只中になる。見たことのないガラガラや、ジョーク画像の元ネタに使われまくっている古いポスター。実際にその時代を生きたわけでもないのに感じるノスタルジーは、日本人に流れる血というやつなのだろうか。
「見たことないのもけっこうありますね」
そう言った一色の目線の先は、駄菓子の陳列棚だ。大体は見知ったパッケージだが、中には初めてみるデザインのものもある。
「あー、これ昔流行ったよね」
由比ヶ浜がそう言って手に取ったのはチューインガムのお菓子だ。一つだけめちゃくちゃ酸っぱいパウダーが入っていて、それに当たったら負けである。ちなみに俺は一人で全部食べるため必ず負ける。そう思い出すと人生に負けている気がするな⋯⋯。
「せっかくだし、やってみます?」
「いいね~」
レトロ館の中をある程度見て回ると、帰りしなに件の駄菓子を買った。外に出るとチューインガムを取り出して、はいと由比ヶ浜が差し出した。
「酸っぱいものに当たったら負けなのね?」
「そうだよ。酸っぱいのは一つだけだから」
どうやら初めて食べるらしい雪ノ下に一番をゆずると、俺たちは順にチューインガムを取って口に含んだ。俺のは普通の味だったからセーフ。由比ヶ浜も一色も平然とした顔をして互いの顔を見ている。対して雪ノ下は──。
「⋯⋯酸っぱいと感じなかったら負けではないのよね?」
めっちゃプルプルしながらそんなことを言ってきた。うん、そんなわけがありませんね。
「あれ、何やってるんだろ?」
「市場みたいだな」
簡易テントの下にはスノコで作られた簡素なテーブルが置かれ、そこにずらりと漬物やら野菜やら木工細工やらと雑多な品物が置かれている。地元民と見られる人や観光客が混ざり合って、中々の賑わいだった。
「行ってみる?」
「えぇ⋯⋯」
「もう。観光地で人混み嫌がってたらどこも行けないって」
そう言って由比ヶ浜は興味津々という様子で人波の中に足を踏み入れる。俺の意見を聞いてくれないならなぜ問うたのでしょうか?
流れに沿うように歩いていくと、土産になりそうな品物がけっこう手頃な値段で売られているのが目に入った。通りで観光客も多いわけだ。
「あれ?」
気付くと俺の隣を歩くのは一色だけになっていて、周りに雪ノ下と由比ヶ浜の姿が見えない。振り返って視線を巡らせると、だいぶ後ろの方の出店で和柄のアクセサリーを見ていた。
「なんか離れちゃいましたね」
「まあ、出口あたりにいたら分かるだろ」
戻るにも人が多いせいで苦労しそうだったので、そう言って歩調を緩めた。こうしていればそのうち合流するか、人の流れる先にいれば合流できるはずだ。
「うう、さぶっ」
それにしても山間の町というのは、ことさらに冷える。人が多ければ暖かいかと思っていたら、会場が広場にあるせいでビュービュー風が抜けるのだ。
「そんなに寒いですか?」
「そりゃ千葉に比べたらなぁ」
一色は暖かそうなマフラーを自分の首に巻き直すと、くてんと首を倒して問いかけてくる。あざとい。
ほとんど平地である千葉は海風こそ寒いが、気温はここまで下がったりしないし、雪が降るのは稀だ。さっきから舞っていた粉雪はいつの間にか牡丹雪に変わって、簡易テントの上に積もっていく。
「じゃあ温まりましょう」
「は?」
何を言い出すんだ? と思った瞬間のことだった。ちょうど人がバラけだしたところで、一色は俺の手を引っ張って走り始める。
「お、おい⋯⋯っ」
「あはははははっ」
走りながら、一色は笑っていた。
降り落ちてくる雪が風景に白い線を描いて、重たい色で描かれた古民家の絵を塗りつぶしていく。絵画じみたその光景の中で、掴んでくる手は温かい。
「はぁ⋯⋯。急に何してんだよ。はぐれるぞ」
「先輩が寒いって言ったからですぅー。それにここで待ってたら合流できるはずって言ったの先輩ですよ」
市場の出口までつくと、近くにあった銅像の下でしゃがみこむ。たった数秒の青春ごっこのような行動に、何やってんだろと思ってしまった。
それっきり黙って、降りしきる雪を眺めた。一色の髪には徐々に雪がくっつき始めている。
「先輩」
そろそろ傘を差した方がいいかも知れないな、と思っていると、不意に一色が俺を呼んだ。
「旅行、誘ってくれてありがとうございました」
「おぉ⋯⋯」
唐突なお礼に、なんだか締まりのない返事をしてしまった。不意打ちでこういうことするの、ちょっとずるい。
「まだ終わってないうちから言われるのも変な感じだな」
「終わってなくても、いい旅だったなって分かるから、言いたくなりました」
その言葉にわざとらしさはなく、透き通った
ひょっとしてこれが言いたいがために、急に走り出したりしたのだろうか。そういう理由なら納得できるし、意外にシャイだなとも思う。
「先輩もそう思いませんか?」
そう問われて、昨日からの出来事を思い出す。
道中の電車やバス、スキー、温泉、足湯⋯⋯と順に回顧すると、頷くしかない。学校行事をのぞけばこんな風に旅行に行くことは初めてだし、俺には過ぎた思い出のように思う。
「わたしはめちゃくちゃ楽しいですよ。今も」
俺が答えを口にする前に一色が言うと、ニコリと見慣れた笑顔になった。その笑みは打算的だったが、反面言葉は真っ直ぐだ。
「⋯⋯一色はいつも楽しそうな気がするけどな」
「まあ、実際この部活は楽しいですし」
生徒会と言わず部活と言った一色の言葉には、少し考えさせられるものがある。
恐らく一色にとって生徒会は、部活の延長線上にあるものなのだろう。その認識は俺も同じだ。今や一色の根底にあるものは奉仕部だということを認識させられて、何やら感慨深いものを感じてしまう。
「もう一回、来たいですね。今度はお酒の飲める年齢になってから」
そう言って一色が見ているのは、何百年も前に建てられたかのように風情のある酒蔵だ。そう言えばさっきからやたら赤ら顔の大人とすれ違うと思っていたら、日本酒の試飲ができるからなのか。
「そうだな⋯⋯」
俺は呟くと、酷く近くに起きたデジャ・ビュを感じた。
そうだなって、いったい、何が──?
「あ、結衣先輩たち来ましたね」
降りしきる雪の向こうから、雪ノ下と由比ヶ浜が歩いてくる。
この違和感は、何なのか。
歩いてくる雪ノ下たちを見ながら、それだけを考えていた。
* * *
それから色々な店をまわった。
伝統的な染め物の店、ご当地グルメの味わえる飲食店、土産物の店。午後になると俺たちは、ガラス細工店を訪れていた。
「わぁ、本当に溶けてる」
溶解炉の扉から覗いたドロドロのガラスを見ると、由比ヶ浜が感心するように言った。少し離れた場所でも熱波を感じるそこは、一二○○度にまで上がっているらしい。
「それではこれからガラスを取り出していきます」
説明係の職人さんが言うと、吹き竿と呼ばれる棒でガラスを取る。台でくるくると形を整えると、吹き竿に息を吹き込んで形を作った。
「おー、これテレビで見たことあるやつですね」
一色は吹き竿の先で膨らんだガラス玉を見て、まるで子どものように目をキラキラさせていた。こうやってあざとさをどこかに忘れて純粋な表情を浮かべているのを見ると、これが素なんだろうなと思う。
続いてもう一度ガラスを付けて膨らませると、色のついたガラス粒が入ったトレイの上で転がして色を入れた。
俺たちが体験するのは、コップ作りだ。手本を見せてくれている職人さんは見慣れない道具で底を形作ると、ポンテと呼んだ工具で飲み口を切る。
「こうやって作っていたのね」
さすがにコップ作り工程は初めて見るのか、雪ノ下は職人の手元を見ながらそう呟いた。
職人さんは工具で口を広げると、徐冷炉と呼ばれる保管庫に入れる。ガラスはゆっくり冷まさないと割れてしまうのだそうだ。
「それでは実際にやっていきましょう」
一連のレクチャーが終わると、人の良さそうな笑みを浮かべた職人さんが俺たちに向かって言った。よろしくお願いしますと口を揃えると、いよいよ実際に体験する時間だ。
説明を受けた通りに、溶解炉から吹き竿でガラスを取り出す。実際近づいてみると凄い熱さで、手早く作業しないと耐えられないぐらいだった。
「うわ、あっつ! 何か怖い!」
由比ヶ浜が続くと、職人さんの補助を受けながら高揚した声で言う。その後の一色も、雪ノ下もそれぞれに新鮮な反応を返していた。
世の中、やってみなければ分からないものばかりだなと思う。熱は触れなければ、近づかなければその熱さは分からない。ガラスの柔らかさだってそうだ。実際に加工してみない限り、どんな感触か、どんな感想を抱くのかまでは分からない。
「だんだんコップらしくなってきましたねー」
順調に作業が進んでいくと、切り落とされた飲み口を見て一色が言う。
後は飲み口の形を整えれば、ほとんど完成だ。俺はガラスを回しながら専用の工具で形を整えると、仕上がりを見ようとコップを照明にかざす。雪ノ下の方も作業を終えたのか、真似をするようにピンク色のアクセントカラーが入ったコップを透かした。
「⋯⋯きれい」
キラリとまだ熱いコップがきらめいて、ガラスよりも透明に思える頬が照明に映える。陶然とした表情はどこか現実離れして見えて、思わず息を呑んだ。
──美しいとは何か。不意にそんな問いが、頭の中に浮かんでくる。
それはすぐに散ってしまう桜のように儚く、傷つければすぐ変わってしまう可変の価値だ。だから雪ノ下はガラスでできたコップを、綺麗だと感じたのかも知れない。
俺が感じたのとまた、同じように。
* * *
チクタク、カッチコッチ。チクタク、カッチコッチ。
静かな店内で耳を澄ますと、そんな音が聞こえてくる。
「さすがにちょっと疲れてきましたね」
そう言って一色は、角砂糖を落とし入れた紅茶を飲んだ。
帰りの電車までの時間つぶしと休憩を兼ねて入った喫茶店は、壁のそこかしこに時計がかかっている。レトロな店内と振り子時計は、時が進んでいるのか戻っているのか倒錯させてくるようだった。
「だいぶ歩きまわったもんね~」
そう言った由比ヶ浜のお団子頭は、いつもよりへにょんとくたびれて見えた。
ちなみにさっきみたらし団子を買い食いした時は元気なように見えたから、きっと本人のエネルギー量と連動しているのだろう。たぶん。知らんけど。
「でも、楽しかったわ」
まるで旅の終わりを締めくくるように、雪ノ下はその言葉に微笑みをのせて俺を見やる。
ちょっと、意外な言葉だった。ある意味いつも楽しそうだが、そう言葉にするのは珍しい。
一色にも楽しかったと言われたばかりだったが、言葉の含蓄する意味は違っている気がした。
「うん。疲れたけど、すっごい楽しかった」
眩しいぐらいの笑顔が向けられて、俺は何とか下手くそに見えない程度の笑みを返す。上手く笑えていたかどうかは、分からない。
──楽しかった。
その言葉に嘘偽りはないのだろう。俺だってこの旅行の感想を言うのならば、その一言を使うと思う。
けれど反面⋯⋯何もかもが出来すぎていると思う時がある。何の憂いもないはずなのに感じる不安は、危機感を忘れるなという防衛本能なのだろうか。
人は良い情報より悪い情報を、二倍価値があると思い込むのだと言う。幼い頃から用心しろ、気を抜くなと教え込まれたお陰か、ことネガティブな感情については人一倍敏感なのだ。こんな時ぐらい素直に楽しめればいいものを、何かが俺の邪魔をする。
「比企谷くん?」
さっきから黙っている俺の様子が気になったのか、雪ノ下はそう呼びかけながら瞳を覗き込んでくる。
その目は珍しく、案じているような色を帯びていた。この場に似つかわしくない表情に、ぞわりとまた得も言われぬ感覚が奔った。
「どうかした?」
そう問われれば、どうもしていないという答えしかない。
単に俺が、感傷に浸っているだけだ。どこを切り取ってもよい思い出にしかなりそうにない旅行の終わりを、俺なりの感じ方で名残惜しんでいるに他ならない。
「⋯⋯いや、何も」
チクタク、カッチコッチ。チクタク、カッチコッチ。
時計たちは、時を刻む。
カノンを歌い上げるかの如く、その音は乱れない。
「なら、いいのだけど」
チクタク、カッチコッチ。チクタク、カッチコッチ。
時計たちは、時を進める。
永遠も停滞も許さないと、そう告げるように。
時間はどこまでも正確に刻まれ、すべてを変えていくのだ。
ということで温泉旅行編でした。
物語も終盤戦。これからどんなストーリーを辿っていくのか⋯⋯。
引き続きお楽しみください!