やはり俺にモテ期がくるのはまちがっている。   作:滝 

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 今回はあとがきはなしです。
 次回が最終話になります。




雪ノ下雪乃の告白。

 

 

 あれからどうやって学校を出たのか、よく覚えていない。

 気付いたら俺は誰と帰っているわけでもないのにカラカラと自転車を引いて、夜暗に沈んだ住宅街を歩いていた。

 このまま帰る気にもならず、遠回りに遠回りを重ねて学校の周りを巡っている。その間も脳は働き続けているというのに、まったく答えらしきものは思い浮かんでこない。

 軽率な言葉選びを悔いることは、もう何度もした。だからもういつまでもウジウジと同じことを考えていても仕方がない。考えるなら、もっと本質的なことだ。

 いい加減ぐるぐるとそこらを歩いているのもバカらしく思えてきて、目に入った公園の中に入る。いつの間にやら学校の近くに戻って来たようだが、この時間なら誰もいないだろう。

 じゃり、と砂を踏む音に続いて、きぃこと錆びついた金属が擦れ合う音が聞こえた。思わず目を向けると、そこにはよく知った顔が驚きの表情を浮かべている。

 

「あれ、比企谷くんだ」

「陽乃さん⋯⋯」

 

 どういうわけだか、陽乃さんは夜の公園で一人ブランコに腰掛けていた。

 月灯りに照らされたその姿は幻想的で、不可思議だった。アンニュイな笑みを浮かべる陽乃さんに似合いすぎていて、中々次の言葉が出てこない。

 

「どうしたの。こんな時間に、こんなところで」

「それはこっちの台詞ですね⋯⋯」

 

 お料理教室のあったコミュニティセンターからこっちは、駅と反対方向だ。俺が疑問の目を向けると、陽乃さんは「あはは」と軽く笑う。

 

「なんとなく、歩いて帰ろうかなって。ほら、月が綺麗だから」

 

 そう言って陽乃さんは、夜空に浮かんで満月を見上げる。確かに煌々と光るまん丸なお月様は、こんな気分で見ても綺麗に思えた。

 しかしそんな理由で真冬のウォーキングをしようなんて人は、陽乃さんぐらいしか知らない。それにだいぶ、不用心だ。

 

「狼男に襲われたらどうするんですか」

「そしたら比企谷くんが助けてよ。君は絶対、狼にはならないでしょ?」

 

 陽乃さんとの会話は、心温まるものとは程遠い。だけど今は、そんないつも通りのやりとりが耳に優しかった。

 ジンと冷えたブランコの鎖を握ると、その座面に視線を落とす。

 

「ここ、いいですか」

「うん」

 

 ブランコに座ると、その不安定さに一瞬身体が(かし)ぐ。まるで今の俺みたいだなんて、自嘲の笑みが溢れた。

 小刻みにブランコを揺らしながら見上げた月は、冬の澄んだ空気のお陰か記憶の中よりもずっと眩しく大きく見えた。なるほど寄り道をしてお月見したくなる気持ちも、少しは分かる。

 

「何かあったね」

 

 しばらく黙ってブランコを揺らしていると、陽乃さんは確信に満ちた声で言った。

 白く整った顔がこちらを向いているが、俺は目を合わせない。場所を借りた身ではあるが、積極的に話したい話題ではなかった。

 

「⋯⋯まあ、人生色々ありますよね」

「ふーん。何だか比企谷くんらしくない、つまらない返事」

 

 俺としてはいつも通りのつもりだったのに、陽乃さんは不服そうに前を向いた。

 この人、俺をどれだけ弄ってもいいお笑い芸人か何かだと思っちゃいないだろうか? 今までの扱われ方を鑑みると、本当にそう思われている可能性があるな⋯⋯。

 

「ま、言いたくないならいいけどさ。時期的になんか分かっちゃうよね」

 

 陽乃さんはそう言うとこちらを向いて笑いかけてきて、思わず目が合った。その笑顔はいつもの愉快そうな種類ではなく、それが妙に心を重くさせる。

 

「結局、わたしが何もしなくてもこうなったのね」

 

 まるで全てを見透かしたように、陽乃さんはそう言った。

 何もしなくても、と言うことは、いつか何かをするつもりだったのだろうか。

 

「本当は君も、分かっていたんじゃないの?」

 

 どこか責めるような声音が、胸を抉るようだった。

 否、陽乃さんに責める意図なんてないのかも知れない。ただ受け取り手である俺自身が自分を責めているから、そんな風に聞こえたのだろう。

 けれど、こうなることを分かっていたのではない。わざと遠ざけ、回避しようとしていた。そして俺は、それができると過信していた。

 いつかのチェーンメールと同じだ。自分には上手くやれると信じ込み、結局この有様。俺の気持ちを暗くさせているのは、そんな忸怩(じくじ)たる思いもある。

 

「⋯⋯これでも、上手くやってるつもりだったんですよ」

 

 その言葉は、何の意味もなさない言い訳だ。結局全てのバランスが崩れた今となっては、後悔を吐露する意味もない。

 大体こうなることを上手く回避できたとして、それに一体何の意味があるのか。今となってはそう思う(ほか)ない。

 少なくとも、一色はそんな先延ばしを望まなかった。義理という言葉のせいで、その想いは彼女の意図しないところで発露した。

 

「上手くやって、どうするつもりだったの? それでめでたしめでたしにはならないよね」

 

 淡々とした口調は、温度もなければ色もない。ともすれば俺を腹立だしく思っていてもおかしくない状況なのに、これはただの事情聴取と言わんばかりだった。

 陽乃さんの言うことは、本当にその通りだ。

 先延ばしにしたとて誰も何も得はしない。あるいは由比ヶ浜の(こいねが)った四人の関係だけは、得られたのかも知れないが。

 思えば雪ノ下は、先々を見据えた発言を繰り返していた。今の関係を良しとしない意図は充分に汲み取れる。

 それでも気付かないふりを続けたのは⋯⋯今までの関係が、心地よかったからかも知れない。四人で過ごす時は当たり前になりすぎていて、俺にとって価値が高すぎたのだ。

 

「本当に、どうするつもりだったんでしょうね⋯⋯」

 

 いつか願い、叶わず、忌避してきた人の繋がり。思わず手に入ってしまったそれは想像以上に暖かで、 雁字搦(がんじがら)めになってしまうほどに強く俺を締め付ける。

 もっと早くに、深入りする前に関係性を断つべきだったのだろうか?

 そう考えてみても、頭は即座にノーを返してくる。そんなこと、考えてみるだけで馬鹿らしい。それに何より、酷い例え話だ。

 

「ま、考えなさい。君の頭なら、答えが見つかるかも知れない」

 

 暗い呟きを吐いた俺に、陽乃さんはぴょんとブランコを降りて言った。

 

「じゃあね、比企谷くん」

 

 陽乃さんはそう告げると、公園の出口に向けて歩いて行った。

 さくさくと砂を踏む音を聞きながら、俺は考える。

 

 かじかむ手を抱えて、考える。

 

 

   *   *   *

 

 

 家に帰った後、俺はリビングのソファに独り座っていた。

 風呂に入る気すら起きず、ただひたすらに黙考を続ける。時折り姿勢を変えてみても、床に寝転がってみても、どんな光明も見えてこない。

 俺は諦めて思考を中断すると、通学用の鞄を開いた。その中から、貰ったばかりのチョコレート菓子たちを取り出す。

 ダイニングテーブルにそれらを並べると、俺はインスタントのコーヒーを淹れた。いつものように、砂糖やミルクを足すのは止めておく。

 

 一色からもらった、小さな箱を開ける。

 中には丸やハート型の、一口大のチョコレートがいくつか。金粉が散らしてあったり、ナッツが添えられていたり、見た目にも気を使っているそれは中々見事な仕上がりだ。

 ハート型のそれを口に含むと、舌の上で転がす。甘みがじんわりと口内に広がり、鼻腔にカカオの香りが広がった。

 

 一色いろはは、なぜ俺に興味を持ったのだろう。

 最初は葉山狙いのあざとい後輩だったはずなのに、最近はとんとその名を口にしない。

 間違いなくきっかけは、ストーカー被害に遭っていたあの一件にあったと思う。それからことあるごとに絡むようなったし、よく『責任』なんて言葉を使っていた。それが彼女にとって、重要だったのだろうか。

 

 チョコレートを食べ終わると、今度は由比ヶ浜からもらった可愛らしいラッピングを開けた。

 大きな、ハート型のチョコクッキー。もう冷めているというのにラッピングから取り出した瞬間甘い香りが立ち上ってきて、思わずすっと目を閉じた。

 齧るとそれはいつもより硬めで、大きめのそれが持ち運び中に割れないように工夫されているのが分かった。むぐむぐと咀嚼を続けると、そのたびに程よい甘みが舌に広がる。

 

 由比ヶ浜結衣は、なぜ俺に興味を持ったのだろう。

 きっかけは飼い犬のサブレを助けたことだろうから、その理由はしっくり来る。

 俺にとっては咄嗟のことだったし、すべきことだと思ったから身体が自然に動いた。それが由比ヶ浜にとって、大きなポイントになったのだと思う。

 

 チョコクッキーを食べ終わると、リボンのあしらわれた箱を開けた。雪ノ下からもらったガトーショコラは、雪のように白いパウダーシュガーがかかっている。

 一口含めば想像していた苦味は一切なくて、ただただ甘い。濃厚なコクの中にふくよかなチョコの香りを溜め込み、その甘さは俺好みだった。

 

 そして雪ノ下雪乃は。

 なぜ俺に興味を持ったのだろう?

 

 それが一番、分からない。

 

 雪ノ下は初対面の時から、まるで俺を知っているような様子だった。今を持ってしてもその由縁が分からないし、思わせぶり⋯⋯というよりグイグイくる態度には疑問しかない。

 

「くるしい⋯⋯」

 

 ガトーショコラを食べ終え、口の中の甘みをブラックコーヒーで流した頃には満腹だった。

 一気にチョコ系のお菓子を食べたせいで、間違いなく血糖値は急上昇を続けているだろう。これは鼻血を吹いてしまう案件かも知れん⋯⋯。

 

「うわ、何やってんの。お兄ちゃん」

 

 リビングの扉が開いたかと思うと、小町は机に突っ伏した俺にそう声をかけた。テーブルに散らばったお菓子の包装を見て、呆れた調子で溜め息をつく。

 

「これ、何。どうしてこうなったの?」

「いや⋯⋯。雪ノ下たちからチョコもらって⋯⋯一気に全部食った」

 

 俺が答えると、小町は耐えかねたかのように「はぁぁ~」とまた溜め息をついた。受験生に要らぬ心配をさせてしまったようで、確かに何やってんだって話である。

 

「貰ってくるんだろうなとは思ってたけど、普通全部一気に食べる?」

「まあ、そりゃそうなんだけど⋯⋯」

 

 彼女たちのことを考えるには、これが一番良い方法だと思ったのだ。

 かと言って何かことが進んだわけでもなく、一つ明らかになったとすれば「分からない」と分かったことだった。

 

「⋯⋯何かあったの?」

 

 心配そうな声音に、すぐに言葉を返すことができない。

 こんな話、家族にだってするべきじゃないと思う。それに小町は受験生だから、無用な心配をかけるべきじゃない。

 ここは「何でもない」と答えるのが最適解なのだろう。しかし、聡い小町のことだ。陽乃さんに俺の変化を見抜かれたように、小町にもまた分かってしまう可能性が高い。

 

「あった⋯⋯。けどまだ何も言えない」

 

 下手に誤魔化すより言えるところまで伝えた方が、まだ小町も安心できるのではないか。

 そう考えて俺は言ったのだが、小町は不満顔だ。

 

「えぇ⋯⋯。何それ、そんな状態で言われたら余計気になるんだけど」

 

 小町の反応は芳しくなかった。しかし嘘でかわすよりは、マシだったと信じるしかない。

 

「まあ、いつかちゃんと話す。落ち着いたらな」

「うん⋯⋯。まあ、それならいいけど」

 

 落ち着いたら、のニュアンスで受験のことが思い出されたのだろう、小町はふうと息をついた。

 小町はとてとてと歩いて冷蔵庫を開けると、牛乳を取り出してコップに注ぐ。レンジでそれを温めると、さらさらとインスタントコーヒーを入れた。即席のカフェオレだ。

 いつもの食事のように、小町は俺の目の前の席に座た。そうして、大人びた雰囲気で、ひっそりと微笑む。

 

「⋯⋯でも、いつかなんて待たなくても、話してくれていいんだからね。言葉にしなきゃ分からないことって、たくさんあるから」

 

 小町のひそやかな声に呼応して、俺はこくと頷いた。その意見はありふれていて、当然のことで、だからこそ価値がある気がした。

 陽乃さんは考えなさいと言う。

 しかしいくら考えても、答えらしきものは見つけられない。それも当然だろう。何せ俺に向けられた問いは模糊(もこ)として明らかになっておらず、だから答えなんて見当たらないのだ。テストに書かれている問題の意味が分からないのに、どうやって問題を解けというのか。

 

 結局、俺が出すべき答えは何かと考える。

 本命という言葉を読み解いて、明らかになった好意を受け取って、そして次は?

 俺は誰の好意を受け取るべきなのだろう。そもそも俺に受け取る資格なんてあるのだろうか。

 気持ちを伝えてきた彼女たちに対して、俺は自分の情けなさに嫌気がさしてくる。せめて真っ直ぐにその気持ちを受け止められるぐらいには、なっていたかったのに。

 

「じゃあ、小町は勉強に戻るね」

 

 小町はカフェオレを飲み終えると、そう言ってゆっくりと立ち上がった。

 

「ああ⋯⋯。頑張れよ」

「うん。お兄ちゃんもね」

 

 小町はそれだけ言うと、リビングを後にした。きっとこれから、また受験勉強という難問たちに立ち向かっていくのだろう。

 俺にできるのは、誰にでも言えるような応援の言葉ぐらい。それに俺にもまた、立ち向かうべき問題はあるのだ。

 

 言葉にしなきゃ、分からない。

 

 ああ、それは本当にその通りだ。

 今はもう、分からないものを分からないままにしておくべきじゃない。そうでなければ、前に進めない。

 俺は携帯電話を取り出すと、ロック画面を解除する。電話帳を開くと、すぐにその名前は見つかった。

 

『雪乃♡』

 

 初めて俺を言葉を交わした時、雪ノ下はそんなふざけた名前を俺の携帯に登録した。

 その心は、その意味は。

 

 きっと言葉にしなければ、この耳で聞き届けなければ、分からない。

 

 

   *   *   *

 

 

 再び出た外は、さっきよりも一段と冷え込んでいた。

 会う約束を取り付けるなり全力で自転車を漕いできたから、息は上がりじっとり背中が汗で濡れている。身体は熱いのに、手袋をした手はしっかりとかじかんでいた。

 集合場所に指定した公園に、雪ノ下の姿はない。到着予想の時間よりかなり早くついてしまったから、それも当然だ。

 雪ノ下の住むマンションにほど近い幕張海浜公園は、相変わらずだだっ広い。公園というより広場に近いそこは生活道路になっているのか、コートを着込んだビジネスマンの姿もちらほらと見える。

 適当なベンチに腰掛けると、すっかり冷えた手を握り込んだ。雪ノ下のマンションを見上げていると、視界の端に真っ直ぐこちらに向かってくる人影が見える。

 

「こんばんは」

 

 雪ノ下は俺の目の前までやってくると、そう言って薄く微笑んだ。ああ、と頷くと、雪ノ下は俺の隣に座る。

 雪ノ下の方を見ると、遠い外灯にうっすら照らされた顔が見えた。雪ノ下は膝の上で手を握って、雪が振ってくるのを待つかのように、俺の言葉を待っている。

 さて、勢いでこうして会う約束を取り付けてしまったが、何からどう話そうかを決めていなかった。生徒会室でのこと、あるいはもっと前のことまで遡った方がいいのか。

 

「それで、話って?」

 

 俺たちの間にたっぷりと余白が流れた後に、雪ノ下はそう問いかける。

 未だ何から問うべきかは迷いがあったが、明らかにしなければいけないことはもう決まっていた。

 

「まあ、まずは今日のこと⋯⋯だな」

 

 俺が言うと、こくっと雪ノ下は頷いた。呼び出された時点で、あのことが話題に上るのは覚悟していたのだろう。

 

「正直、なんていうか⋯⋯驚いた。特に雪ノ下がああ言うのはな」

「そうね⋯⋯。私も、意外だったわ」

 

 どこか他人事じみた言い方だったが、とりわけ冗談を言っている様子でもなかった。

 雪ノ下の方を見るが、視線が合わされることはない。雪ノ下は夜空を見上げると、さっきとは違う角度にいる月を眺める。

 

「ああいう形で伝えるなんて、思ってもみなかった。けれど、正々堂々とするならあれが最良だったのかも」

 

 そこまで言うと、ようやく雪ノ下は俺の方を見た。月下美人という言葉が頭に浮かんで、消えていく。

 雪ノ下には、少なくとも後悔している様子はない。それどころか肩の荷が下りたかのような、すっきりした顔をしていた。

 彼女たちが伝えたことは──例えそれを後悔していなかったとしても、きっと全てを変えてしまう出来事だ。少なくとも俺には、あの告白と言っていい気持ちの吐露をなかったことには出来ない。

 

「あなたがどう感じているのかは、分からないけれど。⋯⋯私は今、答えを聞くつもりはないわ」

「ああ⋯⋯。そうだよな」

 

 きっと雪ノ下は、由比ヶ浜と一色に対してフェアにいきたいのだろう。毅然とした態度は、雪ノ下の強さそのもののように思えた。

 少なくとも、今俺から雪ノ下に伝えられることは何もない。分からないことを分かるようにならなければ、答えなんて出しようもないのだから。

 

「答えを出す前に、一つ聞いておきたいことがある」

 

 雪ノ下と目を合わせたまま、逸らさない。

 いつもはついすぐに外してしまう視線を交差させたまま、俺は何の聞き間違えも勘違いも起こさせまいと、はっきりとその問いを口にする。

 

 

「雪ノ下。──お前は一体、何を隠している?(・・・・・・・・)

 

 

 瞬間、深淵の闇よりも色濃い静寂が場を支配した。

 自分の心臓の音が聞こえてきそうなほどの、混じり気のない静けさ。雪ノ下の吐息だけが、微かに耳朶を撫でる。

 

 雪ノ下雪乃には、秘密がある。

 俺がそう思う理由は、いくつもあった。

 

 まず出会いからして不自然だ。言葉を交わしたこともないうちから、俺に対して好感度が高すぎる。

 そして知り合って間もない頃から、まるで俺をよく知っているかのような態度。それに極めつきは、まるで未来の出来事を知り尽くしているかのような立ち振舞いだ。

 

「⋯⋯そうね。ようやく、あなたに言える時が来たのかも知れない」

 

 大きく息を吐いた後、雪ノ下は長い沈黙に終止符を打った。

 その口振りからすると、雪ノ下の示唆に満ちた言動は俺に疑問を持たせる意味もあったのだろうか?

 自分からは言えない、しかし聞かれたならば伝えられること。それを全て打ち明けるために言葉を選んでいたのだとしたら、不可解だった言動にも多少は納得がいく。

 

「私は全てをあなたに話す覚悟を決めたわ。あなたの方は、大丈夫?」

「⋯⋯ああ」

 

 大丈夫も何も、雪ノ下の真実を知り得ない限り、俺は一歩も前に進めない。

 それに今日ほど衝撃的な出来事の後で、覚悟も何もないだろう。これ以上の驚きがあるというのなら、どんなものか知りたい。少なくともその想いに、躊躇う気持ちは欠片もなかった。

 

「聞かせてくれ。雪ノ下の話を」

「ええ⋯⋯。少しだけ長くなるかも知れないし、信じられないかも知れないけれど」

 

 雪ノ下はそう言うと、そっと俺の袖口を握り込んだ。

 そこから伝わる小刻みな震えは、雪ノ下の本心だった。

 

 雪ノ下は、怖いのだ。

 全てを包み隠さず伝えることが、たまらなく。

 如何なる者も歯牙にかけてこなかった雪ノ下が、いつも余裕と優雅さを保っていた雪ノ下が、ようやく本当の姿を見せようとして、それを震えるほど怖がっている。

 

 

「全てを話すわ。私と、あなたの話を──」

 

 

 そうして雪ノ下雪乃は。

 儚げな月明かりの下で、訥々と語り始めた。

 

 

   *   *   *

 

 

 私とあなたがパートナー(・・・・・)とも言うべき関係になったのは、高校二年生も終わりのこと。ダミープロムの実現に向けて、動き出した時のことだった。

 あの頃のあなたは今と寸分違わない、ずいぶん捻くれた考えをしていて、ありとあらゆる物事を斜めから見ていた。

 口を開けばロクなことは言わないのに、一度動き出せば行動には一気呵成の勢いがある。無責任なようで誰よりも責任感があって、それに伴う言動が周りを変えていく。どこか憧れに近い感情があなたに惹かれた一因だったのは、疑いようもないことだった。

 

 私もあなたも男女交際は初めてだったから、始めは何もかもがぎこちなくて、全てが新鮮だった。

 あなたからメッセージが来るたびに一喜一憂して、たくさん空回りもした気がする。眠れない夜を何度過ごしたか分からない。

 

『好き』

 

 そう言えるようになるまで、ずいぶん時間がかかったと思う。けれど一度言葉にできたら、後は早かった。詰まりのとれた心は、一直線にあなた向かっていくだけだった。

 あなたが私に自分の気持ちを素直に伝えられるようになるまでは、それからもうしばらくかかった。高校の卒業式、あなたから初めて「好きだ」という言葉をもらった時は卒倒してしまいそうなぐらい嬉しかったのをよく覚えている。

 

 そして私たちは、大学へと進学した。

 私はあなたの進路に合わすように理系から文系へと変えたけれど、結局のところ同じ大学を選ぶことはしなかった。お互いにそうすべきだということが、分かっていたから。

 けれどそれで途切れる関係とはまた違う。当然一緒に過ごせる時間は少なくなったけれど、前にも増して恋人らしい関係を築けていた。恋は障害があった方が燃えるという、使い古された言葉の通りになった。

 

『よろしくね、雪ノ下さん』

 

 そしてその男に会ったのは、大学に進んで暫く後のこと。私が所属することにしたゼミでのことだ。

 彼は同じ一回生で、最初は礼儀正しい好青年に見えた。最初は、というのは、その認識は間違いだったと後から思い知らされたからに他ならない。

 出会って三ヶ月ぐらいのころ、彼から告白された。私には恋人がいることも明かしていたから、信じられない気持ちだった。前から少しおかしな様子があるとは思っていたけど、彼のことが信用ならなくなったのはその頃からだ。

 

『ねえ、見てるんでしょ? 何で返事してくれないの?』

 

 そこからは彼が私につきまとうようになったのは、すぐだった。

 彼の私に対する、いわゆるストーカー行為。あなたにそれを伝えるのは戸惑われたけれど、家のポストにおぞましい手紙が届くようになるとすぐにあなたの知るところになった。

 注意深い相談の後、私たちはなるべく刺激しないようにしながら、彼の対処に当たる。しかしそのどれも功を奏することはなく、結局は私の家族にも知られ警察も介入する事態になってしまった。

 

 その彼に私への接近禁止命令が出てからは、しばらくの平穏な期間が訪れることになる。

 彼は事件化したのを期に大学を辞めていたし、当然顔を合わせることもない。そうして一年もした頃には、私にとってすっかり過去の出来事になっていた。私とあなたが連れ添って歩く、あの路地に彼が現れるまでは──。

 

『ねえ、どうしてそんなに僕を嫌うの?』

 

 一年ぶりにあった彼は、おもむろにそう言った。

 その手には、見るからに切れ味の鋭そうなサバイバルナイフ。血走った目はとても正気だとは思えず、酷く恐怖したのをよく覚えている。

 それから彼と何を話したのかはよく覚えていない。私もあなたも、彼を落ち着かせる為に必死に正しい言葉を探して、それを伝えていたように思う。

 

『もう、一緒に死のうよ。人生をやり直すんだ。そうしたら僕たちは、一緒になれる』

 

 そう言って彼はナイフを私に向け──気付いたら、目の前にあなたの背中があった。

 勢いをつけた突進と刃を止め切ることはできず、あなたの身体に深々とナイフが刺さっている。お前じゃないんだよ! 彼が叫ぶ。引き抜こうとしたナイフを、あなたは掴んで離さない。

 

『八幡! ねぇ目を開けて! お願い⋯⋯お願い──!』

 

 私の悲鳴を聞いた人々が駆けつけた頃にはもう辺りは血の海で、殺人未遂犯となった彼は逃げた後だった。

 誰かが呼んでくれた救急車に乗り、あなたは手術室に入り、私は警察から事情聴取を受ける。全てが終わった後にお医者様から「命に別状はない」と言われた時、私は子どものように泣いた。

 

 そして、丸一日が経つ。

 警察からは犯人を逮捕したと連絡が入る。あなたは目を覚さない。

 

 三日が経った。

 術後の予後は悪くないはずなのに、あなたは目を覚さない。

 倒れた時、(したた)かに頭を打ったせいかも知れないと、お医者様は言っていた。

 

 一週間が経った。

 警察から、犯人が拘置所の中で自死したと連絡が入る。

 あまりに無責任な死だったけれど、私には構っている余裕などなかった。

 あなたが目を覚さない。

 それがどれだけ重大で恐ろしいことか、毎日のようにその身をもって解らされていた。

 

 そして。

 

 一ヶ月が経ち、二ヶ月が経ち⋯⋯あなたはいつまでも、目を覚さない。

 傷はもう、塞がっている。バイタルも問題ない。見た目には眠っているようにしか見えないのに、あなたが目を開けることはなかった。

 

 あなたの濁った目を、これほど恋しく想った時はない。

 そうして事件から三ヶ月が過ぎる頃には、私は心も身体もボロボロになっていた。

 

 学業の合間を縫って毎日のようにあなたに会いに行き、目を閉じたままの顔を見るたびに安らぎと悔しさで奥歯を噛み締める。

 どうして私だけのうのうと生きているのだろう。周りを心配させまいと大学に行くようにはしていたけれど、まるで現実に向き合うことから逃げているような気がして、酷い自己嫌悪に陥る。

 だからもう、その頃の私は私ではなかった。赤信号を見落としてしまうぐらいに追い込まれ、そして──。

 

『え──?』

 

 気付いた時には、私は病院の一室で横たわる()を見ていた。

 身体が、宙に浮いている。看護師さんが部屋に入ったきたけれど、私の存在には気付かない。

 車に撥ねられたらしい、と看護師さんは同僚らしき人に言う。そうだ、私は赤信号なのに道路を渡ろうとして、車に弾き飛ばされたはずだ。

 私はすぐに状況を理解した。これは臨死体験というものだ。そのぐらい私の身体は、死の淵にほど近いところにある。

 

 しばらく頭が真っ白になって──そして誰に気付かれることもなく、私は慟哭(どうこく)した。

 こんなの、あんまりだと思う。あなたの命は確かに助かって、後は目を覚ますのを待つだけ。それなのに、私の方が先に旅立ってしまえと言うのか、神様は。

 

 私は願った。

 強く、ただ強く願った。

 

 神様、もう一度だけチャンスをください。

 全部やり直して、必ず彼を助けますから。

 

 だからお願いします、神様──。

 

 その瞬間、視界は急に真っ白に爆ぜた。

 身体の感覚は完全に消え失せ、私は意識そのものになった気がした。

 

 そうして身体の感覚が戻ってきた時、私は白い天井を見上げていた。

 その天井は病院のものではなく、見慣れた風景。私の住むマンションのベッドルームだ。

 ひょっとして、長い長い悪夢を見ていたのだろうか。そう思って部屋を見渡した時、そこにあるはずのないものを見つけた。ハンガーにかけられた、総武高校の制服だ。

 まさかと思って姿見の前に立つ。そこにあるのは確かに私の顔であるはずなのに、どこかあどけない。動揺を抑えながら窓から外を見ると、マンションからニ○○メートルは離れているかというところで火事が起きていた。

 

 ──間違いない。

 

 その光景を見て、私は確信する。

 この日のことは、よく覚えていた。私がマンションから火事を見たのはこの時の一回だけ。今日は、初めてあなたと会った日だ。

 携帯の画面で確かめた日付も、記憶の中の時系列と一致している。テレビをつけて確認しても、私は過去にタイムスリップしたと見て間違いなかった。

 

『人生をやり直すんだ。そうしたら僕たちは、一緒になれる』

 

 忌々しい男の言葉を思い出す。

 ひょっとしてこれは、彼の執念が生んだ現象なのだろうか?

 

 いいえ、きっと違う。

 これは私が()()()()()()ために始めた物語だ。

 

 思えば私にはやり直したいことが、ありあまるほどあった。

 もっと正しく、由比ヶ浜さんとあなたを奪い合うことができたら。あなたの価値を、もっと正しく知らしめることができたら。もっと早く素直に、あなたを──。

 

 久々の制服に袖を通すと、私は玄関の扉を開けた。

 時々マンションのエントランスで会う貴婦人は、記憶のままの表情で私に朝の挨拶を渡す。私もまた、それを返す。

 学校についても、私の存在を不思議に思う生徒はいない。笑い合う同級生の顔、自分の机についた擦り傷、教鞭をとる先生たちの声──全てが、私の中の記憶通り。

 

 待ち望んだ放課後になる頃には、私は何もかもを受け入れ、平静を得ることができていた。

 けれど実際には、まったく落ち着いてなんていなかったのかも知れない。あなたに会えると思うと、天にも昇る気持ちだった。

 

 そうしてあなたは、奉仕部の部室に訪れる。

 

 懐かしいやりとり。ぼそぼそと低い声。平塚先生の依頼──。

 

 そして最愛のあなたに、私は微笑んで言った。

 

 

『奉仕部へようこそ、比企谷くん』

 

 

   *   *   *

 

 

 話を聞き終えた時、俺の手は小刻みに震えていた。

 さっきまで雪ノ下が抱えていた震えをそのまま受け取ったかのように、その反応が止まないのだ。

 おそらくその話は、作り話でも冗談でもない、真実だ。そうでなければ説明できないことが、あまりにも多過ぎる。

 

「驚いたと思うし、信じられない話だとも思うけれど⋯⋯。これが、私とあなたの本当の話」

 

 雪ノ下は俺をその瞳に捉えると、酷く悲しげに笑った。

 俺の心臓はバカみたいに騒ぎ立てていて、賑やかしいことこの上ない。

 

「いや⋯⋯。疑ってはない」

 

 思い出せば出すほど、納得のいくことばかりだ。

 一色のストーカー被害の一件で見せた、犯人に対する明らかな嫌悪感。夏休みの千葉村で留美に語った言葉の意味も、今なら分かる。そしてクリスマスの時期に訪れたディスティニーでの、「あなたを助ける」という意味も。

 

「やり直してみたら、やりたいことがたくさん出てきたの。由比ヶ浜さんの料理の腕を上達させるのも、その一つね」

 

 冗談っぽくそう言うが、その目は至って真剣だった。

 一体どんな思いで、雪ノ下はやり直しの時を過ごしていたのだろうか?

 きっと並大抵ではない覚悟を持って、日常を過ごしていたに違いない。それに対して俺は、のらりくらりとかわしてばかり。事情を知る由もなかったとは言え、あんまりな対応だ。

 

「本当に楽しくて⋯⋯眩しい日々だったわ。だからつい、はしゃぎ過ぎてしまった」

 

 それでも雪ノ下は、遥かな憧憬を(ゆか)しむように笑った。

 その笑顔は、きっと作り物ではなく本物だ。それだけが、俺にとっての救いだった。

 

「ただ、一色さんがあんなに早いうちから私たちと関わるとは思っていなかった。本当に気を抜けない子ね、あの子は」

 

 にわかに浮かべられた笑みの種類が変わると、周りの空気ごと取り変わった気がした。

 この雪ノ下の告白によって、俺が分からなかった問題は明らかにされたことになる。

 

 故に俺は、問いに対しての答えを見つけなければならない。

 

 それならば、俺は──。

 

 

「それで、あなたは誰を選ぶの?」

 

 

 俺は──。

 

 

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