土曜日。
普段であれば惰眠を貪り昼前まで布団の中で過ごすことも少なくない、貴重な休日である。
そんな掛け替えのない、本来身体を休ませる為の今日この日。俺は朝の十時という健康的な時間に、恨めしいほど燦然と輝く太陽の下に立っていた。多くの人が活動を開始する時間であるのか、稲毛海岸駅前はすでにそこそこの人出である。
『ごめんごふんぐらいおくれる』
焦っているのか全てひらがなで書かれたそのメッセージを見て、俺は気が抜けたように息を吐いた。
何故俺が、こんな朝っぱらから外で人など待っているのか。それは先日のテニス勝負で、勝った方の言うことを一つきく、という約束のせいである。
──じゃあ、デートでもいい?
そう言って頬を朱に染めた由比ヶ浜を思い出して、俺は頭をかいた。恥ずかしがるならその言葉を使うなよって話である。
ぐしぐしとかき乱した髪を手櫛で整え直していると、たたたっと駆ける音が近づいてくる。駅を背に音のする方を見ると、まさに由比ヶ浜がこちらに向かって走ってくるところだった。
「ご、ごめんっ⋯⋯。待っ、た?」
由比ヶ浜はブルーのフロントボタンミニに、白い無地のカットソーという出で立ちで、ぜえはあと荒い息をついていた。ちょっと前かがみになったせいで、かなり目のやり場に困る。
「いやまあ⋯⋯。そんなに待ってないから」
相手が遅刻したのに待ってないと言うのも何か違う気がして、ぽつりとそう答える。ようやく息が落ち着いてきた由比ヶ浜は、ふうと大きな息を吐いた後に俺を見た。
しかし、ただ見ているだけで何も言わない。何これ、ファッションチェック? おすぎなの? ピーコなの?
「あー、⋯⋯寝坊か?」
視線から逃れるようにそう言うと、由比ヶ浜はこくりと頷く。
「それもあるけど、ちょっと支度に時間がかかって⋯⋯」
そう言われて見てみれば、お団子頭はいつもより整っている気がするし、目元も普段よりパッチリしている。というか元々顔立ちは整っているのに、そこまでしなければいけないものなんだろうか。まあ、スッピンを見たことがあるわけじゃないんだけど。
「寝るの、遅かったのか」
「うん、まあ⋯⋯」
我ながらなんという下手くそな会話のキャッチボールだと思いながら、そう言って歩き出す。目指す目的地はすぐ目の前のマリンピア⋯⋯ではなく、まずは電車に乗って南船橋駅へ。そこからららぽーと東京ベイ、通称ららぽに行く予定だ。
「まああれだな。次の日学校があると思っていつも通りに寝るべきだったな」
「⋯⋯寝られるわけないじゃん」
ぽしょっと聞こえた声は、駅から流れるアナウンスの声にかき消された。その言葉には特に何も返さず、歩調を揃えて歩いていく。
改札を抜けてホームへと上ると、すぐにやってきた電車に乗る。ららぽはここから快速一本で行くことができる、総武高校の生徒にとっては定番のデートスポットだ。
混み合った電車を目的の駅で降りると、ららぽへの案内標識に従って歩いていく。動く歩道やらデジタルの広告、濁流のような人の流れを見ているとお出かけしている感というか、ちょっとした非日常感があった。
「あのさ、さっき走ってきたから喉かわいてて⋯⋯」
「おう」
「そこ、入らない?」
そう言って由比ヶ浜が指差したのは、連絡通路からららぽに入ってすぐのところにあるコーヒーショップだ。サイズ一つにしてもトールとかグランデとかしゃらくさい言い方をする、マックブックエアを持った連中が仕事や課題をやっている感を出すための店である(個人の感想です)。
「まあ、いいけど⋯⋯」
断る理由も特になく、コーヒーショップに入って飲み物だけを注文する。受け取ったドリンクを持ってテーブルにつき、コーヒーを一口飲んだ。飲んだのだが。
「⋯⋯」
一口、二口と飲んでいる間、会話は生まれてこない。由比ヶ浜は俺と目が合うとすぐに逸らし、また俺が彼女を見た時に目が合うのを繰り返している。
「何、なんかついてる? それとも目が腐ってるとか死んでるとか?」
「へ? いや、思ったことないけど⋯⋯」
あ、そう⋯⋯と小さく呟いてまたコーヒーを飲む。自虐ネタに否定を返されるこのいたたまれなさは何なんでしょうか⋯⋯。
「なんか、デートだなぁって思って」
ぽしょり、と恥ずかしそうに、由比ヶ浜はそう呟いた。頬を少しだけ染めながら触れないようにしていた話題にぶっ込んでくるとか、なにこの子地雷処理班? いや違うな。デートしよって言い出したのこいつだから地雷設置班だわ。
「あぁ、うん⋯⋯。でもなんで言うことをきいてもらうっつーお願いで、これなんだ?」
これ、とはもちろんデートのことである。
ちなみにデートとはウィキペディアさんによると、こういうことらしい。
『デートとは日時や場所を定め、好意を持った二人が会うこと。逢い引き。男女のペア以外にも、親密な二人が会うことをデートと呼ぶこともある』
昨日ふとベッドで調べてみてこの説明が出てきたので思わず変な声が出た。というか、全部当てはまってない。
由比ヶ浜は俺が気になるとは言っていたがイコール好意ではないし、親密な二人というわけでもない。むしろお互い、知らないことが多すぎるぐらいなのだ。
「え⋯⋯。だめ?」
「いや、駄目じゃなかったから来てるんだけど⋯⋯。なんでデートって言い方したかってことだよ」
わざわざこんな誤解を生むような言い回しをしなくてもいいではないか、と。そう言われてしまうと変に意識してしまうし、身構えてしまう。昨日なんか夜中の二時ぐらいまで寝られず、お陰で寝不足だ。
「だって⋯⋯デートってさ、お互いのことを知りたいから一緒に行くものじゃない?」
由比ヶ浜の言葉が、すとんと胸に落ちてくる。
確かに考えてみれば、好き合っている同士じゃなくても、特別親密じゃなくてもデートと称していいのだろう。広義な言葉であるが故に、解釈も人の数だけあるのだ。
「もちろん一緒に居たいって気持ちがあるからするっていうのもあると思うけど⋯⋯。ってあたしがそう思ってるわけじゃないからね⁉」
「あー、はいはい⋯⋯」
またこいつ自分で地雷踏みやがった。っていうか一緒に居たくないのにデートしようとか、由比ヶ浜さんはマゾ気質なんでしょうか⋯⋯。
「ヒッキーはさ、その⋯⋯。あたしのこと、知りたくない?」
由比ヶ浜は俺と目を合わせると、もう目を逸したりすることもなくじっと見続けてくる。
非常に、回答に困る質問だ。どうなんだと己に問いかけても、だんまりを決め込んでしまって返事が返って来ない。
「⋯⋯まあ、部活仲間の人間性を確かめるという意味では興味がなくもない」
「言い方がゼロ点だ⁉」
そう言って不満そうな顔をした後に、由比ヶ浜はふっと笑いをこぼした。
なんだか母親に見られているような気分になって、思わず俺は由比ヶ浜から目をそらす。
「⋯⋯あたしはヒッキーのこと、もっと知りたいなって思ってるよ」
そうか、と俺は首の動きだけで返事をして、何かを誤魔化すようにまたコーヒーを飲む。やはりスタバのコーヒーはどこで飲んでもスタバのコーヒーだ。おい店名あえて伏せてたのに言っちゃったよ。
「ヒッキーはさ⋯⋯デートってしたことある?」
そう問いかける声はおっかなびっくりという調子なのに、質問は実に
「⋯⋯ある」
「え。⋯⋯だ、誰と? ひょっとして、彼女⋯⋯」
「いや、妹だ」
答えた瞬間、由比ヶ浜はポカーンと口を開けて固まってしまった。なんだこいつ、聞いておいて黙るなよ。
「妹の小町。会ったことあるだろ? 史上最強に可愛い完全無欠の妹だ」
ふふん、と腕を組んで言った俺に対し、由比ヶ浜はいつもパッチリ開いているお目目を薄くさせてこちらを見ていた。
「それ、デートって言うの?」
「言うだろ。少なくとも俺は小町のことをもっと知りたいと思っているし、小町もきっとそうだ」
まあ、小町からそんな風に言われたことはないけどね!
ほらあの年齢って微妙だし。お兄ちゃんのことなんて興味ないよって普通に言いそうだけどきっとツンデレだから。きっと興味があるから。あるといいな!
「ヒッキー⋯⋯」
しかし由比ヶ浜は、完全に残念な人を見る目で俺を見ていた。
「キモい」
「ぐはっ⋯⋯」
溜めに溜めたキモい発言で、ちょっぴりハートがブレイクしそうになる。ぶっちゃけ言われ慣れている言葉ではあるが、デート中に言われるとか駄目過ぎた。
「何でもかんでも略すんじゃねぇよ⋯⋯」
なーんで今の若者はすぐに略すんでしょう。エモいとかスパダリとか。データ通信量のことをギガとか最早略称でもなんでもないし、リムるなんて完全にスライムが転生してるだろ。以上、十六歳からの主張でした。
「え⋯⋯。じゃあ、ヒッキー気持ち悪い⋯⋯?」
「⋯⋯すいませんやっぱりいいです」
略さず言われる方がずっとダメージが大きかった。地雷踏んだ上に自爆するとか特撮物もドン引きの有様である。
「まあでも⋯⋯そういうのもあたしなら大丈夫って言うか⋯⋯」
「あん?」
「うわわっ、何でもないっ」
妙に小さな声に聞き返すと、由比ヶ浜はブンブンと目の前で交差するように手を振る。
「あ、そう⋯⋯」
変な奴、と思いながら、俺はいつの間にか最後の一口になっていたコーヒーを飲み干した。
* * *
ららぽーと東京ベイ、通称ららぽはとにかく広い。
千葉県内ではイオンモール幕張新都心もまた凄い店舗数だが、ここららぽの規模は日本最大。つまり千葉は日本一ということである。
「ヒッキー、これどう思う?」
そう言って由比ヶ浜が見せてきたのは、自分の身体にあてがったVネックのカットソーだ。さっきまでの辿々しい空気はどこへやら、由比ヶ浜は普通に買い物を楽しんでいるように見える。
ららぽに入っている店舗はほとんど衣料関係だから、ファッションに興味のある女の子にとってこれ以上楽しい場所もないだろう。由比ヶ浜の表情を見ながら、そんなことを考える。
「あー⋯⋯それはどうだろな」
「えー、そうかなぁ⋯⋯」
しかしそのVネックの服、とてもじゃないが「いいんじゃね?」とは言えない。だってほら、絶対谷間見えちゃうやつだし。下手に試着なんてされようもんなら目のやり場に困る。そして絶対見てしまう。見ちゃうのかよ。
「じゃあこれは?」
そう言って由比ヶ浜が見せてきたのは、丸首でフリルのついたブラウスだった。これならばまあ目のやり場に困ることもないし、今履いているスカートとも合いそうだ。
「いいんじゃないの。多分」
「多分って⋯⋯。じゃあ着てみる」
由比ヶ浜は胸にブラウスを抱えこむと、そのまま試着室に入っていった。待っている間は当然女性向けの衣料店に一人になり、普通に暇だ。そして大変居心地が悪い。
世のカップルの彼氏の方はこんな時に何を考えているのだろうか。恐らくは試着室に持ち込んだ服をどうやって脱がせばいいかなんてシミュレーションしているのだろう。頭真っピンクかよ。やっぱリア充カップルは爆発しろ。
「じゃーん! どう?」
俺が試着室の前から移動しないと信じ切っていたのだろう、由比ヶ浜は効果音付きでカーテンを開けた。ガーリーとフェミニンの中間のような感じで、結構よく似合っている。
だから俺はにっと笑ってサムズアップし、由比ヶ浜を褒め称えることにした。
「馬子にも衣装」
「もっと普通に褒めろしっ!」
由比ヶ浜は頬を膨らませると、シャーっとカーテンを閉じてしまった。おかしいな、最大限に褒めたはずなんだが(遠い目)。
また手持ち無沙汰な時間の後に、由比ヶ浜は試着室から出てくる。入った時と同じように、綺麗に畳んだブラウスを胸に抱えていた。
「じゃあ、買ってくるね」
そうとだけ言って、由比ヶ浜はレジに並びに行った。どうやら自分でも気に入ったらしい。
もう会計だけなら店の中にいる必要もない。俺は由比ヶ浜に一声だけかけて通路に出ると、大して待つこともなく由比ヶ浜も店から出てくる。
「そんなに気に入ったのか、それ」
「え⋯⋯? あー、うん⋯⋯そうだね」
そう言って由比ヶ浜は、何かを隠すみたいに服の入った紙袋の口を閉じた。人波に吸い込まれるようにして歩き出すと、横顔に視線を感じる。
「ヒッキーは、どっか見たいお店とかないの?」
「そうだな⋯⋯」
その問いに、そう言えばと思い出すところがあった。わざわざそれだけを目指してららぽに行くつもりはなかったが、こうして来たのなら寄りたい場所がある。
「マッ缶デザインの自販機と、千葉の土産物屋だな」
「マッ缶⋯⋯とお土産?」
「ああ。マッ缶の自販機は売っているのもマッ缶だけ、しかもその外装は今のマッ缶デザインを忠実に再現している。自販機の裏側に成分表示まで書かれ微に入り細を穿った、いわゆるマッ缶の御神体だな。これは押さえておきたい」
「あ、うん⋯⋯」
「それから千葉の土産物屋だが、ここではマックスコーヒーのシフォンケーキに寒天ゼリー、マックスコーヒー味のモナカにピーナッツまで売っているらしい」
「へぇ⋯⋯」
「まあモナカなんかはスーパーや銭湯にも売ってたりするが、それだけじゃないぞ。千葉の食卓ではおなじみの味噌ピー各種を始め、千葉県産の落花生がグレード別容量別にラインナップ。千葉ねぎの加工品や地産の野菜をつかった漬物も多数ご用意。ららぽーとにお立ち寄りの際はぜひ当店にご来店下さい」
「まさかのお店目線だった⁉ っていうかヒッキーどんだけ千葉好きなの⁉」
とてもテンポのいい突っ込みだった。店舗数日本一のららぽだけに⋯⋯ってこれ以上はやめておこう。
ふぅ、と息をつくと、由比ヶ浜はふわりと表情を緩めた。
「まあいいや。そこ行こ」
そう言われて、俺たちはマッ缶自販機を求めて歩き出す。一階をぐるりと回っていると、すぐにそこは見つかった。
「おお、これが⋯⋯」
ラッキーカラーである黄色をベースに房総の黒潮をイメージしたという黒の波模様。噂に違わぬ忠実な再現だったし、いざ実物を目にするとテンション爆上げジュシィーポーリーイェイも辞さない神々しさである。
「めっちゃテンション上がってる⋯⋯」
縦構図に横構図、アップに引きに裏側まで写真を撮りまくる俺を、由比ヶ浜は若干引きながら見ていた。おかしいな⋯⋯これを見てテンションが上がらないなんて、ガハマさん本当に千葉県民なのかな⋯⋯。
「すまん、ちょっと写真撮ってくれん?」
「⋯⋯まあ、いいけど」
自撮りで全体像を写そうとしたのだが、どうにも上手く出来ずにそう言った。が、由比ヶ浜は俺の差し出した携帯をスルーし、何故か自分の携帯のカメラを起動する。
「はい、撮るよ」
カシャ、と鳴る小さなシャッター音。
「あのー⋯⋯」
「なに?」
何故今の会話の流れで二人の自撮りなんじゃ⋯⋯不可解なこといとおかしじゃ⋯⋯と動揺を隠せない思考のまま由比ヶ浜を見ると、「何か?」とでも言い出しそうな目が俺を見詰め返してくる。これはあれか、今時JKは写真撮ってと言われたら当然一緒に写るっしょ的なノリなんだな? そういうことにしておこう。
「⋯⋯なんでもない。その写真、後で送っといてくれ」
「あ、うん。忘れそうだから今送る」
由比ヶ浜はそう言ってスルスルシャッシャと携帯を操作し、すぐに俺の携帯が震えた。送られた写真を見ると、そういう撮影モードなのか肌がやたらと白く、マッ缶の自販機は不自然なぐらいに色鮮やかになっていた。俺の表情は間抜けなことこの上ないが⋯⋯まあ、頬が赤くなっていないだけマシだと思おう。
「じゃ、お土産屋さん行こっか」
「⋯⋯おう」
由比ヶ浜はそう言うと、先に歩き始める。
なんだか一人で動揺している自分がバカみたいだななんて思いながら、俺はその背中を追うのだった。
* * *
あれから昼飯を激混みのレストランエリアでとり、いくつかの店舗を巡った後に帰路についた。
稲毛海岸駅につくと、見慣れた光景に少しホッとする。目新しいものに満ちた非日常もたまにはいいなと思える一日だったが、その反面いつもの景色を求める自分もまたいるのだ。
「じゃあ、ここで⋯⋯」
「あ、いや⋯⋯。送ってくわ。暗くなってきたしな」
手を振ろうとした由比ヶ浜を制して、俺はそう言った。実際日も暮れ始めていたし、ここまできて一人で帰らせるのも何か違う気がする。
駅前にあるマリンピアの方に向けて歩き出すと、徐々に傾いていく夕日が網膜をつついてくる。それに目を細めながら歩道を歩いていると、ふとした違和感を覚えた。共にあるはずのものがない、そんな違和感だ。
「由比ヶ浜」
「え?」
ちょいちょい、と道の脇を指差す。そこをとぼとぼと歩いているのは、幼稚園に上がるかどうかというぐらいに見える女の子だ。その隣に誰もいないというのが、俺の感じた違和感の正体だった。どう考えても、一人で出歩けるような年齢じゃない。
「迷子かな?」
「ちょっと、声かけてみてくれ」
「いいけど⋯⋯ヒッキーは?」
「ここで見てる。俺が声かけると事案になるからな」
「なにその理由⋯⋯」
由比ヶ浜は呆れたような表情を見せるが、これがもっとも穏当で現実的な対応だ。翌日のニュースで連れ去り未遂とか声掛け事案とかが流れた日には、枕を涙で濡らすことになるだろう。
「いいよ、行ってくる」
由比ヶ浜はそう言って朗らかな表情を作ると、その女の子の方に向かう。歩いてきた女の子の前でしゃがむと、優しく声をかけた。
「ね、どうしたの? 一人?」
女の子は由比ヶ浜と目が合うと、はっと目を大きく開いた。明らかな不安を瞳にのせたまま女の子はブンブンと頭を振って、二つに結われた髪が揺れる。
おそらく知らない人に声をかけられて驚いているのだろう、すぐには声が出て来ない。由比ヶ浜は微笑みを絶やさないまま、じっと答えを待つ。
「おうちの人と来たんだよね?」
しばしの間の後に、由比ヶ浜は別の質問を投げかけた。女の子はこくんと頷くと、みるみる内に目に涙を溜め始める。
「⋯⋯ないの」
「うん」
「さーちゃんが、いないの。さっきまでいたのに、ぜんぜん、ちがってぇ⋯⋯」
そう切れ切れに言うと、女の子は泣き出してしまった。由比ヶ浜が「そうなんだ」「びっくりしたね」と声をかけるが、全く泣き止む様子がない。
「由比ヶ浜。ちょっと」
「え?」
「場所を変えよう。人が多くなってきた」
マリンピアの周りの歩道は駐輪スペースが設置されているせいで、それほど広いとは言えない。流石に迷子の対応をしているのだと通行人から見ても分かるだろうが、往来の邪魔になっているのは確かだった。
「ちょっとだけ歩ける?」
「ん⋯⋯」
由比ヶ浜が手を差し出すと、女の子は素直にその手を取る。マリンピアの中に入ると、入口の端の方でまた女の子はうずくまってしまった。これではインフォメーションセンターまで連れて行くのも難しそうだ。
「お名前、言える?」
「⋯⋯けーか。かわさきけーか」
「けーかちゃん。あたしはね、結衣だよ」
由比ヶ浜が名前を伝えたことで、多少は安心してきたのだろう。けーかと名乗った女の子は、すんと鼻を鳴らしながらも少しずつ涙を引っ込めていく。
それにしても由比ヶ浜は、子どもの相手が上手い。小さな弟か妹がいるんだろうか、なんて考えて、俺はちっとも由比ヶ浜のことを知らないのだと気付かされた。
今日一日、それなりに上手く『デート』をこなしてきたと思う。けれど会話もやり取りもどこか表面上のものしか捉えられていなくて、本当にお互いを知り合おうとしていたかと問われば⋯⋯きっと違うのだと思う。
「ほら、ヒッキーも」
そんなことを考えながら見ていたら、由比ヶ浜はしゃがみこんだままつんつんと俺の膝をつついた。まあ、名前も知らない男が突っ立っていたんじゃけーかも安心できないだろう。
俺は目線を合わせるようにしゃがみこむと、自分を指差して言う。
「俺はな、八幡だ」
「はちまん⋯⋯。変な名前」
「あはは⋯⋯。中身はもっと変だけどね」
「ちょっと? まずは変を否定して?」
けーかは俺と由比ヶ浜を交互に見ると、ふふっと小さく笑った。こうしてよく見ると幼いながらも顔立ちは整っていて、将来は美人になること間違いなしだろう。
「じゃあ、ゆーちゃんとはーちゃんだねっ」
「いいねー。じゃあけーかちゃんは、けーちゃんかな?」
「うんっ! さーちゃんもいっつも、けーちゃんって呼ぶよ」
「そうなんだ。さーちゃんはお姉ちゃん?」
「そうだよ。さーちゃんはね、こーこーせいなの」
けーかと話す由比ヶ浜を見ていると、色々と気付かされることがある。
けれどそれも当たり前だと思う。
だって俺は、由比ヶ浜結衣のことを知ろうともしていなかったのだから。
「じゃあ今日は、さーちゃんと来てたの?」
「うんっ。けどさーちゃんトイレ行って、待ってたら出てきて、ついて行ったらさーちゃんじゃなくて⋯⋯」
けーかはそう答えると、どんどん声のトーンを落としていく。どうやらさーちゃんと呼ぶ姉がトイレから出てくるのを待っていて、その後出てきた他人について行ってしまったらしいが──。
「けーちゃんっ!」
そんな叫ぶような声が、俺の思考を中断させた。その声にぱっとけーかは反応すると、駆け寄ってくる女性に両手を広げて走り出す。
「さーちゃんっ!」
がしぃっ、と抱き合って、目の前で感動の再会が繰り広げられる。どうやらそのさーちゃんが、けーかを見つけてくれたらしい。
「あの、ありがとうございまし⋯⋯」
「えっと⋯⋯川崎さん、だよね?」
途中で言葉を切ったさーちゃんは、由比ヶ浜と視線を合わせると目を瞬く。どうやら知り合いだったらしい。
「由比ヶ浜⋯⋯。ありがとう。あたしがトイレ行ってる間に、この子⋯⋯京華が居なくなっちゃって」
「ううん。見つけてくれたのヒッキーだから」
「あ、えっと⋯⋯」
そう言ってさーちゃんは、俺を見て開いていた口を閉じた。ええ、あんた誰って感じですよね分かります。不審者ではないので通報は控えて頂きたい。
「いや、二人とも同じクラスだからね?」
俺をなんて呼んだらいいか戸惑っているさーちゃんに、由比ヶ浜はすかさずつっこむ。言われてみれば見たことがある気がしないでもない。うん、そうそう川なんとかさんだったね知ってる知ってる。川⋯⋯さーちゃん? 駄目ださーちゃんしか頭に入ってこねぇ。
「ヒッキーはねぇ、はーちゃんだよ!」
おーいけーちゃん? どうして人の自己紹介タイムとっちゃったの?
京華はともかくとして由比ヶ浜も俺の本名知らない疑惑あるからな⋯⋯。比企谷という名字とは関係なくヒッキーと呼ばれているのだとしたら悲しすぎる。
「あー⋯⋯うん。それでいいやもう⋯⋯」
「は、はーちゃん⋯⋯? も、ありがと。助かった」
いや本当に呼んじゃうのかよ、と思いながら首を振って応える。俺は見つけただけで実際に相手をしていたのは主に由比ヶ浜だ。
「じゃあ行くけど⋯⋯。この借りはまたどこかで返すよ」
「いや、別にそこまでのことはしてねぇよ」
「あたしにとってはそこまでのことだよ。⋯⋯じゃ」
そう言ってさーちゃんは京華の手を引くと、マリンピアの外に向かって歩き出す。出入り口のドアを通る瞬間京華は振り返ると、俺たちに向けて大きく手を振った。
「ゆーちゃん、はーちゃん! またね!」
「うん。またねー」
笑顔で手を振り返す由比ヶ浜に合わせて、俺も小さく手を振った。二人の姿が見えなくなるまで見送ると、ふと俺たちは目を合わせる。
「じゃ、行こっか」
「ああ」
そう言って俺たちも外に出ると、宵の口の空がさっきよりも時が進んだことを示していた。
窮屈そうに駐輪された自転車たちの間を通りながら、俺はぽつりと問いかける。
「子どもの頃よく、遠足は帰るまでが遠足だ、って言われてたよな」
「え? あ、うん⋯⋯。小学校の時とか、よく先生が言ってたね」
「じゃあ、デートもそうだと思うか?」
問いかけの後に由比ヶ浜の方を見ると、ぽけーっとした顔で俺を見返していた。そしてふと頬を緩ませると、うんと頷く。
「そうだね。デートも家に帰るまでがデートだよ」
はにかんで言うその声が、妙にくすぐったい。
しかし、そうであるならば、俺はまだ間に合うらしい。
「⋯⋯どっかで飲み物かなんか、飲んでかないか」
え、と驚いた声が、言ってしまった言葉の意味を俺に問い
けれど互いを知り合うのがデートだと言うのなら、まだ終われない。終わらせるべきじゃないと、そう思った。
「⋯⋯いいよ。あたしももうちょっと、喋りたい」
さっきまで京華に向けられていたものと同じ眼差しを受けて、俺は思わず目をそらした。
自分から誘っておいてなんだとは思うが、これが精一杯。
まあいつかは目をそらさずに話ができる日が来るのかも知れない。
多分。知らんけど。
* * *
風呂から出て自室に入ると、そのままベッドにダイブする。
今日は慣れないことばかりしたせいか、まだ夜の九時も回っていないというのにやたらと眠い。人が多すぎたし、歩きすぎたし、喋りすぎた。会話の量なんか今日一日で軽く二週間分はあったんじゃないだろうか。
そりゃ疲れて当然だわなと思いながら天井を見上げていると、不意に携帯が震えた。メッセージアプリを開くと、今朝受け取った『ごめんごふんぐらいおくれる』の後に続いてメッセージが届いていた。
『今日はありがとう。楽しかった☆』
ほほぅ⋯⋯これがデートの後に届くと噂のありがとうメールですね⋯⋯。
いやでもこれ、なんて返せばいいんだよ。こちらこそありがとう、か? ことの発端を考えると、そもそも礼を言われるようなことじゃないんだよな。
『言い方!』
『ヒッキーは楽しかった?』
『だから言い方!』
『素直に楽しかったって言えし』
『でも今日はヒッキーのこと色々知れてよかったよ』
『迷子の子の時、けっこう感心しちゃった』
『ヒッキー、やっぱり優しいなって』
『だから言い方ー』
こちらの返信は考え考えしながらだから随分ゆっくりだというのに、由比ヶ浜の方からはポンポンと軽快に返信がくる。きっとこういうやり取りにも慣れているんだろう。流石はコミュ強JKだ。
だからそんなやり取りなんて何でもないことのはずなのに、由比ヶ浜からのメッセージを読んでいると不思議と頬が緩みそうになる。無機質な文字の応酬でも、なんとなく温かみを感じるのだ。
らしくもなくそんな事を考えていると、ぶるっとまた携帯が震える。
『ところで比企谷くん、由比ヶ浜さん』
あれ、──と強烈な違和感を覚える。
何故俺と由比ヶ浜のやり取りの中に、雪ノ下のアイコンがある? どうして雪ノ下からメッセージが届くんだ⋯⋯?
『デートの報告をするなら、もう少し第三者にも分かりやすく表現すべきじゃないかしら?』
『もー、いいところだったのにどうして横槍入れちゃうんですかー』
続いて届く雪ノ下と一色からのメッセージ。
おい待てよ⋯⋯これ、一色のストーカー対応の時に作ったメッセージグループじゃねぇか。
うわ⋯⋯私気付くの、遅すぎ⋯⋯?
「⋯⋯マジか」
っていうことは、待ち合わせ場所やら時間やら決めるやり取りも、マッ缶自販機の写真も、全部筒抜け──というか、誤爆で大自爆?
やーめーてー! 死ぬ! 恥ずかしすぎて死ぬ! くっ、いっそ殺せ──!
ベッドの上でゴロゴロ転がりながら敵に捕まった女騎士ムーブをかましていると、ブルっとまた携帯が震える。
恐る恐る画面を見ると、差出人は由比ヶ浜だった。
『みなかったことにしてください』
──って、できるか!
第六話、デート編でした。
ここで川なんとかさんが出てくるということは、当然のちのちのイベントにも大なり小なりの変化があるということで⋯⋯。
また次の話もオリジナル展開が続きます。
引き続きお楽しみ下さい!