勉強会。
その言葉は前向きかつ意識が高いようで、実は他人任せなのではないか? というのが俺の所感だ。
勉強はそもそも一人粛々と励むものであり、会になった時点で他者が介在する。その存在によって否応なく集中力は削がれ、とても効率的とは言えないだろう。
そもそも学生生活における勉強会というその言葉の裏には「自分で分からないところは教えて貰おう」という甘えがこもっている。勉学とは己が為にするものであり、自己の責任によって完結すべきだ。
よって俺は、勉強会の存在を否定する。
「せんぱーい、ここの意味全然分かんないですけどー」
──はずだったのだが、俺は普通に勉強会に参加していた。
時は放課後、ところは駅前のサイゼ。一色はくてんと身体を倒して、問題集を俺に寄越してくる。
「一色さん。さっきから諦めるのが早すぎるんじゃないかしら」
そう言って小さく溜め息をついたのは我らが奉仕部の部長、雪ノ下雪乃である。
てっきり雪ノ下も俺と同じく一人で勉強派だと思っていたのだが、一色が「テストも近いし勉強会をしましょう」と提案すると一も二もなく賛同した。
一年の一色がそう言い出したということは、難しい問題や過去問題を二年生である俺たちに教えて貰おうってことだ。その魂胆が丸見えなのに、不思議と誰も反対しなかった。ちなみに俺はその日あれだわあれがあるからと言ってバックレようとしたら、普通に由比ヶ浜に捕まって連行された。
「そうだぞ一色。充分な時間をかけて取り組んだ上で、適性がないと判断してからその教科は捨てるんだ」
「そっちの方がダメじゃん⋯⋯」
と呆れた声を出したのは目の前に座っている由比ヶ浜だった。こと勉強に関して由比ヶ浜に呆れられるとか駄目すぎる。
まあ勉学の得手不得手があれど、中間試験まで後少し。皆が皆それぞれに勉強する理由があるし、嫌でも取り組まなくてはならない。
俺はすっと問題集を一色の元に返すと、不満そうな目には気付かなかった振りをして再びノートに視線を落とした。これだから勉強会は駄目なのだ。全集中してゾーンに入ったところに話しかけられたりしたら、堪ったものではない。まあ女子に囲まれて勉強するとかレアすぎて、そもそもゾーンになど入れていなかったのだが。
「⋯⋯⋯⋯」
暫くの間、俺たちの囲むテーブルから会話が消える。それぞれ問題集にノートに教科書に、と向き合っているが、どうにも集中し切れないのか、由比ヶ浜はちらちらと雪ノ下の方を見ていた。休憩しない? とでも言い出したいのだろうが、さっき一色が諌められたばかりだから言いにくいのだろう。
「はぁ~⋯⋯」
全身で疲れたことをアピールするように、由比ヶ浜は手を椅子にだらんとたらしたまま机に突っ伏した。おいやめろメロンが潰れて可愛そうだろ。けしからんもっとやれ。
「ねえゆきのん。なんで勉強しなきゃいけないのかな⋯⋯」
こいつ勉強会にノリノリだったクセに、急に小学生みたいなこと言い出したな⋯⋯。
それに対して雪ノ下は、実に真摯な姿勢で答える。
「知識を得る為や、それを組み合わせて使う思考の力を伸ばす為でしょうね。それに色々なことを知っていればそれだけ視野も広がるわ。educationという言葉の語源は『引き出す』という意味のラテン語が元になっているという説もあるから、総じて成果を引き出せる人間になる為に必要、というところかしら」
どこまでもビジネスライクな答えに由比ヶ浜はむむっと難しい顔になり、一色は「へー」と超興味なさそうな声で相槌を打っていた。君ももうちょっと興味を持った方がいいと思うんですけどね。
「ね、比企谷くん?」
そう言うと雪ノ下はあなたも何か言いなさい、とでも言いたげな目を向けてくる。
なんだこの子どもに勉強の意味を教えているとーちゃんかーちゃんみたいな状況⋯⋯。しかし俺にも勉強については一家言ある。仕方ないから、純粋な疑問を口にした結衣ちゃん(7)に教えてあげるとしよう。
「そうだな。そこそこの大学行かないと、社会人になった後で学歴コンプレックスに苛まれる可能性が高い。あと適当に小難しいことぶっこいときゃ大体の人間は簡単に納得するから勉強はしとけ」
「急に現実的になったし理由が酷い⋯⋯」
雪ノ下はこめかみに手をやり、由比ヶ浜は普通に引いていた。隣のいろはちゃん(6)は「なるほどぉ」と頷いている。君が真に受けるのは止めてね将来が怖いから。
しかしこの流れはよろしくない。雑談が増えてきている。由比ヶ浜も疲れているみたいだし、一時間以上は続けているわけだから、そろそろ休憩を入れてもいいだろう。
「とりあえず、一回休憩に──」
「あれ? お兄ちゃん?」
俺の言葉を遮った声に振り向くと、そこにはマイラブリーエンジェル・小町の姿があった。はえーっとした顔で雪ノ下たちを見る小町の隣には、小町と同じく制服姿の男子がいる。小町の隣に、男⋯⋯。
「おお、小町。誰だそいつどこの馬の骨だ?」
「女子三人に囲まれてるお兄ちゃんにだけは言われたくないんだけど⋯⋯」
言われてすっとテーブルを見渡すと、それぞれと目が合った。本当だこいつめっちゃ可愛い女の子に囲まれてやがるわすいません爆発します。
「どーもー、雪乃さん。それと⋯⋯」
「あ⋯⋯。覚えてないよね。由比ヶ浜結衣です」
「結衣さんでしたね! いえいえ覚えてますよとんでもありません」
めっちゃごまかしているが、どう見ても顔しか覚えていないパターンだった。
しかしこんな場所で立ち話というのも落ち着かない。ちょっとすまん、と言って一色に奥へと詰めて貰うと、それに倣った由比ヶ浜と合わせて二人分のスペースを作る。
「小町さんたち、よかったらかけて」
「あー、でも勉強会? か何かなのでは⋯⋯」
「ちょうど休憩するところだったから、大丈夫だよ」
「そーですかー、ではではお邪魔します」
そう言って小町は由比ヶ浜の隣に、俺の隣には名前も知らない上にさっきから美少女集団にビビり散らかして一言も喋っていない男子が座る。
「えっと⋯⋯」
と小町がそうなるのは、半ば必定だ。とりあえず俺の隣に座った馬の骨は放って置くとして、小町と一色は初対面である。
「先輩の妹さんですか?」
「あー、どもどもー。大変遺憾ながら兄の妹の小町です」
「小町⋯⋯お米?」
「お米じゃないです。将来美人になる予定なので小町です」
そうね、小町という言葉には美人という意味もあるね。けど兄としてはこのまま可愛い路線で突っ走って貰いたい。一生可愛い言い続けるから。
「はぁ⋯⋯。先輩の後輩の一色いろはです」
「いろはさん⋯⋯。いろはすさん?」
「さらっと米作りのお供にしないでくれます?」
なるほど、良い米作りには水が重要だと聞く。名前の語感的には親和性の高そうな二人だが、一色の反応を見ていると微妙そうだ。年下同士仲良くしてほしい。
「あ、あのっ。俺も自己紹介していいっすか?」
そしてそう言ったのは、俺の隣に座った男子中学生である。すげぇなこいつ⋯⋯完全アウェーでこのまま地蔵になるのかと思ってたら自分から言い出すとは。
どうぞ、と雪ノ下が答えると、どこかの馬の骨は「はいっ」と返事をして続ける。
「あの、川崎大志っす! 比企谷さんと同じ塾に通ってます」
ぺこり、と大志は頭を下げると、それぞれがよろしくなり何なりと言葉を返した。元気のいい挨拶には百点を上げたいが、小町と一緒にいた時点でマイナス八万ポイントだ。異論は認めない。
「で、なんの用だ。用はないのか。じゃあ帰れ」
「まだ何も言ってないっすよ、お兄さん!」
「誰がお兄さんだぶち殺すぞ」
「はい! すいません! お兄さん!」
「吉本新喜劇のネタじゃねぇんだよ殺すぞ」
「はい! すいません! お兄さん!」
「だから⋯⋯」
「比企谷くん。公衆の面前で殺害予告は控えなさい」
村人との会話ばりのループに入りそうになったところを、雪ノ下に止められる。やめなさいではなく控えなさいと言うあたりに闇を感じないでもないが、とりあえずこのままでは状況がよく分からない。
「小町さんも、勉強会?」
俺に会話の舵を任せられないと思ったのか、雪ノ下が小町に問いかける。それに対して小町は、ふるふると小さく首を振った。
「いえ、そう言うわけではなくてですね⋯⋯」
「俺がちょっと、相談にのってもらいたいって頼んでたんすよ」
言い淀んだ小町の言葉を引き継いで、大志が答える。その言葉を聞き届けると、雪ノ下はほとんど逡巡の暇もなく言った。
「そう。もしよければだけど、話を聞かせてもらってもいいかしら? 三人寄れば文殊の知恵とも言うし、力になれることがあるかも知れないわ」
「あ、はいっ。ぜひお願いしたいっす!」
「えぇー⋯⋯」
「ヒッキー⋯⋯」
「先輩⋯⋯」
「お兄ちゃん⋯⋯」
もじゃもじゃ頭のミステリな主人公の如く超嫌そうな声を出した俺に、すかさず「こいつないわぁー」って視線と非難の声が飛んでくる。何故だ⋯⋯これは勉強会だったはず⋯⋯。これでは普段の部活と変わらないではないか。
俺の異議申し立てが却下されると、大志の方に視線が集まる。にわかに美少女集団から注目される形になった大志は「うっ」と一瞬たじろぎながらも、意を決したように話し始めた。
「その⋯⋯。姉ちゃん、総武高校に通う二年で、川崎沙希って言うんですけど、最近不良っていうか悪くなったっていうか⋯⋯。ここんところ帰りがめちゃくちゃ遅いんすよ」
かわさきさき⋯⋯川なんとかさん⋯⋯ああ、さーちゃんのことか。由比ヶ浜とのデートの帰りに会った、妹想いのクラスメートだ。
「あ、川崎さんの弟くんだったんだ。あたしとヒッキー同じクラスだし、前に京華ちゃんと会ったことあるよ」
「え、マジすか。由比ヶ浜さん、姉ちゃんと仲いいんすか?」
「えっと⋯⋯。仲がいいかと言われると、どうだろー的な? 一応喋ったことあるってぐらいで」
前のめりになった大志の質問に対して、由比ヶ浜はためらいがちにそう言った。確かにあの時もそれほど親しい感じではなかったし、さーちゃんを教室で見ていても一人でボケッと外を眺めていることが多い。いえいつも見ているという意味ではありませんけれども。
「それで、帰りが遅いってどれぐらい遅いんですか」
何故だか微妙に面白くなさそうな顔で、一色は続きを促す。どうでもいいけどこいつ、自分より年下でも敬語で喋るのか。年下キャラブレねぇな。
「それが五時とかなんすよ⋯⋯」
「それ遅いっていうか朝じゃねぇか⋯⋯」
仮に学外の友だちと遊び呆けている、もしくは盗んだバイクで走り出して十五の夜を取り戻しているとしてもちょっと遅すぎる。
そう言えばさーちゃん、遅刻して教室に入ってくるのが多かったな、と思い出していると、続けて由比ヶ浜が問いかける。
「そんな時間に返ってきて、お父さんとお母さんは何も言わないの?」
「うちは両親共働きだし、下に妹と弟がいるんで姉ちゃんにはうるさく言わないんす。それに時間も時間なんで顔も合わせないし⋯⋯。ぶっちゃけ暮らしにいっぱいいっぱいなんすよね」
その問いに答えた大志は、はぁと肩を落とした。京華の他にも弟までいるとなると、確かに一般的な家庭よりも子沢山だと言えるだろう。だからグレた⋯⋯と結びつけるのは、安直過ぎる想像だとは思うが。
「お姉さんと話をしたことはないのかしら?」
「たまに顔合わせて話してもすぐ喧嘩になっちゃって、事情も分かんないんすよね。姉ちゃん、総武高校行くぐらいだから中学の時とかすげぇ真面目だったんですけど、二年に上がってからなんかおかしいってことしか分からなくて⋯⋯」
話を聞くと、これまた厄介そうな案件が来たものである。さらっと重ための相談が集まってくるとかもうこれ奉仕部あるあるになりつつあるんじゃないでしょうか。
「帰りが遅い、ということ以外、他に何かなかったの?」
「後はエンジェルなんとかって言う、多分お店なんすけど店長って奴から電話がかかってきたんすよ。もうこれ絶対ヤバイやつっす!」
「え⋯⋯そう、かな?」
そう疑問を呈した由比ヶ浜は、恐らくコスメショップとかアクセサリーショップなんかを想像しているのだろう。しかし俺たち男子が想像するのはちょっと違う。当然行ったことはないが『白衣のエンジェル』とか『エンジェル・ランド』なんて名前の店であれば、大志の言う通り色々とヤバイ。どのぐらいヤバイかと言うともし想像通りの事実だったりしたら教室でまともに顔を見られなくなるぐらいヤバイ。まあクラスメートと絡む機会なんてまずないけどね!
「まあ、何はともあれ事情を聞いてみないとなんとも言えんな」
きっと大志には姉弟という関係もあって言いにくいこともあるだろう。ならばこの場の適任者は⋯⋯と由比ヶ浜の方を見ると、腕を組んで難しそうな顔をしていた。
「聞いて答えてくれるかなぁ⋯⋯。ほら、川崎さんって何か怖い系っていうか、周りに対して壁作ってるところあるし」
「そうか?」
俺からすれば、由比ヶ浜から見た彼女の印象は意外だった。
妹の京華が迷子になってそれを必死で探し、見つけた時のあの安心した顔。妹を大事にしている良き姉のさーちゃんのイメージしかないから、俺には由比ヶ浜の感覚が分からない。
しかしその感じだといくらコミュ強の由比ヶ浜と言えど、家庭の事情に踏み込んで話をして来てくれというのも難しそうだ。こういう場合はのちのちに関係を続ける可能性の低い、部外者の方が話をしやすいかも知れない。なんか自分で考えてて悲しくなってくるな。
「仕方ない⋯⋯。事情を聞けるかどうか分からんが、俺が話してみる」
言った瞬間、えっ、と俺以外の人物の動きが固まった。なんじゃその反応⋯⋯と不服を覚えていると、一番最初に動きを取り戻した雪ノ下が心配そうに問いかけてくる。
「大丈夫なの? ちゃんと会話、できる?」
「お兄ちゃんがかぁ⋯⋯」
「直接聞いて話してくれるかなぁ⋯⋯」
「ばりばり警戒心抱かれそうですよねー」
「お前らなぁ⋯⋯」
人が前向きに検討した結果を伝えているのに、酷い言われようだった。
俺だって会話ぐらいできるし、事情を聞くといったヒアリング程度なら問題はない。ただ雑談を重ねたり思いを語りあったりして人と仲良くなるというのが苦手なだけだ。おいまた考えてて悲しくなってきちゃったよ。
「けれど、思いのほか協力的なのね」
「そんなんじゃねぇよ」
これは別に大志の相談に対して協力的、というわけではない。大志の悩みが解決しないと、相談と称した小町に近づく口実が消えないからだ。小町によりつかんとする毒虫を追い払う為なら手段を選ばないというだけである。
「ありがとうございます、お兄さん!」
「だからお兄さんじゃねぇ殺すぞ」
「面倒くさい兄だなぁこの人⋯⋯」
またループしそうな会話に、小町がさくっと切り込んでくる。なんかごめんね? でもどこの馬の骨と知れたところではいそうですかと認められないのだ。
「では一度、比企谷くんに任せてみましょうか」
雪ノ下がそう言うと、微かに漂っていた緊張感のようなものが解れていくのが分かった。
ようやく本来の目的である勉強会に戻れるな、と思っていると、横から大志がちょいちょいと俺の袖を引いてくる。
「お兄さん、ちょっといいっすか」
「なんだよ⋯⋯」
だからお兄さんって呼ぶんじゃねぇよ、と考えながらも席を外そうとする大志にそのまま袖を引っ張られ、俺も離席せざるを得なくなる。小町と談笑しだした女子陣はまだ勉強を再開しだす様子もなかったし、姉の取り扱いについてとかの話ならば聞いておいた方がいいだろう。
雪ノ下たちを置いて店の外へと出ると、俺が何の用だと聞く前に大志が話し始めた。
「あのっ! 俺も総武高校行きたいって思ってるんす!」
「お、おぅ⋯⋯」
なんでそんな話をするのにわざわざ外に連れ出されたんじゃ⋯⋯と思っていると、大志は食らいついてくるような勢いで聞いてくる。
「それで聞きたいんですけど、総武高校の女子ってみんなあんなレベル高いんすか? ヤバくないですかあの三人」
「ああー⋯⋯」
なるほど、そりゃあの場では聞けないわなと納得する。
確かにあの三人は、特別綺麗だし可愛い。しかし
「そんなわけねぇだろ。百人に一人もいないぞ、あいつらみたいなのは」
「ですよねー⋯⋯」
そう言って大志はまた肩を落として、分かりやすくがっかりしていた。しかし次の瞬間には、またその目には希望が宿っている。
「でも多くはなくてもいるんすよね? どうしたらお兄さんみたいにモテるのか教えて欲しいっす!」
こいつ、本当にポジティブなやつだな⋯⋯。しかし大いに勘違いしているので、それは訂正しておく必要がある。
「俺は別にモテてねぇよ」
「それは嘘っす! あんな綺麗な人たちに囲まれてる時点でモテてるっす!」
「お前のモテハードル低すぎんだろ⋯⋯」
部活仲間とよく分からん後輩との勉強会をしていただけでそう認識されるとは、まったくおめでたい思考だ。ちょっと羨ましくなる。
「もう戻るぞ」
「待って下さいお兄さん! モテるコツを教えて欲しいんすよ!」
踵を返して店の中に戻ろうとすると、また大志は俺の袖を掴んできた。こいつ面倒くせぇ⋯⋯と思いながら、何故大志がそう思うような状況になっているのか考える。
⋯⋯うーん、やっぱりよく分からん。雪ノ下の思わせぶりな態度も、それに裏で張り合うと言い切った由比ヶ浜も、何故か絡んでくる一色も謎だらけだ。
だが、どうしても何かを言えというのなら、俺の答えは一つしかない。
「一つだけ、教えてやる」
「はい!」
「犬が車に轢かれそうになってたら、全力で助けろ」
「はい?」
俺がそう言ってにっと笑うと、大志は心底不思議そうな顔をしているのだった。
* * *
翌日、昼休みのことである。
今日も今日とて遅刻してきたさーちゃんに「話す時間を作ってくれ」と交渉したところ、指定されたのがここ屋上だ。教室で自分からクラスメートに話しかけるというミッションをこなした俺の心労たるや凄まじいものがあるのだが、本当のミッションはここからである。
軋みながら閉まる音を背中で聞きながら、俺は手摺の方へと歩みを進めた。
屋上、というのはもちろん生徒に一般開放されている場所ではない。扉の南京錠が壊れているのを知っていたってことは、彼女はよくここに来るのだろうか。由比ヶ浜のイメージ通りなら、屋上でサボるのに使っていたのかも知れない。
そんなことを考えながら屋上からの景色を視界に収めていると、きぃっとまた扉が鳴いた。振り返るとそこには青みがかった髪をポニーテールにした、気怠げな待ち人が立っている。
「⋯⋯何、話って」
さーちゃんは俺から距離を取って、手摺にもたれかかる。俺と一瞬目を合わせると、ぷいと明後日の方向を向いた。
「悪いな。時間作ってもらって」
「別に⋯⋯。あんたには恩もあるしね」
そういう割りには少しばかり対応がクール過ぎるのは気のせいだろうか。まあ、幼い妹に向ける顔と同年代に向ける顔が同じなわけがない。さーちゃんから京華に向けるような表情された日にはギャップでコロリといってしまう自信がある。それ自信って言わないんだよなぁ⋯⋯。
「で、話って?」
「あー⋯⋯。最近、結構遅刻してきてるだろ?」
俺がそう言うと、明らかにさーちゃんの表情が変わった。彼女にしてみればもっとも触れられたくない話題だろうから、ある意味予想通りだ。
大志の名前を出してもよかったが、下手に最初から依頼のことを伝えると口が堅くなってしまうかも知れないから、奥の手に取っておきたい。だから今はあくまでクラスメートとして心配している、というスタンスだ。
「⋯⋯それが何?」
「いや、なんつーか⋯⋯いっつも疲れてるみたいだし。なんかトラブルに巻き込まれてるんじゃないのか?」
「⋯⋯」
「授業受けてる時とか、けっこう欠伸とかしてるのも見えるしな。睡眠不足になるぐらいの何かがあるなら、相談にのるぞ?」
「は⋯⋯?」
一瞬呆気に取られたような表情を浮かべると、ざっと俺から距離を取る。自らの身体を掻き抱くと、完全にヤバイ人を見る目で俺を見ていた。
「何それ⋯⋯あたしのこと、そんないつも見てたの?」
「はい⋯⋯?」
お、おぅ⋯⋯なんだこの反応⋯⋯。確かにデート帰りに会ってから少しは見てたけど、そういう意味で言ったわけではない。
何勘違いしとんじゃと俺が突っ込む前に、さーちゃんは続ける。
「あのさ、確かにあの時借りは返すって言ったけど、そういうのは⋯⋯」
こいつはさっきから何を言ってるんだ⋯⋯と考えていると、ふと思い出した。
『二年F組の比企谷はJ組の雪ノ下の弱みを握って好き放題やっているカス野郎』
ひょっとして例のチェーンメールの内容がさーちゃんにも伝わっていて、あれを事実だと信じ込んでいるのか? だとしたらよりおかしな勘違いをされているらしい。
「おい、何か勘違いしてるぞ。俺はただクラスメートとしてだな⋯⋯」
「一回喋っただけでそんな相手のこと気にするわけないじゃん。あんた何なの?」
俺の弁明虚しく全く誤解は解けていないどころか、むしろややこしくなっている。
しかしさーちゃんの発言には一男子として反論せねばなるまい。非モテ非リア充は一回喋っただけで気になるし勘違いもするし、何なら三日以内に好きになるまである。あれこれ、やっぱり俺はさーちゃんが危惧した通りの人間じゃ?
「何なのって言われてもな⋯⋯」
「あんたがどういうつもりか知らないけど、話すことなんて何もないよ。別にトラブルなんてないから。じゃ」
そう言ってさーちゃんはスタスタと屋上の出入り口に向かって歩き出してしまう。これはかなりよろしくない。俺が話してくると大手を振って来たのに、これではカス野郎だと思われただけだ。このままでは奉仕部の面々の前で「何の成果も!! 得られませんでした!!」とぼっち調査兵団になってしまう。ぼっちなのに兵団ってどういうことだよ。
「ちょっと待った。言えないってんなら、ヒントをくれ」
「は⋯⋯? ヒント?」
「ああ、それで貸しはチャラだ」
扉のノブを握ったまま、さーちゃんは逡巡する。貸し借りなんて言葉は使いたくはなかったが、そう言えば何らかのヒントは得られるだろうし、俺への変な誤解も解けるはずだ。
やがて意を決したように、さーちゃんは俺の方を見て言った。
「学費!」
突き放すようにそう言うと、さーちゃんは屋上の扉を開ける。
──瞬間、校舎へと吹き込んだ風がさーちゃんのスカートをひらりと舞い上がらせた。
さーちゃんはスカートを片手で押さえると、こちらを振り返ることなく校舎の中へと消えていく。俺の脳裏に、風の悪戯が何度もリプレイされている。
「黒のレースか⋯⋯」
じゃない、学費か⋯⋯彼女の抱える問題は。
俺は僅かな収穫と遥かなる光景を胸に抱き、思案に
川なんとかさん改め、さーちゃんのお話でした。
あと一話この関係の話が続いて、二巻パートはお終いです。
引き続きお楽しみ下さい!