ミオナ・ディートリンデ・ヴィルケ
1943年1月20日(wed)
私が1944年に来てから一週間が経った。相変わらず、母さんの居場所は分からないし、501部隊に関する情報も手に入らない。この時代のハイデマリー院長や母さんを探しに行きたいけど、セレナが四六時中わたしを付け回しているせいで基地を出られそうにもない。最悪だ。気が狂う。
だから今日から、自分の精神状態と記憶を確認するために自伝を書くことにした。
まずは、一番古い記憶から。
一番古い記憶は、ガリアの難民キャンプだ。あの頃は8歳だった。
気がついたらそこにいた。(それより以前のことが思い出せないっていうのはどうも違和感が拭えないけれど、思い出したくない何かがそれより以前にあったんだろうから、無理には掘り起こさないでおく)
あの頃、ガリアの難民キャンプは深刻な物資不足だった。
毎日(たまに二日に一回)配給されるパンを奪い合う。ガリア人が最初に取って、次に元軍人が取って、その次に強そうで態度が大きい人から順にパンを取って行く。最後、運がよければ子供と老人にパンが行き届く。わたしの場合、三日に1回食べられたら良い方だった。
兵士にタバコやお金を渡さないとキャンプを追い出されたり、それで何か文句を言ったら撃ち殺されたり。ガリアはそれで事前活動をしてる風に国際社会では振る舞っていた。
だけど、何より、何よりノミ…そう!ノミが酷かった!思い出すだけで痒くなる!
あそこにいた頃は毎日全身が痒くて、体を掻いてない人はいないくらいだ。
今思うと、みんながイライラしてた原因もそれだろう。そうに違いない。
じゃなきゃ、パン一つのために殺し合うなんて、するわけがない。
キャンプで生活してから半年が経った頃だ。
ここにいたら死ぬとようやく理解した私はキャンプを出ることにした。
最初は行く当てもないし、行く先々廃墟ばかりで「あぁわたし死ぬんだ」と覚悟していたっけ。だけど、いよいよ餓死寸前ってところでリベリオンの駐留軍が出す残飯を見つけた。
缶にこびりついたSPAM、食べかけのハンバーガー、しめったフライドポテト。
こんなに残飯を出してくれるなんて、リベリオン人は寛大だと泣いて感謝しながら頂いたのを覚えている。それから廃墟から残飯を食べに行く生活を2ヶ月くらいしていた。
雨の日は寒かったけど、キャンプで雑魚寝するよりマシだった。
ある日、哨戒で飛んでたリベリオンのウィッチさんに見つかってしまった。
何か空から音がすると思って、顔をあげたら目があった。
相手はたぶん1000mくらい上にいたけど、確実に目があったと思った。
軍人=難民撃ち殺すマンだと考えていたその時の私は全力で逃げた。
だけど走っても走っても、ストライカーのエンジン音が近づいてくる。
お昼ご飯を食べようって欲を出したのが良くなかったのかな。とか銃で撃たれたら痛いのかな、とか考えながら全速力で走った。
当然、私は1分もしないうちにウィッチさんに捕まった。
「なんてもの食べてるの!?ペっしなさい!」とか「うっ!酷い匂い…」とか、当時まともに生きているつもりだった私からすれば散々な物言いだったのだけれど。ウィッチさんは私の体を軍のシャワーで洗って、服を着替えさせると撃ち殺さないで孤児院へ送った。
あの時のウィッチさんには本当に感謝しています。
孤児院はクロステルマン財団の、ペリーヌさんという人が寄付で建設したものらしく、そのお金でハンバーガーが何個食べられるんだろうとか、なんでこんなものを作ったんだろうとか、当時のわたしは考えずにはいられなかったわけだけど。
ともかく、孤児院は雨風凌げて、毎日食事が食べられる。
寮は一部屋二人が同室で、部屋の二段ベッドにはノミも居なければ、足を腐らせる病原菌もいない。
院長のハイデマリーさんも優しくて美人で、女神みたいな人だし、今までの人生で最高の居場所だと思った。
同室だったセシリアとは軍に入ってからも文通をする仲だった。
孤児院に入って、最初に部屋へ案内された時、セシリアはこっちにお尻を向けて、部屋の隅に向かって四つん這いになってたっけ。
こっそり飼っていたネズミにパンをあげていたんだよね。でも、今は時効だから書くけど、院長も他の子も知ってたよ。最近まで気づかれてないと思ってたらしいからビックリしたけど。
ネズミの名前はライサンダー。由来は『夏の夜の夢』に出てくる男の人だ。
セシリアは何か『夏の夜の夢』を連想させると、いつもその物語について語りだした。何回も何回も、相手がそれを聞いていても、聞いてなくても、知っていても知らなくても関係なく。
その癖が原因で、友達は私しか居なかったみたいだけど、演劇とか、小説とかそういう概念すら知らなかった私にとっては、何回聞いてもセシリアの話は面白かった。
それに毎回、よく聞いてみると、いつも微妙に語り口や抑揚が変化している。
そういう僅かな変化を見つけるのも私の楽しみだった。
昼食の後、広場でいつものようにセシリアの演劇を聞いていると、赤い髪の子(名前が思い出せない)が来て「あんた、いっつも同じ話で嫌にならないの?」と聞いてきたから。
「なんで?」と答えたら、その子は「は、お似合いね」と言ってからどこかへ行った。
セシリアの方を見ると俯いていて、自分の靴先を見ていた。
わたしが「シェイクスピア」と言っても、「カールスラント劇場」と言っても無反応。
セシリアはその日から演劇をしなくなった。
セシリア劇場が閉鎖してから三日くらいが経った日の夜のことだった。
わたしは明かりを落として、いつものように二段ベッドの下で目を瞑る。
だけど、その日は目を閉じても眠れそうにはなかった。
なんだか妙にセシリアのことが気がかりだった。
(今思うと、初めて他人のことを考えたのはこの時だ)
そうして悶々としてからしばらくして、上からセシリアの声が聞こえてきた。
「昔、ガリアに居たころにね」
わたしが返事をしようか迷っていると、独り言みたいに続けて行った。
「わたしね、パパとママと、シェイクスピアを見に行ったの」
昔の思い出話だった。まだネウロイに街が焼かれる前の、私の知らない世界の話。
「それでね、劇場には独特の空気があるの。開幕する前なんてすごいの。みんなが息を止めてるみたいに静かでね」
「わたしの席の、前の人がちょっと大きい人で、よく見えなくてね、でね、」
「それで、パパが膝の上にわたしを乗せてくれて、見えるかい?セシリーって……それで…」
「…………」
「……っ!うぅぅぅ」
静かに聞いていると、堪えるようにすすり泣く音が聞こえた。
なんとなくだった。なんとなく、雨が降りそうな気がして、別の廃墟を探す時みたいに。
わたしはベッドを出て、短い梯子を登って上に登る。
「なんで…!」とか「やっ、こないでっ」とか散々な物言いだったけど、わたしは狭いベッドに無理やり入って、セシリアの頭を胸に押しつけた。
鼻水とか、涙とか、唾液とか、そういうものが服につくのは今更気にしない。
思えば人を抱いたのはこの時が初めてだ。
大体、5分くらいそうしていたら、涙の音は聞こえなくなった。
「…ぐすっ…ミオナの胸、固い……いたいっ!?」
ただ一つ許容できない物言いを制裁して、そのまま同じベッドで寝た。
その日はよく眠れて、院長がお越しにくるまで起きなかったのを覚えてる。
それで、次の日の昼食の後セシリアはいつものように演劇をしてくれた。
「昔々のガリアのお話。ミオナという少女が森を歩いていると…」
でもそれは夏の夜の夢ではなくて、セシリアが考えた物語だった。
それはすぐに評判なって、いつも昼休みなると広場に人が聴きにくるようになった。
少し離れた、木の影からあの赤毛の子がこっそり聴きに来ていたことも知っていたが、セシリアには言わなかった。彼女の友達は私だけで良いのだ。
1965年、彼女はブリタニアで歌手をしている。
今は1944年、彼女はまだ生まれてない。