最近、キタサンブラックの距離感が近すぎる。   作:妄想投棄場

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サトノダイヤモンドに監禁された

「目が覚めましたか? トレーナーさん」

 

 聞き覚えのある声がしたので体を動かそうとするが、全く動かない。目だけを開けるとひどく見知った鹿毛のウマ娘が視界に映る。

 

「サトノ? どうして?」

 

 目の前には僕の担当ウマ娘であるサトノダイヤモンドが僕を見下ろしていた。

 どうしてこの場所にいるのか記憶がおぼろげだ。

 

「決まっているじゃないですか、トレーナーさんが悪いんですよ」

 

 サトノが何を言っているのか僕には理解できなかった。

 

「いや、今この瞬間に悪いのは僕をこんな場所に拘束しているサトノの方だと思うけど」

 

 そう言ってサトノの非を糾弾しながら状況を整理してみる。

 僕は仰向けになっている。体が動かないのは掛け布団などで体が圧迫されているからだろう。力を入れても抜け出せないところを見ると、すまきのようにグルグルに縛られているのかもしれない。

 顔は動く。ぐるりと部屋の内観を一望する。

 壁や天井は経時的な劣化は多少みられるが、ほこりなどはない。よく手入れのされている場所だと思う。特に目についたのは柱だ。一文字が引かれている。それだけならばなんの変哲もないけれど、同じような場所に何度も何度も、柱の寿命を縮めてしまうんじゃないかと言うくらいに、刻まれていた。

 何度も刻まれた一文字を観察していると、あることに気づく。点在していた場所から30cmほど離れた場所に二つの一文字が刻まれていた。詳しいことは分からない。

 上の方が柱の傷みが少ない。つまり、これが意味するところは。

 意味するところは……

 

「なんでですか! 手錠をしているわけじゃありませんし、トレーナーさんが寝ている時に静かに運んでここに連れてきただけじゃないですか!」

 

 思考に沈んでいた僕の意識がサトノの言葉で引き揚げられた。

 なるほど。寝てる間に連れてこられたんだ。

 そう言えば昨日は仕事が立て込んでいて、寝るのが遅くなってしまった。というより、朝日が窓から見えるのを確認して寝た気がする。

 

「ふーん、かなり大胆不敵じゃん」

「それはしょうがないじゃないです。トレーナーさんがキタちゃんのことエッチな目で見てるんですから」

「……文脈が飛躍しすぎて理解が出来なかったんだけど?」

 

 寝てる僕を無断で知らない場所に拉致してきたことに対する非難をしたつもりだった。

 いや、まだ申し開きをするなら、どうしてこんなことをしたのかの理由を言うのが普通だ。

――僕はキタサンのことをエッチな目で見てないが?

 そう言いたくなるのをぐっと堪える。サトノはキタサンが絡むとめちゃくちゃに話が通じなくなる。つまり、今のサトノは普通ではない状態だと言える。ここでそんな発言をしようものなら、火に油を注いで事態をいたずらに深刻化させるだけだ。

 だから僕は、限りなく彼女から言葉を引き出すことに専念することにした。

 

「ですから! この前、キタちゃんがトレーナーさんとお買い物に行った後から、キタちゃんがだらしない顔をよくするようになったんですよ」

「なるほど」

「これはトレーナーさんにたぶらかされたなと」

「また飛んじゃった」

 

 どうやらなんとしてでも、サトノは僕が悪いと言いたいみたいだ。

 

「ですから! トレーナーさんがこのままキタちゃんのことをたぶらかさないように私がトレーナーさんを管理する必要があるんです」

 

 その理屈には全く納得がいかなかった。だって、こんな場所に押し込めておく理由としてはあまりにも弱すぎる。

 そして何よりも、管理などという言葉にこの状況は全く適していない。管理するというのであれば、もう少し、身体の拘束は緩めて、精神的な拘束を強めるべきだ。

 全ての行動を許可制にして、少しでも破れば思い出したくもないような罵声を受けながら、しつけられる。自分が悪いのだという自己肯定感の喪失と、この人がいなければ生きてはいけないという他所依存を徹底的に教えこんで管理ははじまる。

 それを鑑みればサトノのやっていることなど児戯に等しいと言える。

 というよりも、むしろそれは、

 

「寂しかったってこと?」

「な、なにを言っているんですか急に!?」

 

 顔を赤く染めながら、サトノは僕の言葉を否定した。どうやら違ったみたいだ。

 でも、サトノが言っている状況を整理すると自分が知らない内にキタサンがお出かけしているのを知って、寂しくなって、構ってほしかった。という風にしか僕には解釈できなかった。

 でも、まあ、サトノが違うっていうんなら違うんだろう。

 

「そんなことはいいんです! ですから、今日は、いや違う違う。今日からトレーナーさんは私が管理します。解放してあげるかどうか私の気分次第なので、精々、キタちゃんをエッチな目で見てしまったことを後悔してください」

「わかった」

 

 何も分からないということが分かった。そのことをサトノに伝えると誇らしげに彼女は胸を張っていた。

 それ以上に僕は気になることがあった。

 

「そういえば、練習はしなくてもいいのかな?」

 

 僕から言わせればおままごとみたいな監禁ごっこだ。この程度で練習を休むのは、練習熱心なサトノにしても不本意なのではないだろうか?

 そう思い声をかけると、あらかじめ質問されるのを待っていたかのようにドヤ顔で答える。

 

「そういう心配をしなくていいために週末の今日を選んだんです!」

「なるほどね」

 

 なるほど。これは用意周到な計画に間違いなかった。

 害意はない。本気の嫌悪も窺えない。サトノが練習をするのをすっぽかしているわけでもない。

 

「わかった。僕は僕の身の潔白を証明するためにサトノの言うことに従うよ」

「あっ!……こほん、分かればいいんです! しっかり反省してください」

 

 喜色の混じった声でサトノはそう言った。どことなく表情も明るい。

 僕は色々なことを考慮した結果、無駄に抵抗せず、気が済むまでサトノの監禁に付き合うのがベストだと思った。いや、彼女たちの力に勝てるわけはないので、気持ち的な意味での抵抗だけれど。

 それにこういう時間に付き合うのも悪くはないんだと思う。

 

「えへへ」

 

 練習中の真剣に向き合っているサトノではなく、こうした子どもっぽいサトノの一面を見られただけで相当に価値があるように思える。前回のキタサンとの買い物で思ったが、僕は彼女たちを練習やレースの上でしか知らなすぎる。彼女たちの内面をより知ることで今後に生かせると思ったんだ。

 だから、まあ、なんていうか

 

「こういうのも悪くないかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

「最悪だ……」

 

 人一人が入れるくらいの閉鎖的な空間に僕はいた。

 目の前の便器を見ながら漏れた一言。それに応えるように外から声が聞こえる。

 

『と、トレーナーさん。あの、そのぉ……もう、終わりましたかね……』

「まだだから! まだはじめてないから!!」

 

 伺うような声が聞こえてくる。ぽつりぽつりと言葉を出す様子からもかなりの羞恥が滲んでいた。

 どうしてこんな状況になってしまったのか。サトノの鋼の意志を僕が甘く見ていたせいが原因の一因であることは間違いなかった。

 

 

 

 

 サトノの監禁に付き合うと言ってからその後はサトノから何もされなかった。本当に何もされないのだ。

 彼女は正座をしてずっと僕を眺めている。僕は仰向けのまま、寝がえりを打つことも出来ず同じ姿勢を続けることを余儀なくされた。

 気づけば本気で1時間くらい経っていたと思う。同じ姿勢を続けることによる筋肉の緊張や気疲れ具合が30分にしては短く、90分ほどの長さでもなかったから。

 失ったのは有限である時間で、得たものは耐えがたい本能的な衝動だった。

 

――トイレに行きたい。

 

 人間の欲求は5段階からなるという。

 そして僕が抱いたのは、生命活動を行うものなら絶対に抱いていしまうきわめて原始的な欲求だった。

 

『ねえ、サトノ。あの、ちょっと布団から出してくれない』

『嫌です』

『ノータイム過ぎてびっくりしちゃった。でも割と一大事なんだよね』

『私がトレーナーさんを管理するよりも大事なことですかそれは』

『うーん、まあ僕の尊厳とサトノが僕を見る目が変わってしまうぐらいには大きなイベントかも』

『???』

『お手洗いに行きたいってコト!!!!』

 

 なんだか普通に言うのも恥ずかしくなってしまい、ふざけるように大声でサトノに訴えてしまった。

 

『あっ……あー、あー。そう、ですよね、トレーナーさんも男の子ですもんね』

『この欲求は男も女も関係ないと思うんですけど』

『えーっと、えーっと。すいません今ちょっと探してきます』

『??? 僕はお手洗いに行きたいんだけど』

『……ペットボトルあったかな』

 

 サトノのか細い独り言を僕はなんとか聞き取ることが出来た。

 お手洗い、男の子、ペットボトル、管理。

 全く関連がないように見える単語の羅列。しかし、それは常識の上での話だった。人間としての尊厳を考慮しなければ、この単語は一直線に意味を成してしまう。それを理解したくはなかった。でも、絶対に止めなければいけないという強い意志だけが僕を突き動かしていた。

 

『お、おねがいだから、それは、やめて……』

 

 たぶん、これが担当ウマ娘に初めて見せた涙だったんだと思う。

 その言葉を受けたサトノは手のひらを返したように僕を布団から出してくれる。立ち上がろうとするが、上手く力が入らずサトノに支えてもらいながらお手洗いまで言った。

 

『えへへ、トレーナーさんが私を頼ってくれました』

 

 ひどく無邪気な独り言も僕の耳に入って来た。あまりにも純粋な一言だった。穢れを知らないからこそ出る言葉だ。彼女がもし、困難に直面しその純粋さに影を落としてしまったのならば、今の言葉も全然意味が変わってくるだろう。

 その言葉を聞き、僕は改めてサトノもキタサンもしっかりと導いてあげなければいけないと決意した。

 

 

 

『と、トレーナーさん。あの、まだでしょうか』

「ごめん、僕トイレに入ると考え事が多くなる性質なんだ」

 

 この最悪な状況から逃避するために、ことの始まりを振り返っていた。

 サトノは僕をお手洗いまで連れて来てくれた。その後は、あろうことか彼女も中までついて来ようとしたのだ。顔を真っ赤にしながら目を逸らしてとても恥ずかしそうにしながらも、『私はトレーナーさんを管理しないと』と自分に言い聞かせているサトノの鋼の意志に空恐ろしいものを感じていた。

 でもそれだけはダメだった。僕は今まで彼女たちに見せたことのないくらいの必死さで、それだけは拒否した。

 ウマ娘は耳が良い。

 終わったかどうかの判別などつくだろう。あえて、せかしているのだろうか。

 

『その、おばあ様が言っていました。殿方でお手洗いに行くのに時間がかかるのは殿方だけにしか分からない特別な時間を過ごしているのです、と。トレーナーさんも、いまその時間を過ごしていらっしゃるのでしょうか』

「は?」

 

 怒髪天を衝く。というのはこういう気分のことを言うのだろうか。

 サトノの祖母と言えば名家であるサトノ家の実権を握っている家長だ。

 サトノ家では家長が絶対的な発言力を持っており、分家や傍流だけでなく、実子でさえも家長の言うことには絶対だという封建的な家制度が今なお根付く、メジロ家シンボリ家に並ぶ格式高い家である。

 そのお偉い人が孫に何を教えているんだ。

 そんなことを思いながら、僕は自分の過ちに気づく。

 音もしない、中に入っている時間が長い。男性である。ここから彼女が導き出したのが先ほどの答えだろう。

 何をしてもダメなのだ。彼女にとって悪影響だ。もうこの空間と関係性が大変よろしくないのは分かる。しかし、だからこそこの先まで進めてはダメなのだ。

――僕は大人だ。

 キタサンと買い物に行った時もそれを念頭に彼女に接した。ならサトノにだって同じように振舞うべきだ。となれば、やることは一つだ。

 扉を数度ノックする。

『どうかしましたか?』

「終わったよ」

『? 何も聞こえませんでしたが』

「出なかったの!!!!」

『は、はあ』

 

 サトノの言葉から困惑が滲んでいた。

 僕はゆっくりと扉を開けた。困ったように鹿毛を揺らしながら、揺れる小麦色の瞳に目をやる。

 そこの瞳に映るのは、少しやせた男の姿だった。青白いと言えるくらいに白い肌で、大きな茶色い瞳をしている。男性らしさはあまりうかがえない。シルエットを強調した服装で街を歩けば男性から声を掛けられ、喋って男口調が出るまでは女性として扱わるのも少なくない、華奢で吹いたら飛んでいきそうなくらいの優男だった。本当に、嫌になるくらいに消え入りそうな姿だった。

 

「トレーナーさん、なんでそんなにふくれっ面をしてるんですか」

「引っ込んだから! 僕もう寝るから!!」

 

 なんでこんなにイライラしてるのか僕にもよく分からなかった。

 嘘をついた。

 頼れるかっこいい大人の男性としては見られたい。カッコいいですねって言われたい気持ちがないかと言えば嘘になる。

 でも、担当ウマ娘が扉の前にぴっちり張り付いた状態で、ナニか出来るような恥知らずにはなりたくはない。そんなことをしたら僕は僕が許せない。

 もっと男らしく、男性であることを意識できるような容姿をしていたら、サトノもキタサンも僕に対する接し方が変わったんだろうかと思うことが多々ある。

 サトノがこんなことをしてきたのも僕が男っぽくないからなのかなと思うと、モヤモヤして少し苛立ってしまった。

 

「と、トレーナーさん。ごめんなさい、私」

 

 布団の中に閉じこもる僕にサトノが声をかけてきた。

 

「別に……僕はサトノに監禁されているんだし、反省するまではサトノの言うことを聞かなきゃいけない立場だし」

「そんな子どもみたいな……」

 

 自分の感情も制御できずに僕はサトノに八つ当たりしてしまった。本当に情けない。反論もできないくらい僕は子どもだ。

 少しの間だけ沈黙が僕たちを覆う。

 頭が冷えてくると、どうしようもなく恥ずかしくなってきた。この監禁ごっこに至るまでのやり取りをなかったことにしたい。

 何がサトノの監禁ごっこに付き合ってあげる、だ。機嫌が悪くなったら余裕がなくなって突然態度わるくなるくせによく僕はそんな上からでものが言えたなと自省すると急に顔が熱くなる。

 布団の隙間からサトノの様子を伺うと、少しおろおろとどうしていいのか分からない表情をしていた。

 

――なにをやっているんだ、僕は。

 

 勝手に思い込んで、勝手に不機嫌になって、いつもいつも自分勝手すぎる。これでは、ただ体だけが大人になった子どもだと自分自身を非難する。これでサトノが僕との距離感が分からなくなりでもしたら僕は一生後悔することになる。

 だから、ここは大人として僕が歩み寄らないといけない部分だ。

 布団をかぶったまま顔だけを出してサトノの方を向く

 

「と、トレーナーさーん?」

「どうせ僕は、子どもですよ。すぐに拗ねるわがままな子だよ」

「いや、そんな……」

 

 

 無理だった。やっぱり口から出たのは面倒くさいタイプの子どものそれだった。

 恥ずかしくなり、顔が熱くなるのを自覚しながら僕はまた言葉に詰まってしまう。どうしたものかと考えあぐねていると、サトノがくつくつと声を殺すように笑いはじめた。

 

「どうしたの」

「いえ、少し面白かったもので……」

「大きな子供が?」

「違いますよ」

 

 優しい笑顔だった。

 薄茶色の鹿毛が楽しそうに跳ねている。小麦色の瞳や声から喜色が滲む。

 見惚れるくらい、優雅で綺麗だった。

 

「トレーナーさんもちょっとムッとしちゃうとああいうことをするんだなって」

「どういうこと?」

「トレーナーさんは、私や、たぶんキタちゃんにとっても家族以外で一番よく関わる大人の人なんです。実家以外ではあまり大人の人と深く関わることはありませんでした。実家でもおばあ様やお父様お母様以外はちょっと距離があるというか親戚づきあいの延長でしかなくって……」

 

 あまり知らないサトノの話だった。たぶん、はじめてぐらいだと思う。

 

「トレーナーさんは、おばあ様、お父様、お母様みたいにちゃんと受け止めてくれるけど、みんなよりも私たちのことを対等に見てくれます。でも、自分は大人だからって、いっつも一歩引いた感じであんまりトレーナーさんの練習以外での様子ってよく分からなかったんです」

 

 そんな風に思っていたんだ。知らなかった。まあ、あんまり弱いところを見せたらサトノやキタサンに不安をかけちゃうんじゃないかなとはいつも思っていた。

 

「トレーナーさんってやっぱり私たちがちゃんと出来ていないと時々厳しい言葉を掛けますよね? でもちゃんと出来ているところも言ってくれてて、本当に怒ったりしてる所は見たことがなかったんです。だから、さっきプリプリ怒ってるところを見て、あ、トレーナーさんも怒ったりイライラすることもあるんだって思いました」

「でも、情けないでしょ」

「どういうことでしょうか」

「すぐに怒ったりとかイライラしてる人ってあんまり僕は好きじゃないし。見てて余裕ないんだなって思うからさ、そういう人に何かを教わるって嫌って言うか、話を聞こうって気にならないのかなー、と」

 

 真摯に向き合うなら、感情の起伏で言うことが変わったり、言葉がきつくなったりするのは避けるべきだと僕は思っている。そういう信条でサトノやキタサンに指導してきた。みんなそう考えていると思っていたけれど、どうやらそうではないみたいだ。

 

「うーん、そうですね」

 

 サトノは僕の言葉を受けて顎に指をそえる。数分思案したのちに、考えを話してくれた。

 

「昨日と今日で言うことが違うのはとても困りますね」

「やっぱり」

「でも、一度も怒らないとか、ずっと同じ態度で接してくれるのも、それはそれで私は困ってしまうと思います」

「どういう、こと?」

「だって、それ以上好きになれないじゃないですか」

 

 意味がよく分からなかった。今のままではサトノが意図する真意が遠すぎる。

 僕の困惑に気づいたようでサトノは言葉を続ける。

 

「私、実はキタちゃんの周りを見ずにつっぱしる所、嫌いなんです」

「急に爆弾発言投下されて僕はどんな気持ちで聞けばいいかわかんないんだけれど」

「でも、そのキタちゃんのおかげで私とキタちゃんはトレーナーさんと出会えました」

 

 その言葉からはひどく愛おしさが滲んでいた。

 

「私とキタちゃんが出会った時もそうです。4歳か5歳くらいの時、どの季節もハレの行事があれば親戚への挨拶回りをするのが常でした。それで挨拶が終わって退屈な大人だけのお話の時間になった時、私は息が詰まってしまいそうで、家から抜け出したんです」

 

 幼いころから今のような大胆さをサトノは持ち合わせていたらしい。

 

「知らない道を歩くのが楽しくて、好きなように進んでいたら気づけば家への戻る道が分からなくなっていました。帰り道が分からなくなり、迷子になっていることに気づいた瞬間、なんだかこの世界にぽつんと一人、私以外誰もいなくなってしまったような心細さがあって、すぐに泣いちゃったんです」

「……」

「誰か見つけて欲しいって思いながらとめどなくあふれる涙を流しているときに、キタちゃんに出会ったんです」

「手を引いてくれたんだ」

「いえ、キタちゃんもちょうちょと猫を追いかけていたら迷子になって泣きながら歩いていました」

「あっ、そうですか」

「でも、私もキタちゃんも出会った瞬間に泣き止んでいたんです。二人ともおんなじ言葉を口にしてました」

 

 そう言って、サトノはまたおかしそうにくつくつと喉を鳴らしながら、その言葉を口にした。

 

「『綺麗なウマ娘だ』、そう言いながら私はキタちゃんに見惚れていました。涙なんかすぐに乾いてしまったんです。視界が滲んでいたら、目の前にあるすっごいキラキラが薄れるような気がしたので」

 

 いわゆる一目惚れ、というヤツなのだろうか。

 

「キタちゃんも同じ気持ちだったみたいで、すぐに涙を拭って私の手を掴んで『お家をさがしてあげる』って言ってくれたんです。自分の帰る場所も分からなくなってるのに」

 

 おかしいですよね、と共感を求めてくるサトノの表情は今まで見た中で一番なんじゃないかと思うくらい穏やかで慈愛に満ちた表情をしていた。

 

「まあ、結局、道が分からないので迷いに迷った挙句、探しに来てくれた、たぶん親戚のお兄さんに連れられて家に帰ることが出来たんです。そして偶然にもキタちゃんもその近くに住んでいて、キタちゃんのお家の人と私のお家の人が一緒になって探していたみたいで、親戚の家に戻ったら一緒に大目玉をくらっていたんです。それから私はキタちゃんと知り合ってお友達になりました」

「そこからずっと一緒なんだ」

「ええ。キタちゃんのお家の人と私の家もなんだか仲良くお話する関係になったみたいで、親戚の挨拶以外にも、他のお家に挨拶に行く際は、キタちゃんのお家の人と一緒に行くようになりました。で、また迷子になられたら困る、ということで、ここみたいに退屈になった私たちが遊ぶお部屋をお家の人たちが用意してくれたんです」

「へー」

 

 つまり、ここはサトノとキタサンの秘密基地みたいなところだったわけか。

 流石、名家はやることの規模が違うなと僕はぼんやりと考えていた。 

 そうやって、楽しそうに過去を振り返っていたサトノは急に、赤面しながらコホンとわざとらしく咳払いする。

 

「つまり、何が言いたかったというとですね!」

 

 脱線している自覚はあったみたいだった。

 

「キタちゃんの周りを見ずにつっぱしっちゃうところに困ることも多いですけど、キタちゃんのそれがなかったら私はキタちゃんと出会ってなかったし、トレーナーさんと契約することもなかったんです。だから、嫌なところがあっても、それは裏を返せばその人のことを良く知る糸口になります。それに、はじめはよくないと思っていてもそこが段々好きになってくる可能性だってあるんです」

 

 そう語る、サトノの表情は輝いていた。

 穢れを知らない無垢な言葉だった。

 

「知らない部分て言うのは、誰かを好きになる余白だと思うんです。だから、私は嫌な部分でも、見たくなかったなって思う部分でも知りたいと思うんです。もっと仲良くなりたいと思っている人の好きになれる余地があるということなので」

 

 また話が逸れちゃいましたね、とサトノは口元を抑える。

 

「これは仲良くなりたい人に関してのことですが、一つの側面しか見せない人よりも優しい性格とか、ワガママな性格とか色んな側面をたくさん見せてくれた方が私は嬉しいんです。その人のことをより、もっと知られるので」

「そっか……」

 

 その考えは僕よりもずっと大人びたものなんじゃないかと思えてくる。

 

「私はトレーナーさんが見せたくないって思ってる部分だって知りたい。私の行動でトレーナーさんが嫌な思いをしているのに、それを我慢して限界になって、もう無理だって拒絶されるよりずっといい事だと思うんです」

 

 その真っ直ぐさが僕にはひどく眩しく思えた。

 醜い自分の気持ちを白日に晒されているような気がして。

 

「それに……………………トレーナーさんを嫌いになるなんて、ありえませんし」

「いま、なんて?」

「な、なんでもありません! あ、そうだ。私、ご飯を作りますね。ちょっと準備してきますね」

 

 そういいながら、サトノは慌てて台所の方に向かっていった。心なしか首が赤いようにも見える。

 

「嫌いになれないから辛いんだ」

 

 眩しさにあてられて心のなかでドロドロと渦巻いていた泥が溜まらずに口から飛び出てきた。

 

「好きも嫌いも飲み込んで苦しみながら生きるくらいなら、いっそ、拒絶されてその枷から解かれた方がどれだけ楽か」

 

 少しだけ疲れた。

 昨日はほとんど寝ていないし、今だって結構な心労が溜まった。少しだけ目を閉じよう。

 本当にちょっと休むだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『目が覚めましたか?』

 

 穏やかな声がした。

 そっと目を開けると、儚げな印象の鹿毛のウマ娘が茶色い瞳で僕を見下ろしていた。

 それよりも更に上に目をやる。煌びやかではない、けれど、太い木材で格子状に組まれた天井がこの空間を厳かに引き締めていた。

 ぼんやりとした頭で理解する。

――たぶん、昔の記憶だ。

 このしっかりとした天井、僕を労わるように声をかけてきたウマ娘もひどく見覚えがある。人生の大半をここで過ごしたのだから。

 

『若様はお勉強の最中に倒れてられたのです。お体はよろしいでしょうか』

――ああ、そうか

 やはり、昔の記憶みたいだ。思い出したくなくて心の奥にしまい込んでいたはずの記憶。

 床に伏せている僕を心配そうに伺うのは子どものことからお世話をしてくれたウマ娘だ。僕を産んですぐに亡くなった母の代わりにずっとこの屋敷で世話をしてくれていた、僕にとっての育ての母のような存在の人だ。

 名前は……分からない。

 父も呼んだことがないし、この人も聞いたって絶対教えてはくれなかったから。あの、とか、えっと、と言えば必ずに応えてくれた。だから、僕も気づけば名前がなんなのか、今の今まで気にも留めなかった。 

 

『また、倒れたのかこのグズが』

 

 鹿毛のウマ娘に返答しようとすると、遠くから声が聞こえた。

 その声もひどく馴染みのあるものだった。

 声のする方は縁側からだった。そちらを見やると障子が開いており、一人の袴を来た男性が僕を睨んでいた。

 

『父さん』

 

 間違いなくそれは僕の父親だった。

 庭に植えたとても大きな一本松の根元からゆっくりと僕のもとまで近づいてくる。

 

『ウマ娘とは知性を持った化け物である。私たちがすべきことは馴れ合いではなく支配だ』

 

 瘦せぎすの体に、ギラギラとした野心を秘めた茶色い瞳。こけた頬と目の下のひどい隈が、人相をより一層悪くさせている。

 吹けば飛んでしまうような細い体には見合わない父の苛烈さは僕の心を締め付ける。今でもこうして夢に出てくるくらいには僕も彼に囚われているんだ。

 

『貴様のそれはなんだ』

 

 父が一瞥しただけで、僕の体はいともたやすく竦んでしまう。みっともないくらいに、

 

『子ども? 大人? 化け物に対して人様の尺度を当てはめるな。あれらはいつだって人間に牙をむく。そうしないために私たちマクリの家が生まれたのだ』

『支配とかそういうのは、もう時代遅れだよ。彼女たちにだって意志がある。一人の人間として尊重すべきだ』

 

 やはり、これは夢だ。現実ならここまで面と向かって父に意見など出来ないから。

 

『それを尊重したら貴様はどうなる?』

『え?』

『距離が近い? 絶対に他人に渡さないための縄張り意識の行動ではないか。言外に貴様が他の人間と交流するのを妨げている』

『それは……』

『監禁ごっこ? 貴様は無邪気ゆえの行動などと嘯いたが、事実、尊厳を奪われそうになった。ただの児戯だと笑いながら貴様は、人としてのプライドを辱められそうになっただけではないか』

 

 詭弁だと、言いたかった。それは悪意に満ちた解釈の仕方だと、言いたかった。

 

『ウマ娘という存在に心を許せば壊されるのは人間だ。奴らを人と同列に扱うな。その先にあるのは破滅だけだ。私たちマクリの家がそうであってはならない』

 

 だが、心に刻まれた恐怖が否定したいその考えを肯定してしまう。目の前の存在の言葉は絶対であると屈服しそうになる。それが嫌だから逃げたはずなのに、どうしたって心の中のその影までは振り切ることは出来ていなかったみたいだった。

 

『歩み寄るのではない、服従させろ。人が上でウマ娘が下だ。こちらが主人だと徹底的に覚えさせろ』

 

 こういう風にな、という言葉と一緒に父は鹿毛のウマ娘の頭を踏みつけていた。

 底冷えするような怒りが渦巻く。でもぶつけることなどできない。

 

『こんなことをしたって、こいつらは少しも傷つきはしない。損傷するほど柔な化け物ではないのだ。だからこれはこいつらなりの服従の印『……おい』

 

 キタサンの喜んでいる顔が脳裏によぎった。サトノの慈愛に満ちた無垢な笑顔が胸に刻まれている。

 少なくとも僕にとって彼女たちは化け物ではない。足蹴にしていい存在ではない。

 震えるほどの怒りに身を任せて僕は父を呼び止めていた。

 手足が震える。舌が渇いてうまく言葉が出そうにないところを必死に絞り出す。

 

『…………キタサンもサトノも道具じゃない。化物じゃない。ただの女の子だ。未来がある、どこへだった駆け抜けられる可能性の原石だ』 

 

 そうだ。彼女たちは希望に満ちている。どんな夢を持ったって何を目指したって自由だ。こうでなければならないという定型なんてない。

 

『間違っているのはお前の方だ! お前の考えかぁ……ッ!』

 

 言葉を最後まで言おうとした。夢の中でぐらい、いつも怯えていた影に挑もうとした。

 でも、ダメだった。結局僕は無力で、喉笛を掴まれただけで簡単に言葉を紡げない。

 全身をめぐる酸素の供給が止まる。体は震え、反射のように胸郭が動くが全く意味をなさない。意識が薄れゆく。

――ごめん、キタサン、サトノ。僕はやっぱり無力だ。

 誰でもない僕だけの問題。僕だけが抱える業。

 ほとんど消えかけている意識の中。彼女たちには関係のないことかもしれないけれど、僕は心の中でそう思わずにはいられなかった。

 

 

 まどろみの中で遠くから光が漏れる。何か声が聞こえる。よく聞こえない。耳を澄ませるとその言葉はハッキリとした輪郭を保つようになった。

 

「トレーナーさん。助けて下さい!」

 

 その言葉で僕の意識は一気に引き揚げられた。

 

 

 

 

 

 

 

「サトノ、大丈夫!?」

 

 サトノが不貞寝した僕の布団を簀巻きにしていなかった幸いして、よろめきながら僕は彼女の声のする方に駆け寄った。

 

「あ、あの! イカさんがうまく切れないんです」

「…………は?」

「ですから、そのぉ、イカのお刺身を作ろうとしたのですが、ツルツル滑ってしまって」

「は?」

 

 ダメだった。

 突然起きた脳みそではサトノの発言がうまく処理できない。

 僕はもはや、疑問をただ投げかけるロボットに成り下がっていた。

 

「つまり、食事の準備をしようとして、その一品にイカの刺身を入れたかったと」

「はい!」

「その手に持っているものはなにかな?」

「危ないからと言って、お家の人が持たせてくれたクッキング用の包丁です!」

「どうしてそれを使おうと?」

「包丁だったらなんでも切れるのでは?」

「サトノォォォォォォォ!」

「ひゃ、ひゃい!」

 

 あまりのことに僕は感情が抑えきれなくなり、普段では絶対に出さない大きな声を出してしまった。

 

「まあ、それはいいよ。後で一緒にしよう。ところで、コンロの上でグツグツいってるあの土鍋はなにかな?」

「はい! ご飯を炊いています」

「…………洗った?」

「お水でとぎましたが」

「なら、いいんだ」

 

 さすがにそれくらいは大丈夫みたいだった。

 

「ただ、どれくらいのお水を入れればいいのか分からなかったんで、お鍋にひたひたに入れました」

「サトノォォォォォォォ!」

「ひゃ、ひゃい!」

 

 どうりで汁がびちゃびちゃに零れて、焦げるような匂いもするわけだ。

 

「まあ、いいよ。後で一緒に炊き加減を見よう。メインは何かな?」

「はい! もう10月に入ったのでサンマをグリルで焼いています」

「そっか、ダブルだからこんなに焦げ臭いんだね」

「えへへ、お恥ずかしながら」

「というか本当にグリルの方がすごい! 煙が出ている!」

「え? え? どうしてですか!?」

「水入れグリルとか? どっちわかんないけどアルミホイルは敷いた?」

「??? お魚グリルは魚を入れればすぐに出来上がるのでは?」

「サトノォォォォォォォ!」

「ひゃ、ひゃい!」

 

 もうここまで来たら笑うしかない。いや、ここまでやるのは計算じゃ無理でしょ。やっぱり、彼女はホンモノ初心者だ。

 

「グリルを止めよう!」

「でも、お魚が!」

「下手したら僕たちの方がこんがり焼けちゃうから!!! メインは諦めよう!!!」

「そ、そんなぁ」

 

 泣き言言いながら抵抗する彼女を引っぺがしながら、僕はこの大惨事をなんとか収束すべく動くことになった。

 

 

 

 

 

 

 

「ま、まあ形にはなったんじゃないかな」

「そ、そうですね」

 

 べちゃべちゃのご飯に、でろでろに切れたイカのお刺身。非常に、香ばしく片面だけ焼けたサンマ。

 まあ、作り方もろくすっぽ確認せずに作ったにしては上出来じゃないだろうか。

 うん、この部屋にある見栄えのいいお皿に盛りつければなんかいい雰囲気になっている気がするし。

 

「ごめんなさい。本当にすいませんでした、トレーナーさん」

 

 キッチンの上で、僕が料理たちに対して心ばかりの体裁を保とうとしていると、サトノが申し訳なさそうに謝罪してきた。

 

「なんの話?」

 

 ちょっと本気で分からなかった。

 まあ出来栄えはさておき、料理が作れたんだ。それだけで花丸だとは思うけど。

 

「そのあんまり上手に出来なくて、すごく危ないこともしちゃってて、トレーナーさんがいなかったら私……」

「うーん、そうだね」

 

 たぶん、僕がいなかったらこんなチャレンジャーなことしなかったと思う。いや、案外するのかもな。

 まあ、言いたいのはそんなことではなくて

 

「みんな初めはこんなもんだよ。むしろ誰にも教わらずにここまで出来たのは、僕は花丸だと思うけどね」

「そういうのは止めてください!」

「サト、ノ……?」

 

 少し驚いてしまった。彼女がここまで声を荒げるとは思ってもみなかったから。

 目には大粒の涙を溜めている。

 

「今日の私は悪い子なんです! ちゃんと私に怒ってください! トレーナーさんのことを勝手にここまで連れてきて、ぐるぐる巻きにして、全部全部! 自分のしたいようにした、ワガママな私だったじゃないですか。なんで私のやったことちっとも怒らないんですか。なんで許してくれるんですか」

 

――ああ、そういうことだったんだ。

 不貞寝する前のサトノの言葉を思い出す。

 

『私はトレーナーさんが見せたくないって思ってる部分だって知りたい。私の行動でトレーナーさんが嫌な思いをしているのに、それを我慢して限界になって、もう無理だって拒絶されるよりずっといい事だと思うんです』

 

 今日のこれは彼女なりの精一杯の行動だったのか。

 嫌われたくないから先に嫌なことをする。

 僕が何も言わないで心の中だけで嫌ってしまっているという可能性に恐れている。だから、目の前の少女はすごくビクビクしているし、泣きそうなんだ。

 

「ふふっ」

「なっ! 何がおかしいんですか!?」

 

 恐れからの反動からかサトノは僕の行動に過度に反応している。それもなんだかちょっと笑えた。

 

「いや、ごめんね。本当にごめん」

「……意味が分かりません。何に謝っているんですか」

「うーん、僕の行動不足?」

「自分でも分かってないのに謝らないでください!!」

 

 いつの間にか立場が逆転してしまっていた。僕はなんとか機嫌を直してもらうために彼女を宥める。

 

「僕はね、何も言われないのが一番気が楽だったんだ」

「そう、ですか……」

「怒られない、否定されない、興味を持たれない。そうやって何事もなく終わるのが一番お互いにとって幸せだった。だから、二人にもなるべく嫌な所は見せたくないと思ってたんだ」

「それは……」

 

 僕の言葉にサトノは少し言葉に詰まる。しかし、沈黙を自分から破る確かな力強さを秘めていた。

 

「それはとっても悲しいです。泣いてしまいそうなくらい辛いことだろ私は思います」

「そうだね。僕は今日初めてサトノにそう教えてもらえた。君と話してなきゃこれが悲しいだなんて知ることもなかった」

「で、ですから!」

「本気だよ。本気で嬉しかったんだ。君のその考え方はとっても僕にとって眩しかった」

 

 何も考えないようにして、言われるがままに過ごすことで心を守ってた。

 でもやっぱり嫌で、逃げ出したくて家を飛び出した。

 

 いつか連れ戻されるんじゃないかって怯えながら一人で生活して、今日のサトノよりも笑えないぐらいの失敗をたくさんしながら一人で生きていく術を身に着けた。

 

 あまり誇らしくはないけれど、あまり向き合いたくはなかったけれど、でも自分にはトレーナーとして生きる術しか知らなかった。名前も経歴も偽ってここに入って、彼女たちと出会った。

 何も持っていない僕が自慢できるのは彼女たちの活躍ぐらいだろう。それも僕の実力ではない。彼女たちにはたくさんのものを貰って来た。

 今日だって本当に大切なことをまた教えてもらった。

 

「これからはもう少し、嫌なことは嫌だって言うし、いい事は今まで通りいいって言う。でも今日のことは本当にちっとも嫌じゃなかったんだ、トイレ以外はね」

「それは」

 

 これは全部嘘じゃない。僕の本心からの言葉だ。だって今日のこの出来事そのものが僕にとってはとっても嬉しいんだから。

 

「この前、キタサンと買い物に行った時に思ったんだ。僕はレース以外での二人のことをあんまり、ていうか全然知らないって。だから、今日たくさんサトノがお話してくれて、僕はとっても嬉しかった。君たちの友情が本当に深くて強いことが嬉しかったし、僕のことを好きになろうとしてくれているって言うのが分かって嬉しかった」

「好きになろうとしてるんじゃなくて、」

「今日で僕はサトノのことがもっと好きに、いや大好きになったよ」

「っっ~~~~~~!!」

 

 急に彼女は俯いた。

 

「トレーナーさんは、隙がありすぎます」

「うん、うん?」

「レースで走る私たちのことしか考えていないのかなと思っていたらそんなことはなくて」

「うん」

「でも私たちが抱いている気持ちにはちっとも興味がなさそうで」

「あー、うん?」

「それなのに、急に真っ直ぐな言葉をぶつけて来て、私たちはいっつもトレーナーさんに振り回されているんです!」

「なる、ほど」

 

 あんまり分からない、と言うことだけが分かった。

 

「今日一日を見てやっぱりキタちゃんがだらしない顔をしているのはトレーナーさんのせいだとはっきりしました」

「あ、今判決が下るんですか」

「トレーナーさんはキタちゃんをたぶらかしています。それは間違いないことです。このままだとキタちゃんは歪んでしまうかもしれません」

「ひどい言い様でないちゃった」

「だから私が管理します。でも、私一人だとちょっと管理が甘くなってしまうのでキタちゃんも一緒に管理してもらいます」

「たぶらかされそうな人に任せていいんですか!」

「その張本人が言わないでください!!!」

 

 怒鳴られてしまった。

 サトノはそういいながらスマホを取り出す。何かを確認している様子があった。

 

「きゃあっ」

 

 その声と一緒にサトノはスマホを床に落としていた。

 何か怯えている様子で取りに行こうともしない。気になった僕はとりあえず拾い上げようとするとスマホの画面が目に入った。

 

不在着信

不在着信

不在着信

不在着信

不在着信

不在着信

不在着信

不在着信

『ダイヤちゃん、今どこにいる?』10分前

『ダイヤちゃん、今公園の所にいます』5分前

『ダイヤちゃん、今、信号機を渡りました4分前

『ダイヤちゃん、マンションを上がっています』2分前

 

 凄まじい声が出そうになるのを必死で抑えた。そして、サトノに尋ねる。

 

「サトノこれって」

「キタちゃんのラインです。私、見てなかったんです。お話に夢中で…………」

「こっちに来る約束してたの?」

「い、い、い言ってません! キタちゃんにも内緒にしとこうと思ったので」

 

 訳の分からない焦燥感が僕たちを襲う。

 いや、ただキタサンが来るだけだ。何をこんなに怯える必要があるのか。そう笑い飛ばそうとするが、笑うのは膝だけだった。

 何をすればいいかも分からない。なんでこんなにざわつくのかも分からない、ただいたずらに時間がだけが過ぎていく。

 

 ピコンと通知音が聞こえた。

 僕もサトノもなぜか声を殺して顔を見合わせる。

 二人でゆっくりとスマホの画面を見やるとそこにはメッセージがあった。

 

『ダイヤちゃん、今、扉の前に来ました』

 そのメッセージが目に入った瞬間音が聞こえた。

 

ピンポーン

 

 手が震える。僕たちは無力だ。なにか恐ろしいものの前では震えることしか出来なかった。

 せめてものと思いサトノを腕の中に抱く。

 これで悪いのは僕だって思ってもらえればなんとかなるのではないだろうか。

 淡い期待を抱きながら僕たちが動けずいると

 

ドンドンドンドン

 

 そんな音が聞こえる。声はない。扉を開けようとすると、サトノがほとんど泣きながら僕の体を掴んで首を横に振る。

 こんな彼女を置いていけはしなかった。

 

 お互いに顔見合わせる。笑ってしまうほど、青ざめた表情に僕たちはお互い笑ってしまった。

 そして覚悟を決めるように僕はサトノに宣言した。

 

「死ぬときは一緒だ」

 

 その時僕たちが浮かべていた笑みはひどく穏やかなものだったと思う。

 その言葉と一緒に鍵が開く音がした。ガチャリと扉が開く。扉から日光が差し込み、逆光でキタサンの表情は窺えない。

 ただ、ルビーのように赤い瞳が不気味で恐ろしいほど綺麗に光っていた。

 

「ダイヤちゃん居たんだ」

「!?!?」

 

 突然、首がしまった。息が出来ない。

 しかし、すぐにその拘束は解かれた。気づけばサトノが白目を剥いて気絶していたのだった。

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、トレーナーさんはダイヤちゃんに連れられてここに来たんですね」

「うん、そうなんだ」

 

 僕はなぜか膝の上で安らかに目を閉じているサトノを見下ろしながらキタサンの質問に答える。

 初めは、キタサンがサトノを膝の上で寝かせようとしたのだが、なぜか僕の方をじっと見て『今日はトレーナーさんの方がいいと思います』と譲ってきた。なにがいいんだろうか。

 

「でも、どうしてキタサンがここだって思ったの?」

「うーん、そうですね。ダイヤちゃんってあんまり友達がいないので私とよく行く場所以外だったらここかなあって」

「そっか……」

 

 もしかして、二人とも仲悪いのでは? 一瞬そんな考えがよぎったが、すぐに振り払う。

 

「ダイヤちゃんって、結構好奇心旺盛で、よくお喋りするお友達は沢山いるんですけど、遊ぶってなったら私ぐらいしかいないんですよ」

「うーん? うん」

 

 まあ、置いておこう。

 

「返信が来ないのも変だなー、私に何にも言わないで何してるのかなーと思ってたので寄ってみたんです」

「よかった、サトノにひどいことをするとかはなかったんだね」

「はい! まあ、トレーナーさんがひどいことになってたらちょっとお話してたかもしれないけど」

「うーん、その話の内容は怖くて聞けないや」

 

 これもまた今日で垣間見えた新しい二人の関係性だ。

 でも、そこまで険悪ではないのだろう。キタサンは僕の膝で寝ているサトノの頬を揉んだりつついたりしているから、じゃれあっているだけなんだと思う。

 

「今日のサトノの行動はちょっとアレだったかもしれないけど、許してもらえないかな?」

「いえ、こちらこそダイヤちゃんがご迷惑をおかけしました」

 

 僕たちは、張本人を抜きにして二人して謝る。だからこそ生まれる疑問符。

 

「え、サトノはキタサンを僕に盗られたと思って嫉妬してたんじゃないの?」

「え、私はてっきり私がトレーナーさんとお買い物にいったのが羨ましくてトレーナーさんを独占したかったんだと思ってました」

 

 食い違っている。どちらが正しいのだろうか。

 …………いや、違うか。どちらが正しいのかではない。どちらも正しいのだとすると?

 

「…………本人に聞いてみましょうか、トレーナーさん」

「えぇ!? 無理やり起こすの?」

「ダイヤちゃん、起きるのと起こされるのどっちがいい?」

「ご、ご、ごめんなさいぃぃぃぃ」

 

 気づかない内にサトノは僕の膝から離れて、土下座で謝罪していた。

 

 

「つまり、僕がキタサンを独り占めしたことに嫉妬して」

「私がトレーナーさんと一緒にお出かけしたことも許せなくて」

「僕をここに連れてきて僕を独占した挙句に」

「私がいいなあって羨ましがって、ダイヤちゃんにツキっきりになると思って今回のことをしたと」

「ええ! ええそうです! いいなあって、お二人でおでかけしてるのが羨ましかったんだもん!!!」

「欲張りさんだなあ」

「強欲ダイヤちゃんだ」

「ふ、ふん! わ、私は怒ってるんですからね。先にのけ者にされたのは私なんですから!」

 

 強がってはいるが、なんどもこちらをチラチラと見ているサトノを見てイジメたいような、守ってあげたいような不思議な感覚に襲われる。

 

「いつもこうなの?」

「はい、とっても可愛いですよね」

「まあ、否定しないかな」

「意地悪した後に、優しくしてあげると両方のダイヤちゃん欲が満たせて便利なんです」

「相当に業が深い事言ってる自覚ある?」

「はい! 私ダイヤちゃんがトレーナーさんと同じくらい大好きなので!!」

「そっかー」

「ちょっと聞いてますか二人とも!? ここに可哀想な女の子がいるんですよ? 慰めなくてもいいんですか?」

「ダイヤちゃん、ちょっと、お話する?」

「ひっ」

「サトノ、大丈夫。大丈夫だから! 今日は僕サトノと一緒にいられてとっても楽しかったよ」

「そ、そうですか?…………そうですか、えへへ」

 

 人生の終わりみたいに怯えたり、すごくだらしなく喜んだり、とても忙しそうなサトノの表情を見てキタサンの言いたいことがちょっぴり分かってしまった。

 でも、ダメだ。絶対に僕はひどいことなんて出来ない。

 

くぅ~

 

 そんなことを考えていると、僕たちは今日はまだ何も食べていないことを思いだした。

 

「二人とも、お腹空かない?」

「……ちょっとだけ」

「あはは、私もです」

 

 色々ありすぎた。体は正直だ。気づかれもあってか、妙にお腹が空いている。

 ここで食べられるものと言えばキッチンに並べた料理だけだけど。

 

「ダメです! これは責任者として作った私が処理しますので」

「別に、僕は平気だけど。むしろ食べたい」

「私も! ダイヤちゃんが作った奴なら全部食べられるよ」

「ダメ! こんな恥ずかしいのダメ! キタちゃんにもトレーナーさんにももっといいもの食べてもらいたいの!」

 

 あれ、こんなこと言ってるけど、絶対にあの流れだったら僕、食べさせられてたよね?

 そんな疑問を抱きながらも細かいことは言わないことにした。

 こんなに楽しそうなやり取りをしているんだ。流れを壊すのは無粋と言うものだろう。

 

「うーん、一人分しか作ってないから、三人でちょっとずつ食べない? その後にどこかご飯を食べに行こう。今日は僕がごちそうするから」

「え! いいんですか、なんだかちょっと悪いです。ね、ダイヤちゃん」

「そうです! ご馳走してもらえる立場でもないですし……」

「まあ、そうだよね」

 

 ちょっとだけ、憧れだったのだ。自分より下の子に何かを奢るという行為が。何もない僕でも、誰かのためになるようなことがしたい。それになんだかそういうのは僕には縁遠かった青春、みたいなものだと思っているから。

 でも、彼女たちの意志を無視するわけにもいかない。

 

「ごめんね、出過ぎた提案だったみたいだ」

「!?!? いや、やっぱり行きたいです! ごちそうになりたいなって。ね、ダイヤちゃん?」

「いや、私はそこまでは……」

「ね!? ダイヤちゃん!?」

「行きたいでしゅぅ……」

「と言うわけでいきましょう! トレーナーさん!」

「え、いいの?」

 

 もしかしたら気を遣われたのかもしれない。

 でも、キタサンもニコニコしていて、サトノもニコニコ、ニコニコ? うん、二人とも喜んでくれているのには間違いがなかった。だから、ちょっとだけワガママになってもいいのかもしれない。

 

「じゃあ、僕に連れていくから。楽しみにしててね」

 

 一番、楽しみなのは僕なのかもしれない。

 そう思いながら僕たちはサトノが作った精一杯の手料理に臨むことにした。

 

 

 

 

 

 

 秋めいた風が吹く。木々も色をつけ始めている。

 質実剛健という言葉が似あう無骨な屋敷の庭。一際大きな一本松の木の下で、男は立っていた。

 

「グズの癖に馴れ合っているのか。いや、グズだからか?」

 

 男は側に控えた鹿毛のウマ娘から手渡された資料に目を通してそう吐き捨てる。

 

「まあ、いい。泳がせた甲斐があった。どれだけ逃げても無駄だ。結局はその道でしか生きられない。いっそ憐れみさえ覚えるな」

 

 ああ、それしか教えなかったのは私か、と男は口元を三日月に歪ませる。 

 

「何を思おうと無駄だ。お前は私の駒でしかない」

 

 その言葉は大気に霧散していった。




?があっても次で全部回収して終わらせます。が、まだ、次はないです。
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